(10)

 

刑事は、まだ何か言いたそうだったけど、あたし達は早々に会話を切り上げて、お店を出た。もう一度、晴美ちゃんの携帯を呼び出したけど、やっぱり電源が切れたままになっていた。

例の、御隠居さんなら晴美ちゃんとコンタクトが取れるかも知れないと思い、連絡先の番号を探したけれど、どこかに落としてしまったのか、メモってあった紙が見あたらない。直接、地下道に行くことにして、浮浪者の屯する商店街を駅の方角に歩く。昼間、商店街を抜けた辺りのオフィス街で働く人達は、駅に行くのに商店街は通らず、一つ南側の国道を通るので、この時間帯は浮浪者達の溜まり場になる。夜になると、彼らは、ビルの隙間に入ったりして、姿を見なくなる。商店街の商売の邪魔をしないようにと言う、暗黙の取り決めが、どうやらあるらしい。そして、全ての店がその日の営業を終え、アーケードの照明が消える頃、何処からかまたぞろ現れ出てきて、朝まで横になる。

「ねぇさん」と、トシがおかしな悲鳴を上げるので、目を凝らすと、何やら中年女五人程の固まりが、こっちを向いてやってくる。その後ろには、警察官数人と、報道関係者らしい、カメラを首からぶら下げた腕章の男が付き従っている。中年女達は手に手に幟を持ち、そこには、『街を綺麗にしよう』『海外の方々に恥ずかしくない街づくりを』等と書いてあるのが読み取れる。

中年女達が立ち止まると、カメラの男が抜け目なく前に廻ってシャッターを押す。女達が立ち止まったのは、夜にならないとオープンしない居酒屋のシャッターの所に屯する数人の浮浪者達の前だった。

「あたし達は、この街を美しくするために活動中なんです。」

と、女達の一人が浮浪者達にわざと優しい声を作っているのが見え見えの口調で言う。

「ね、海外の偉い方々がこの街を尋ねて来られるんですよ。」

「わかるでしょ、こんな地方都市に、わざわざ尋ねて来られるんですよ。」

「私達としては、精一杯努力して、いい来日の思い出を持って帰っていただこうと思うんです。」

浮浪者達は、たまたまその一群は老人達ばかりで、女達が何を言おうとしているのか殆ど理解できないみたいに、女達の冷え冷えとした口元を臆病な目でじっと見上げている。中には、息子の嫁の悪態なんかから逃げ出し、浮浪者になって、やっと自由を手に入れた人もいただろう。そんな人は、女達の冷ややかに浮かべられた作り笑いの次に来るだろうヒステリックな罵声を殆ど正確に予知していたかも知れない。

「わかります、あたし達が何を言いたいか。」

後ろに控えていた、身長は皆と同じ位なのに横幅だけずば抜けて大きい女が、バリトンの効いた声で歌い上げる。

「ええ、そりゃ勿論、別にあなた達を邪魔者扱いしようなんて事ではないですよ。」

「ちゃんと、仮設ですけれど施設を用意させていただいて、そこで二三日待機していただこうと。そうそう、この前もお伝えに参った通り、そこが気に入っていただければ、もう一年でも二年でも、そこであれしていただいていいんですよ。」

「あんなに廻りに何もない山ん中に誰が住めんだよ。」

片膝立てて聞いていた男の一人が、俯いたままポツリと言うのを、聞き漏らそう筈もなく、女達は全員一丸となって、その男にカミソリの刃のような視線を投げつける。

「廻りに何も無いのなら、市に掛け合って色々な施設を作って貰えばいいんです。」

他の女達が「そうだ、そうだ」と、援護射撃する。

「あたし達だって、何カ月も掛け合って、やっと仮設収容所を作って貰ったんですよ。」

「だからこそ、こうしてあなた方をお誘い申し上げられるんです。」

遠目で見ると、まるで老人達が集団暴行に合っているかのようだ。

「これは、社会福祉の一環なんです。」

「あなたの様な方々でも生きて行ける場所を提供しましょうと、申し上げてるんです。」

「はっきり言って、ここに居座られるのは迷惑なんです。」

「みんな嫌な思いで、あなた方を見てるんです。」

「邪魔なんです。」

老人達は、やれやれという顔で、立ち上がり、こちらに向かって歩き始めた。

「どっちへ行くんですか、お迎えの車はこっちですよ。」

誰一人、その言葉に耳を貸さないので、女の一人が警察官に耳打ちすると、彼らは警棒を抜いて、老人達を女達の指し示す方に誘導し始める。警察官達は、全員がうんざりした顔をしていた。老人達は、特に抵抗するわけでもなく、方向転換して、ぞろぞろと歩く。たまたま通りかかった人達は、遠巻きにして見ている。「何もあんな風にすることないだろう」と囁く声も聞こえる。他の浮浪者達は、女達が最初の一群に手古摺っている間にこそこそと身を隠し、既に一人もいない。女達は、警察官と報道関係の男と、浮浪者達を従えて、意気揚々と引き上げていった。

