(九)



「村野です。」
大家に呼ばれて出た電話の向こう、くぐもった声で相手がそう告げる。
一瞬その名前の主が思い浮かばない。
「おお、君か。」
そうだ、昨日、笠野形温泉で会った青年だった。
なかなか思うように焚き付けられてくれず、結局、杉田清治の息子に会う為に静岡に向かい、先ほど帰り着いたばかりだった。
笠野形温泉でも、期待した程の成果を上げられず、静岡でも結局空振りに終わってしまった。
杉田清治の息子に会えなかったわけではない。
夕方の列車で笠野形温泉を後にし、その日の夜遅い時間に静岡に着いた。
その日は、駅前のラーメン屋に閉店前に飛び込み、空腹だけは満たしておいて、駅から一番近い安旅館の部屋に潜り込んだ。
金に少しばかりの余裕があったのでマッサージを呼び、体をほぐして眠りについた。
明けて早朝には旅館を出、杉田清治の元妻の実家の前で、清治の息子康弘が出てくるのを待った。
小一時間待ってやっと康弘が出てきたが、その殺気立った様子に声もかけられず、後をつける。やがてたどり着いたのは近くの一級河川の河原で、高い土手が目隠しになって、すぐ傍の幹線道路からさえも見えない場所に数名が二組に別れて屯していた。
康弘が、その片方の組に参加するや、取っ組み合いが始まる。
それは、始まるのも急だったが、終わるのも早かった。勝負はあっという間につき、片方のグループは全員倒れ伏し、もう片方からこっぴどく殴りつけられ、蹴りつけられる。
負けた側が、全員動けなくなると、勝った側は、意気揚揚と引き上げる。それが、康弘の属した側だった。
彼らは、祝杯でも上げようと言うのか、隣町に向かう電車に乗り込む。
電車の中でも一悶着あった。
彼らは電車の出入り口のところに座り込み、大声で話をしていた。それを注意したサラリーマンを全員で囲み、暴行を加える。
他の乗客は見て見ぬ振りをしていた。
康弘らは、倒れ伏した男を後に残し、次の駅で降りていった。
車掌が駆けつけたのは、その後。電車は、救急車が来るまで停車し、その間に警察がやって来て聞き込みを始めたが、車両内のほぼ全員が目撃者である筈なのに、誰も何も言わない。畑中も「眠ってました」とだけ答えた。
結局、体制を立て直すのだと自分への言い訳にして、そのまま次の駅で特急に乗り換え、アパートに戻ってきた。
さすがの畑中にも、重たい疲れが残った。
「先日の男の名前」
と、村野が続ける。
「たしか、杉田清治でしたよね。」
「うん、ああ、そうだったね。」
「ボイラーの営業をしていたんですよね。」
「そうそう。」
「昔、大きな商事会社でボイラーの営業をしていて、その時に修理の仕方を覚えたと言う人が、うちの旅館にもいるんですが。」
「ほう。」
「その人の名も、杉田清治って言うんです。」
「今、何をしてるの、その男。」
「さぁ。仲居の手伝いをしたり、厨房の手伝いをしたり。今日から来てるんですが、それ以前は、ちょっと。でも、ずっと前にもうちの旅館で働いてたって言う事ですけど。」
「本当に杉田清治って言うのか?」
つい言葉が荒くなる。村野に対しては誠実で丁寧な男と言う印象を与えておきたかったが、そんな事は既に畑中の頭の中から消えている。
杉田清治だ。探している男に違いない。そんな近くにいたんだ。
「ありがとう。また連絡するよ。」
受話器を置くと、畑中は小銭をかき集めて飛び出した。
大家の電話をそのまま借りても良かったが、盗み聞きされたくない。
数ブロック離れた公衆電話ボックスに飛び込む。扉を開けるなり、換気の全く無いボックスの中から熱気が溢れ出てきたが、そんな事に頓着している場合ではない。
まず、ネズの新聞社に電話する。いつもなら、まだ社内にいるはずの時間に、いない。
「今日は、まだ見てませんねぇ」
と、電話の男が答える。
次にネズの立ち寄りそうな喫茶店に電話をするが、やはりいない。
まず、ネズに連絡を取り、杉田清治の顔写真を入手しておきたかったのだ。
居ないとなれば仕方が無い。
次に五豊商事に電話し、社長室を呼び出してもらう。
大きな会社だけあって秘書のガードが固い。なかなか社長の立居には回してもらえない。仕方が無いので、杉田清治の居場所が見つかったとだけ伝えてもらった。
矢島にも連絡した。杉田清治の顔写真を探してもらう為だ。
矢島も外出中だった。途中連絡が入るのは夕方遅くだろうとの事。
