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控室に入ると香ばしい匂いがプーンとしたので、後から付いて来た明美ちゃんが「またやってる」とつぶやいた。週刊誌やなんかが散乱した四畳半の部屋の隅っこで、タンクトップにホットパンツ姿の晴美ちゃんは、あぐらをかいてトウモロコシに齧り付いていた。

晴美ちゃんは、店の常連さんに限りトウモロコシ・サービスと言うのをやって上々の評判をとり、がっぽり稼いでいたくらいにトウモロコシが好きで、休憩時間は大抵トウモロコシを齧っていた。トウモロコシを温めるために電子レンジを店に買わせたのも晴美ちゃんで、おかげで、ホットドッグやお弁当なんかを温められるようになって、重宝していた。

「お疲れ。」

晴美ちゃんは控室に入って来たあたし達をチラッと見てそう言うと、また一心にトウモロコシに齧り付く。

「はでに温めたんやねぇ。」

山盛りのトウモロコシを見て明美ちゃんが驚いた。皿の上にホクホクと湯気をあげたのが十本ばかり積んであって、毛の取れ残ったのが山吹色のツブツブの谷間になまめかしく貼り付いて、ついさっきのしつこい中年の客のを思いだして、あたしはえずきそうになった。

「ごめん。この後、常連さんが続くんだ。みんな、トオモロコシがお望みなんだよ。かなり匂ってる。本当に、ごめん。」

晴美ちゃんは、控室からお客の待合い室に続く狭い廊下に、既に漏れ始めているトウモロコシの匂いを、実は全然気にしてないくせに、お愛想だけの口調で言う。多分、「電子レンジをお店に認めさせたのは、あたしだ」みたいな自負が晴美ちゃんにあったと思う。明美ちゃんは、そこにちょっとムッときたみたいだった。夏が近づいて、晴美ちゃんも明美ちゃんもいらいらしていた。夏は嫌な季節だ。あたし達の暗い思い出は、みんな夏につながっている。

「また、トウモロコシ・サービスかいな。好きやなぁ。飽きもせんと。それだけ毎日やったら立派やで。この匂いの中で。」

確かに、梅雨時期、小さな換気扇と小窓しかない控室で、その匂いは強烈だった。でもトウモロコシの匂いがなくても、口腔内殺菌剤や、付け過ぎた安物の香水や良く落とした積もりでもどうしても纒わり付いてくる男の匂いで、この控室はごった返していた。結局、ここは人生の吹きだまりの一つに違いなく、そこにトウモロコシの匂いくらいあったって、なかったって、何も変わるわけではない。でも、疲れたり落ち込んだりした時は、常時とは違う何かに八つ当りしたくなる気持ちは良くわかる。

「あたしはね、あんたみたいに、すごい魅力持ってるわけじゃないからさ、こんな泥臭い事でもやらなくちゃあ、客が来ないんだよね。それでも、お客もお店も、この涙ぐましい努力、認めてくれてるんだよ、一応は。だからさ、この匂いが嫌ってんなら、お店に掛け合って余分に換気扇付けさせたらどう、あんたの実力で。」

明美ちゃんは、痛いところをつかれた。最近確かに彼女の売上が落ちていて、今日もマスターにはっぱをかけられていた。指名制の割合の高いこの店では、真面目な努力も無ければお客はすぐに離れていき、即数字に響く。換気扇どころの話じゃない。明美ちゃんは疲れちゃってるんだろう、最近、色んなことに。だから、仕事に気が入らないんだろうと思う。こういうことって良くある。ふっきればまた、売上は伸びるんだけど。

「欲しかったら食べてくれてもいいよ。余分に温めたから。お腹空いてんだろ。我慢してたら、売上伸びないぜ。マスターにまた、何だかんだと嫌味言われるよォ。」

さらに、晴美ちゃんが追い撃ちをかける。明美ちゃんの腰がちょっと動いた。

「あたし、もらうわ。」

明美ちゃんが晴美ちゃんに飛び掛かろうとする寸前で、あたしは、わざと彼女の前に手を延ばしてトウモロコシを一つ取った。

明美ちゃんは喧嘩早い。ついこの間も別の娘と派手な取っ組みあいをして、待合い室にまでなだれ込んだ。お客は喜んだけど、店の品位を汚したと言うことで、マスターから三週間の出勤停止を言い渡された。

あたし達に三週間の出勤停止はきつい。よく稼ぐ娘だったら、そう晴美ちゃんだったら三週間で七十万はかたい。おまけに出勤停止の間、何もすることがないので、飲み屋だのパチンコだのホストクラブだのに二十万近いお金を注ぎ込んでしまう。足して九十万の損失だ。

残念ながら、あたし達は、自由にしていいと言われたら、お金を使うことにしか頭が働かない。子供の頃、お金でさんざん苦労してるんで、お金に対する執着と、憎しみが、人一倍強いせいだろうか、貯金もせずに、洋服だの化粧品だの旅行だの男に貢ぐだのして、結構高給取りの割りにすぐに財布を空にしてしまう。

一度贅沢が身に付いてしまうと、まぁ、お金への恨み辛みを贅沢と言うのならばだけど、お金がいくらでも欲しくなるから、何度足を洗おうとしても、すぐにこの手の仕事を選択してしまう。そんな、どうしようもない人間の集まりだ。