商店街の出口近くには、市が契約している清掃会社の車が何台か止まって、浮浪者達が集めていたダンボールや壊れかけの家電製品なんかを片っ端から片づけていて、駅前から商店街にかけて、浮浪者達の痕跡は、歩道橋の下の簡易住居まで、何一つ残っていなかった。いつもは、ダンボールの仮設住居の間を紙屑や埃が舞っているのに、本当に何も無い、煙草の吸いがらさえも落ちていない。浮浪者達の肩を持つ分けじゃないけれど、ここまで綺麗に片づける事はないのにと、思ってしまう。と、同時にあたしの体を嫌な予感が駆け抜ける。

「トシ、急いで。」

そう言うながら、もうあたしの体は走り出していた。駅のロータリーから二百メートルばかり放れた所に御隠居さん達の住む地下道がある。外よりも幾分暗い地下道に駆け込んだあたしは、目が慣れるのを待つまでもなく、悪い予感が的中した事を知った。女達と市の機関は、まず最初に、この地下道を標的にしたらしい。御隠居さん達のダンボールの住居の無くなった地下道は、やけにだだっ広く、幾つかの人の足音が無機質に響き、生気の溢れていた空間にはただ、向こうの入り口から吹き込んでくる乾いた風だけが通り過ぎ、あたしの髪を掻き上げて行った。御隠居さん達の姿は、もちろん何処にも見当たらなかった。

 

あしたとトシは、駅前の洋菓子屋と一緒になった喫茶店の片隅にいた。御隠居さんを探して、街のあちこちを歩いたんだけど結局見つからず、歩き疲れ途方に暮れた顔をしていた。トシなんか、分けが分からないままに一昨夜から付き合わされ、それでも文句一つ言わず、無表情に窓の外を見ていた。喫茶店の反対側の隅には、多分、学校をサボったんだろう、スカートの丈の長いのや、髪を茶色に染めたの等、女子校生が屯して、その辺りだけ煙草の煙が渦巻いていた。それを店のマスターらしき男が迷惑そうに見ていたけれど、彼女等はその男を舐めきっているんだろう、一向に意に介さず、空ろな目で外を見ていた。

「あいつら居なくなって、済々したよ。」

と、中の一人が言う。

「そうだよな、汚かったもんな。臭ぇし。」

「何処に行っちまったのかなぁ。」

「知らないけど、あんな奴等、引っ括って海にでも沈めちゃえばいいんだ。」

「沈めたじゃないか、この前。」

「ああ、あれ、面白かったよな。」

「ええ、あんたも手を出したのか。」

「冗談じゃないよ、なんであんな汚いの触るんだよ。タカシだよ。タカシがどっかから引っ張って来たんだよ、あの婆あ。」

「沈める時、まだ生きてたよな。」

「そうそう、何発かぶん殴って動かなくなったもんで、もう死んじゃったと思ってたんだけど、ドラムカンに放り込んで、コンクリート流し込んで、さぁ沈めようって時に、また息を吹き返したんだよ。」

「そうそう、しつっこい婆あだったよな。おかげで、あれから暫くあの婆あの顔が何回か夢に出て来て、眠れなかったよ。」

「あれ、案外意気地がねぇんだな。」

「だって、あたし聞いちゃったんだよ、ドラムカン転がしてる時、あの婆あが呟くのを。ナオミって。」

「ナオミ。何だい、それ。」

「知らないよ。でも、確かに言ったんだよ、ナオミ、御免ねって。」

「気持ち悪い。」

「だろ。あんな汚い婆あから、そんな名前聞くなんて思わなかったじゃないか。娘か何かの名前かな。」

トシが止めるのを振り切って、あたしは、その子達の方に行く。

「ちょっと、あんたら。」

あたしを見て、彼女等から敵意が消えた。かつて、暴力的な手段でしか生き抜いていけなかった頃の顔に、あたしが戻っていたからだろう。あの頃、世の中の物総てに対して持っていた殺意が、まだ消えてなくなっていない事を知る。

「あんたら、それ、どこでやった話しなんだい。」

「どれだよ。」

「今の、婆の話しだよ。」

「何だい、それ、知らないなぁ。」

「とぼけんじゃないよ。」

彼女等の一人がジャックナイフを出すのを見て、瞬時に手が動く。その子が、グループのリーダー格だと判断したあたしは、その子の右手のジャックナイフを叩き落とすのとほぼ同時に、鳩尾に膝蹴りを決め、苦しさにうつむきかける顔面にパンチを一発お見舞いした。やる時は容赦せず、手早く、思い切り良くと言うのが、俊二から教わった喧嘩の鉄則だった。他の女の子達は、咄嗟の事にまだ動けないでいた。リーダー格の子が床に倒れ込むのを馬乗りになり、側に転がっていたナイフを拾い上げ、前髪を持って、その首にナイフの刃を当てた。

