テイク2





 

 

「まぁ、座ってくれや。」

早口で、張りがあり、高いトーン。おそらく高血圧な男だ。

目隠しをされ、ここまで連れて来られた。葉巻の強烈な匂いが鼻を突く。

言われたままに腰をおろす。深めのソファー。革張り。

「そのままやったら不便やろ。外したりぃな。」

目隠しが外される。

暫くして焦点が合う。

サングラスの男がこちらに顎を突き出し、薄ら笑いを浮かべている。

鼻筋が左に大きく湾曲した細面の男だ。ちょび髭を生やしている。

私より少し若いくらい。四十を少し過ぎたくらいか。

ポマードで、きっちり髪を撫で付け、薔薇の浮模様入りの真っ赤なシャツを第三ボタンまで外し、白いブレザーを羽織っている。

「手錠もや。」

角刈りのいかつい男が手錠を外す。この男もサングラスをしている。

「えらい手荒な真似して、すいませんな。」

横柄に言葉だけで詫びを言う。

「何ですか、あんたら。」

こちらは、声が震えている。

散歩の途中、近づいてきた車の中から男が三人ばかし、降りてくるなり私の腹を殴り、ズタ袋を頭からかぶせ、車に押し込んで、ここまで連れて来られた。

「彫刻家の先生やったな。」

「え?」

「ちゃうんかいな。」

男は、側に突っ立っている角刈りの方を見る。

角刈りが、首をかしげて私の顔を覗き込む。

「これ、先生の作品やろ?」

男が、胸ポケットから写真を取り出して見せる。

写真は、亜佐子の面影を彫った観音菩薩像で、芸術賞を貰った時のものだった。

亜佐子は、私と籍を入れて二年余り後癌で死んだ。四十五だった。

「これ、売ってもらいたいねん。金は言うてもろうた分だけ用意できる。何ぼや?」

「何ぼや言われても。」

売るつもりで彫ったものではない。女への思いを一心にぶつけた。

「先生、わいらの事、知っとるか?」

「いや。」

知るわけが無い。

「関西の、その世界では、ちょっとは名の知れた窃盗団、コソ泥集団や。盗むんはわけないねん。今は国立近代美術館に置いてあるやろ。あんなとこ赤子の手をひねるより簡単に盗み出せるねんで。ほんでもな、そんなんしとうないねん。あれだけはな。きちんと先生から譲り受けたいねん。」

「あれは、命の次に大事なもんです。」

「さよか。」

「売るわけにはいきません。」

「大人しいに言う事聞いときはった方がええで。一生、仕事が出来ん体になっても知らんで。」

角刈りの男が言う。

「あほう。しょうもない脅しをするなや。わいはなぁ、先生とちゃんとビジネスしたいんや。なぁ、先生。わいは見ての通り、裏道しか歩いた事が無い人間や。芸術なんか、腹の足しにもならんもんやと思うとった。それがな、あの彫刻見て気が変わったねん。自分のもんにしたい。金やったらおしまへんでぇ。」

「そう言われても。」

あれは、私にとって亜佐子そのものだ。

亜佐子の魂を彫り込んだ作品だ。

私の力で、きちんと幸せにしてやりたかった女だ。

だから、全身全霊を込めて彫った。

生涯手放すつもりは無い。

「殺されても渡せません。」

「なんやと。」

角刈りが手を出しかける。

「アホか。」

それを鋭く制して、

「足元見んほうがよろしいで。」

「そんなんちゃう。あれは。」

と、私が言いかけた所に

「ほんまにサヤに似とる。」

男は、もう一枚の写真を取り出す。

そこには、寂しく笑った女が写っていた。

「よう似とるやろ、先生の菩薩像にな。この女はな、絶対に、わいの力で幸せにしてやりたかった女や。もう死んでまいよったけどな。惚れとった。」

「悪いけど、あれは、私の恋女房をモデルにしたもんです。渡せるわけないやろ。」

「ほな、彫刻なんか可愛がらんと、生きてる方を可愛がったらええがな。」

「もう死んでしもたよ。」

男は、まじまじと私の顔を覗き込んだ。

そして、ソファに深々と身を沈めると、何か考え込む風で、胸の前で手を組み合わせる。

 

 

「ごめんね。」

亜佐子は、何度も言った。

死の間際は、脳内に出来た腫瘍のせいで、ほとんど一日中麻酔で眠らされていた。

たまに麻酔が切れると、痛さで顔を歪ませながら、

「ごめんね。」

そう言った。

私と亜佐子が知り合ったのは、十年以上も前。

二人とも、まだ三十半ばだった。

私は、サラリーマンに嫌気がさし、趣味で始めた彫刻にのめり込んでいた。

妻も子もいたが、彼らに構ってやれるほどに精神的なゆとりはなかった。

いくつか稚拙な作品を作り上げたところで、知り合いの喫茶店で個展を開いた。

通りがかりで入ってきたのが亜佐子だった。

亜佐子は、大手の照明器具会社でインテリアコーディネーターをしていた。

スーツの似合う、見るからにキャリアウーマンだった。

「あら、これ。」

その亜佐子が、私の作品の一つに目を留めた。

「気に入ったのがありましたか?」

お客も入ってこず、コーヒーも飲み飽きて暇を持て余していた私は、彼女の言葉に反応する。

「これね。」

犬が寝そべっているのを彫ったものだった。

「タラにそっくり。」

「タラ?」

「愛犬です。もう死んじゃったけど。よく似てる。」

彼女のスリットの入ったスカートに包まれた臀部に欲情しかけていた私は、

「何やったら、差し上げましょか。」

下心丸出しで声をかけた。

「本当?ほんでも、それ、悪いです。」

「ええですよ。明日、個展が終わるんで、片付けの時に立ち寄ってもらえれば。」

「明日は駄目なんです。出張。」

「じゃぁ、あなたの都合のいい時に仕事場に持って行きます。」

結局それから三日後に、彼女の職場に犬の彫刻を持っていった。

彼女の仕事の終わりそうな時刻にあわせた。

その日は駄目だったが、翌々日の約束を取り付けた。

年齢が近く、趣味もほぼ同じで、気が合うことが分かった二人は、以来何度も会う。

ただ、それは、友情以外の何物でもなかった。

気が合って、一緒にお酒を飲んでいても飽きない相手。

その頃は、確かにそうだった。彼女にも、私にも家庭があった。家族がいた。

彼女と会うためにいい店を探す喜び。その店で会い、楽しい一時を過ごす。

私には、それだけで満足だった。それ以上は、求めていなかった。

 

 

「ほんまに偶然やなぁ。」

男が言う。

「不幸な偶然や。さよか。先生もなぁ。先生の気持ちがこもっとるわけや。それで、あれだけわいの気持ちを動かしよったんやな、あの彫刻なぁ。」

男は、自分の事をアツと言った。

「サヤとは、な。」

父親も母親も違う兄妹として、育ったのだと言う。

母親の三度目の夫の連れ子だった。

体の弱い子で、おまけにひどいアトピーのため、全身が湿疹と引っかき傷と瘡蓋で覆われていた。

「わいとは、三つ違いやったな。」

アツ達が住んでいたのは、都市近郊の工場地帯として急速に発展しつつある町だった。もとは漁師町で、そういう気性の荒さと、外部からの流入者の冷めた人間性が、町の方々にわだかまり、軋轢を生み出していた。アツ達は、そういう大人達の歪な風を受けた子供として成長していた。

「最初は、サヤの事よう苛めた。」

サヤは、アトピーもあって、自己主張の少ない、大人しい子供だった。

アツ達の苛めの格好の対象だった。

ある日。

サヤのアトピーを治療してやると騙して、サヤを丸裸にし、町の外れに残る溜池に浸けた。池には工場からの廃水が流れ込み、水面が斑に染まっていた。

サヤは、じっと黙って浸かっていた。

そんなサヤを見ているうちに、アツは心の中が何かに引っ掻かれるようにむずむずとし始める。それが、喉元まで上がってくる。

それを鎮めるために、サヤに向かって石を投げた。当たらないように二個、三個と投げた。他の子供達も真似をして石を投げ始めた。サヤの近くに石が落ち、水がはねてサヤの顔にかかると皆喜んだ。

一人の投げた石がサヤの額に当たった。サヤの額から血が流れ始めた。「命中」と皆は、はしゃいだが、アツは違った。

サヤの血を見た瞬間に、さっきからむずむずする物の正体がわかった。

アツは、石を当てた者に殴りかかる。他の者は、石を当てた方に加勢した。

アツとサヤが、傷だらけ、泥だらけで帰って来たのを見て、サヤの父親は動転した。理由を聞いたが、アツが言えるはずも無く、サヤもいつもの態で黙ったままだ。いらいらした父親は、アツを怒鳴りつけ、殴りつけた。そのせいで、アツの鼻の骨が折れ、顔がやや曲がってしまったが、

「わいは、後悔してへんで。」

その日から、アツにとって、サヤは大事に守るべき存在となる。

村八分にされ、サヤと一緒に苛められても、アツはサヤをかばった。

サヤを守るために、体を鍛えた。

「それでよかってんや。そのおかげで、わいは強うなれた。わいが小学校の五年生の頃やな。一匹狼みたいになって、サヤを守った。たまたま見た三船敏郎の映画な、なんちゅうたかな、あれを見て、わいも侍になった気がした。正義の味方や。」

サヤは、アツの後を毎日ついて歩いた。

アツも悪い気はしなかった。

「お前ら夫婦か?」

アツの喧嘩の腕が上がれば上がるほど、アツから離れていった友達が帰ってきた。

そんな連中がはやし立ててもアツは気にならなかった。

「サヤにはな、おかしな趣味があったなぁ。」

彼女は暇さえあれば、ガムや煙草の銀紙のセロファンの裏紙を丁寧にはがし、皺を綺麗に引き伸ばし銀箔にして、お菓子の缶の中に集めた。

銀箔を何枚も重ね合わせ、そっと掌に載せた時、それらが微かにたてるシャラシャラという音が好きなのだと言う。

ところが、ある日、唐突に切れたアツの母親によって、それらが捨てられてしまった。

サヤの父親が他に女を作り、一週間以上も家に帰ってこなかったための、サヤへの八つ当たりだった。

「つまらんもん集めよってからに。」

と、サヤの宝物を窓からぶちまけた。

大量の銀箔が、アツ達のアパートのあった路地に散らばり、風で飛ばされていった。

そこに雨が降りつけ、銀箔は泥だらけになる。

サヤは、雨の中でしゃくりあげた。

「泣くな、サヤ。」

アツは、そう言いながら銀箔を出来るだけ拾い集め、狭いベランダに作り付けられたばかりの風呂の中で、一緒に泥を洗い落としてやった。

サヤとアツでも足を折り曲げないと二人浸かれない小さな湯船の中で、沢山の銀箔が踊った。銀箔は、アツの母親に投げ捨てられた時に、折れたり破れたりしており、それがサヤを悲しくさせたが、湯の中でキラめくのを見ているうちに笑顔がこぼれ出すのだった。

アツは一枚を取り上げると、サヤのまだ平たい胸に貼り付けた。サヤが珍しく声を立てて笑った。アツは、それで、さらにサヤの体に銀箔を貼り付けていく。サヤの笑い声はその間中ずっと続いた。サヤの体は万遍なく貼り付けられた銀箔でキラキラと輝いた。

その事は、アツを何とも言えない幸せな気持ちにした。

「そのまま、ずっと続いたらええと思たで。ほんでもな、幸せは長うは続かん。」

 

アツとサヤの別れは唐突にやって来た。

アツの母親は、家に帰って来ない亭主の代わりに、その連れ子のサヤに何度も当たった。

「あんたのおとんは、な。」

と、アツの母親はサヤの耳をひねり上げながら言った。

「鬱陶しいあんたの世話だけうちに押し付けて、自分は外でええ目みてんねん。わかるか?あんたも、あんな男の娘や、そら恐ろしい女になんねやろな。」

「おかん、止めぇや。」

アツの声に、母親はさらに切れるのだった。

「あんたまで、こいつらの味方か。誰が産んだったと思うてんねや。ほんまに、もう死にたい。生きてたって何にもおもろい事無い。」

「わいのおかんは、な。」

と、葉巻に火をつけながらアツが言葉を繋ぐ。

「若い頃は、細身の綺麗な女でな、そこそこもてたらしい。けどな、小さい漁師町の美人なんか、たかが知れとる。気位だけは高うなって中身はあれへん。男にすがってしか生きていけん女やった。最初の亭主、まぁ、わいの本当のおとんが悪かった。わいが生まれてすぐに、女作って逃げよった。まぁな、おかんも淫乱な女やったんや。その後の男出入りは多かった。そんな女に寄って来る男なんか、たかが知れとる。その事に気付かんと、男に頼っては逃げられてばっかりや。そら、気も腐るで。」