それに、明美ちゃんにはマムシと言う情夫がついていて、しょっちゅうお金をせびりに来る。無いなんて答えたら、どんな目にあわされるか。

「ようやるわ。」

気勢をそがれた明美ちゃんはそう言い捨てると、エアーシャルダンを数回蒔いた後、寝転んで、その辺に散乱している週刊誌の一つを適当に取って、読み始めた。すごい勢いでページを捲っていたので、たぶん絵と写真とタイトルだけを見てるのだろう。エアーシャルダンの柑橘系の匂いとトウモロコシの匂いが混じって、男のあれよりも凄まじい匂いになって控室の中を漂ったけど、晴美ちゃんも、あたしも、明美ちゃんも、一向に気にする風もないのは、三人三様でもっと凄まじい物を見てきたからだ。

トウモロコシを取る時、ホットパンツの間から、晴美ちゃんの茶色に染めた陰毛が目に入った。それがまた、トウモロコシの毛と重なって、あたしはトウモロコシに齧り付きながら、何だか、晴美ちゃんの股間にむしゃぶりついているような気になる。

 

そう。

トウモロコシの甘い汁が晴美ちゃんの体臭で、晴美ちゃんにむしゃぶりつきながら、ふと目を開けると好き勝手に、あっちこっちに野放図に生えた晴美ちゃんの陰毛が、まるですすきみたいに見えて、それが何時の間にか目の前一杯に広がって、晴美ちゃんの体がぐんぐん大きくなって大地になって、その向こう側に懐かしい昭和新山が聳えて、あたしの隣には三年前バイクの事故で死んだ弟も寝転んであたしと同じようなことをしている。弟は、あたしを見て、「ねえさん、もうすぐだよ。」と、微笑んで言う。「何がもうすぐなの。」と、あたしが聞いても、微笑んでいるだけだ。「ほら。」と、指差す方を見ると、昭和新山がみるみる真っ赤に染まり、山肌がパックリ割れていく。そして、割れ目からどす黒い体液がどくどくと流れ始める。あ、あそこにはあの日のあたしがいる。あの日のあたしが、黒い体液を流しながら、身をよじって泣いている。あたしは怖くなって弟の方に手を延ばすけど、すぐそばにいるくせにどんなに手を延ばしても届かない。弟は、あたしを見て微笑んでいるだけ。生きてる時には、いつも怒ってて、めったにそんな顔見せてくれなかったくせに。泣こうとするけど涙が出ない。泣くこともできなくなってしまった自分を発見する。「戻らなくっちゃ。」いつしか、そんな思いが頭の中をぐるぐる駆け巡って、頭蓋骨を中から圧迫して、ズキンズキンと方々が痛み始める。「戻らなくっちゃ。」何処へ わからない。何処へ戻ったらいいんだろう。

 

「どうしたの。」

晴美ちゃんの声で我に返った。その乾いた視線があたしを捕える。

「なんでもないよ。」

額に脂汗が滲んでいる。

「ねぇさん、疲れてるんだ。仕事のし過ぎじゃない。」

しれっとした口調で言う。

晴美ちゃんの言葉には感情というものが感じられない。感情を押さえていると言う感じじゃなくて、感情が殺されてしまっていると言う感じだ。余程つらい過去があったに違いない。あたしの弟もそうだったから、あたしにはわかる。晴美ちゃんと話していると、時々弟と話しているような気になる。弟の代わりに抱きしめたくなる時がある。

「ちょっと考え事してただけだよ。心配してもらわなくても、あたしは、あんたほどハードに仕事しないよ。」

「トオモロコシがいいんだよ。疲れた時には。」

トウモロコシをトオモロコシと、言葉の前半の真ん中辺りで、脳天に大きな穴が開いて、何もかもが吹き出してしまったみたいにとぼけて発音するのが晴美ちゃんの常だった。

「トオモロコシは栄養満点なんだ。何故だかわかる。

あたしの答えを待たずに続ける。

「トオモロコシは、どんなに痩せた土地にでもできるんだ。その土地の栄養を自分一人で最後の一滴まで吸い上げちゃうんだってさ。他の植物には分けてやらずに、独り占めしちゃうんだよ。最後にはその土地の活力まで吸い上げてしまうんだ。その土地は完全に死んでいるのに、トオモロコシだけがいきいきしているんで、端から見ると随分活気のある場所に見えるんだけど、実は全然だめになってしまってて、翌年にはトオモロコシさえも出来ない土地になってしまっていることだってあるんだってさ。トオモロコシって強欲でどうしようもない奴なんだよね。でも、そんな奴の方がエネルギーは一杯持ってると思わないかい。しかも、大人しい羊みたいな奴のより、そんな奴の方が、美味しいんだよ、多分。その美味しい処をこうして齧り取ってやるんだ。強欲に集めた奴のエネルギーをね、こうやって、ほら。」

あたしは、晴美ちゃんの話を聞きながら、昔、あたしの体を弄んだあげくに、村の噂になったからと、あたしと弟を雪の積もった原野に追い出した、あの本家のじじいの顔をトウモロコシに重ねていた。トウモロコシに歯を立てると、それから半年後のあの夏の日のじじいの断末魔が見えた。

 