「下手な手出しは、するんじゃないよ。」

随分古臭い啖呵だなと、我ながら笑えてくる。

「さぁ、さっきの話の続きをして頂戴。」

「お前、警察か。」

「警察がこんな事しないよ。あたしの名前もナオミなんだよ。わかるだろ、この意味が。」

と、咄嗟に嘘を付く。

「わかった、わかったよ。あたし達、悪気は無かったんだよ。ただ、友達のヤー公が婆ぁ殺すところを見てただけだよ。」

「人が殺される所をただ見てただけだって。」

「そうだよ。」

「それでよく、悪気が無かったって言えるね。」

「手は、出してねぇよ。タカシってチンピラが全部やったんだよ。タカシも誰かに金貰ってやってんだって、言ってたよ。」

「何時。」

「先月の終わりくらいだよ。」

「何処で。」

「一番南はずれの倉庫の先の埠頭だよ。」

「ドラムカンに放り込んで、コンクリート流し込んで、それから沈めたんだね、海に。」

「ああ。」

「真っ暗な海に。」

「そうだよ。」

「一度、同じ目に遭わせてやろうか。で、タカシってのは何処にいるんだい。」

その女子高生の言った番地は、マムシやオオガミ達が普段詰めている事務所の番地と同じだった。

「そこの事務所で、たいてい電話番やってるらしいよ。」

「婆ぁ殺すようにタカシってのに頼んだのもそこの事務所の誰かかい。」

「そんなこと知らないよ。何も聞いて無いよ。」

「そうかい、色々喋ってくれてどうもありがとう。トシ、警察だよ。すぐに電話して。それと、ほら、ワカミヤ刑事にもね。電話番号は、あたしの上着のポケットに入っているから。」

「やっぱり警察だったんじゃないか。」

「だから、警察じゃないって言ってるだろ。ただし、警察でも今と同じ内容を話ししないと、ただじゃ済ませないよ。タカシが雇われている組とあたしの両方から狙われると思っとくんだね。わかるだろ。奴等だって、どんなに中途半端であれ、ちょっとでも喋った奴を許しとくわけが無いんだから。一番安全なのは、全部ゲロして、警察に匿ってもらうことだよ。」

それを聞いて納得したのか、抵抗する力が弱くなる。他の女の子達も急に殊勝になって、泣き出すのもいた。

警察は、五分程でやって来た。まずは、近くの交番から丸腰のが二名。次ぎに、バイクに二人乗りしたのが二名。そして、パトカーでけたたましい音を立てて店の前に横付けし、中からバラバラと四名。これには、殺人課の刑事も乗っていた。外国の要人警備で忙しい割には、結構な数だった。

店のマスターは、以前からその連中には困らされていたのだろう、警察には協力的で、頼まれもしないのに全員にミックスジュースを出したり、あたしやトシの状況説明に一々相槌を打って、足りない所は補足したりした。

ワカミヤ刑事は、それから十分程してから女子校生達を護送するパトカーに便乗して、やって来た。
「おやおや、ご苦労さん。不良ども相手に大立ち回りだね。」

「ええ、でも、ただのスケ番じゃないんですよ。」

あたしは、事の次第をかいつまんで説明した。刑事の目が気の性か多少の怒りを含んで、ねちっこく光る。

「だから、彼女等の事、ちゃんと保護しとかないと殺人事件が倍増しますよ。」

「とにかく、まぁ、こいつらから話しを良く聞いて、場合によっちゃあ埠頭の大掃除だな。この忙しいのに。」

「上がった死体がツレさんのだったら、明美ちゃんやシンちゃんが疑われている状況が少し変わって来ますよね。」

「そうだね。そのタカシってのも調べてみよう。」

 

その後、警察署に同行し調書を取られた後、マンションに戻ったのが午後八時過ぎ。軽く食事をした後、トシとセックスした。あたしの体は、ここ二三日の間に、トシなしでは過ごせなくなっていた。あたしとトシは、上になったり下になったり、交互に征服しあった。

翌朝、ワカミヤ刑事から連絡があった。埠頭の調査を午後一番から行うとの事だった。同時に、タカシと言う男を別件で連行して、取り調べ中だと言う。

「こういう事は、手っ取り早くやらないと、チャンスをどんどん逃して行くからね。」

ワカミヤ刑事は、そう言って電話を切った。

晴美ちゃんから電話があったのは、そのすぐ後だった。

「何処に雲隠れしてたのよ。」

「御免、ねぇさん、あんまり無駄話ししてる暇ないんだ。」

「今、何処。」

「うん、ちょっとね。これ、盗聴されてっかも知れないから、言えないんだよ。」

「携帯に何度も連絡入れたのよ。」

「携帯、無くしちゃったんだよ。」

「どうしたら連絡取れるのよ。」

「今日二時に、例の線路際に来て。必ず、来て。じゃ。」

余程慌てているんだろう、要件だけを言うと、切ってしまった。あたしは、ツレさんの遺体捜索も気になったけれど、そちらはトシに任せて、晴美ちゃんの指定した場所に出向く事にした。晴美ちゃんは、『例の線路際』と、曖昧に指定したけれど、あたしには、それだけで何処の事か充分わかったし、そんな言い方をしなければならない程に切迫した晴美ちゃんの事情の方も、具体的にでは無いにしても飲み込む事が出来た。晴美ちゃんが何を恐れているのかは分からないけど、おそらく組織がらみなんだろう、とにかく危険に身を晒していて、その危険はあたしの不注意な行動一つで具体化してしまうようなトリガーを持ったものに違いない。