珍しく亭主が帰って来たその夜に事件は起こった。

「あれは思い出したぁもない。あれからや。わいもサヤも人生狂うてもた。」

両親の寝室になっている隣の部屋からの叫び声と大きな物音で目が覚めた。

叫び声には意味不明な怒鳴り声も混じり、物音も断続的にして、やがて嘘のように何も聞こえなくなった。

隣で寝ていたサヤも起き出して、アツの腕にすがりついている。

「おかん、何があったんや。」

呼びかけるが返事が無い。

「おかん。」

もう一度呼びかける。

「来るな。」

それは、聞き慣れた母親のヒステリー声ではあったが、いつものそれと少し違う。

「大丈夫か。」

おそるおそる訪ねると、ヒステリー声から一転穏やかな声に変わって、

「来たらあかんで。」

湿ったギシギシという音が聞こえる。

「ちょっと待っとき。」

それから暫くして、隣室との戸が静かに開く。

異様な匂いが流れ込む。

隣室の向こうの窓からの灯りだけが家の中を照らす唯一の光だった。

その光の中に、アツの母親が現れた。

何も着ていないのがわかった。

左手に、ナイフと何か固形物を持っていた。

「サヤ。」

と、母親が猫撫で声で呼ぶ。

今までに聞いた事も無い優しい口調に、サヤは逆にアツの体の後ろに身を隠す。

「サヤちゃん、ちょっとおいで。」

サヤは、さらに身を小さくした。

「来い、言うてるやろ。」

母親がそう怒鳴りながら部屋に入ってくると、サヤの腕を掴み、自分達の寝室に連れ込む。

次の瞬間、サヤの呻くような悲鳴が聞こえた。

後を追って両親の寝室に入ったアツは、さらに強烈になった血の匂いと、母親の背中越しに部屋の真ん中に転がっているものを見て、声をなくす。

サヤが、かぶさる様にして放り投げられたそこには、大きなサヤの父親の体があって、もう既に動かなくなっていた。

「おかんはな、性交の最中におとんを刺しよってんや。ここを一突きやった。」

と、自分の心臓を指差す。

「その時は暗うて見えんかったけど、部屋中に血が飛び散ってた。勿論、おかんの体は血で真っ赤やった。三十箇所以上の刺し傷やったと後で聞いた。それとな、首の所の深い傷。これは、おとんの首を切り落とそうと思うてやった跡らしい。それが骨に阻まれてできんかったんで、次に何したかと言うとな、殺されても勃起したままのおとんのチンポを切り取りよった。それからサヤを殺そうと思うて、わいらの所に入ってきたんや。」

サヤは、父親の死体の上にかぶさるように放り出されて、ヒッヒッと痙攣の声を出し、逃げる気力も失っていた。

「あんたもな。」

と、アツの母親がかすれた声で言う。

「生きてたって、どうせしゃあないやろ。こんな男の娘やで。一緒にあの世にいかしたろな。」

アツは、母親の横をすり抜けると、サヤの上に覆いかぶさった。血の匂いがさらに強烈になる。

「アツ、そこ、どき。」

狂気のこもった鋭い声。

アツは、声も出せなかった。ただ、ひたすら首を横に振りながらサヤの上に覆いかぶさる。

「まぁええわ。あんたも一緒にいかしたろ。」

母親がしゃがみこんで、アツの耳元でそう言う。

「もう、死ぬと本気で思たで。な、ところがな、おかんは、その瞬間に断ち切れた。」

「断ち切れた?」

「ああ。プツンてな。音が聞こえた。ほんまや。人間てなぁ、緊張が極点に達したら、プツン。夫の女遊びの事とか、人生の諸々の苦しみとか、目の前に転がった血生臭い死体とかにな、切れよった。」

アツの母親は、次の瞬間、大声で笑い始める。笑い声は、物音と叫び声に驚愕した近所の人がアパートのドアを壊し、中に入り込んで惨状を目の当たりにし、警察を呼んで、無理矢理服着せられて引き立てて行かれるまで続いた。

「おかんは、初犯や精神障害による情状酌量やで、刑期は十年ちょっと。そやけど、もう二度とシャバの空気は吸えん。切れてもたからな。裁判の間も、何やぶつぶつ言うては、いきなり笑い出したりしてたらしい。刑務所から、そのまま病院送りや。切れる前も不幸やったが、切れた後もな。いや、切れたら何にもわからんようになるから、幸せかもしれん。結局、わいは見舞いにも行っとらんな。」

それから、アツとサヤは、別々の孤児院に連れて行かれた。サヤには、すぐに敬虔なカトリック信者の里親がついた。

「わいは孤児院と不良グループの間を行ったり来たりやった。何度も逃げ出して、万引きやかっぱらいで生活した。」

 

アツの凄惨な話に絶句する。

彼の背中に張り付いている翳は、ちょとやそっとのものではない。

それは分かるが、あの菩薩像を譲り渡す事は、それでもできない。

しかし、充分に同情の余地はあった。

「それで、あんたは、あの像が欲しいんやね。浄罪のために。」

「ちゃうちゃう、そんなんちゃう。切った貼ったは、それから今までに、どれだけやってきたか。人殺しくらいでびびったらあかん。」

彼の心の闇は、私の彫った菩薩像ごときでは何ともしようがないのだろう。

「ほな何で欲しがるんですか?」

「そやから言うてるやろ。サヤに似とるんや。」

 

 

サヤと言う女が、どんな女なのかは、勿論知らない。

私は、亜佐子の面影だけを追っていた。

出会って暫くは、亜佐子は色気のある良き飲み仲間だった。

が、一見キャリアウーマン風の亜佐子に、人間としての弱さを見た時、私は彼女を一人の女として意識するようになった。

しかし、それは私にとって辛い過程だった。

ある夜。

携帯に彼女からのメールが飛び込んできた。

彼女は、節度を守る女だった。深夜、携帯にいきなりメールを送りつけるような事は、普通はしないはずだった。

「ごめんなさい。」

と、メールには認められていた。

「でも、どうしていいか分からなくて。

あなたにしか、相談しようが無いの。」

私は、隣の女房を起こさないように返信する。

「どうしたんですか?」

しばらくして、

「明日、お時間ありますか?

もしよければ、七時にサウスシティホテルのロビーで。」

これに

「了解です。」

と返信したところで女房の目が覚め、

「何してんの?」

と問いかける。

何でもあらへんと、その場を適当にごまかす。

翌日、少し早目に会社を出、ホテルのロビーに到着する。

彼女は、まだ来ていなかった。

それから一時間近く待つ。

八時前になり、すっぽかされたかと思う頃に、ようやく彼女は現れた。

「お待たせしてごめんなさい。」

いつもとは違う暗い声で彼女が言う。

「いや、ええですよ。お腹空きましたか?」

彼女は、食べ物はいいから、落ち着いて話のできる場所がいいと言い、結局、ホテルのラウンジに行くことにした。

カウンターの向こうのボトルのところだけ上品な光彩で浮かび上がらせたラウンジ店内には、静かにジャズが流れていた。

彼女は、しばらく何も喋らずに、うつむいてカクテルを飲んでいた。

「ごめんなさい、こっちから誘っときながら何にも喋らないなんて。」

ぽつりと言う。

「何か疲れているみたいやね。」

また、言葉が無い。

と、いきなり涙をこぼす。

そして慌てて

「ごめんなさい。」

「どないしたんですか?」

それから暫くして、言葉を探し探し、感情を抑えて話を始めた。

「私、男の人とお付き合いしてたんです。」

彼女は、結婚していたはずだ。すると、

「不倫?」

こくりとうなずく。

「相手も奥さんと子供がいてはって。それは、わかってたんです。お互い、納得の上でお付き合いしてました。」

こういう場合に、かける言葉を知らない。

「それが、私、妊娠してしまったんです。」

「それって。」

「主人とは、うまく行ってなくて、もう何年もセックスしていなくて。」

グラスの中で、カラリと氷が音を立てる。

「で、相手にその事を言ったんです。そしたら。」

彼女は、しばらくうつむいて、何かを考えていたが、やがて顔を上げる。

新しい涙が彼女の頬を伝った。

「僕は知らないって。」

こういう話を聞かされた男は、どうしたらいいのだろう。

「君とご主人の子供だろって。彼は、私達夫婦がうまく行っていないのを知ってるくせに。」

いつもの美しい知的な顔はそこには無い。

人生の道を踏み誤り、途方に暮れた女の顔があった。

「もう、死んでしまおかとも思った。」

「それは。」

「死ねへんよ。」

寂しげに笑う。

「それから、一週間、どうしよって考えた。」

「彼は?」

「電話にも、メールにも出てくれない。同じお店の上司なの。顔も合わせてもらえない。」

「ひどい奴。」

と、非難するが、自分がその立場だったら、同じ事をするだろう。

「もう、いいねん。堕ろします。主人に正直に打ち明けて、離婚されても仕方ないけど、一緒に産婦人科に行ってもらいます。だって、夫の同意が無いと堕ろせないでしょ。」

「でも。」

「ごめんね、変な話に付き合わせて。でも、自分一人で結論出すのが怖かったんです。あなた以外に、こんな話聞いてもらえそうな人も知らないし。」

「ご主人に知れたら大変な事になるよ。」

「分かってます、でも。」

「それ、私がご主人のかわりになりましょうか。」

「どう言う事ですか?」

何故そのような申し出をしたのか、自分でも理由がわからない。

ただ、今となって考えると、その時から彼女の事を愛し始めていたのだろうか。

同情から始まった感情を愛と呼べるならばの話だが。

「そんな事御願いするためにあなたに声をかけた訳じゃないです。」

「私の時間を少しあなたに割くだけです。何も迷惑なんかかからない。」

彼女は拒んだが、結局、私が説き伏せた。

人づてに堕胎手術の比較的受け易いという病院の情報を入手し、彼女の夫となって一緒に診察を受けに行く。

海沿いの白い建物の中の産婦人科だった。

「おめでとうございます。ご懐妊ですね。」

医者が言うのを、

「実は、仕事がうまく行っていなくて、家計は、まだまだ火の車で。」

と、白々しい嘘を並べ立てる。

医者は彼女の方を向き、

「奥様は、それでよろしいんですか?」

彼女が涙を光らせながらうなずく。看護婦が気の毒そうな顔で見る。

その涙の理由を知っているのは私だけだった。

手術日を決めて、病院を出る。

彼女が腕にすがってくる。

「ごめんなさい。少し摑まらせて。でないと、なんだか。」

彼女の痛みが、腕を通して伝わってくるようだった。

 

 

「孤児院から何回脱走したやろな。脱走しては連れ戻された。何回目かの脱走の時にフミっちゅう女と知り合いになった。」

横に突っ立っている角刈りの男に淹れさせたお茶を一口ふくんで喉を湿らせると、目の前の男は、さらに言葉を続ける。

フミは、町の一角にいつ頃からか出来上がった色町に住んでいた。

色町は、最初、流れ者がバラックを立てて住み、生きていくために色々なものを売っていた。

そこに、都会帰りの網元の息子が手を入れ、非合法な売春宿をこしらえたあたりから、その手の店が集まり出し、徐々に拡大し、夜だけ明々と提灯のともる路地を形成した。

人一人がようやくすれ違える程度の道の両端に、提灯の屋号だけは喫茶店であり、お好み焼き屋である店が並んでいるが、中は食事ができるスペースなどなく、狭い階段を上がるとベッドの置いてある部屋が一つか、二つあり、そこが、女達の仕事場兼居住空間だった。客は、そこで三十分間、金を払って女を抱くことができる。

フミは、母親とそのような店の一つに住んでいた。

フミが色町の女の子供だと言うのは学校の皆が知っており、教師からさえもその存在を無視されていた。

それは、しかし、フミにとっては幼少期から慣れていたことで、気にはしていなかった。元より学校と言う場所が好きでなく、日中も町中をブラブラしている方が良かった。しかし、一人でブラブラしていても面白くも無い事だけは確かだった。

前に住んでいた色町では、何人かの同じ境遇の子供がいて、遊び相手には困らなかった。

稼げるからと越してきたこの町には、あいにく、フミ以外に子供はいなかった。

母親が客を取る間、フミは公園などで時間をつぶしていた。

 