控室のドアが開く。

顔を覗かせたのはシンちゃんだった。

「晴美さん、お客だよ。ご隠居さん。」

茶髪ににきびづらのシンちゃんが、無愛想に言った。それを聞いて、晴美ちゃんは、控室の片隅の洗面台に立って行って、歯を磨き始めた。

ご隠居さんと言うのは、晴美ちゃんの常連さんに、あたし達が付けた仇名で、本当は三十過ぎの細身の、というか、痩せこけた男で、駅前の地下道の段ボールの家に住んでいて、廃品回収のアルバイトをして小金を貯め、月に一度、銭湯に行って身ぎれいにして、晴美ちゃんの所に通って来る。

「さて、行くか。」

と、気合いを入れて部屋を出ていく。

晴美ちゃんの本名をあたしは、知らない。いつか、晴美ちゃんが店に出した履歴書を見たことがあるけど、氏名の欄には「晴美」とだけ書かれてあった。勿論本名じゃないと思う。ちなみに、その履歴書には住所と名前しか書かれてなく、学歴も趣味の欄もみんな空白だった。この店は、同業の中ではレベルの高い方なので、しかるべきスジの紹介がなければ、雇ってもらえない。でも、しかるべきスジの紹介さえあれば、この程度の履歴書でも通用する。

「トウモロコシの出動やね。」

と、明美ちゃん。

明美ちゃんは、カッとなるのも早いけど、元に戻るのもアッと言う間だ。それで損している部分ってかなりあると思う。

晴美ちゃんは、「そんじゃまァ。」と言う顔で、そそくさと歯を磨き終えると、トウモロコシ山盛りの皿を持って控室から薄暗い廊下へと出ていった。シンちゃんは、晴美ちゃんの足元を懐中電灯で照らしてやりながら、後ろ手にドアを閉めた。ドアを閉める時に小さい声で、「もう一つ換気扇を付けなきゃならねぇな」とつぶやくのを、あたしと明美ちゃんは聞き逃さず、二人で顔を見合わせて、クスッと笑った。

「今日は、御隠居さん、来るの早いやんけ。」

と明美ちゃんが言うので、壁に掛かった、ただ丸いだけで愛想のない業務用掛け時計を見ると、まだ午後三時だ。今日は早番で、近くのレディース・カプセル・ホテルから午前四時半に出勤して、五時前からお客を迎えて、間になんだかんだと四時間くらいは休憩したけど、それでも六時間も働いている。今日はショートが多かったので、もう十人の客を取った。

 

あたし達の職場は、ファッション・マッサージとか、ファッション・ヘルスとか言われている。ファッションと名が付いても、アパレルじゃなくて、風俗なのが、悲しい所だ。人材募集の職種にはコンパニオンとあるけど、別に、きらびやかな装いで、お客の目を惹き付ける訳では無くて、二畳に一回り足りない小部屋で、真っ裸でお客にサービスする。

ショートと言うのは、三十分一本勝負七千円で、ひたすらお客の股間をくわえ、しごき、三十分以内に一発、発射すればそれでおしまい。発射ってのは、つまり、射精の事だ。三十分タイマーをセットしておくので、タイマーが鳴れば、出なくてもやっぱりおしまいと言うシステムだ。三十分タイマーと言っても、お客の追い出し時間も見るので、実質二十分くらいで鳴るようにセットする。最近は不景気なので、このショート・コースのお客が多い。ショートだと、お客一人辺り三千円の見入りにしかならない。それでも結構熱心にサービスするのは、ショートでやってくる一元のお客に馴染みになってもらって、せめて次回はレギュラー・コース、あわよくばロング・コースの延長で遊んでいって欲しいからだけど、学生さんや子持ちのサラリーマンなんかだと、馴染みになってもやっぱりショート・コースだ。ショートとレギュラーだと体の疲れ方から、時間当たりの見入りまで、全然違う。

「今日は、後三時間だよ。もう一人くらいロングの客が欲しいね。だったら追い込みも楽なんだけどね。」

「最近は、しけたお客が多いやん。しごいても、しごいても、見入りも少ないわ。あほらしなってくる。」

「そう言えば、晴美ちゃんじゃないけど、あんた、このごろ何か悩んでないかい。シンちゃんが言ってたよ、明美ちゃんは、最近お客からのクレームが多いって。」

そりゃお客を選べる立場にない事は充分わかっているけど、あたし達だって人の子だ。ほぼ毎日、朝から晩まで、男のものを舐め、くわえ、しごき、搾り出しているんだから、相手によって多少の差を付けたくなる。男前だったり、金回りがいいと、くわえた時の舌の動かし方にも熱が入る。逆だと、お愛想程度にくわえておいて、後はひたすら手でしごく。

この業界に入り立ての頃は、男のあれが気持ち悪くて一応マスターのを使った実地研修はあったものの、ただただ、単調に激しく手のピストン運動を繰り返していて、お客を怒らせてしまったこともあったけど、今では、お客の反応を見ながらリズミカルに強弱を付けてしごくので、あたしに気に入られなかったお客でも、そうそう腹を立てる事はない。うまくフィーリングが合えば、ねちっこくくわえられるよりも快感度は高いと思う。