再度ネズの会社に連絡を入れた。
やはり居ない。
ネズのアパートにも連絡を入れ、取次ぎを頼んだが留守との事だった。
もう一箇所。畑中は、手帳に挟み込んだ紙の幾つかを広げ、沢田康弘の電話番号を探した。今日の今日で家に大人しくしているとは思えない。畑中も、どう切り出していいのか分からない状態であまり気乗りはしなかったが、三度の呼び出し音で康弘が出た。
「康弘君だね。」
流れ出る汗を拭きながら尋ねる。
「そうですが。」
緊張した低い声だ。
「どなたですか。」
「以前、君のお父さんの事で一度電話した者です。畑中といいます。」
「畑中?」
「ああ、君のお父さんの居場所がわかったんだよ。」
「俺のおやじ?」
「笠野形という温泉にいる事が分かったんだ。」
「俺には、おやじはいねぇよ。思い出したぞ、この前、しつこく電話してきた奴だな。」
「いない事になっているだけだ。君のおとうさんは、君のおかあさんと君を捨てた。だから君のおじいさんは、君に『おとうさんは死んだ』と告げてるんだよ。」
「口からでまかせ言ってんじゃねぇぞ。」
「杉田清治と言うのが君のおとうさんの名前だ。でまかせかどうか、笠野形温泉の丸屋旅館って所に電話してみろよ。そこに君のおとうさんがいる。」
電話の向こうが沈黙する。
「会いたくないか?俺が、いや、私も一緒に行ってあげてもいい。それよか、一度会って話をしないか。その時に君のおとうさん、杉田清治さんの写真もおじいさんから入手しておいて欲しいんだ。一枚くらい残ってるだろ。」
「今、それどころじゃねぇんだ。悪いな。」
そこで、一方的に電話が切れた。

沢田康弘は手荒く受話器を置き、しばらく考えた。
朝方、電車の中で痛めつけた男が危篤状態に陥っているらしい。
仲間から、そう連絡があった。
「俺が悪いのか?」
「康弘が一番沢山殴りつけてただろ。皆、そう言っているぞ。」
「数の問題かよ。全員、同罪だ。もし、死んだらな。」
「死ななくても充分に犯罪だ。警察が探し回ってるそうだ。そっちにも、そろそろ警察が行く頃だろ。姿をくらました方がいいぞ。」
そう言って仲間からの電話は切れた。
その直後の畑中からの電話だった。
確かに、調子に乗りすぎたなと、康弘は思う。
隣の高校の生徒と派手な喧嘩をやらかし、全員こてんぱんにぶちのめした後の高揚感で電車に乗り、隣町に繰り出した。そこまでは、よかった。
朝のラッシュの後半で、混み合った電車の中、康弘達だけ広々と場所を取り、座り込んで大声で話をしているところに、しゃしゃり出てきた男がいた。
その男は性格の穏やかそうなサラリーマンで、にこやかな笑みを浮かべ、こう言ったのだ。
「君たち、他の人達の迷惑になるから、もう少し静かにね。それと、もうちょっと場所を空けてもらえないかな。」
康弘は、次の瞬間にはその男を殴りつけていた。
何故、そうしたのか。
自分でも分からない。
立ち上がりざま男の左の頬に拳を叩きつけた。
男の体が電車の扉にぶつかって、崩れ落ちる。
その上から、さらに一発、二発、蹴りも入れた。
他の連中も笑いながら男を殴りつける。
最初は弱々しくガードしていた男も、やがてその意志さえ失せ、殴られ蹴られるままになる。
ほんの数分間の出来事だ。電車が次の駅に着くまでの間の。
次の駅で降りた康弘達は、罪の意識も無く電車を降りた。
車掌が向こうからやって来るのが見えたので、とりあえず逃げた。
それから、駅前の本屋に入ってエロ本を万引きし、スーパーでビールとつまみを万引きした後、溜まり場にしている雑居ビルの屋上でエロ本の回し読みをした。
やがて興奮が冷めてくると、反動でエロ本すら面白くなくなる。
「あいつ、死んでねぇだろうな。」
「あいつって誰だよ。」
「さっきの、電車の。殴りすぎたよ。」
「うっせぇなぁ。」
と、仲間の会話に康弘が声を荒げる。
「だってよぉ。」
「喧嘩でも、あれぐらい殴るだろ。今まで誰か死んだ奴いるか?」
先ほどから、遠くでパトカーの音がする。
「あれって俺たちを探してんじゃないのか。」
「まさか。」
「俺、もう帰るよ。」
仲間の一人がそう言うと、他の連中も、
「俺もそうしようかな。」
と、口々に立ち上がる。
康弘も気分が乗らなくなり、先程までと打って変わって鬱々とした気分で家に帰ってきた。
畑中からの電話で、康弘はさらに激しく混乱した。
俺に父親がいる?