アツがフミと出合ったのは、孤児院を脱走し、公園のトイレに潜んでいる時だった。

前夜から発熱していたアツは、公園の女子トイレで睡眠を取っていた。

夜間にまさか物騒な公園のトイレを利用する者がいると思わず、鍵をかけ忘れて寝入った所をフミにドアを開けられる。脱走の身なれば、咄嗟にフミを便所に押し込んだ。

フミの口を手で塞ぎ、

「声出すな。」

と言ったはいいが、次に何をすればいいのか判断付かない。

フミの体に回した左手が早熟なフミの胸を掴み、その柔らかさに驚いて、逆に手を離してしまう。

フミは、気丈にもアツの鳩尾を肘で突き、息の出来なくなったアツは、フミにしがみ付くと、必死で、

「怪しい者とちゃう。見逃してくれ、頼む。」

そのまま、トイレの中に倒れ込む。

フミも

「警察呼ぶからな。」

と言ったはいいが、警察沙汰になると自分の母親が困る事を知っている。

よく見ると、自分と同い年くらいの少年だ。

「あんた、何やっとるん?」

恐る恐る声をかけ、相手に自分をどうこうする意思が無い事を確認した。

アツは呼吸が戻るのを待って、フミに事情を説明する。

それを聞いて、

「うち、来るか?」

フミがアツを誘ったのは、アツに、学校に行っても村八分にされるだけの自分と同じものを感じ取り、自分の孤独を癒してくれる事を期待したからだった。

アツは、それから暫くフミの家に厄介になる。

フミの母親も気さくにアツを受け入れてくれた。

階段の下に小さな物置があり、そこがフミの部屋になっていた。

夜はフミとその部屋に寝て、日中は隣町まで行き、映画館に潜り込んだりした。

「フミは早熟な子供でな、母親の商売見とったからやろな、その前に住んどった町で初体験済ませとった。わいは、フミから女の体を教えてもろうた。」

しかし、いい事は長くは続かない。

町の風紀を乱す者を一掃すると言う名目で、警察の手が入る。

「町を牛耳っとった網元の息子が死によってな、色町反対運動しとる奴らの力が政治的に強うなったんや。」

ある夜、いきなりやってきた警察の手によって、フミ達母子は連行された。

アツは一日留置所に留められ、翌日孤児院に連れ戻される。

「次にフミに出会ったのは、フミの葬式の時や。あいつも幸薄い女やった。」


 

 

「もう、ご面会可能ですよ。」

看護婦の声で腰を上げる。一瞬、どうすべきか迷った。

と言うのも、亜佐子と私は全くの他人だ。

そんな私に堕胎手術後すぐの顔を見られるのは、彼女にとって恥ずかしい事ではないのだろうか。

しかし、その病院では私は彼女の夫だった。夫が妻を労わるのは、当たり前の事だろう。

勇気を出し、悲しげな表情を作って病室に入る。

亜佐子は向こうを向き、掛け布団を顔の上までかけて寝ていた。

「もう、お話になれますよ。でも、後一時間くらいは安静にしてあげてください。」

看護婦は、そう言って病室を出て行く。

「大丈夫?」

私の問い掛けに、彼女は弱々しくうなづいた。

私は、どうしていいかわからずに、彼女の枕元の丸椅子に腰掛け、窓の外に目をやる。

病室の陰気さとは裏腹の、陽光に輝く海が広がり、その向こうに島が見えた。

若いカップルの何組かが、防波堤の上に座って日向ぼっこしていた。

彼女が何か言う。

「何?」

と、顔を近づけると、顔を掛け布団にさらにうずめ込み、

「今日は、ありがとう。」

と、微かな声。

「大丈夫だから、もう帰って。本当にありがとう。」

「どうやってここから帰るつもりなんや?」

「自分で何とかするから。これ以上、迷惑かけられへん。」

「迷惑やなんて思うてない。余計な心配しないで、寝てなさい。」

彼女が掛け布団から手を伸ばす。

その手を握り返す。

細い、しかし柔らかい手だ。

「ありがとう。ごめんね。」

その肩を抱きしめ、励ましたい思いを抑えつつ、彼女の回復を待つ。

窓の外では、数羽の鴎が舞っていた。


 

 

「フミとはそれっきりやったが、サヤに再会できたんは、フミのおかげや。人間て、エンの生き物やねんなぁ。あれは、わいが十九の時や。サヤが十六か。五年ぶりやった。その頃、サヤは名古屋に住んどった。」

男が、煙を上に吹き上げ、しみじみと言う。

「アツ、お客さんやで。」

居酒屋の店長がアツを呼んだ。

アツは、何度か孤児院を脱走したが、フミ親子が摘発され、留置所に入れられて以来、気を入れ替えて脱走する事をやめた。

院から料理の専門学校に通わせてもらいながらアルバイトをして、孤児院の運営を助けていた。

「裏口に回ってもろうたから。」

言われて調理場を通り、店の入っていた雑居ビルの裏手に回る。

白いワンピースの女の子が待っていた。

俯いていたが、特徴のある横顔で、それが誰かすぐにわかる。

「サヤ。」

呼ばれて女の子が顔を上げ、アツを不思議そうに見たが、すぐに笑顔になる。寂しい笑顔だと思った。

「アツにぃ?」

「久しぶりやな。元気しとるか?」

サヤは、それでなくても無口な子供だった。サヤが次に口を開くのをアツはじっと待った。

「アツにぃは?」

「わいは元気やで。ようここが分かったな。」

そこに古参のアルバイトが顔を出す。

「アツ、悪いんやが、店、忙しいなってきた。」

「はい、すぐ行きます。」

そう返事をして、

「サヤ、今日はどうするんや。すぐ帰らなあかんのか?」

サヤは横に首を振る。

「ここ、一時までや。その頃にここに来れるか?」

今度は首を縦に振った。

「ほな、どっかで時間つぶしといてくれ。」

その日は途中から雨が降り出し、客足も少なかったので、店長に頼んで早目に上がらせてもらった。時計を見ると十二時ちょっと過ぎ。

まだ、サヤは来ていないだろうと思ったが、裏口のビルの陰に身を寄せて雨宿りしているサヤを見つける。

傘をさした中年の数人連れがサヤに声をかけている。

「サヤ。」

アツが声をかけると、中年男達は慌てて去って行った。

「サヤ、ずっと待ってたんか。」

サヤが笑い返す。

「ここで?」

途中かなり激しく雨が降ったのだろう、サヤのスカートの端がぐっしょりと濡れているのが、外灯の明かりででも見て取れた。

「風邪ひくやないか。今日は何処に泊まるんや。」

そこまで連れて行って、服を着替えさせてと思ったのだが、サヤは、また笑って首を横に振る。

「何処にも泊まる所ないんか?」

今度は首を縦に振った。

「ちょっと待っとれ。」

と、店から焼酎を二合ばかし持ち出し、傘を差しかけ、何気にサヤの肩を抱く。

サヤがビクリとなったので、

「雨に濡れるやろ。」

サヤは、俯いて体を強張らせる。

そのまま、きつくサヤの肩を抱き寄せると、雨の中を歩いた。

あてがあった訳ではない。裏道に入ると崩れかけたような安目の連れ込み宿がある。

その一軒に入って行った。

「おばはん、風呂あるか?」

ともかく、サヤを風呂に入れてやらないと風邪を引くと思ったのだ。

「風呂付きは、ちょっと高いで。」

「かまへん。」

アツ達が昔住んでいたアパートの簡易風呂とさして変わらない安普請の風呂に湯を張りながら、

「サヤ、服脱いで毛布にでもくるまっとれ。何やったら、先に焼酎飲んでてもええぞ。」

そのアツの後ろにいつの間にか、シミーズ姿のサヤが立っている。

「あほ。風邪引くやないか。」

「アツにぃ、これ。」

サヤが差し出したのは、沢山の銀箔だった。

「これ、風呂入れよか?」

アツは、サヤの意図を察した。

サヤが嬉しそうにうなずく。

湯船の中で、沢山の銀箔がキラキラと翻る。

アツもサヤも真っ裸になって、湯船に身をつける。

青白く見えたサヤの顔が、上気して綺麗だと思った。

「サヤ、綺麗になったな。」

サヤが恥ずかしそうに、しかし、意を決したように立ち上がる。

アツはサヤの裸身を見上げる。

白い細い足の付け根のうっすらとした恥毛が目に入る。恥毛の奥に、ぴっちりと閉じたサヤの秘部が見える。そこから上に辿って、底の浅い臍があり、まだ膨らみの少ない、それでも若さが中から突き上げているような乳房があり、その先には、皮膚と同じくらいに色の薄い乳首があり、なで肩がそれを支え、ほっそりとした、アトピーの跡の残る首筋、とがった顎、小さな鼻、濡れて光った瞳が被さって来る。

アツは、自分の股間が膨張し始めるのを感じる。しかし、それは、かつてフミを抱いた時とは違う感覚だった。

アツも、自分の裸身を隠すことなく立ち上がった。

そして、サヤの水滴をはじく肌の上に銀箔を一枚ずつ丁寧に置いていく。

昔のように、胸の上から始まり、首筋、頬、額、肩、腕、乳首、臍、腿、恥毛の上にも。

銀箔を全て貼り終えると、一箇所ずつ接吻をしていく。

サヤは、目を閉じて、アツの接吻を全感覚で受け止めているようだった。

が、暫くして、アツの目を見、

「アツにぃ。サヤ、明後日から店に出るねん。」

アツには、俄かにその意味が分からない。

「店に出んと、追い出されるんや。」

「店て、何の店や。」

「女の人がいて、男の人が来る。」

「酒飲みにか?」

「お酒は飲まんけど、女の人と一緒に風呂に入る。」

「それって、サヤ、お前。」

「生活のためや。おとんがこしらえた借金返さなあかんねん。」

「何ぼや。」

「三百万て言うてる。」

「あほな。」

「サヤ、まだ男の人の体知らんねん。」

「そんなんを店で使うんか?」

「ええお金になるんやて。」

「あほなこっちゃ。」

「アツにぃ、うちなぁ、アツにぃに。」

そう言うと、アツの体に全身を投げかける。

思ったよりずっしりとしたサヤの体がアツの腕の中にあった。

アツは、そっとサヤを布団の方に促す。

「体、拭かな。」

「ええよ、そのままで。」

二人は、濡れて、銀箔の貼り付いたままの体で布団に倒れ込んだ。

アツは、よじれたり、破れたりした銀箔をサヤの体から一枚一枚はがしては、そこに接吻していく。

サヤの口から小さな吐息が漏れる。

最後に、サヤの秘部に張り付いた一枚を取り除き、そこに唇を押し当てる。

フミが、「そこ、舐めるんや」と教えてくれた通りにする。

サヤの口から漏れる吐息は、微かな喘ぎ声に変わる。

そして静かに、アツはサヤに重なって行った。

「サヤの教育係がフミやってんな。」

サヤの養父は、サヤを引き取った頃は、まだ真面目な商店主だったが、近くに大きなショッピングセンターが出来て客足が減ったあたりから性格が変わり、養母は家出。それがさらに養父の生活を捻じ曲げ、賭博にのめり込み、ついには闇金融に多額の借金をこしらえる。

闇金融業者は、サヤの体に目をつけ、借金のかたにサヤを店で働かせる約束を養父から取り付けた。

サヤが売りつけられた店にフミがいて、年が近い事もあって、サヤを店に出せるように教育する役目を負って派遣されてきた。そこで世間話をしているうちに、アツの話になり、それがサヤの義理の兄である事がわかり、サヤは、フミに聞いた住所を頼りにアツに会いに来る決心を固めたのだった。

「次の日の朝早いうちにな、サヤは名古屋に帰って行った。」

綺麗やった。と、アツが小さく呟く。

 

 

「綺麗や、君は。」

私は、亜佐子に何度もそう囁いた。

産婦人科を出ても、結局、彼女はその日家には帰れなかった。

術後の回復が良くなかったせいもあるが、堕胎手術が彼女を軽い欝に引き込んだからでもあった。

「もう帰ってください。」

彼女は、そう言ったが、とても放って帰られる状態ではなかった。

「ちょっと休もう。」

休もうと言っても、どこで休むあてがあったわけではない。

道路沿いのラブホテルに彼女の肩を抱いて連れて入った。

派手な金ラメ模様の入った丸いベッドの上に寝かしつける。

彼女は暫くうつらうつらとしていたが、目覚めると、さめざめと泣き始めた。

私は、彼女の髪をなぜてやる。

「やめて、私の顔を見んといてください。」

彼女はそう言いながら声を殺して泣く。

不甲斐無い自分を恥じ入る彼女の心の動きが痛い程に伝わってきた。

「綺麗や。」

本当に、そう思った。それが何の慰めにもならない事は良くわかっていた。

しかし、彼女の痛々しい心が、私の美意識をくすぐった。

「ごめんなさい。」

なかなか覚めやらぬ麻酔のせいもあって、何度も呟く。

「ごめんなさい。」

化粧をせずに来院するように言われ、術後に化粧する用意を持ってきていたのだろうが、その精神的な余裕もなく、しかし、化粧気が無くても彼女は十分に美しく、魅力的だった。