あたしは、細心の注意で持って電車に乗り、横断歩道を渡り、道を歩き、約束の場所に駆け付けた。何度も振り返って、誰も付けて来ていない事を確認し、乗換駅ではわざわざ一旦改札口を出て、パチンコ屋に表から入って、裏口から出るような事までした。普段なら笑ってしまうような事なんだけど、ツレさんの件もあって、結構真剣だった。

約束の場所には、晴美ちゃんはまだ来ていなかった。夏前に訪れた時とは違って、冷たい風が吹き始めていて、空が曇っている性もあって薄らざむい印象をその場所は、与えた。この前はまだ辛うじて海が残っていた辺りも、今は茶色い地面しか見る事ができず、海は、その地面の遥か先にある灰色の背の高い壁に遮られて何処にあるのかさえ分からない。昔から、ここには海なんて無かったんじゃないかと言う気さえする。立ち枯れていたとうもろこしが今は枯れ萎れて、地面の上で黒いシミを作っていた。

人影が、昔の海岸線の方から上がって来た。晴美ちゃんだった。冷たい雨が小さく、パラパラと降ってすぐに止んだ。ジーパンの上に地味なベージュのハーフコートを羽織った晴美ちゃんは、辺りを注意深く見回しながら、ゆっくりとこちらにやって来た。少年の様に細かった体がさらに痩せ細って、尖って見えた。

「晴美ちゃん。」

小さな声で呼び掛けると、相手はコクリと一つ肯いた。

「どうしちゃったのよ、電話にも出ないし、店は休みになってるし。何、それ、随分痩せちゃったじゃない。」

「御免、心配かけました。」

「どうしたのよ。何があったの。ゴロちゃんは。」

「順番に話すからちょっと待って。」

晴美ちゃんは、以前の晴美ちゃんらしくない静かな声で話始めた。

「マスターが自殺した後、あたしはマムシにショート専門で重労働させられてたのは、ねぇさん、知ってるよね。あれから後、麻薬取締法違反とかで店の手入れがあって、マムシの浅知恵で、それは全部自殺したマスターがやってたことにして、店にあったその関係の物は、あらかたツレさん、シンちゃんに明美ちゃんの三人組が持って出ちゃった事で、何とか捜査の目をごまかしたんだけどね、警察も馬鹿じゃないからいろんな手を使って調査し始めて、組にまでその手が及びそうになったんで、店を閉めちゃったんだよ。多分、ヤマネの差金だと思うんだけど。その後、それまでは、まだ、女の子達を紳士的に扱っていた組の態度が豹変してね、秘密が外に漏れるのを恐れた連中が無い頭でもって考えて、組の恐さを身を持って叩き込んどけば、おいそれとは裏切らないだろうってなもんで、全員、組が借り切ったタコ部屋みたいなワンルームマンションに放り込まれて、客を取らされて、その客が変態みたいな奴等ばかりで、逃げようとした女の子には、容赦無いリンチさ。それも酷いんだよ、乳首切り取ったり、アソコに硫酸掛けたり。それも金取って、客にやらせるのさ。それをビデオに撮っといて、それさえも金儲けのネタにするんだよ。ある日、あたし達の中で一番若かった子が、近くの喫茶店に逃げ込んで、あらいざらい喋っちゃってね、それを知った奴等は、まず店のマスターに金と脅しで口止めしといて、でも結局は、その店潰されちゃったんだけどね。女の子は行方知れずさ。その後、奴等がアンダーグラウンドに流したビデオのトリをその子が飾ってて、その子は、何人もの男にいろんな方法で犯された挙げ句、手や足を切り取られて、解剖されちゃうんだ。ビデオの最後にテロップで、これは高度な特撮技術を駆使してますって出るんだけど、ありゃ本物だよ。あたし達は、見せしめの為に、ビデオの未編集の奴を見せられたんだよ。それが、店潰してから一週間くらいの間に起こるもんで、皆で見張りの奴をぶっ殺して集団脱走さ。奴等の読みは、あたし達に地獄を見せとけばおとなしく言う事を聞くだろうって事だったんだけど、今時、そんなおとなしくないよね。このままじゃ、全員頭がどうかなっちまう、その前に自分達で解決しよう、警察にタレ込むもよし、市の福祉施設に保護を申し出るもよし、ただし一緒に脱走した仲間を売る事だけは止めようって、一昨日さ、見張りの若いの、四人いたんだけど、可哀想に全員あの世行きだよ。その後、あたしは、やりたい事があったんで、別行動取ってて、今それを済ませて来た所なんだよ。その事で、ゴロはもうすぐここに来るよ。もう来てるかも知れない。」