じゃあ、今まで俺が信じてた話は何だったんだ。
俺は、これからどうなるんだ。
次の瞬間、ストレスを一気に破裂させる。
祖父母がいつもくつろいでいる奥の間の襖を激しく音を立てて開けた。
祖父母の驚いた顔。
「おい、じじい。」
祖父は厳しかった。小さい頃は、しょっちゅう庭の木に括り付けられた。
それが、今や体もしぼみ、康弘の暴力におろおろと抵抗するのがやっとだ。
康弘も、さすがに手心を加えている。死なれては困るからだ。
「おやじが生きてるんだとさ。知っていたのか。」
いきなり何を言うんだという顔で康弘を見上げる。
さっきの電車の中のサラリーマンの顔を思い出し、余計に切れた。
祖父の胸倉を掴み上げ、
「おやじだよ、おやじ。生きてるって連絡が入ったんだよ。どう言う事だ。」
祖母が横から康弘の手を握り、
「康ちゃん、止めて、ね、お願いだから、おじいちゃん死んじゃうから。」
康弘は、その手を振り払う。祖母の体は、それだけで箪笥に打ち付けられる。祖母は、痛そうに腕を庇っている。
「死んだ。」
と、祖父が息苦しそうに言う。
「何だと。」
「お前の父親は、死んだと言ってるだろ。」
「杉田清治って男か。」
「違う。」
「じゃ、なんて名前なんだ。」
「そんな事、知らなくてもいい事だ。」
「この野郎。」
と、祖父を殴りつける。祖父はボタボタと鼻血を落としながら突っ伏した。
祖母が、そんな康弘に再び縋りつく。
「言うから、おばあちゃん、全部言うから。そんな乱暴は止めて。」
祖母が、涙ながらに語り始めた。
ただでさえ混乱している康弘の頭に、さらに混乱している祖母の語りだ。
康弘は、何度も荒々しく聞き直す。
その度に祖母は混乱の度合いを深める。
祖父が、鼻血を手の間から滴らせながら祖母に助け舟を出す。
父親と母親の離婚。母親の流産。そして、精神的におかしくなり、自殺。
康弘は、母親の葬式の時の事を良く覚えている。
母屋では無く、離れで葬式をあげたのだ。やってきたのは、近所の人と親戚だけ。
「恥さらしな娘ですから。」
と、祖父が言うのを、母親のすぐ上の兄が、
「こんな時にまで何を言うんだ。」
と詰った。
読経の途中で、祖父が立ち上がり、訪ねて来た男を追い返した。
「あれが、おやじだったのか。」
「そうだ。」
「俺たちを捨てたのか。」
「そうだ。」
「そのせいで、おふくろは自殺したのか。」
「そうだ。」
「金をくれ。それと、おやじの写真を出せ。」
「なに。」
「金と写真を出せと言ってるんだ。」
「どうするつもりだ。」
「おやじに会いに行く。そして叩き殺してやる。」
祖父が、よろよろと箪笥に近付き、引出しから札を出す。
「取れ。」
「幾らあるんだ。」
「知らん。」
数えると十万近くあった。
「もう少しくれ。」
「何だと。」
「人を殺した。逃げる。」
「なに。」
「康ちゃん、あんた、何て事を言うの。」
祖母も動転して再び康弘の腕を握る。
「人を殺したと、言ってるんだ。もうすぐ警察が来る。だから逃げる。」
「誰かに見られたのか。」
「ああ、電車の中で大勢に見られた。」
「母親といい、お前といい。何て恥さらしな。沢田家に泥を塗りおって。」
「こら、俺はいいが、おふくろの悪口は言うな。」
そう言って、再び祖父を殴りつける。
鈍い音がして、祖父が胸を抱えてうずくまる。
肋骨が折れたらしい。
祖母が財布を康弘の手に押し付ける。
「もう二十万ばかしあるはずだから。ね、これ以上、乱暴はしないで。それと、あなたのお父さんの写真ね、結婚式の時の、これしかないのよ。みんな捨てちゃって。」
康弘は中から札だけを抜き、財布を祖父に放り投げた。
写真は、白黒の母親と父親の三々九度の写真だった。