それでも、疲れていたり、イライラしていたり、落ち込んでいたりして、気が散漫になっていると、お客に対する気遣いが無くなり、タイマーが鳴るのを待つだけのピストン運動をしていることがある。そんな時は、どんなに好き物のお客でも、いいわけがない。終わった後、憮然とした顔で店を出ていく。多分、後悔と自分の欲望に対する薄ら寒さを感じながら、カップルや酔っ払いに溢れた繁華街の中を歩いて帰るのだろう。一人の部屋へ。あるいは、妻子待つ我家へ。

大抵のお客は、後ろめたさがあるので、そんな時でも文句は言わない。極くたまに、おつむの弱い強がりのチンピラや、こんなつまらない店で自分の威厳を示そうとする御粗末な中年サラリーマンがいる。始末に悪いのは、こんな連中で、シンちゃん達アルバイトの男の子をつかまえて、常連のお客達が静かに順番を待っている前でワァワァ騒ぎ立てる。マスターを出せなんて言う。シンちゃんもこの店に来たばかりの頃は、正直にマスターに伝えていたが、最近は、「私がマスターです」なんて言って、うまくあしらってくれる。マスターに伝えたりすると、マスターは店の評判落とすのが嫌さに、料金をそっくりバックして、お客に帰ってもらう。勿論、バックしたお金は、あたし達から罰金として取り上げる。あんまり頻繁だと、出勤停止やチョーカイメンショクを申し付ける。マスターは結構顔が広いので、チョーカイメンショクをやられると、この界隈の他の店では雇ってくれなくなる。

「あんた、この前も出勤停止くらってるんだから。今度はへたすりゃチョーカイメンショクだよ。」

「そんなの恐ない。他の町行って、また職探すわ。ソープにでも行くわ。」

「ソープに行き直せる年じゃないだろ。」

同種の業界で、やってることは殆ど同じなんだけど、お隣りさん同志の移動は難しいものがある。日本舞踊とバレエとの関係みたいに、そこにはそこなりのテクニックとプライドがあって、おいそれと人事移動ってのができない。だからといって、あたし達と、ソープの女の子達との間に何か違いでもあるのかって言うと、多分何もない。この業界に一番最初に足突っ込む時に、何処に突っ込んだかって、それだけの話だろう。

 

「ここは、場末の一歩手前。足元の薄氷の下は、転落地獄だよ。」

あたしが、この店に入ったばかりの頃、暇さえあれば難しい本を読んでいた姐さんがいた。女子大出だということで、こんな業界に足踏み入れるにはそれなりにわけがあったんだろう、小難しい事ばかり言うので、皆から嫌われていたけど、親切な姐さんで、あたしは好きだった。その姐さんが、生真面目だけが取柄のサラリーマンに入れあげて、相手の妻子から男を取り上げたまではいいけど、生真面目だけが取柄のサラリーマンは、姐さんと暮らして変貌し、やくざとも付き合い始め、ヤクに溺れ、最後には姐さんに変な病気を伝染すだけ伝染して、自分は他の女と遁ずらした。姐さんは、そのころには、どんな店でも使い物にならなくなってしまっていて、日雇いの集まる界隈に落ちぶれていき、その日の飯代程度で体を売って暮らしていたけど、行き倒れて施設に収容され、半年後に息を引き取った。

息引き取る前に一度だけ見舞に行った。知的で、ふくよかだった姐さんの顔は見る影もなく、薄ら汚れて卑屈に見えた。その時、姐さんの言った言葉が、今の言葉だった。「覚えておくといいよ。」と、姐さんは言った。「今、あんたがいる所はね、場末の一歩手前。足元の薄氷の下は、転落地獄だよ。」この時、醜く、しわびた皮膚の中から目だけが、しらじらと青白く光って見えた。

 

ふと明美ちゃんを見ると、明美ちゃんは膝を立てた間におでこを挟み込んで、黙りこくっている。この業界に来る女の子は、皆強い。一々泣いてたんでは、やっていけないからだけど、涙こそ流れないけど、思わず知らず、呻き声のような泣き声を洩らしていることは、よくある。声も出さず、表情も変えないけど、心の中では確かに泣いている事だってある。

あたしは、そっと明美ちゃんの肩に手を置いた。心臓がひや汗を掻いただけと、誰が言いだしたか知らないけれど、涙はこぼれないけど、確かに泣いている時の事を、あたし達の仲間内では、そう言う。心臓がひや汗を掻いた時は、ただ誰かの体温が欲しくなる。これは、女も男も一緒だと思う。そんな時、一夜限りのレズ関係になって、お互いを慰め合う連中もいるけど、今の明美ちゃんとだったら、そんな関係になってもいいと思った。

そこへ、控室のドアを開けて、シンちゃんが顔を覗かせた。あたしと明美ちゃんを見て、ちょっと迷ったような、おかしな顔をしたけど、すぐにあたしの方に目を向けて、「ねぇさん、ちょっとお願いします。」

シンちゃんは一番古株のあたしには、こんな言い方をする。あたしは、明美ちゃんの肩をポンと叩くと、洗面台で歯を磨き、足元を懐中電灯で照らしてくれるシンちゃんの後に付いて、蛍光燈に濃い紫のセロファンを巻いて薄暗くした狭い廊下をコンパートメントに向かう。コンパートメントと言うのは、中卒のくせにやたら英語を使いたがるマスターが、あたし達がお客にサービスする二畳ほどの狭い空間を、そう呼ばせている。