一見しっかりしたキャリアウーマンの仮面の下に隠れていた水晶のように透明で、はかなく弱い彼女の本当の姿も、赤く泣きはらした瞼と共に、私の心を捉えて離さなかった。

結局、彼女を放っておけず、私もそのままそこに泊り込むことになる。

翌朝、彼女は私より早く起き出して、化粧を整えていた。

ソファーで寝ていた私が起き出したのに気がつくと、

「お風呂入ってるから。」

と、顔を伏せ、目を合わせないようにして言う。

「入浴しても良かったの?」

「シャワーだけならって。」

「もう、大丈夫?」

「すっかりとは、言えんけど。」

歯を磨き終えた私に向かい、

「本当にご迷惑おかけしました。ありがとう。感謝します。」

と、改めて礼を言う。

化粧を整えた彼女も、肌に透明感が出、瞳がさらに大きく見え、思わず見とれてしまう。

私達は、無言でホテルを後にし、私鉄の駅に向かった。

やってきた電車は朝早いうちだったので座る事が出来た。

二人は、肩を並べたまま何もしゃべらず、互いにうつらうつらし、最寄の駅に来ると、軽く手を上げ、先に彼女が降りた。

それから半年ばかり、お互いに連絡しあう事はなかった。

 

 

「フミは、焼け死んだ。」

便所から戻ってきたアツが、ハンカチで手を拭きながら言う。

「フミ達のアパートが火事になってな、逃げ遅れたらしい。わいは、ニュースで知った。顔写真がな、見覚えのあるフミの顔やった。それでな、聞いていたサヤの所に電話を入れたんや。」

「うちを逃がしてくれたんやと思う。」

サヤが、受話器の向こうで、力なく言う。

「明日、葬式やて。」

「名古屋か。」

「うん。」

その足で、アルバイト先に行き、前借して、電車に飛び乗った。

「フミは、わいにとって、初めての女や。わいにいろいろ教えてくれた。それ思い出すとな、ほんま、電車の中で涙こらえられんかった。」

アツは、こだま号のトイレにこもって泣いた。

サヤ達の働く店は名古屋の繁華街にあったが、住んでいる場所はバスで北に三十分程度走った、飛行場に程近い田園の残る住宅街の外れだった。

田んぼの真ん中に古ぼけた木造四階建てアパートが三つ四つあり、一棟が半分ばかし無惨に焼け落ちていた。

その周りで警察管数人が現場検証をしている。

「放火の疑いもあるねんて。」

振り返ると、サヤが立っていた。

「今からフミ姉の葬式。」

「おう、わいも、そのために来たんや。なんや、その格好。」

「喪服ないねん。そやから。」

黒っぽい服を適当に合わせたのだと言う。

金ラメ文字の入った黒いティーシャツに、黒いスラックス、黒いエナメルのハイヒール。

黒いスラックスはぴっちりし過ぎていて、サヤの歩くたびにクリクリ動く臀部を強調しており、かえって艶かしい。

「それに数珠てか?」

「おかしい?」

「葬式向きとは言えんなぁ。」

「そういうアツも。」

黒い糸の入ったグレーのブレザーに、黒いカッタシャツ、黒い縦縞のぶかぶかのスラックスでは、まかり間違えばチンドン屋だった。

「わいも、まともな服無いねん。」

サヤがプッと吹き出す。

「ほな、行こか。」

サヤが自然に腕を回してくる。

道々、サヤから火事の状況を聞き出した。

アパートには、名古屋市内の色町に勤める女の子達ばかりが寄せ集められていた。

火が出たのは朝の四時過ぎ。

サヤ達が疲れ果てて帰ってきたのが二時過ぎだったから、殆ど全員熟睡していた。

二階のサヤの隣がフミで、その向こうの部屋の女の子が、パチパチと言う音で目が覚めると、窓の外がやけに赤い。寝ぼけ眼で窓を開たところに炎が飛び込んだ。

「火事や。」

と言う叫びでフミが目覚める。

フミは一旦はアパートの外に出た。

古い木造アパートは見る間に火が回り、低血圧なサヤが目覚めた時には、廊下には煙が充満していた。煙の向こうからフミが現れた。

「あんた、何しとんや。早う逃げな。」

しかし、階段の方は轟々と火が出始めた。

「あっちの二階から外に出よ。」

フミが指差した方も火がチロチロと見えており、逃げられるとは思えなかった。

「ほんでも。」

「早う。」

フミがサヤの背中を押して、サヤが煙と火の向こうに押し出されるのと、フミのいる場所が崩れ落ちるのとが同時だった。

フミの姿は、炎と煙の中に飲み込まれていった。

サヤは、反対側から入ってきた消防士に腕を掴んで引っ張られ、そのままどのように外に連れ出されたのか記憶が無い。気がつくと、火災現場から少し離れた所で毛布を被り、ガタガタ震えながら、泣いていた。

「フミ姉なぁ、おかんが病気になって、その治療費にいっぱいお金がいったんで、借金したんやって。それ返すのに働くようになったって。」

「さよか。で、フミのおかんは?」

「何回か手術受けたけど、助からんかったって。」

「ほな、フミ、天涯孤独か。」

「何それ?」

「身寄りが全然ないんか。」

 

葬式は、フミ達を牛耳っている組関係者の借りた公民館で、質素に行われた。

フミ以外に三人が焼け死に、合同葬儀だった。

公民館の周りには警察管や刑事らしいのが何人かいて、参列者をチェックしていた。

参列者は、組関係の若いのが数人と、サヤのように借金で働かされているような女の子が十数人程度。女の子達は全員、葬式には場違いな格好をしている。

「フミは、結局、名古屋の寺に無縁仏として葬られたんや。」

葬式が終わると、組の若いのが一人、アツに近づいてきた。

「あんたかね、サヤの彼氏ちゅうんは。」

下から睨み上げる。

「あいつの体に金がかかっとるんは、知っとるやろな。あんまり、うろちょろせんといて欲しいがね。」

「何者や、お前?」

「サヤの面倒みさしてもろうとるがね。今後は、わいに挨拶もなしに、サヤに近づかんといてくれるか。」

そして、サヤに向かい、

「サヤ、仕事だが。グズグズするなや。」

唾を道端にペッと吐いて、サヤの腕をつかみ、向こうに待たせてあったマイクロバスに引き立てる。

サヤは、悲しげな顔でアツを見たが、諦めた様子で顔を伏せると、若い男に背中を押されて乗り込んで行った。

「それで、良かったんですか?」

思わず尋ねてしまう。

アツは、こちらを見てニヤリと笑うと、

「ええわけないがな。ほんでもな、あの頃のわいには、金も何もなかったんや。サヤの働いとる店の前まで行って見た。ほんでも、入る金が無い。すごすごと大阪に引き返したで。」

 

 

半年ばかり、亜佐子とは出会わなかった。

亜佐子は携帯の番号もメールも、変えてしまっていた。

亜佐子の働く店の前まで何度か行ったが、業界でも大手の照明器具会社のショールームの明々と灯ったシャンデリアや、その下で談笑するカップルや親子連れの姿を見ると、入っていく勇気が出ない。

亜佐子が自分の傷心を隠して、にこやかな顔で接待している姿を見たりすれば、おそらく私の亜佐子への思いは、今以上に高まるだろうと思われた。

私の亜佐子への愛は、そのような感情が基本になりつつあるのは自分でも感じ取れた。

ある日、勇を鼓して店内に足を踏み入れる。

明るい笑顔で店員が迎える。

亜佐子の名前を告げる。

しばし待たされた後、三ヶ月も前に退職した事を教えられる。

次の職場は、誰にも告げられていなかった。

そうですかと、店の外に出る。と、背後から年配の女性に呼び止められる。

彼女とどういう御関係ですかと尋ねられ、友人の一人ですと答える。

彼女は、小さな声で街の名前と会社名をいい、店内に消えた。

教えられた街は、私鉄で三十分ばかし。初めて聞くカタカナの会社名だったが、私は、すぐに電車に飛び乗った。

その街は海に面して出来あがった細長い港湾の街だった。波止場沿いの倉庫をうまく利用して、洒落たレストランや、カフェテラス、ブティックが並ぶ。その一角に教えられた店はあった。小さな輸入物を扱う家具屋だった。

ウインドウ越しに中を見ると、店の一隅で図面を覗き込み、客らしきカップルと真剣に話し合う亜佐子の姿があった。

少しやつれていたが、半年前電車の中で別れた時の暗い陰は微塵も無く、一心に仕事に打ち込む姿は、輝いて見えた。

私の心を覆っていたわだかまりが、すっと引くのが分かった。

そうなのだ、彼女に会っていないからこそ変に妄想ばかりが膨み、自分で制御しづらくなっていたのだ。

元気でよかった。彼女は彼女の人生を力強く歩き始めている。邪魔をしてはいけない。彼女の方から連絡してこなかったのも、邪魔をしないでくれという意思表示なのだろう。

何せ、私は彼女の暗い秘密を知ってしまっているのだから。

もう会うこともあるまいと、その場を離れようとした時、顔を上げた彼女と目が合う。

不思議そうにこちらを見ていたが、やがて、相手に一言二言断りを入れると、店を飛び出してきた。

「ご無沙汰してます。」

走り寄って来て、こちらにぶつかりそうになりながら、頭を下げる。

「元気そうやね。」

「おかげ様で。」

「そうか。よかった。」

それから、互いに目を伏せ、言葉が出ない。

ややあって、私から、

「忙しそうやから、また、連絡するわ。」

「あ、ごめんなさい。」

「じゃ、また。」

背を向けて歩き出す後ろをまた、足音が追ってくる。

「あの、これ。」

名刺の裏に携帯電話の番号を書き込み、

「あの、お時間ある時で結構ですので、お電話ください。この間のお礼をさせてください。」

そう言って私に手渡すと、店に帰って行った。

それから二ヶ月、仕事に追われていたのもあり、彼女に連絡できないでいた。

その日は、たまたま早くに会社を引き上げ、夕暮れの街を一人で歩いていた。

初夏の、日照時間の長くなった街角には、これから遊びに行くらしい若者が待ち合わせでたむろしている。これから彼らは、夜が更けるまで楽しい時間を過ごすのだ。

私は、すぐに帰宅するのがもったいない気がして、意味も無く街を歩いていた。

途中、歩き疲れてオープンテラスの店で休憩をとる。ビールとつまみを頼み、金を払おうと財布を出した時に、彼女からもらった名刺が足元に落ちた。気付かずにいると、隣のカップルの女の子の方が、落ちた事を教えてくれた。

テーブルの上に拾い上げ、暫く彼女の書いてくれた電話番号を見ていたが、おもむろに電話する。

「はい。」

と、聞きなれた声。

名前を告げると、

「ご無沙汰してます。どうかしましたか?」

おそらく、夕暮れの雰囲気が悪いのだ。人の気持ちを駆り立てる。

「いや、あの。」

「はい?」

「会いたいんですわ。」

思わぬ、しかし、充分に予期していた言葉が自分の口からこぼれる。

「今から?」

「いや、忙しいようでしたら、その。」

「私も。」

「はい?」

「会いたいんです。会って、お話ししたい事がいっぱい。」

彼女の予期せぬ返答に心が躍った。

「じゃあ、今から行きます。」

「お店まで?」

「ええ。いや、お店じゃなくても、何処へでも。」

「じゃあ、お店の三軒向こうに、おいしいイタリア料理の店があるんです。予約入れます。そこで。」

「お仕事は、大丈夫なんですか?」

「終わらせちゃいます。あなたは?」

「今日は、もう、大丈夫です。じゃあ、後で。」

 

私鉄の三十分が、やけに長く感じられる。

大きな駅に三回停まり、沢山の人が降りて行き、沢山の人が乗ってくる。

苦虫を噛み潰したのや、やたらうきうきしたの。

私は、どれに分類されるのだろう。

それぞれなりに人生を抱えている。沢山の人生が狭い車両の中で交差する。

交差はするが、余程の事が無い限り関わりあう事は無い。

と、そこで冷静な考えが頭をよぎる。

私は、何を持って彼女の人生に関わろうとしているのだろう。

最初は、気が合う話仲間、飲み仲間だった。

それが、ある時を境に彼女に深く思いを寄せるようになった自分を知る。

しかし、私には家族がいる。私は、家族の面倒を見たうえ、さらに彼女の人生に関われるほど器用な人間ではない。また、今の仕事に興味を無くし、彫刻等と言う道に、あえて逸れようとしている。そんな私が、一体彼女にどう関われると言うのか。