母親は角隠しで顔が良く見えない。父親は少しうつむき加減で、杯に口をつける母親を見守っている。痩せて背の高い男だった。
康弘は、その写真を二つに折ってポケットに仕舞い込むと、急ぎ玄関に向かう。
「逃げるのよ。ちゃんと逃げるのよ。」
家を出る康弘の背中に、祖母の声が追いすがった。
角を曲がった辺りで、向こうからパトカーがやって来るのが見えた。
少し戻り、子供の頃から遊びなれた空き地に潜り込む。
窪地に身を潜めて、パトカーをやり過ごした。
鼻先で、長く伸びた野草にシオカラトンボがしがみつき、少しばかりの風に揺れていた。

康弘への電話を終え、畑中は再び立居に連絡を取る。
今度は、立居の方が畑中からの電話を待ち構えていたらしい。すぐに電話口に出た。
「遅いじゃないか。」
畑中は、一瞬ムッとしたが、
「いや、すいません。方々に連絡して、確認を取ってたもので。」
「で、見つかったのか。」
「ええ。」
「確かなのか?」
「それを確認に行きます。」
「まだ確認していなかったのか、何を愚図愚図してるんだ。」
「杉田清治の顔写真を探してたんですよ。」
「写真か。写真が無いと確認は難しいな。よし、杉田清治を良く知っている者を合流させよう。何処にいると言った。笠野形、笠野形温泉だな。先に行って待て。金はあるのか?そうか、杉田清治はノートを持っている筈だ。彼の持っているノートを取上げる事ができれば、もっと報酬をやる。」
立居は、そう言うと慌しく電話を切った。
畑中は、さすがに立居の様子に胡散臭いものを感じる。
ここはやはりネズに助っ人を頼んだ方が良さそうだと思った。

畑中の予感は当たっていた。
立居は畑中の電話を切ると、人事部を呼び出した。
「内燃で杉田という男と一緒に仕事をしていた者で、まだ会社に残っており、最近、多額の借金をしたか、家族に金がかかる状況の者を探してくれ。」
次に総務部を呼び出す。
「総会屋の流山事務所に連絡を取ってくれ。」
しばらく待つと、人事部から連絡があった。
人事部は、関連会社で部長職をしている矢島を選び出した。
「高校生と中学生の子供二人抱え、父親が老人性痴呆症で、在宅看護の為に最近無理して一戸建てを購入しています。借金は四千万ほど。」
「杉田との関係は。」
「かつての部下です。」
「よし、至急呼んでくれ。」
次に総務部から連絡が入る。
「流山事務所と連絡が取れましたが。」
「多少荒っぽい事のできる伝令を一人寄越すように伝えてくれ。」
「目的は何と説明しときましょう。」
「ある男の素行調査とでも言っておいてくれ。」
次に連絡が入ったのは、矢島が出向している関連会社社長からだ。
「春木です。」
都合がいい事に矢島が出向している会社社長の春木は、かつての立居の部下で立居を信奉している。
「ちょっとすまんが、君のところの矢島君を寄越してくれんか。」
「あいにく矢島は出張中です。どうしても彼でないと分からない部分でして、今日は出張先で宿泊となってます。明日の対応でもいいですか。」
春木が不安そうな声で答える。
「明日じゃ遅いなぁ。今日だよ。今日、必要なんだ。何とかしてくれよ。」
「はっ。それでは本日中に呼び返します。」
「何時になる?」
「そうですね、早くても五時過ぎかと。」
「五時半までに頼む。」
「了承いたしました。」
春木の二つ返事に、立居は気を良くする。これだから権力の甘い汁は捨てられない。
「ところで。」
と、春木はまだ電話を切らない。
「何だ。」
「矢島が何かしましたか。」
「いや、ちょっと頼み事があってね。」
「そうですか。」
春木が安心した声で電話を切る。
総務部から再び連絡があって、
「流山事務所からですが、調度いい人間がいますが何時に伺わせましょうかと言って来てますが。」