途中、シンちゃんがふと足を止めて、

「明美ちゃん、ねぇさんに何か言ってましたか。」

「あたしに、何を。」

「最近の事とか、何か悩みだとか。」

「いいえ、特に何も。何か心配事でもあるのかい。」

「いえ、まぁ、心配事って程でもないんですけど。」

「何かあったの。」

「いや、いいですよ、もう。本当に何も言ってませんよね。」

「何も。あ、シンちゃん、.....まさか、あんた.....明美ちゃんと。」

「まさか......。」

薄暗いし、シンちゃんが懐中電灯をあたしのほうに向けているので、顔の表情は読み取れない。でも、確かにシンちゃんの体は、あたしの言葉に大きく反応した。シンちゃんが、もし、明美ちゃんと出来てたとしたら問題だ。明美ちゃんにはマムシと言うしつこくて凶暴な情夫がいる。もし二人の交際がマムシにバレたら、シンちゃんも明美ちゃんも無事ではいられないだろう。

待合い室からの灯が、廊下と仕切る為に掛けられたカーテンの隙間から洩れて、シンちゃんの背中に被さり、シンちゃんの影を余計に濃くしていた。これが午後三時過ぎの室内かと思うと、やりきれなくなる。

再び歩き始めたシンちゃんは、あるコンパートメントの前で、もう一度足を止めた。

「ねぇさん、申し訳ないんですが、このお客、本当は晴美ちゃんの常連さんなんです。晴美ちゃん、ご隠居さんにダブル・ロングでつかまっちまってて、後一時間くらいは出てこれないんです。で、何か都合があってそんなに待てないってことで。じゃあ、変わりの人をって事で了解してもらったんです。それで.......。」

「わかってるよ。ワン・ポイント・リリーフだろ。まかせてよ。」

「ありがとうございます。」

そう言うと、おもむろに背を向けて、厚ベニで作ったコンパートメントの戸を半分だけ開いた。そして、今までとは打って変わった愛想のいい声で、

「お待たせしました。冬生さんです。」

「どうもお待たせしました。冬生です。」

あたしも、キーをちょっと高めにして、愛想のいい声を出す。最近、身に付いてきた癖だ。若々しく見せようという老婆心がチラホラと顔を出し、「まったく嫌になってくるぜ」と、心の中で、正反対の声でつぶやく。

 

お客に裸になるように促すと、あたしもいそいそと準備を始める。準備と言っても、化粧板の壁にぶらさがった鏡に向かって、ティッシュだの、ローションだの、イソジンだのを並べるだけだ。そうして、お客が裸になるまでの間をもたせる。

鏡越しにお客を伺うと、まだ二十歳過ぎの、ちょっと道を踏み外した感じの男の子だった。短く刈り込んだ頭を栗色に染め、右耳にピアスをしている。こちらから話し掛けないと、何時までたっても口を開かないタイプの子だ、多分。

「トウモロコシ・サービスじゃなくてごめんなさいね。」

トウモロコシ・サービスと言うのは、晴美ちゃんが考え出したサービスだ。お客のをくわえる前にトウモロコシを一齧り、二齧り、齧っておいて、ある程度口の中でこなしたところで、くわえこむ。トウモロコシのザラザラの粒が程良く当たって、早いお客だと三分持たないんだそうだ。終わった後は、トウモロコシと一緒に、お客の出したのを飲み込んでやり、「おいしい」と一言いってやれば、寂しいお客なんかは、感激して涙まで流しかねないんだそうだ。今、晴美ちゃんが相手しているご隠居さんなんか、ダブル・ロングってことだから、三回、いや四回くらい絞り取られているのかもしれない。「男なんて、因果だぜ。わざわざ、お金を出して絞り取られて。目の下に隈作って、フラフラになって帰っていくんだ」だから、絞り取ったものは、せめて無駄にならないように飲み込んでやりたい。ただ、そうは言っても、まるで排泄物みたいなのを飲み込むなんて、たまったもんじゃない。だから、好物のトウモロコシを使ったんだそうだ。晴美ちゃんが偉いのは、「風邪を引いて、鼻が詰まっているときくらい勘弁して欲しいよね。」といいながら、それを目当てに常連が来ると、点鼻薬片手に嫌な顔一つせずに出ていく。それに、ショート・コースの客にも請われれば、同じ様にサービスをする。

鏡越しに、うつ向いた男の子の口が小さく「いいえ。いいんです」と、つぶやくのが見えた。どこかで見た顔だなと思ったけど、だいたいこの年代の男の子は、皆同じ様な顔をしているので、たいして気には止めなかった。

 

男の子は、すっぱだかになると、性器を両手で隠してヌボーッとつっ立った。股間の所で組み合わせた筋張った手首の間から、早くも膨張したのが見えていて、そこを指でつついてやりたくなる衝動をかろうじて抑え、シャワールームに誘導する。