晴美ちゃんは、そこまで一気に、でも静かな口調で喋ると、ハーフコートのポケットから缶コーヒーを取り出してリップをはずすと一口飲んで、あたしに「飲む」と差し出す。あたしは、それを受け取って一口飲んで、晴美ちゃんに返した。砂糖の入っていない苦いタイブの奴だった。晴美ちゃんは、缶コーヒーを飲みながら煙草を一本吸った。その間、以前海だった辺りの、そのもっと向こうを無表情にじっと見つめたまま、何も喋らない。あたしも、煙草に火を付けて晴美ちゃんの次の言葉を待った。

「ゴロは、あたしを殺しに来るんだよ、ここに。」

「ゴロちゃんが、晴美ちゃんを。どうして。」

「あたしが頼んだんだよ。」

「頼んだって。でも、頼んだくらいで、そんなこと。」

「やるよ。あいつは。そんな生き方をしてきたんだから。」

「ちょっと晴美ちゃん、冗談言ってる場合なの。」

「冗談じゃないよ。あたし、アノカタを殺ったんだよ。」

「殺ったって。」

「簡単だよ。できるだけ大きな登山ナイフを胸に突き立てて、一環の終わり。見張りに立ってたのは、オオガミ一人。ビールの差し入れだって近づいて、睡眠薬入りのを飲ませて。オオガミは、あたしが脱走した事や、そもそもタコ部屋に押し込められている事さえ知らなかったからね。その事知ってたのは、マムシと奴の舎弟達と、タコ部屋売春に許可を出したヤマネくらいのもんだったんだよ。病室に入ると、アノカタは体中に細い管を通されて、意識もなくて、ただ呼吸しているだけの木偶人形で、もう一週間以上もそうだったんだよ。外国の要人が帰るまでは騒ぎを起こしてくれるなって警察から依頼があって、機械的に死ぬのを引き伸ばしていたんだよ。死んだとなると、それなりに勢力を持ってた組織の組長ってことで、各地から弔問客が来るだろうし、来る連中ってのが殆どその筋の人間なんで、どんなに質素にやったって、一騒動になっちゃうんだよね。だから、植物人間状態で、呼吸だけさせてたんだよ。で、要人が帰国してから機械を外して、死亡を確認して、葬式をやろうって事だったんだ。そんな奴を誰が殺しに来るかって、たかをくくってたんだよ、だからオオガミしか見張りに置いとか無かったんだ。ま、と言う事で、殺っちゃったって言っても、寝たきりの植物人間の息の根を止めたって程度の事なんだよ。世間的に見ると、あんまり意味が無いんだよね。」

「じゃあ、何故そんな事やったのよ。」

「ゴロに自分を取り戻してもらう最後のチャンスだって思ったんだよ。あいつに掛けられたマインドコントロールを外す最後のね。あいつは、今でもアノカタを敬愛していて、それは別にたいした問題でもないんだけど、それをうまく利用してアノカタ亡き後に、あいつに今よりも危険な事をさせようって奴がいるんだよ。それに、ゴロが今のままだったら、あたしはいつまで立っても、ゴロのために組織の言う通りに動かなきゃならないんだよね。そのうちに、あたしも変態ビデオの主人公になって、バラバラにされて海の底に沈んじゃうかも知れないんだよ。そうは、なりたくないよね。あたしやゴロだって、普通の兄弟やって暮らす権利はある筈なんだよ。あたしは、その普通の権利を取り戻したいんだよ。その為の賭けだったんだよ。分かる。あいつは、今頃、あたしを殺す為にここに向かっている筈だよ。怒りに燃えてね。あいつにとって一番大事な存在に手をかけたんだからね。あたし、手紙を書いておいたんだよ、あいつに。あたしの居場所を、それと何故こんなことをしでかしたか、今までアノカタからどんな仕打ちを受けたか、そして、逃げも隠れもしないって。で、ナイフで首を切り裂きに来るか、ライフルで遠くから狙撃するか、方法は分からないんだけど、あたしを殺そうとする瞬間に、あいつのマインドコントロールが解けるかどうかなんだよ。解けなきゃ、これ以上生きてたって仕方ないしね。」

「解けるわけないじゃないの。長い年月の間、ジャングルなんかで戦ってきて、作り上げられたものなんでしょ、ゴロちゃんのマインドコントロールって。それを晴美ちゃんだけの力で何とかしようっても無理だよ。」

「その時は、おさらばするよ、あっさりと、ゴロの手に掛かって。」

「晴美ちゃん、こんな事言うの差し出がましいんだけど、逃げて。」

「ねぇさん、あたしの長年の念願って何だか分かる。分からないよね。」

「うん。」

「二つあるんだよ。どちらも随分昔に刻みつけられたものなんだけどね。一つは、由紀枝ねぇちゃんとあたし自身の仇を取るって事なんだ。もう一つは、両親が虫の息の中で望んだ事で、兄弟仲良く互いに助け合って生きて行くって事なんだよ。これって、お互いに全然結びつきようが無いって感じなんだけどね、ある日を境に、あたしの中で見事に結びついちゃったんだ。ねぇさん、何故だか分かるかい。」