「五時だな。」
「本日のですか?」
「もし明日なら、明日と言っている。」
「はっ、わかりました。」
「裏手から入るようにと伝えてくれ。人目につかないようにな。」
「はっ。」
流山事務所から派遣された男は、五時きっかりに来た。豊田という陰気で細長い男だった。まず、鼻柱の細さ、次にコーヒーカップを持つ手の指の細さ。身長は立居より少し高いので、百八十センチ弱といったところか。
「手短に言おう。ある男をつけて欲しい。」
「ある男。」
何が受けたのか、ヒヒヒと小さな声で笑う。
「ああ、その男はもうすぐここに来る。君は姿を見られんように、そこの扉の陰にでも隠れていてくれ。だが、君のターゲットは、その男じゃない。」
深く暗い目で立居を見上げる。立居は寒気を感じて目を逸らす。
「その男には笠野形という温泉に出向いてもらう。そこで別の男と接触する筈だ。君のターゲットはその男だ。様子を窺がって、ターゲットが君のつけている男にあるものを手渡した後に、そのターゲットを消して欲しいんだ。」
「何かを手渡したかどうかなんて、どうやって判断すればいいんだ。」
「ノートだな。おそらくノートだと思う。古ぼけたノートだ。それを手渡すかどうか、良く見ていて欲しい。ノートが受け渡されると私の元にも連絡が入るようにしておくから、君は念のために私に確認を取り。」
「殺しやぁいいんだな。」
「そういうことだ。」
矢島は五時半を十分ばかし回ったところでやって来た。
社長の春木も一緒だった。
立居が、いらいらして
「何故、君まで来るんだ。」
「いえ、ちょっと心配だったもので。」
「頼み事だと言ったろ。心配ない。君は帰りたまえ。」
「はぁ、しかし。」
「帰れと言ったら、帰れ。」
春木は、立居に一括され、すごすごと社長室から出て行った。
「矢島君か。思い出したよ。」
「ご無沙汰しています。」
矢島が長い髪の間から立居を見る。
「元気してたかい。まぁ座りたまえ。」
矢島は、立居が腰掛けるのにあわせて、自分も腰をおろした。
「君んち、大変なんだってね。」
「どういう事ですか。」
「お父さん、老人性のあれなんだってね。」
矢島の父親が呆け始めたのは一昨年。今では家族の名前すらわからないが、肉体的には元気なので夜中の徘徊に手を焼いていた。
女房のストレスも限界に近かったが、引き取ってくれる病院も無く、隣近所の視線も辛くなってきたので一戸建てを購入し、一部屋を父親用にあて、父親が出歩けないように改造した。つまり座敷牢だ。
それで、家族のストレスは少なくなった。が、矢島の父親に対する罪の意識と、借金が膨れ上がっていた。会社からもお金を借りており、その時に借金の理由を書いたので、別段秘密にする積もりは無い。が、立居にまで知られているのは心外だった。
「随分物入りなんだろ。」
「まぁ、そう言う事ですね。」
矢島が適当に答える。
「ところでねぇ。」
と、立居は妙に猫なぜ声だ。
「君、杉田清治という男を知っているかね。」
「杉田清治?」
「内燃時代の君の上司だった筈だがね。」
「ああ、清さんですね。知ってますよ。」
「顔を覚えているか?」
「勿論ですよ。」
「そりゃいい。」
「それが、何か。」
「見つかったんだよ。」
「清さんが?何処で?」
「笠野形という鄙びた温泉だ。仲居の手伝いなんかをして生計を立てているらしい。」
「嘘でしょ、あの清さんが?」
「嘘かどうか、その目で確認して欲しい。」
「構いませんが。でも。」
「何故今更、杉田清治なのかって言いたそうだな。」
「はい。」
「うむ。」
一瞬立居は考えた。どのように矢島を巻き込むか。
「実はな、かつて内燃が、ある政治家がらみで動いていた事を知ってるな。」