目的の駅に停まり、沢山の人と共に電車を降りる。

彼女に会いたいと言う思いが、本当にいいのかと足止めする思いを上回る。

駅を出て海岸通りへと向かう。国道の向こうに多くのぼんやりとした灯りが見える。

今はショッピングゾーンとなった倉庫街の明かりだ。

レトロな感じを醸すために、あえて外灯の輝度を落としているのだ。

彼女の店の前を通り、教えられたイタリアンレストランのドアを開ける。

ウエイターに彼女の名前を告げると、入り口とは反対側の窓際へと案内される。

窓の向こうは遊歩道になっていて、その向こうに波止場が見える。カップルがほぼ等間隔で手摺にもたれ、肩寄せあい、夜の海を見ている。

先に来ていた彼女が、私を見つけ、軽く手を上げる。

「待った?」

と、私。

「いえ、さっき来たとこ。ワイン飲みます?」

彼女は、ウエイターにワインの名前を告げると、

「どうして連絡くれなかったんですか?」

詰るような目で言う。

「いや、何か、慣れ慣れしく電話していいのかどうかって。」

「あんな事があったんで、てっきり嫌われてるんだと思ってました。」

「私が、あなたを?とんでもない。」

「良かった。」

それから、ワインが運ばれてくるまで、ぼんやりと窓の外を眺める。

ワインで乾杯し、料理が運ばれてくる。

食事の間、彼女はよく喋った。新しい店の話や、この街で彼女が発見した事などを聞きながら料理の皿もワインも綺麗に空けてしまった。

食後のコーヒーを断って、ワインをもう一瓶注文する。

暫く話題が途切れた後、

「この間は、どうもありがとう。お礼を言うのが遅くなって、ごめんなさい。」

それから、簡単にあれからの事を話し始める。

前の店は、一ヵ月後、引継ぎだけを終えて退職した。それまで付き合っていた男には、未練も残らなかった。

「付き合っていた頃は、あんなに好きやと思えたのに。」

彼女は、家庭より仕事を優先したかった。それが彼女の夫との間に軋轢を生み、そのうちに夫婦の会話すらなくなった。家庭は針のむしろとなり、そこから逃げ出す先を男に求めたのだと言う。

「離婚する勇気が無かったのね。」

「じゃぁ、今は?」

「まだ。それに向けての話し合いの最中。いろいろしがらみがあってね。なかなか話が進まへんの。」

しがらみの話は、次に会った時に聞いた。

夫の母親が病気で入院しており、離婚話を進めていると聞いた義理の姉や弟から、母親の病気が安定するまで思いとどまって欲しいと説得されたのだと言う。

「末期症状なので、良くなる事なんて無い。でも、高齢なので病気の進行も遅いの。」

夫とは家庭内別居状態。彼女に男がいた事は、夫も薄々感ずいているのかいないのか、彼女から聞くわけにはいかないが、夫は週に二日は外泊し、その事を咎める素振りを見せると、嘲る様な目で彼女の事を見る。

「私が悪いのね。二進も三進もいかなくなってしまった。」

 

それから、月に一度程度、彼女と会う。

会う場所はたいてい、彼女の店のある場所で、私には殆ど馴染みの無い街だったが、通ううちに裏通りまで知り尽くし、好きな街となる。

二人に気に入りの店も出来、そこの従業員とも顔見知りになる。

名前を言えば、いつもの席をとってくれた。

肉体関係は全く無かった。

そういう欲望が働かなかったと言うと嘘になる。

思わず熱く抱きしめ、彼女もそれに応えてくれそうな事が何度かあった。

しかし、そこで理性が働いたのは、かつて、彼女が間違いで自分の体を痛めつけてしまった事実を目の当たりにしており、二度とそう言う目に合わせたくないと思っていたのと、私とそう言う事になってしまったと言う事実が、離婚と一人立ちに向けて歩き始めている彼女を不利な立場に立たせてしまう事を懸念したからだった。

が、最大の理由は、何と言っても私の勇気の無さだろう。家族を無碍に捨て去れるわけでもなく、彫刻という道で光が見えているわけでもない。彼女と肉体関係を結んでも、お互いに先詰まりの状態を迎える事は目に見えていた。

新しい人生を切り開く勇気を持った者ならば、ここで全てを投げ捨て、新しい女と手に手を取って新世界へと駆けて行くのだろう。

私に、その勇気は無い。

ただ彼女が幸せを感じてくれるならば、それで十分だった。

彼女も前の経験が堪えていたのだろう、私の煮え切らない態度にイライラする事も無く付き合ってくれた。

そうして四年。

その間に、彼女の夫の母親が亡くなり、夫婦間の話もすすみ、彼女は離婚した。

 

 

「それから、わいはサヤの事を忘れた事が無かった。」

アツが、暗くなり始めた窓の外を覗き見ながら言う。

「金やねん。わいは、サヤに会うために必死で働いた。」

その金を握って、半年に一回か、二回、サヤの勤める店に行く。

「お前も好きだで。」

サヤのヒモが嘲るように見る。

サヤが、三つ指突いて出迎える。

「サヤ、せいぜいサービスしたりい。」

できれば、その男の首を締め上げたかったが、ぐっとこらえてサヤの後をついて行く。

「会いたかった。」

風呂場のついた部屋に入るなり、サヤが抱きついてくる。

商売のせいもあって、めっきり女らしくなったサヤの体を掻き抱く。

「お風呂入れるね。」

仕事をしないとサヤは、後でどやされる。

余計な事もしゃべられない。ヒモが壁越しに聞いているのをサヤは知っている。

だから、サヤは、精一杯アツに奉仕する。アツには、それが余計につらかった。

「毎日こんな事やっとんのか?」

「仕事やから。」

アツの洋服を脱がせながら、そっと拭き取る涙をアツは見逃さない。

「サヤ、これ。」

アツが沢山の銀箔を出してみせる。

「銀紙があったらええね。」

と、前にサヤが呟いたのをアツは覚えていた。

サヤが目を見開いて

「集めてくれてたんや。うれしい。」

顔がパッと輝いた。それだけで、アツは来たかいがあったと思った。

「アツが来てくれるのだけが、うちの楽しみやねん。」

規定の時間はアッという間に過ぎて行く。去り際に、サヤがそうささやく。

その言葉すらも聞かれると、ヒモの男からの虐待のネタになった。

「それは、商売女のお愛想っちゅうやっちゃ。真に受けるアホがおるかい。」

アルバイト先の人生経験豊富な板前は、アツの思いを煙草の煙と一緒に吐き捨てるように言う。

「そんなもんなんやろか。」

 

一抹の不安を覚えるアツの元にサヤがやって来たのは、冬間近い肌寒い朝だった。

アツは孤児院を出て一人暮らしを始めていたが、その住所をサヤには教えていなかった。サヤは孤児院を訪ね、アパートの住所を聞き出して来たのだった。

「何や、サヤ、どないした。」

「逃げてきたん。」

「逃げてきたて。」

「アツ、サヤと一緒に逃げよ。どっか行こ。」

そう言って泣き伏すサヤの涙がおさまるのを待って、事情を聞く。

このところ、ヒモから受ける暴力がとみにひどいのだと言う。

それは、サヤの稼ぎが悪くなって来ているのが原因だった。

「働いても、働いても借金減らへん。それよか、増える一方や。何でや言うたら、おとんの金使いの荒さが治れへんねん。余計にひどうなって借金ばっかりしはる。それに利子がついて、何千万の借金になったぁる。」

それで、サヤの労働意欲が低下し、仕事に熱意がなくなり、固定客が去り始め、歩合給が目減りした。

「最初は、一生懸命働いて、早うお金返して、アツとこ行こうと頑張ってた。ほんでもな、なんぼ働いても一緒や。どないもならへん。」

「わかった、サヤ。逃げよ。」

アツは、その足でアルバイト先に行き、前借し、サヤと二人電車に飛び乗った。

しかし、二人に行く当てなど無い。二日ばかりラブホテルを泊まり歩いて金がつき、アルバイト先に戻った所を、サヤのヒモにつかまる。

「サヤ、ええ根性しとるがや。」

ヒモが、サヤの腕を捩じ上げながら言った。

「やめんか。」

サヤをかばおうとするアツの向こう脛を、もう一人が蹴り上げる。

「余計な手出ししたら、怪我するで。」

そう言いながらアツを殴りつけ、サヤ共々ワゴン車に乗せる。

ワゴン車には、さらに二人の男が乗っていて、アツとサヤを交互にニヤニヤと笑いながら見ていた。

連れて行かれた場所は、車通りの無い山中だった。

「よう、見とれ。」

そう言うと、男達は、アツの目の前でサヤを犯し始める。

サヤの悲鳴が木々の枝を揺すって暗闇の中に拡散していく。

男達は、サヤが意識を失うまで執拗に犯し続けた。

「もう、この辺にしとこうで。明日、店に出せんがや。」

サヤが目覚めるのを待って、今度は、アツが殴られ、蹴りつけられる。

サヤは、目を見開き声も出せずに呆然としている。

「ええか、サヤ。余計な事したら、お前ら、またこういう目にあうでな。よう肝に銘じとけ。」

そういい捨てると、サヤだけをワゴン車に押し込み、走り去った。

「その夜は、ほんまに冷え込んだ。わいは、凍死寸前で山を降りた。」

サヤのために、こんな所で死んでたまるかと気力を振り絞った。

 

「それからのわいは、人が変わった。一夜で人は変われる。その気になればな。わいは、金の事しか頭に無かった。どうやったら、大金をつかんでサヤと一緒に住めるようになるか。そのためやったら、人殺しでもする覚悟やった。」

一ヵ月後にアツはアルバイト先を辞める。孤児院にも居場所を連絡しなくなった。

「わいは、街をさすらった。どうやったら、金が手に入るのか。そればっかり考えながら、万引きや引ったくりに明け暮れた。とにかく、捕まらんこっちゃ。そのためだけに頭を使う。捕まらんかったら、何とか生きていけるのが、この社会や。」

だが、それだけでは到底サヤの借金は返せない。

せこい盗みを繰り返しながら一攫千金を夢見ていた。

上品ななりをした初老の男から奪った時計と財布が高値で売れた。

良い物だと、財布でさえ売り物になる事に気がついた。

ブランド専門の窃盗を繰り返すようになる。

イミテーションも何度か掴み、それからは、ショーウィンドを覗き込んで自分の目を肥やした。

また、得た金で身なりを整える。

身なりが良ければ、疑われる事が少ない事を学んだ。

名刺を作り、高級なホテルのバーなどにも獲物を求めて出没した。

初老の女から誘われ、一夜の相手をすれば金をもらえる事も覚えた。

その金で、さらに身なりを整える。

何人かのパトロンを得て、一見旧家の御曹司に間違われる事もあった。

若い女が、何を考えたか彼に言い寄る。

普通の家庭の女だったが、脳足らずな、玉の輿に乗るしか頭に無いような女だった。

その女を手玉に取り、何百万かの借金をさせ、利子で身動き取れなくして、その筋の人間に売り飛ばす。

「サヤがされた事と同じ事を、わいもしとったわけや。」

 

身なり良くすると、逆に自分がこそ泥に狙われる事もあった。

そのうちの一人、ゴンと言う男を逆に捕まえて、正体を知らせる。

手先が器用で、役に立ちそうだと踏んだからだ。

警察に突き出さない事を条件に、手下にする。

グループメンバー第一号だった。

「それが、こいつや。」

アツが、私の横に立っている角刈りの男を顎で指し示す。

ゴンに盗みのノウハウを教えた。ゴンは、さらに仲間を連れてきた。

チームを組んでやる仕事を考えだす。

ゴンの連れてきた一人が、公衆電話ボックス荒らしを提案した。

携帯電話が普及し始める前で、公衆電話の中には百円玉がザクザクうなっていた。

工業学校出身の手先の器用な男が、田舎から公衆電話を一台盗んできた。

それを研究し、少人数で、証拠を残さずに本体ごと綺麗に盗み去る方法を編み出した。

また別の一人は、覚醒剤の仲介人の話を持ってきた。ある地域の末端の売人の元締めだった。

その地位を獲得するために、先に入っているグループとかなり小競り合いがあったが、ゴンが親戚のプロレスラー崩れの男を連れて来て力で有利に立ち、こちらも無傷とはいかなかったが、向こうのリーダーの男の死によって幕が引かれた。

「サヤには、毎週末会いに行ける様になった。行く度に身なりが変わるので、サヤもビックリしとった。そのうちに、手土産も持って行ってやれる様になった。わいの身なりが良うなると、ヒモの男の態度も変わった。金渡したったら、三、四日、サヤを連れ出しても文句言わんかった。何回か、サヤを旅行に連れ出したった。ディズニーランドにも連れて行った。サヤの嬉しそうな顔を見るだけで、わいは幸福やった。ほんでもな、そうしとるうちにも、サヤの借金は膨れ上がっとったんや。サヤのおとんは、もう死んどったがな。病死や。半年ばかり入院しとったらしい。病院への支払いを借金して、それが利子を膨れ上がらせて、闇金から闇金にたらいまわしされる間に、サヤが一生働いても返せんくらいになっとった。後でわかったんやが、たらいまわしにされた闇金は、みんな同じ組が取り仕切っとった。ひどい奴らや。」