「分からない。」

「ゴロの中では、まだあたしとあいつとが実の兄弟だって実感が、どこにも無いと思うんだよ。それが、ゴロのマインドコントロールを解く最後の壁なんだと思うんだけどね。ゴロにとっては、あたしは、どうやら身内らしいって辺りで、止まっちゃってるんだよ。そりゃまぁ、仕方が無いって言えば、仕方が無いんだけどね。ねぇ、ゴロにとって、肉親てなんだろうねぇ。もしかしたら、あいつには肉親がまだ生きているって考えも寄らないことなのかも知れないよね。あいつの古い記憶の中には、父親と、母親と、自分と、弟の四人が住んでるんだよね、多分。父親と母親は、目の前で殺されちゃって、自分と弟は、何時の間にか引き離されちゃって、日本に帰ってきた時には弟は行方不明。」

「晴美ちゃんって言う妹がいるじゃないの。」

「うん。」

晴美ちゃんは、また遠くを見つめる。何をどう説明しようか迷っているって感じだった。

「ここで、由紀枝ねぇちゃんが自殺した時、あたしは、実の姉を亡くした以上に悲しかった。ゴロは、もっと、それ以上に悲しかったと思うよ。ゴロは、由紀枝ねぇちゃんと、将来を誓い合ってたと思うんだ。それって、お互いに口に出さなくても分かり合えるってのがあるじゃない。由紀枝ねぇちゃんはゴロの事好きだったし、ゴロもお互い孤児同士、一つ屋根の下で助け合って暮らしてて、由紀枝ねぇちゃん無しではこれからの事なんか考えられないみたいな所があったんだよね。あたしにとっても、由紀枝ねぇちゃんは初恋の人だったんだけどね。ねぇ、由紀枝ねぇちゃんはあたしにとって初恋の人だったんだよ。この意味分かる。ねぇ。」

あたしは、晴美ちゃんが何を言おうとしているのか、理解できなかった。

「両親が死んで孤児になっちゃったあたし達は、この町の私立の孤児院みたいな所に預けられたんだよ。保母さんと言えるかどうか,身寄りの無い婆さんが三人いてね、交代であたし達の世話をしてくれてたんだ。そこに、あたし達より先に住んで居たのが、由紀枝ねぇちゃんだったんだよ。他にも孤児は居たんだけど、年齢や体格、性格からして、由紀枝ねぇちゃんが一番姉さん格だったんだよ。その次がゴロ。ゴロは、新参者だったけど、あれで昔はなかなか面倒見が良かったんで、たちまち一番の兄さん格になって、由紀枝ねぇちゃんと一緒に他の孤児達の面倒を良く見てくれてた。施設以外の子供達からは、しょっちゅう馬鹿にされたけど、二人が懸命に守ってくれてて、それなりに幸せだったと思うよ。だから、両親が目の前で殺されちゃったショックも表面的には、忘れてしまう事ができたんだよ。ただ、その施設の出資者が問題だった。第一人者がイワタゴンゾウ、つまりアノカタだったんだよ。イワタゴンゾウが、公共施設に絡む利権を欲しがって、自分の名声を上げるために始めた慈善事業だったんだ。あたし達の両親を間違って殺したのもイワタゴンゾウ配下のチンピラだったけど、その汚名を消し去るためのスタンドプレイのために、あたし達を引き取ったらしいって事、後で分かったんだけどね。その頃は、そんな事予想もつかなかったんだよ。やがて、自分の名声が上がって、世間の目が敬意を持って自分を見、マスコミにも顔が効くようになると、イワタにとってのあたし達の存在価値も低くなって来た。別にあたし達が居なくても、世間は自分をそれなりに評価してくれると気が付いたイワタは、今まであたし達に投資したお金を何らかの形で取り戻したくなったのかな、奴はあたし達をまるで自分の所有物みたいに考えて、おもちゃにし始めた。その一番最初の犠牲者が由紀枝ねぇちゃんだった。奴は、由紀枝ねぇちゃんを手込めにしたんだよ。由紀枝ねぇちゃんは、あたし達の為にじっと我慢してイワタに抱かれてたんだろう。その事が、つまりイワタの由紀枝ねぇちゃんに対する行為がいつから始まったのかは、由紀枝ねぇちゃんしか知らない。もしかしたら、ゴロも知ってるかも知れないけどね。それが終わったのは、由紀枝ねぇちゃんの自殺の日だったんだよ。多分、耐えきれなくなったんだろう、由紀枝ねぇちゃんは、死んでいく自分の気持ちをゴロに当てて、便箋五枚に小さな字で書き記していた。ゴロは、それを何度も読み返して、二日後、その手紙を握り締めて施設を出て行って、それっきりさ。再開した時は、整形され性格改造されて、お互いに相手が誰だか判別つかない程に変わってしまっていた。ゴロは、由紀枝ねぇちゃんの仇を討ちに行ったと思うんだよね、イワタの所へ。そこで反対に返り討ちされて、それから何があったかは知らないけれど、イワタの忠実な僕になって帰ってきた。その頃のあたしは、ゴロが変貌させられた以上に、イワタの手で変貌させられていたんだよ。ゴロが未だにあたしを心底信用していないってのも仕方がないんだよね。」