男の子の手を取り、先に立って暗い廊下を歩く。

あれはいつの頃だっただろう。と、ふと思い出す。真っ暗な廊下を弟の手を引いて歩いていた。あたしも弟も幼なかった。弟は、手を引かれながら寝ぼけ眼で、それでも大きな声を出すと本家のじじいが起きてきて、どやしつけられるので、小さな声で、「ねえちゃん、怖いよう」と、泣いた。あたしも怖かったけど、弟が寝小便しようものなら、あたしも弟も、その日一日何も食べさせてもらえなくなるので、毎晩そうして弟を起こしては、便所に連れていった。便所から戻ってくると、声が洩れないように布団にくるまって、二人して泣いて、あたしは、まだ膨らみかけもしていないオッパイを弟に含ませてやって、弟は「かぁちゃん、かぁちゃん」と泣きながら、やがて寝息を立て始め、あたしのオッパイは弟の涙とよだれと鼻水とで、毎晩グシャグシャだった。

チラッと、後ろを振り返り、暗がりを通して男の子の顔の輪郭を伺いながら、この子が弟だったらいいのにと思うと、胸がキュンとなって、乳首がとんがった。

そう、あたしは、つらい過去のどこかで、いつしか近親相姦の種を植えつけられたみたいだ。それは、弟も同じだったようだ。二人で本家から逃げ出して来た頃は、三畳一間の部屋で、布団も一組しかなく、二人はいつも抱き合って寝ていた。多分、そうすると落ち着くのだろう、弟は寝る時、必ずあたしの胸を弄び、時には幼い頃そうしたように、一心に吸い付いた。あたしが始めてお客を取った日もそうだったし、弟がチンピラ仲間では結構いい顔になり女の子を何人も泣かせ貢がせるようになっても、やはりそうだった。あたしは、胸元に弟の頭を抱き寄せながら、声が洩れないように歯を食いしばって耐えた。弟は弟で股間を勃起させながら、それ以上踏み込まないように自分を抑えていたようだ。

弟の死後、真面目にだったかどうかは別として、一応あたしを愛してくれ、あたしを幸福にしてくれそうな男が現われたとき、あたしは、その男の手では何も感じることができなくて、弟の存在の大きさを別の意味で知った。その男の後、何人かを遍歴したけど、やはり、何も感じなかった。

あれは、そう、一番最近に付き合った男だった、山の上に車を止めてデートしていたんだけど、一向に何の反応もしないあたしに愛想を尽かせて、あたしを山の上にほっぽりだしたまま、走り去ってしまった。あたりは真暗闇で、シーンと静まり返っていて、そのことには別に恐怖も感じなかったけど、雲が晴れて満天の星が輝き、頭の上がスコーンと抜けたように広がり、その広がりのあまりの大きさに体中の細胞がザワザワと叫びをあげ始め、そして「あたしはここにいる、ここにいる」と誰かに猛烈に知ってもらいたくなった時、そして知ってもらいたい相手が、もうこの世の何処にもいないんだと確信してしまった時、あたしはどうしようもない自分の孤独を知った。その孤独は、あたしが抱え込むには大きすぎて、涙も声も出ず、そのまま狂ってしまいそうだった。

東の空に太陽が顔を出した時、あたしは始めて声を出して泣いた。そう、物心ついてから始めてだ。母さんと弟の名前を呼びながら、このまま衰弱死するに違いないと思える程に泣いたっけ。でも、心の片隅のどこかで、「これにも、そのうちに慣れっこになるんだろうな」って、諦めの気持ちで考えていた。

 

「どうぞ。手を放してね。バンザイしててちょうだい。」

あたしは、男の子をシャワーボックスに立たせて、湯栓をひねり、下半身の隅々まで丁寧に洗ってやる。大抵の客は、この時、あたしの体をベタベタと触って、鬱陶しいのだけど、その子は、あたしの言った通りバンザイをしたままで、じっとあたしのすることを見ている。あたしは、「いい子ね。」と言って、軽くキスをしてやった。

厚ベニで仕切ったコンパートメントに戻って、仰向けに寝かせ、男の子の股間にうずくまると、イソジンを二、三滴性器にたらして、男の子の反応を見た。変な病気に掛かっていると、痛がるのだそうだけど、あたしは今までこの薬で誰かが痛がっているのを見たことがない。ただ消毒するだけの、気休めのような気がする。それに、これではエイズは見分けられない。

エイズと言えば、毎日、エイズ記事が新聞紙面を独占していた頃は、エイズ対策を印象付けるのと、あたし達自身が怖いのとで、必ずコンドームを使っていたけど、エイズに慣れっこになり始めると、誰からともなく使わなくなった。お客の評判が極めて悪かったのと、刺激が半減するので、お客一人当たりに要する時間が倍近くなり、効率が悪かったからだ。不思議なもので、コンドームを使わなくなると、お客の数も増え始め、今では、エイズ騒動以前のお客の数と同じか、むしろ多い位だ。喉元過ぎると何とやらで、今では、このイソジン消毒でエイズも防げると考えている女の子まで現われる始末だ。ただ、そう言えば、皆が怖がってコンドームを使ってた中で晴美ちゃんだけが、エイズが怖くて仕事なんか出来ないよと、コンドーム無しのサービスで大量の常連客を確保していた。

さて、その男の子は、イソジンを垂らすと、アッと声をあげて股間をおさえた。

「どうしたの。いたいの ?