覚醒剤の元締めの話は、アツ達のグループをさらに肥え太らせた。

しかし、それはある広域暴力団の傘下に自動的に組み込まれる事でもあった。

組の兄貴格の男が、偉そうな顔をしてアツ達のグループのアジトに顔を出し始めた。

頭の悪い男で、変に口出ししてアツ達の仕事を邪魔するような事はしなかったが、いわゆる監視役で、鬱陶しい事には間違いなかった。

組からは多額のノルマを課せられ、調子がいい時は問題なく上納できたが、警察の摘発の強化などで売人の何人かがしょっ引かれたりすると、たちまち売り上げは落ち込んだ。上納が何度か途切れると、組から縄張りを取り上げられてしまう。アツ達の前のグループは、度々そう言う事があったので、組が仕組んでアツ達に縄張りを取らせた事が、後でわかった。

アツ達は、売り上げが落ち込むと、本来の窃盗の仕事に励んだ。組への上納のために、宝石店などの高級な店を襲うようになり、効率化を求めて外国人を金で雇い、トラックで突っ込ませるなど手口も派手になっていった。

それはまた、サヤに会う道を閉ざしてしまう事でもあった。

アツ達が傘下となった組は、勢力の拡大を狙い、サヤのヒモが所属する組の縄張りに手を出し始めていた。小さな小競り合いで収まっていた間はよかったが、ある日、功を焦ったチンピラ同士が名古屋の繁華街のど真ん中で派手な銃撃戦を仕出かした。

「アツ。」

と、監視役の男が呼びつけた。

「お前、名古屋の女の所に、よう行っとるやろ。あれ、止めとけ。」

「何でですか?」

「あの女は、向こうの組の女や。お前が、いつ、うちの組の情報漏らすかも知らへん。」

「わいが組の何を知っとるんですか?」

「お前をネタにして、うちが不利になる事もあるやろ。」

「わいみたいなチンピラ一人、何かしたかて何がどうなるっちゅうんですか?」

「とにかく、会いに行ったらあかん。」

「サヤとわいの問題に口出さんといてください。」

「他のメンバーに迷惑かけたいんか?」

そう言われて、アツは反論もできない。

「ほな、もう一回だけ会いに行ってええですか?」

「あかん。」

アツは、サヤに持たせた携帯に連絡を入れる。

出てきたのは、サヤのヒモだった。

「何の用だ。」

「何でお前が出るんじゃ?」

「俺はサヤの男だで、サヤの物は俺の物だがね。」

「サヤ出せ。」

「出せんがや。仕事しとるがね。もうかけて来んといてくれるか。」

そう言って切れる。

それから何度かけ直しても、携帯はつながらなかった。

「それから、一年近く、サヤには連絡さえ取れなんだ。」

アツ達のグループは、若い不良グループを下部組織に加え、さらに拡大していった。

それに連れて監視役の男は出世していく。

アツの顔も裏社会で売れていった。

多くの裏社会に引きずり込まれた女達が、表の社会に救い出してもらえる事を期待してアツ達に群がった。

アツは、この女達にまったく興味が持てなかった。

「残念やな、兄貴は女に興味ないねん。」

手下の男達は、そう言ってアツを女の前でからかった。

アツは笑って応える。その裏側には、サヤに会いたい気持ちが嵐のように逆巻いているのを誰も知らない。

「今に見とれと、わいは思うとった。サヤさえ元気でいてくれたら、それでええ。そのうち、必ずサヤを借金地獄から助け出したる。そう思て、毎日暮らしとった。」

その間に組同士の抗争は、首の取り合いに発展し、泥沼化していく。

 

 

「ようやく、主人と離婚できます。」

と、彼女からメールが来た。

二ヶ月ばかり会っていなかった。

私が忙しかったのもあるが、彼女の側が、離婚調停と新しい店のオープンで、てんやわんやで、とても余裕が無かったからでもある。

彼女の勤める店は、彼女のアイデアが当たり、リピーターと口コミ客が増えて店舗拡大し、近隣に出来る新しいショッピングセンターに二店目をオープンした。彼女は、その店の店長を任されていた。

「えらい出世やね。」

「小さい会社ですから。でも、好きな事やらせてもらえます。」

「それが当たったんや。」

「運が良かっただけです。」

新しい店は、新興住宅地の顧客を取り込んで、開店当初から好調な滑り出しだった。

「次期社長候補やな。」

「同族会社ですから。まぁ、いいようにこき使われてお終い。でも、好きにやらせてもらえるから、満足してます。前の店だったら、こうは行かんかったでしょうね。」

「災い転じて福となす?」

しまったと思った。

しかし、彼女はそれをさらりと受け流し、

「失敗は成功の元って言いますから。でも、誰かを見返してやろうとか、ギャフンと言わせてやろうとか、そんな事はこれっぽっちも思ってないですよ。念のために言っておきますけど。」

そう言って、若々しい笑顔を見せた。

離婚話がうまく行っているのもあるが、新しい仕事を任された事で彼女の生活に張り合いが出て、それが彼女を若返らせたのだろう。

初めて会った時よりも、なお魅力的になっていた。

「おめでとうって、言っていいんやろか?離婚。」

「新しい門出だから。」

「じゃあ、離婚に乾杯。おめでとう。」

そのおめでとうは、私に突きつけられた新たな難問でもあった。

彼女は晴れて独り身になったが、私は家族を抱えていた。

二人の子供がそれぞれに受験戦争の真っ最中の家族を。

会社は不調で、いよいよ社員の首を切り始めた。彫刻の世界は、サラリーマンの世界より甘くなく、色々な賞に出品したが相手にもされない。今度こその自信作は昨日彫り終えた所だが、これも駄目ならその世界は諦めようとまで考えていた。しかし、そうしたところで、サラリーマンの世界には今さら戻れない。定年退職まで勤め続けるための当たり前の努力を何一つしてこなかったからだ。

彼女の幸せに資する何物も私の中には見出せない。

このまま、彼女の前にいていいんだろうか。彼女の新しい人生の邪魔にならないだろうか。

そんな事を考えていた。

その気持ちが彼女にも伝わったのだろうか、

「私、一人で生きていく自信が出てきたの。たまに凹む事もあるかも知れないから、その時は助けてくださいね。」

たまに出会うと、終電車間際まで話し込む。

「アパート、この近くだから泊まって行きますか?ただし、お部屋は別よ。」

そんな彼女の言葉に揺らめきながら律儀に電車に乗って帰っていく自分が、何だか馬鹿馬鹿しかったが、彼女が手を広げて待っていてくれるかも知れない新しい世界への最後の一歩が、どうしても踏み出せないでいる。

自分は、彼女を愛せるほどの価値のある男なのかと、つい考えてしまうのだ。

つまらない男のままで彼女を愛するのは、結局、人生の逃げ場や快楽の場を彼女に求めているのと、同じではないか。

そんな愛し方をしたくない。

彼女が本気で相手にしてくれていなくてもだ。

彼女を愛すれば愛するほどに、越えるべき壁は高く険しくなっていった。

終電車を乗り継ぎ帰宅すると、日頃会話の殆ど無い女房は既に寝ているが、それぞれの部屋で受験勉強に勤しむ子供達の姿があった。

それを見て、私はさらに落ち込むのだった。

彼らの人生にもきちんと関与してやらねばならない。いい加減な事はできない。

綱の届く範囲の両端に干草を置かれ、迷い迷って、どちらも食べられずに餓死する驢馬の話があるが、まさに私がそれだった。

そうして二年近くが過ぎた。私も彼女もとうに四十を過ぎていた。

 

 

「組が名古屋の一端を押さえて、そこに小さい事務所を開いた。一ノ宮や。弱小の組に肩入れして、こっちに寝返らせたんや。そこを拠点にして、一気に相手の縄張りを取ってしまう計画やった。」

監視役が、アツ達も加勢するように言って来た。

「何で、わいらが行かなあかんのですか?」

「そりゃぁ、あれや、組が無くなったら、お前らも商売できんやろ。今は、組の一大事や。ちょっとくらい力貸してもえんちゃうか。お前らみたいに頭が働いて手先の器用な奴らが必要やねん。」

「わいら、組が無かっても、自分らで飯くらい食えまんがな。」

「あほか。他の組が乗り込んできてみぃ、何ぼ言い訳したかて、前の組の者ちゅう事で、なんやかやと邪魔されんねんぞ。」

結局、上納金三か月分免除と言う約束を取り付け、一ヶ月の約束で、ゴンを留守番役に置いて名古屋に乗り込む破目になった。

アツ達は、頭の良さと器用さを見込まれ、ゲリラ戦の先鋒を命じられた。

「わいら、相手に面が割れてなかったからな、使い易かってん。」

相手のアジトに盗聴器を仕掛けたり、向こうの組長の車に携帯電話を改造した追跡装置を取り付けたりした。

アツ達の動きのおかげで、相手の手の内が概ね読めている状態で、組は戦争を仕掛ける事ができ、その戦果も大きかった。

「わいにとってはな、それよりも何よりも、サヤに会いに行ける事が嬉しかった。」

組の主要なメンバーならば、単独で名古屋市内に入る事など考えられもしなかっただろう。

アツは、時間が出来ると軽四をレンタルして名古屋に入り、サヤに会いに行った。

ヒモは組の抗争に駆り出され、ほとんどサヤの近くにいなかったので、アツは遠慮なくサヤを連れ出せた。

サヤは、アツが来る時のために銀紙を沢山用意していた。

銀箔を風呂に浮かべ、体に貼り付けてやるとサヤは喜んだ。

銀箔を貼り付けられてする事が唯一幸せを感じる瞬間だと、サヤは何度も呟きながら、アツの体の下で果てた。

「でも、こんなんして欲しいのは、アツにぃだけやし。」

サヤは、そう言い、アツの腕の中で眠りにつく。

アツは、その穏やかな寝顔を見ているだけで良かった。

 

「会いに行くな言うたやろ。」

監視役の男がアツを殴りつけ、蹴りつけた。

頭は悪いが、腕っ節だけは強かった。

何度か行方をくらますアツに不審を抱き、後をつけたのだった。

殴られたり蹴られたりするのは何でもなかったが、グループの連中の目の前でそれをされる事に、アツのプライドが傷ついた。

ある日。

アツは、ある覚悟を胸にアジトを後にした。

サヤのアパートの近くに車を停めると、サヤが帰宅するのを待つ。

その日もヒモの男はおらず、組の若手が何人かの女の子を乗せて戻って来た。その中にサヤがいた。

運転役の若手は、しばらくアパートの前で警戒していたが、何も無いのを見定めると帰って行った。

他の部屋の灯りが消え、サヤの部屋の灯りも消えるの待ち、アパートに忍び込む。

サヤの部屋の前で、小さくノックをする。

「サヤ、わいや。」

暫くして、中でごそごそと音がする。

「わいや。」

「アツ?ちょっと待って。」

鍵が開き、サヤが顔を覗かせる。左側が黒ずみ、目も腫れている。

「どなしたんや、その顔。」

「殴られてん。」

サヤは妊娠していたのだそうだ。

「わいの子供か?」

サヤがこくりとうなずく。

それが一ヶ月前の性病検査の時にわかり、ヒモの男から堕胎するように言われた。サヤはそれを拒んだが、男から殴りつけられ、無理矢理手術を受けさせられた。

「そんな顔で店に出さされとったんか?」

「給仕と掃除くらいできるやろって。」

そう言うと、サヤは腹を押さえて呻く。

「どないしたんや?」

「手術受けさせられてから、お腹の調子が悪いんや。」

ただでさえ体は弱い。それを無理矢理堕胎させられ、その後すぐに働かされた。そのため体調を崩したが、店を休む事は許してもらえなかった。

「サヤ、仕度せぇ。」

「何で?」

「大阪、帰る。」

「ほんでも。」

「帰りとうないんか?」

サヤの下着と着替えの何枚かを鞄に詰めると、アパートを出る。

車に乗り込もうとして、

「アツ、その女置いて行け。」

監視役の男が暗闇から姿を現した。

アツの後をつけ、監視していたのだ。

「そこまでや。」

「何でやねん、この女、殺されてまう。」

「今は、双方和解に向けて話合いを始めとる。そんな時にややこしい事するな。」

「何が和解じゃ、人を散々引きずり回しよったくせに。」

「ともかく、これ以上の抗争は、お互いのためにならん。そやから和解すんねん。こっちにええ条件でな。それが、お前みたいな者のためにパーになってまうやろが。」

「あほ臭い。それは、そっちの理屈やろ。そんな理屈のためにサヤを置いて行けるかえ。」

「ほな、しゃあないな。アツ、短い付き合いやったな。」

そう言うと、男は胸元から短銃を取り出した。

アツはサヤを背中に匿う。

銃声が闇を引き裂く。

倒れたのは、監視役の男だった。

向こうから男が走りより、弾が切れるまで、監視役の男に向けて撃つ。

サヤのヒモだった。

サヤの様子を見に来て監視役の男を見つけ、功を狙って撃ったのだ。

アツは、手近のブロックを片手に持って、サヤのヒモに殴りかかる。

サヤを痛めつけた恨みと、自分の子供を殺された怒りからだった。

男は、ブロックの一撃で昏倒する。

それを見定め、アツはサヤを乗せ、大阪へ走った。

監視役の男が殺された事で、アツの組は一気呵成に名古屋に攻め込んだ。

一週間近く警察が右往左往し、街中を銃弾が飛び交い、車に仕掛けられた爆弾が破裂した。すべて、アツ達が仕掛けたトラップのおかげだった。

抗争は、アツ達の組の圧倒的有利で手打ちとなった。

アツは、サヤを乗せて一足早く大阪に帰り着いていたが、勝利の美酒のおかげで、アツの敵前逃亡は黙殺された。

「しかしな、そんなんどうでも良かった。サヤの体は、ボロボロにされとった。」

覚醒剤を打たれ、無理矢理働かされていたのが歴然としていた。

弱りきっている所に、堕胎手術を受けさせられていた。

「普通、こんな状態では、手術は受けさせませんよ。」

と、担ぎ込んだ先の医者が、検査の結果を見て言った。

「絶対に、サヤを助けてやってください。御願いします。」

医者は、難しい顔をする。

「いろいろ難しいんですよ。元々体は弱い方でしょ。血管が随分とか細い。それに、麻酔に敏感な体質のようで、そこに手術を受けさせられて。おまけに肝炎も併発されているし。ともかく、療養生活を続けていただきましょう。」