「神田洋介。次期総理大臣候補ですね。」
「うむ。今の時代でもそうだが、政治家が絡むと言う事は裏で相当の取引が為されている。内燃もそうだった。その中には表沙汰にされては困るような内容も多い。わかるな。」
「清さんが政治家と?」
まさかという顔をした。
「それもあるが、杉田清治は神田代議士とのやり取りを克明に記述したノートを持っていたらしい。奴は退職する時に、そのノートをちらつかせて退職金を積み増しさせた。」
それは嘘だった。
「嘘でしょ。」
「本当だ。だが、悪い事ばかりじゃない。君達を閑職から最前線に戻したのも彼だ。」
「やっぱり。」
「だが、その杉田清治がまた神田代議士を脅しにかかっているらしい。金欲しさだろうな。馬鹿な奴だ。大人しくしていればいいものを。このままでは、杉田清治は政治家に殺されてしまう。勿論、ノートの存在を確認した上でだがね。そうなると我が社にも不都合が出てくる。で、杉田清治を助けて欲しいのだ。」
「私が?どうやって?」
「今、私が言った事を彼に告げて欲しい。そして、彼からノートを預かり、私の元に送ってくれたまえ。ノートは、私が処分する。その上で杉田清治を逃がすんだ。」
「逃がすって、どうやったらいいんですか。」
「金を用意した。それをノートと引き換えに手渡すんだ。そして、しばらく海外へでも行けと言うんだ。わかったな。これには我が社の機密事項と奴の命がかかっている。いいな。」
「しかし、何故立居社長がそんなに清さんの事を心配されるのですか。」
「うむ、それはだな彼には私も恩義を感じているんだ。神田と言う次期総理候補との道をつけてくれたのも彼だからな。しかし、余計な事は言うな。杉田清治からノートを取り戻す事、彼を逃がす事。それだけでいい。」
「では、一旦、社に戻りまして。」
「今すぐだ。金だ。三百万ある。百万は君が受け取れ。二百万で杉田を逃がせ。今すぐに立てば、今日中には着く。そうしたら、明日の朝一番から行動を起こせる。分かったな。」
立居があまりに急がせるのに矢島は不振を感じていたが、目の前の現金は魅力だった。
「うまくいったら君の借金の事は、なんとか考えよう。」
「本当ですか。」
「約束しよう。」
立居の本当の計画も知らずに矢島が出て行った後、物陰から豊田が現れる。
「今のをつければいいんだな。」
「そうだ。」
「そして杉田清治を殺す。」
「矢島にノートを手渡すのを確認した上でな。」
「お安い御用だ。」
「ただし、矢島の前では杉田を殺すな。話がややこしくなる。矢島が杉田に手渡した二百万がお前への成功報酬だ。通常の報酬は事務所からもらってくれ。」
「矢島ってのも殺せば三百万か。」
「そういうややこしい事をすると、お前の命も無い。」
豊田は、首をすくめながら出て行った。

立居の事務所を出ると、畑中は真っ直ぐにネズの新聞社に向かった。
「今日は、まだ見ないなぁ。ネズに何の用だ。」
かつての上司だった編集長が畑中を見て声をかけてきたので、ネズの居場所を尋ねた。
「ええ、ちょっと、へへへ。」
「あいつ、たまに無断で休むからなぁ。」
お前が何かそそのかしてるんだろうと言う顔で畑中を見る。
「一度、やっこさんのアパートにでも行ってみるかな。」
「ああ、見かけたら、電話くらいよこせと伝えてくれ。何ぼなんでも無断で休まれちゃあ仕事の割り振りもできない。」
途中、ネズの行きつけの喫茶店も覗いてみたが、やはり顔を出していないようだった。
「ここ数日、見てないよ。」
初老のマスターがカウンターから声をかけてきた。
例のボイラー絡みの一件を調査するために、会社まで休むとは思えない。