あたしは、男の子の方を見て、訪ねた。

「いや。痛いんじゃなくて。ごめん、もっとよく顔を見してくれませんか。」

「顔。あたしの顔。」

「はい。」

しげしげと人の顔をのぞき込んだ後、いきなり、

「あの....、もしかして......。」

と、何か言いたそうにして、その言葉を飲み込んだ。

「何よ、言いたい事があったら、はっきり言ってよ。」

「あの、...ねえさんですよね。」

「あなたの。 あたしが。」

「いや、そうじゃなくて、俊二さんの。」

どうやら弟の知り合いらしい。何処かで見た顔だと思ったのも、何度か会ったことがあるからなんだろう。でも、弟の交友関係は広かったので、余程しょっちゅう会ってた子でないと、いちいち顔まで覚えていられない。

「はい、佐野って言います。あの、族やってた時に、色々世話になって。二度程、昼飯食わせてもらいに行きました。」

「あたし達のアパートに?

「はい。だから、ねえさんにも世話になりました。」

「あっ、そうなの。その節は...。何のおかまいも...。」

返す言葉が咄嗟に出なかったので、それらしいのを適当に見繕って、つなごうとしたけど、どうにもとんちんかんだ。佐野と言う男の子も、こんな所で、しかもこんな風に会ってしまい、何を言おうか迷っている様子で、しばらくあたしの顔をまじまじと見た後で、

「いえ、....こちらこそ。」

あたしの手の中で、男の子の性器がみるみる萎えていった。完全に萎えてしまうと、それは、酢漬け寸前のなまこのようで、まるでみすぼらしい。そのみすぼらしさを目にして、男達は夢から醒めていくんだろう。それまでは狭いコンパートメントの中で、暴君のように荒々しく振る舞っていた男達も、自分の萎えたのを目にして、サラリーマンであったり、彼女がいなかったり、失業していたりと言う自分の現実に戻っていく。自信に満ち溢れていた顔が、よそよそしい白けた顔になる。勃起している時の自分と、萎えてしまった時の自分との釣り合いを、どうやって保つのだろう。どちらも自分にとっては現実だと、割り切ってしまうのだろうか。

男の子は、萎えた自分の股間に気がつくと、慌てて起き上がって正座し、子供が悪戯をしていて、親に見つかった時にするみたいな顔をして、その部分を手で覆い隠した。あたしも、一瞬は裸の体を何かで隠そうかとも思ったけど、悪いことをしているわけじゃなし、こういう所に来て裸と裸の触れ合いをしなくてどうするなんて、おかしな理屈を考えたり、それに、少しは自分の体に自信があったし、あたしまでが恥ずかしそうにすると男の子が余計に気にするじゃないと思って、少し斜に構えて正座した。

「どうしたの、佐野君。」

「トシと呼んでください。俊二さんにもトシって呼んでもらってましたから。」

「じゃあ、トシくん。」

「トシって、呼び捨てでいいです。」

あたしは、むしょうにおかしくなって笑いながら、

「どうしたんだい、トシ。」

と問いかけると、その男の子は顔をあげて神経質な表情であたしを見た。首を心持ち傾けて何か考えていたけど、

「あの、......おれ、帰ります。」

やがて考えるのを止めたのか、ちょっとかすれた声で、それだけ言うと、おもむろに紺のブランド物のブリーフをはき始めた。

「ちょっと待ってよ、トシ。」

あたしは、その紺のブリーフをもぎ取った。ここで、帰られたらあたしの面目は、まる潰れになってしまう。晴美ちゃんから預かっている大切な常連さんだ。

「すいません。返してください。」

「だめよ。どうして帰るのよ。」

「だって.....。」

「トシ、あなたここに何しに来たわけ ?

「何って....。」

「目的があって来たんでしょ。」

「そりゃ、そうだけども。」

「男の子なら、ちゃんと目的を果たして帰りなさい、トシ。」

「目的と言っても、.....そう大したあれじゃあ....。」

「何のために付いてるの、それ。」

「いや、....これは、.........その........。」

なんだか、晴美ちゃんの常連に対する面目だけでその男の子を引き止めているんじゃ無い気がしてきた。

「もう、じれったいわね。やって欲しくて来たんでしょ ?

「ええ、....まぁ。」

「じゃあ、やってあげる。」

「でも...。」

「寝なさい。ここに。」

「でも、だめですよ。」

「あたしの顔を潰す気 ?

「そう言うわけじゃないですけど、だめですよ、絶対に。」

「あたしじゃ、不満なわけ ?

「いや、そうじゃなくて、.....あの、おれは、俊二さんを尊敬してました。兄貴みたいに良く面倒みてくれたし。おれ、兄貴いないんで、あの、一人っ子なんで、あんな兄貴が欲しいって、思ってましたし、心の中では、本当の兄貴なんだって、そう思ってました............。」

そこまで言うと、急に黙ってしまった。見ると、目に涙を一杯に浮かべている。あたしも、その言葉を聞いて、つい湿っぽくなる。

「そんなふうに、俊ちゃんのことを思ってくれてたのね。」

言葉を探していたんだろう、その子はしばらくして鼻をクスンと鳴らすと、

「だから、.....つまり、兄貴のねえさんって事は、おれにとっても、ねえさんなんですよね。」

弟がどんな風に、その子に接していたのかは、あたしにはわからないけど、兄貴分としていろいろ面倒を見てあげていたのは間違いないらしい。二度ほど遊びに来たと言ってたけど、あたしには、はっきりとした記憶がないので、多分、多くの弟分の一人で、取り立てて目だった子ではなかっただろう。