「サヤ。」

と、アツは言った。

「絶対に幸せにしたるからな。」

 

 

「私、イタリアに行くかも知れない。」

亜佐子がポツリと言った。

いつものように楽しく語らって別れる寸前。

「観光旅行で?」

「いえ、仕事。と言うか、勉強。お店が行かせてくれるかも。」

「そりゃええ事や。」

「二年か三年。」

「長いな。」

「お店のオーナーと。」

「え?」

彼女の会社は同族会社で、創業者一族が経営権を持っていた。

元々一店舗しかなかった時のオーナーは社長だったが、新しく開いた店舗の実質のオーナーには副社長、つまり社長の息子がなった。

副社長は、亜佐子と同い年で真面目で優秀な男であると、亜佐子からよく聞かされていた。

彼は、亜佐子の店長としての腕を信じ、全面的に店の運営を任せてくれていた。

つい一年前、溺愛していた妻を事故で亡くし、当初、再婚する意志は無かったが、父親や周りの薦めがあって、亜佐子にプロポーズした。

その条件が、二年か三年、イタリアでの勉強だった。

イタリアで新しい感覚を取り入れ、仕入れルートを開拓し、人脈を作り上げ、帰国した後にさらに店舗を拡大する。

彼は、そう亜佐子に夢と抱負を語った。

「前向きな素晴らしい人よ。」

「いい話や。」

私は、自分の複雑な心境を隠して、彼女にそう言って別れた。

不覚にも電車の中で涙が溢れる。

心に大きな穴が開いた、その瞬間だ。

埋めようの無い穴。

しかし、私に何が出来る。いつまでも、彼女のような魅力的な女性が一人でいて良い訳が無い。もっと、幸せになるべきだ。それは、わかるが、彼女を幸せにするのは自分でありたかった。自分の置かれた状況もわきまえず、ずっとそう思っていた。彼女が人生の目的だったと言ってもいい。その目的を失おうとしている。その事について、自分は何も出来ないのだ。そう言う自分の不甲斐無さに死にたい気持ちで帰宅する。

それから、仕事にも彫刻にも手がつかない。

心に開いた穴は、私から全ての意欲を奪い取ってしまった。

「行かないでくれ。私が君の事を幸せにする。」

そう言いたい気持ちを抑えて、彼女と会う。

「元気ないわ。大丈夫?」

心配してくれる言葉にも応える術が無い。

「決意はしたの?」

「まだ、迷ってる。」

いつものように会話が続かない。

愛していると言えない自分が情けない。

ある日。

「行く事に決めました。イタリア。今から彼に、そう告げに行きます。」

彼女からのメールだった。

全てが終わった事を知る。

 

 

「全てが終わってもた。サヤが死んだ瞬間にな。わいの中で、崩れて行く物の多い事。涙すらも出んかった。」

療養生活でも、弱っていく彼女の命の灯火に力を与える事は出来なかった。

アツに見守られながら、アツの手の中でサヤは息耐えた。

「目の前が真っ暗になった。」

アツは病院からサヤを抱いて、サヤとの生活のために用意していたマンションに連れ帰った。

「それからな、何日か、サヤの死体を見て過ごした。」

それからアツがした事は、私を驚愕させる。

「どうせ、サヤは身寄りが無いねん。行方不明になっても誰も探さん。ほんでな、手下に命じて、大きな冷凍室探させた。」

アツの組が借金で雁字搦めにしている冷凍業者の倉庫があった。

「わいはな、サヤの死体を銀紙で包んで、ビニールで巻いて、その冷凍庫の奥に保存した。」

五年間。

「何度も会いに行った。何度もサヤと語らった。もう、サヤには誰にも手出しさせへん。」

永遠に、サヤをそこに置いておくつもりだった。

「世の中うまい事行かへんわ。組が左前になってきよってん。」

一時は勢力を誇っていた組も、跡目の分裂や、新しい市場の開拓で、組の中自体がばらばらになっていった。組から独立しているつもりのアツ達も、その動きに影響を受けないわけには行かない。

アツ達グループ員にも変化が起こり始めた。

「皆、ばらばらになって行くのがわかった。一人、二人と、袂を別って行った。」

もう支えきれないとアツは確信した。いつまでも自分がリーダーの地位にはいられないだろう。分裂した組の中から誰かがグループを掻き回しに来る。アツの存在価値が無くなるのは、その時だろう。存在価値を失くしたリーダーに明日は無い。勿論、サヤの遺体も今のままでいられるはずが無い。

「わいは、サヤを倉庫から出した。ほんでな、解体したんや。」

「なんやて?」

アツはニヤリと笑って、

「そないびっくりせんでもええがな。細かく分断した。」

「何のために?」

「食うためや。」

私は言葉を失くす。

「な、わいは、サヤを火葬にしとうない。いつまでもサヤと一緒にいたい。ついにサヤを幸せにしたれんかった。ほんならせめて、わいが死ぬ時に一緒に埋めてもらいたい。食うたら、サヤはわいの体の中で、わいと一緒に生きられるやろ。」

「本気で考えたんか?」

「冗談で、そんな事できるかえ。わいは今、サヤと一緒や。」

角刈りの男が顔をそむけている。

「サヤは、こん中におるんや。」

そう言って、自分の体をかき抱く。

「先生やって、同じ事をしたやろ。わいは、サヤを体の中に入れた。先生は、女の魂を彫刻の中に閉じ込めたやろ。どこが違うねん。」

 

 

亜佐子は、副社長との再婚とイタリア行きを決意した。

しかし、不運が彼女を見舞う。

彼女の運転する車に信号無視のトラックが追突した。

病院で目覚めた彼女は、自分が下半身不随になった事を知らされる。

不幸中の幸いで、彼女を事故に合わせたのは個人トラックではなく、大手運送会社のトラックだった。

その会社の取り計らいで、彼女は充分な診療とリハビリを受ける事ができた。

彼女が結婚するはずだった副社長も礼を尽くし、彼女をスイートルームに移し、専属のリハビリ要員を雇った。社長を従えて何度も病室を訪れ、回復の暁には店長として復帰をしてくれるのを待っていると伝えた。そのために店内を全てバリアフリーに改装するからと。  

しかし、彼の愛はそれまでだった。彼が亜佐子を尚愛していたとしても、会社経営に関わる同族達がそれを許さなかったし、それに抗する程の熱血漢でもなかった。

「これで良かったのかも知れない。」

と、亜佐子は言った。

「私も、本当に彼を愛していたかどうか、自信が無いのよ。目の前の一番大きな幸せにぶら下りたかっただけ。」

私には返す言葉が無い。

彼女は、強くなっていた。いつまでもメソメソしてはいなかった。

新任の店長を何度も呼び、新しい企画の打ち合わせを病室でするようになった。

その企画が尽く当たり、彼女は店から顧問と言う役職をもらい、療養生活をしながら多額の給料が支払われるようになる。

女性週刊誌からの取材も受ける。

「これ見てよ。入院してるから余計な出費が無いでしょ、保険が支払われるし、会社から給料もらえるし、安いけど週刊誌のエッセイも書いてるから、貯金通帳の残高が見る間に増えていくのよ。」

彼女が見せてくれた通帳残高は一千万を超えていた。

「退院したらイタリア旅行にでも行こう。あなた、車椅子押してくれるんなら連れて行ってあげようか。」

私は私で自分にタイムリミットを設定し、一心に彫刻に打ち込んだ。

彼女が退院するまでに、何でもいい、売れる作品を作りたい。

彼女が退院する時には、彼女を愛する価値のある何者かでありたい。

ある賞に出品した作品が佳作を取った。

市内にいくつかショールームを持つギャラリーから取り扱いのオファーが来たのは、その後だった。サラリーマン生活を捨てるほどではなかったが、両立できそうだった。

新聞社は、私の事を彫刻家と紹介した。

知らない人は、私を先生と呼んだ。だからどうだと言うわけではないが、少なくとも彼女に惨めな思いをさせない自信だけは手に入れた。

胸を張って「幸せにする」と言うには、まだまだだったが、ゴールへの道筋は開かれた。

亜佐子と病室でシャンパンを開けた翌日、家内の前に手をついて、離婚を申し出た。

納得してくれないのは、わかっていた。

しかし、最も欲しかったのは、家内の理解だった。

それから二ヶ月の間、針の筵のような我が家での生活だった。

子供達は口もきいてくれない。それは当たり前だった。

前から夫婦仲が悪いのはわかっていただろうが、それと離婚とは彼らにとっても話が違う。

子供達に、どちらかを選ぶと言う苦痛の選択を強いている事に激しく後悔し、胃が痛んだ。

が、私の気持ちは既に彼女の元にある。

「わかったわ。慰謝料の話なんかをしないといけないけど、とりあえず、離婚に同意します。」

二ヶ月目に家内が、しぶしぶではあったが納得してくれた。

私は、その足で亜佐子に報告に行く。

「駄目。」

と、彼女は言った。

「気持ちはありがたいけど、他の人の犠牲の上に、私は幸せを築けない。」

「誰が君の世話をするねん?」

「家政婦でも雇うわよ。」

「病気になった時は?」

「そんな事心配してたら、何もできない。」

「何にしても、手助けがいるだろ。」

「同情で一緒になんかなって欲しくない。それにね、あなたと私は、何の関係も無いでしょ。肉体関係も無い。ねぇ、私ね、あの人とは、副社長とは、何度か寝たわよ。」

挑むような目で私を見た。

心がうずく。

予想はしていた事だが、本人の口から言われると、ぐさりとナイフを突き立てられたようなショックがある。

彼女は私から視線を外し、

「だから、もう帰って。」

「わかった。今日は帰るけど、離婚するのは自分のためでもある。再婚相手ではなく、同居人として、もう一度、私の事を考えてくれるか?」

そう言って、病室を後にする。

何をやってるんだと言う敗北感が全身を襲った。

 

それから何日か後、彼女から電話があった。

「ごめんなさい。いつも勝手な時にばかり呼び出して。病院の先生がご親族の方に一緒に聞いてもらいたいっておっしゃるんだけど、両親はもう他界して、身寄りと呼べる人がいないのよ。じゃぁ、もっとも親しい方にって。あなたの顔しか思い浮かばないの。」

日時を決めて、病院に出向く。

私と亜佐子は、診療室に通された。レントゲン写真が何枚かかけられている前に、院長らしき小太りの白衣がどっかりと腰をおろしている。

「ま、どうぞおかけください。」

白衣は、鷹揚に立ち上がると、レントゲン写真を眺め、

「ちょっと、お話がございましてね、ご足労いただきました。」

彼女はキョトンとしている。

「亜佐子さんの怪我の回復は順調に進んでますね。当初足の機能の回復は不可能だと思われたんですが、こちらの予想以上にリハビリの効果が出てきてます。亜佐子さんの強い精神力が影響しているんでしょうね。杖を使って歩けるようになるかも知れませんね。頑張ってくださいよ。」

それから、こほんと空咳をして、

「ところで、本題は、その事ではないんです。このレントゲン写真ね。」

と、写真を指し示す。

「たまたま子宮が映ってるんですが、ここんとこに腫瘍があるんです。結構大きい。良性か悪性かは、もう少し検査しないと分かりません。明日から、こちらの検査も行いますので、その了解だけを取らせていただきたかったんですよ。」