「ゴロちゃんが、晴美ちゃんの事を信用していないって。」

「そうだよ、あいつは決してあたしの事信用しちゃいない。」

「どうして、あんなに仲がいいのに。」

「アノカタに言われて、そういう素振りしているだけさ。晴美を見張れってね。」

「晴美ちゃん、見張ってどうすんのよ。」

「あたしが、変なこと言ったり、しでかしたりしないように。」

「何をしでかすのよ。」

「ねぇ、あたし達が育った施設の生き残りって二人だけなんだよね、あたしとゴロの。一人減り、二人減りして、何時の間にか誰も居なくなって、建物も跡形もなく焼け落ちちゃった。皆どっかへ売り飛ばされちゃったんだろうね。あたしとゴロが残ったのは、たまたまイワタの好みに合ってたからだろうよ。ゴロは逞しかったし、あたしは可愛いかったし。施設の他の連中がどんな目に遭わされたのかは、知らない。でも、由紀枝ねぇちゃんがどんな目に遭わされたのかを知ってるし、そこから他の連中の末路を推測することはできるよね。それをイワタは、あたし達が一部始終を知っていると思ったんだろう、特にあたしの口を封じたかったらしいんだよね。だけど、あたしはイワタに取っては、金に飽かせて作った芸術品だったんだよ。イワタの生活の全てがあたしを中心に廻っていた頃もあったんだよ。だから、消してしまうこともできないし、結局、自分の息の掛かった店にあたしを置いて、ゴロに見張らせたんだよ。ゴロは、自分の弟だと知らずにあたしを見張った。そして、イワタの言うままに関係を持った。実の弟とね。そりゃ、誰でもそんな事認めたくないよね。」

「晴美ちゃん、あなた。」

「そう、種明かしをすれば、まぁ、種なんて何処にもないんだけど、あたしはゴロの弟だったんだよ、かつて。可愛い顔してたばっかりにイワタに見初められて、十二歳の時にシンガポールに連れて行かれて、性転換させられたんだよ。シンガポールのレストランで珍しい御馳走をたらふく食べさせられて、なんだか甘ったるいジュースを出されて、飲み干して暫くすると意識が朦朧として来て、次に気が付くと、あたしは女の体になってた。帰国してみると、ちゃんとあたしの墓まで建ってるんだ。男の子のあたしは死んだことになっちゃったんだよね。そして、シンガポール生まれの晴美と言う女が誕生したんだよ。顔の整形までして、どう見たって女だった。胸なんか、ご丁寧に一年に一回シリコンゴム入れ直して、少しづつ膨らませて行くんだ。それが、イワタの趣味だったんだよ。そりゃ、最初はショックだったよ。でもね、夢精を覚える前の手術だったもんで、女の体に慣れるのは早かったけどね。いやだったのは、イワタへのご奉仕さ。傷が癒えるまでの数カ月は何も手出ししなかったけど、医者の許可が出るや否やあたしを密室に閉じこめて、無理矢理だよ。十二歳の男の子にだよ、信じられるかい。奴等にとっては自分自身の快楽こそが全てで、相手が何だろうが、どう思っていようが一切お構いなしなんだって、まさに身を持って叩き込まれたんだよね。それからの一年間位は、イワタに抱かれる度に精神的にも肉体的にも嫌悪感を感じて吐き続けて、体重が二十キロ位になっちゃって、胸なんかシリコンと皮だけになっちゃって、それでもイワタは抱きに来るんだよ。三度ほど自殺未遂もしたけど、人間て強いね、三度目の自殺未遂の時にイワタに『お前の兄に必ず会わせてやるから、せめて後五年はいきていてくれ』って泣いて頼まれると、まぁいいかって気になって、じゃあ、兄貴に会えるまでは生きててやろうって考えて、そのままこうしてズルズルベッタリと生き延びちゃってるんだ。やっと会えた兄貴は、これまた別人に仕立て上げられてて、お互いに元兄弟だったって確証も無しになんとなくって所で寄り添ってたんだよね。ゴロもそうだったと思うよ。どこかのタイミングで白黒はっきりさせたいってずっと思ってた筈だよ。なんせ、最初は自分にあてがわれた女だと思ってたのが、実は男で、実の弟だったなんてね、それも記憶が中途半端に消されてるおかげで、全然実感のわかない弟なんだよ。ゴロの頭の中では、今、幾つかの問題が渦を巻いてる筈なんだよ。アノカタに手を出した者に対する怒りと、それがあたしだったという驚きと、あたしを殺すべきかどうかっていう迷いと、あたしとの関係性をどう決着つけるべきかっていうもっと根本的な迷いと。」