「で、.....ねえさんみたいな人に、そんな失礼な事、お願いできないですよ。」

「あら、あたしは一向に構わないわよ。仕事なんだから。」

「そちらは構わなくても、おれの方が構うんですよ。」

「そりゃそうよね。」

「そりゃそうですよ。ねえさんとは、できっこないんですから。」

あたしは「ねえさん」と言われて、くすぐったさを感じた。思わず乳首がまた、ツンととんがった。

「わかった。今日の所は、帰してあげる。あんたが、払ったお金も返してもらえるようにかけあってあげるわ。」

「いや、いいんです。お金なんか惜しくないですから。それよりも、.....。」

「何よ。」

「ねえさんと会えたほうが嬉しくて......。」

「そう。嬉しい事言うじゃないの。」

「いや本当です。俊二さんにも会えたような気がして。」

と、また鼻をすする。余程、弟の事が好きだったのだろうか。あたしは、その男の子をそのままでは帰せない気がした。考えてみれば、ここしばらく誰とも弟の話をしていない。できるだけ忘れようとしてきたんだけれど、久しぶりに思い出話に浸りたくなった。

「あんた、この後用事か何かあるの。」

「え。」

「暇 ?

「ええ、まあ。」

「じゃあ、食事でも奢ってあげようか。」

「本当ですか ?

「うん、後一時間ほどで上がりだから。」

「あ、じゃあ、おれ、待ってます。」

そう言うと、その子は、無邪気な顔で笑った。それは、弟が物心ついてから一度も見せたことの無い笑顔だった。それだけで、「ああ、この子は恵まれた人生を歩んで来たんだな」と思う。どんな人間にでも必ず春夏秋冬があると言ったのは誰だったかしら。弟の春夏はあまりに短かかった。夏の終わりに死産スレスレで誕生したので両親が、せめて冬まで生きて欲しいと願いを込めてあたしの名前を冬生にしたらしいんだけど、そのとばっちりを弟が受けてしまったんだろうか、弟の人生の大半が冬だったなと思うと、また涙が出そうになる。

「お店を出てすぐ左手に『海猫』って喫茶店があるから、そこで待っててちょうだい。」「はい」と返事をして、「あの...」と、言いにくそうにする。「ああ」とうなずいて、ブリーフを返してやる。受け取ると、背を向けて服を着始めた。

予定より十五分以上も早く出てきたお客を見て、シンちゃんが、

「何かやばい事でもあったんですか。」

と、心配そうに聞いた。

「何でも無いよ。」

一瞬、疑り深そうにあたしを見たけど、無理矢理納得した顔でカウンターに戻った。

 

控室に入ると、明美ちゃんが、早々と帰り仕度を始めていて、「今日は、これにて打ち止め」と、途中で控室に来たシンちゃんに宣言した。シンちゃんは、ちょっと眉に皺寄せて考える風を見せた後、「しょうがねえな」と言う顔をして、あたしの方を向くと、次の客が待っている旨を伝える。

「さっきのお客、本当に何でもなかったんですか。」

コンパートメントへ向かう薄暗い廊下の途中で、急に立ち止まると、振り返って聞いてきた。

「何も無かったわよ。何か気になることでもあるの ?

「いえ。別に、でも。」

「まぁ、シンちゃんだから言うんだけど、さっきの子ね、死んだ弟の知り合いだったのよ。」

「えっ、じゃあ...。」

シンちゃんは髪を染めたりして見てくれは軽薄だけど、本当はすごく細かく気を使う。この時も、自分が気付かなかったばっかりにと言う顔をした。

「いいのよ。その子には食事でも奢ってあげるから。マスターには内緒ね。」

マスターは、お客との店外デートにうるさい。マスターが認知した男以外とデートしている所を見つかったりすると、根掘り葉掘り聞かれることになる。店の外では自由行動の筈なんだけど、あたし達が店の常連をつかまえて、アルバイトをするんじゃないかと疑うらしい。つまり、店外売春てやつだ。

大きな声では言えないが、上得意のお客に限り、店内売春を受け付けている。あたしも、手っ取り早くお金が稼げるので別に拒みはしない。一時間で三万五千円の売上になる。店が一万円を抜いて、残りがあたし達の取り分だ。でも、別に店の世話にならなくても自分の体で稼げるわけで、そんなことされると、店には一銭も入って来ないので、マスターが目を光らせるわけだ。店の常連とラブホテルに入るところを見つかろうものなら、マスターの手下が何人かやってきて、こっぴどい目に合わされる。マスターも気質の顔はしていても、本質的にはその筋の人なので、裏切ると怖い。二、三ヶ月は店に出られなくなってしまう。あたし達の体は、お金が絡んでいるだけに、ややこしいんだ。

「気をつけてくださいよ。」

「大丈夫よ。ちょっと食事してすぐに別れるだけなんだから。」

シンちゃんは、どうしてか寂しく笑うと、背を向けて狭い廊下を歩き始めた。やがて、コンパートメントの前に来ると、

「いいですか。本番ご指名です。」

と、囁く。

「いいわよ。」

と、あたし。さっきの男の子の顔が一瞬、頭に浮かんだけど、すぐに消えた。シンちゃんが、コンパートメントのドアを勢いよく開ける。

隣のコンパートメントから、晴美ちゃんとお客の乾いた笑い声が響いてきた。