「それって、癌って事ですか?」

「悪性とは、まだ限っていませんが、その可能性もあると言う事ですね。」

「手術も。」

「これも検査の結果次第ですが、これくらいの大きさだと、どちらにしろ切り取った方がいいでしょうね。」

それから程なくして、外科から内科に彼女の病棟が変えられた。

幾度かの検査の結果、悪性腫瘍である事がわかった。

その事は、彼女にも告げられた。最初の告知の時に、どんな結果であれ、きちんと教えて欲しいと彼女が強く希望したからだ。

だから、医者は彼女にも告げた。肺にも転移していると。

「愛してる。君を愛してる。君と一緒にいたい。どうしても一緒にいたい。君を看病させて欲しい。」

私は年甲斐も無く泣きながら、彼女の手にすがった。

このまま彼女を失いたくなかった。

「ねぇ、あそこ。」

彼女は、病室の窓から見える古ぼけたマンションを指差した。

「あそこの最上階のルーフバルコニーのある、あの部屋を借りたいの。買ってもいいわ。」

マンションは賃貸だった。

最上階は、高すぎて借り手がつかないとの事だった。

私は、手付金を支払って、その部屋を押さえた。

「借りる手続きをしたよ。」

「ありがとう。明日から、あそこに住んでくださる?そして、毎日、バルコニーのところ、あそこで食事を取って欲しいの。私に見えるように。」

「その前に、これ。」

私は、彼女に婚姻届を差し出した。

扶養家族の病気療養のために、会社に長期休暇を申し入れていた。人事部長は同期の男で、こちらの事情を理解してくれた。

それが受理されるためには、彼女との結婚が必要だった。

婚姻届の上には、結婚指輪を載せていた。

「あなたが、嵌めて。」

私は、もたもたと彼女の指に結婚指輪を通す。

彼女に双眼鏡を渡した。

バルコニーには、雨の日でも外で食事が出来るように、蛇腹式の屋根を取り付けた。

彼女から見えるところには、プランターに花をいっぱい植えた。

バルコニーに面したリビングを、彼女が退院するまでの間、アトリエとして使う事にした。

天気のいい日は、外で仕事した。

ハンズフリーのマイクを買ってきて、互いのパソコンをインターネットで繋ぎ、四六時中、彼女と話しながら食事をしたり、仕事をした。

「ありがとう。でも、ごめんね。」

彼女は何度も言う。

「あなたの愛に、結局応える事ができなかった。」

「愛とは、決して求めないし、後悔もしない事だよ。」

古臭い台詞を持ち出して、彼女を慰めた。

その後、私は数々の賞を受賞するようになった。

作品も高値で買い手がついた。

それに反比例して、彼女の病状は悪くなる。

何度か入退院を繰り返し、何度か手術も受けた。

彼女の体力は日に日に低下していく。

私には、彼女を励ますことしか出来なかった。

彼女が痛みで苦しみ、のたうつ時も。

私は、励まし続けた。

腫瘍は、彼女から子宮を奪い、肺を奪い、脳に巣食った。

彼女は、痛みに耐え切れず、殆ど一日、麻酔で寝たきりの生活となる。

床擦れしないように寝返りをうたせてやるのが、私の唯一出来る事となった。

もう、ハンズフリーマイクで喋る事も出来なくなった。

それでも、彼女との約束通り、ベランダで食事し、仕事をした。

彼女の目覚める時間は、だいたい一定していた。夜の十時から五分間。

それが、彼女の生活のすべてだった。

ほとんど朦朧とした意識の中で、

「ごめんなさい。」

と、呟き続けた。

「亜佐子。」

と、私は、彼女の手を握り締め、思いの全てを込めて彼女の名前を呼び続けた。

彼女の前では、それしか、できなかった。

私は、彫刻に思いの全てをぶつけた。

その一つが、観音菩薩像だった。

亜佐子の面影をそこに彫りこんだ。

それが完成して数日後、亜佐子は息を引き取った。

危篤の報を受け駆けつける。

医者は、もう何も知覚する事は出来ないはずと言ったが、私が近づくと微かに手を上げて私を求めた。

その手を握り締め、

「もういいよ、亜佐子。よく今まで頑張ったね。」

彼女の目じりにうっすらと涙が滲んだ。

それが最後だった。

覚悟は出来ていた。

そのためか、涙すら出てこない。

心に出来上がった空洞を乾いた風が吹き過ぎるだけ。

出来れば火葬なんかにしたくない。

氷漬けにでもして毎日会っていたい。

そんな事を考えながら納棺し、火葬場へと運び、できるだけ大きな骨壷を選んで骨となった亜佐子の全てを収めた。

骨のいくつかは、お守り袋に入れた。常に一緒に居られるようにだ。

息子が、参列してくれていた。知らぬ間に背丈が私を超えていた。

最初のうちは、私と目も合わさなかったが、全てが終わった後、近づいて来て、

「おやじ、元気出せよ。」

私は、彼にしがみ付いて泣いた。

 

 

「なぁ、先生。これで、譲ってくれる気になったか?」

アツがこちらに顔を寄せて聞く。

「そやから、あれは。」

「まぁ、ええわ。先生なりに思い入れのある作品なんやろ。欲しなったら、いつでも盗りに行くがな。」

それから、深々とソファーに体を預けて、

「ほんでもなぁ、こいつらが、いつまでわいの言う事聞いてくれるかわからんし。」

「兄貴。」

「ええねん、ゴン。わいは知っとる。わい無き後のリーダーやて、組の誰かから言われてんのやろ。かまへん。力は永遠や無いねん。ゴン、お前も、それをよう理解しとけよ。」

葉巻に火をつける。

「それよか、先生。かわりの頼みがあるねん。」

そう言うと、懐から一本の細く白い木を取り出す。

「これに彫刻したって欲しいねん。サヤを。この写真でな。」

よく見ると、その白い物は木ではなかった。

「これは。」

「そうや、肋骨の一本や。サヤの肉体の中で、髪の毛とこれが唯一残ったもんや。髪の毛は、さすがにどうしても食えんかった。白磁の小壷に入れて持ち歩いとる。それと、これや。骨も粉にして飲んだ。ほんでも、これだけは置いといた。彼女であった物の確かな証を残しときたかってんや。」

私は、胸のお守り袋に手をやる。そこには、亜佐子だった物がある。

「これを観音菩薩にしたってくれへんか。」

「ちょっと失礼。」

手に取ると異様に軽い。骨の内側は骨粗しょう症とまではいかないが、かなり目が粗い。普通に健康に生活していれば、もっと骨髄が詰まっているはずだ。サヤという女性の生前の苦労が偲ばれる。

「ここから観音菩薩像を掘り出すのは、ちょっときついな。材質が細いし、柔らかすぎて、折れてしまう。」

「そこを何とかなれへんか?」

「レリーフにしようか。」

「何やそれ?」

「ここんとこに、小さな観音様を浮き彫りにしよう。」

「できるか?」

「何とか、ね。」

「何ぼや?」

「金なんかいらんわ。」

「そういうわけにはいかへん。おい、ゴン。」

言われてゴンがアタッシュケースを持ってくる。

札束がぎっしりと並べられているのが見えた。

「わいのなけなしの金やねん。五百万ある。これ、受け取ってくれ。」

「そやから、金はいらんて。」

「わかった、百万でええわ、受け取ってくれ。」

「飲み代だけでええよ。」

結局、十万だけもらい、また目隠しされ自宅の近くに連れ戻される。

ベランダに出ると、おもむろに仕事を始めた。

亜佐子が入院していた病院の見えるベランダで。

「亜佐子、ただいま。今から、仕事や。晩飯は遅くなる。夜食にいっぱい飲もうか。今日は、臨時収入が入ったよ。」

そう言いながら、サヤと言う女の面影を細く白い骨に刻んでいく。

ディテールに気を使い、彼女の生前の苦しみを、菩薩の手の反り返りに刻み込んだ。

その苦しみを、背後からの光が薄めていく。

サヤと言う女の顔に安らかな笑みがはじめて浮かぶ瞬間を彫り出したかった。

 

次の日、アツが一人でアトリエを訪ねてくる。

「よくここがわかったなぁ。」

「言うてるやろ。こそ泥仲間では、ちょっとは売れた顔や。今時、個人情報も泥棒ネタになるねん。ところで、できたか?」

そう言って葉巻を出しかけたが、灰皿が無いのに気がついて胸ポケットにしまう。

素焼きの皿を灰皿代わりに渡してやるが、

「いや、ええわ。」

と断り、

「それよか、先生。あの話、信じたか?」

「あの話?」

「サヤの死体を食った話。」

「嘘なんか?」

「ああでも言わなな。」

サヤを冷凍庫に入れる時、アツはその時の全財産を宝石に変えて、サヤの遺体とともに包んだ。

「サヤを宝石でいっぱいにしてやりたかったねん。あいつ、喜んだやろな。」

それを手下の何人かは知っていた。

アツの力が強いうちは安全だったが、グループ内に不穏な空気が漂い始めると、サヤの宝石を狙う奴らが出てきた。

「あれはサヤにやったもんや。誰にも渡したない。ほんでもな、あのままにしとったら、誰かが狙いに行きよる。宝石とって行くだけやったらええけど、邪魔になったサヤの体を海の底に沈めたりしよるやろ。サヤをそんな目に合わせとうなかってん。ほんでな、考えた。サヤを食てもた事にして、傷心癒すために海外旅行や。実は、違う。海外旅行にはサヤも連れて行った。アラスカや。氷の国や。大きな冷凍庫や。」

アツは、サヤの遺体とともにアラスカの巨大な氷河に向かう。

「ヘリコプターをチャーターしたり、えらい借金重ねてもた。」

それでも、サヤのためなら安いものだと思った。

氷河の中程に建てられた猟師小屋を借りて、一週間こもった。

「氷河の撮影やと言うて借りたけど、変な日本人やと思たやろな。でもな、そこやったら寒いんで、サヤの遺体が腐る事も無いやろ。小屋の中は暖房してないんで、氷柱だらけやった。そんな小屋で一週間、わいはサヤと二人きりで過ごした。朝から晩まで、サヤの顔だけを見つめてな。そのうちに心が澄んできて、感覚が敏感になった。サヤと色々な話をした。ほんまや。感覚が鋭うなるとな、死人とでも話できるねん。お互いの思い出話や、サヤの苦労話なんかな。いっぱいした。そのうちにな、本当にその体を自分の中に取り込みとうなったのは事実や。」

アツは、サヤであったものの証が欲しくなる。

「で、髪の毛と、その肋骨を一本だけもろうた。肋骨を取るために、左の胸を少しだけ開けさしてもろうたが、サヤの遺体は、血も出ず、綺麗なもんやった。」

ヘリコプターには、一週間後に迎えに来るようにと言ってあった。

その日が来た。

昨日のブリザードが嘘のように晴れ渡っていた。

朝焼けの中で、

「サヤ、これでほんまにさよならや。」

アツは、サヤに接吻する。

「わいは、もう一ぺん、サヤの体の周りに宝石をちりばめて、それをアルミ箔で何重にも包んでな、丈夫なテント用の布地でそれを丁寧に包み込んで、登山用のロープを巻いた。」

その包みをソリに乗せて、あらかじめ調べておいた一番深いクレバスまで運ぶ。

「サヤ、今度会うのは何百年後やろ。わいは何に生まれ変わっとるやろ。何になっとっても必ず会いにくるでぇ。この氷河の先でサヤの事待っといたる。それまで、我慢せぇや。サヤ、絶対に会えるからな。サヤ。」

もう一度、包みの上からサヤに接吻する。

アツの頬を涙が伝う。

サヤだったものが、クレバスの底へと滑り落ちていく音がこだまする。

やがて音が消え、辺りを静寂が訪れる。微かな風の音だけがする。

いきなり、魂を握りつぶされるような孤独がアツの心に去来した。

「わいは、声上げて泣いた。あんなに泣いたんは、初めてやな。」

 

 

観音菩薩像は、結局、二日がかりで彫り、表面を綺麗に磨き上げ、より清清しく見せた。

三日目の朝、約束通りにゴンが受け取りに来る。

「アツによろしく。」

ゴンは、振り返りもせずに去って行った。

暴力団同士の内輪揉めがあり、高野篤志という古株の男が撃ち殺されたと新聞の三面に記事が載ったのは、それから一週間ほど後だった。

それが、アツなのかどうかは、知りようも無い。

アツの手に、サヤの観音菩薩像は、きちんと渡っただろうか。

それをかき抱きながら、彼はこと切れたのだろうか。

そんな事を考えながら、私は今日も

「亜佐子。」

と呼びかけ、仕事に取り掛かる。

「亜佐子、今日は、君が好きだった子犬をモチーフにするよ。」

(終わり)