先日、ネズに、三ツ谷の元女房、今のネズの女房に今後二度と手を出さないと約束した関係上、万一のネズの留守に家を訪ねるのは気が引ける。
が、杉田清治の件では、ぜひネズの同行が欲しかった。
ネズくらいしか同行を求める相手がいない事が、少々情けなくもあったのだが。
以前ならば、多少悪びれた風を見せながらポケットに手を突っ込み、ネズのアパートのドアを激しく叩いたものだ。そうする事で悪の権化となる幻想の中に陶酔できた。
遠慮がちに何度かノックしたが、返事が無い。
廊下の端のドアが開いて老婆が顔を出したが、すぐに引っ込んだ。
「ネズ。」
と、ドアに口を近づけて呼んで見た。
女房すらもいないのだろうか。
「ネズ、俺だ。畑中だ。」
やはり返事が無い。
居ないのだと諦めてアパートの玄関先まで移動し、もう一度振り返る。
と、居ないと思われたネズの部屋のドアが少し開いた。
ネズと思わしき顔が少し覗いている。
「ネズ、俺だ。」
もう一度畑中が呼びかけると、ドアが半分くらい開き、ネズの手がおいでおいでをした。
「居るなら、居ると言ってくれ。」
「すみません。」
「会社にも出てないって言うじゃないか。」
「ええ。」
「無断欠勤だって?」
「はい。」
「駄目だぞ、お前。家族を路頭に迷わす気か?」
「ええ、いや。」
相変わらずはっきりしない。
「女房は?」
「ええ、ちょっと。」
「上がっていいか?駄目ならここで話をするけど。」
「上がってください。」
そう言われて玄関先に立ち、部屋を覗き見る。
その散乱振りに目を奪われる。
「お前、女房に逃げられたのか?」
「あ、いや、実は、へへへ、そんなところです。」
「そりゃ、早く連れ戻さないとな。」
玄関からすぐに粗末なキッチンだが、そこに食器類が洗われもせずに積み上げられている。狭いキッチンから、畑中がよくネズの女房を押し倒して弄んだ四畳半の居間に続くが、そこも食品の袋や、衣類、子供のおもちゃが散らばっていて、さらに奥の子供が寝かされていた部屋にまで、その混乱が続いていた。
おまけに異様な匂い。
「お前、臭いぞ、この部屋。」
「へへ、冷蔵庫が、壊れたもんで。」
「冷蔵庫なんて、持ってなかっただろう。」
「食べ物が腐ってるんです。まぁ、遠慮無く。」
ネズは、居間の真中に足を使ってゴミを片付け、座るスペースを作る。
「どうぞ。」
畑中をそこに座らせると、自分は部屋の片隅に移動し、膝を立ててうずくまった。
「どこか体でも悪いのか?」
「いえ、お気使い無く。」
「こんな部屋じゃあ息が詰まるよ。金ならあるから、なんか旨い物食べに行こう。」
「でも、女房が。」
「女房?逃げられたって言ってなかったか?」
「いや、あれは、冗談で、へへ、へ。」
「ネズ、頼みがあるんだ。」
「頼み?」
「ああ、俺と一緒に笠野形温泉に行ってくれ。」
「それって何処です?」
「いや、良く知らないんだ。そこに杉田清治がいる。お前の探し出してくれたボイラー火災の犠牲者の若いのもいる。」
「同じ場所に。」
「ああ、たまたまだ。本当にラッキーだよ。そこでだ、その温泉地に杉田清治の一人息子を呼び寄せるんだ。そして火災の原因を作った杉田清治と、その火災の犠牲者の村野と、杉田清治の一人息子、杉田清治が捨てた一人息子と対面させてルポルタージュをでっち上げる。それをネタにして、五豊商事の社長の立居を強請り、その先にある次期総理大臣候補の神田洋介の首根っこを押さえるんだ。スクープと金、一挙両得だぞ。俺もお前もジャーナリズムのヒーローだ。な、だから、頼む。一緒に行ってくれ。」
ネズが無表情で畑中を見る。
「どうした、ネズ。」
「へへへ、そんなに上手く行くでしょうか。」
「行くよ、当たり前じゃないか。」
「あんたは、いつも自分の都合だけなんですよね、へへ。」
「何だよ、一体。」
「へへへ、いつもね。自分の都合で何でも考えて、その通りに物事が進むと思っている。」
「どうしたんだよ。」
「世の中って、そう甘くは無いって事なんですよ。」
ネズが静かに言い放ち、
「わ、分かってるよ。」
その言葉に一瞬たじろぐ。
「本当に分かってるんですか。」
「分かってるよ。しかしな、信じる事も大事なんだぜ。上手く行くと信じて、とにかく駒を進めないと、な。だから行こうよ。」
「それで説得した積もりなんですか。」
「おい、ネズ。下手に出てりゃあ、何だその言い草。手柄を二人で分け合おうって提案してんだぞ。」
「へへへ、ともかく、女房に断っとかなくちゃ。」
「女房?何処にいるんだ。」
「そっちの部屋で寝てますよ。ほら布団の中で。子供と一緒にね。」
「寝てるって、病気か?」
「いえ、へへ、病気じゃないんですけど。」
「それで、部屋の中が散らかっているのか。」
「見ます?」
「見るって、何を。」
「女房。」
「いいよ、別に。」
「よく抱いたでしょ。懐かしいでしょ。」
「な、何を言うんだ。」
「何だったら、もう一度抱いてもいいんですよ。」
「こら、ネズ、馬鹿な事を言うな。二度と近付かないって約束しただろ。」
「へへへ、そうでしたっけね。」
そう言いながら、ネズが立ち上がり、奥の間に移動する。
「おい、起きろ。畑中さんが来てらっしゃる。」
「いいよ、ネズ。そんな、具合が悪いんだろ。起こさなくたって。」
「起きろと言ってるだろ。」
そう言うと、蒲団を引き剥がす。
確かに、ネズの女房が向こうを向いて寝ていた。
部屋の悪臭は、そちらから来ている様だった。
「起きるんだ。」
そう言いながら、ネズは女房の頭を蹴りつけた。
「おい、止めろって。」
さすがに見かねた畑中がネズに近付き、その腕を引きながら寝ているネズの女房を見る。その瞬間、声にならない声を上げて固まった。
ネズの女房の頭が、蹴られた反動で力なく畑中の方を向く。
ぽかんと開けられた口、半開きの目。その目は濁って、生気は微塵も感じられない。
口の端からだらしなく舌が覗いている。
「お、おい。」
「へへ、抱いてやってくださいよ、前そうしたみたいに。」
「馬鹿な事を。お前がやったのか?」
「ええ、こいつね、俺よりあんたの方がいいなんてほざいたんですよ。俺が、これから大事にしてやるって言ってるのに、あんたに抱かれてるときの方が、どれだけいいかって。」
「そ、それだけの事で。」
「大事な事ですよ。俺にとっては。」
「で、でも。」
「暑い日でね、お互いに暑くって、イライラしてたんですけど。それでもね。いくら痴話げんかだからって、言うに事欠いて。」
「で、子供は?」
「へへ、最初に子供を投げつけたんですよ。そしたら、動かなくなって。それを見て、とち狂って、こいつがさっきみたいな事を言い出したんです。それで、つい、ね、首をね。」
「と、とにかく、お前、ネズ、落ち着いて、な、落ち着くんだよ。」
「へへへ、落ち着いてますよ、とっくに。」
「いいか、動くなよ、ここを動くなよ。」
そう言いながら、へっぴり腰で玄関まで移動すると、靴を履こうとして、もたつく。
その背中に、ネズが包丁を突き立てた。
畑中は、何が起こったのか一瞬わからず、背中に温かいものを感じ、次に滴る血を見て、慌てて逃れようとする。が、刺し所が良かったのか、悪かったと言うべきか、見る間に力を無くして床に倒れ伏し、ネズの無表情な視線の中で激しくもがく。
その騒動を隣人が聞きつけて、大家を呼ぶ。
大家は、返り血にまみれたネズを見て警察を呼ぶ。
警察がやって来た頃には、畑中は事切れていた。
背中から、心臓に真っ直ぐに包丁が入っていた。


(続く)