「ねぇ、本当にゴロちゃん、来るのかな、そんな悩み抱えたままで。」

「来るよ。必ず来る。今の息苦しいジレンマから逃れる為に。アノカタの復讐をする為に。」

「本当は、ゴロちゃんにとって、アノカタって、もうどうにでもよくなってるんじゃないの。」

「そんなことないよ。ゴロにとっての拠り所なんだよ。確かに最初は憎しみだけしか感じてなかったんじゃないかって思うんだけどね。それが、戦場へ出されて、必ず生きて帰るって言う目的になってたと思うんだよ。必ず生きて帰って復讐してやるって。だから、どんなに辛い目に合ったって、たとえ自分よりもはるかに大きい男の慰み者になったって、じっと耐えてたと思うんだよ。それが、どこで敬愛の情に擦り代わって行ったのか、憎さ余ってそうなっちゃったのか、そりゃぁゴロにだって分からないと思うんだけどね。生きて帰ってみると記憶に微かに留めておいた実の弟は女になって、自分に抱かれてたなんて冗談にもならない現実の中で、ますますそこから逃げ出す場所に成っていったのかも知れないね。そして、ますますゴロの中にアノカタは確固とした地位を確立していったんだよ。それを崩せるのは、あたしに対して殺意をもった自分自身への切羽詰まった問い掛けしかないんだよ。その、言い換えれば、ゴロの中で、ゴロ自身があたしとアノカタとを戦わせてくれる以外に方法はないんだよね。」

「でも、ゴロちゃんがそれを望んでいないんだろ。」

「自分自身の一番深い所から聞こえてくる声に耳を貸すやり方を忘れているだけだと思うんだ。」

「晴美ちゃんを殺してからでないと思い出さないかもしれないんだよ。」

「その時は、あきらめるよ。ゴロの手に係って死ねるなら本望と思わなきゃ。だって、ゴロに再開するために自殺止めて生きて来たんだからね。」

「何時に来るの。」

「約束なんかしてないよ。あたし殺しに来る奴と何で時間の約束なんかしなくちゃならないの。」

「そうか、そりゃそうだよね。」

この季節、日が暮れるのが随分早い。西の空の僅かな雲の切れ間をぬって、もう見えなくなった海の向こうに太陽が滴るように落ちていく。その光線は、弱く、はかなく、数ヶ月前の地上の全てを支配しているかのような力強さとは、えらく違う。

「子供の頃、ここから見る夕日が好きだったよ。キラキラとさざめく海面をいろんな色に変えて、堂々と沈んでいくんだ。それは、明日を確実に約束してくれる姿だった。太陽が沈みきった後に安心して家路につけた。家に帰り付くと、必ず両親が食卓に座って待っててくれた。二間しかない狭い家だったけど、そこに帰れば、あたしを必ず待っててくれる我が家という独特の空気、幸せが約束されていた。なのに、今のこの太陽を見てよ。帰るべき海を無くした太陽は、もう何もあたし達に約束できなくなっちゃって、みすぼらしいばかり。そして、ここらあたりから区切りの無い夜が始まって、泥沼の様な歓楽が帰る場所を無くしてしまった人達の絶望を巻き込んで、ダラダラと朝まで続くんだよね。そりゃ、いつまでもあるってもんじゃなかったけど、『かならず』って事を約束してくれる何かを見つける事のできたあたし達って、結構幸せだったのかも知れないよね。」

何も約束してくれない、頼りなくて何も約束しようのない太陽の調度真ん中辺りを横切るように、大型の鳥が飛ぶ。鳥と見えたのは、ゆっくりと近づくヘリコプターだった。海上の何かを探しているみたいに、低空を飛んでいた。その爆音が聞こえ始め、夕闇に、そのシルエットが徐々に大きくなって浮かび上がる。それは、頭をやや下げて、かげろうが漂っているようにも見えた。やがて、あたし達のすぐ近くを通り、そのまま通り過ぎるだろうと思われたそれは、頭を上げて地面に平行になると、高度をさらに落とし、埋め立て地の平坦な所を見つけて、そこに着陸した。激しい空気の流れが起こった。

晴美ちゃんの体が強ばる。

「ゴロだよ。」

ヘリコプターのエンジンが切られ、爆音が小さくなり、プロペラがゆっくりと止まる。中からサングラスの男が現れる。遠いのと、暗くなりつつあるのとで、誰だかは判別できない。ゴロちゃんだと言われれば、そんな気もする。その男は、しばらくこちらを伺ったまま、動こうとしない。

「迷ってるんだよ、多分。」

「晴美ちゃんをどうしようって。」

「違う。一人で待ってるって思ってたのが、二人いたから。」

「ゴロちゃん。」

と、声を掛けても、ピクリともしない。

「ゴロちゃん、どうしたのよ。」

と言いながら、あたしが一歩踏み出すのと、「危ない」と、晴美ちゃんが声をかけてくれるのと、ゴロちゃんがライフルらしきものを構えるのとが、同時に思えた。次の瞬間、ヒュッと風を切る音がして、晴美ちゃんが崩れ落ちる。破裂音は、後からやって来て、鋭く拡散して行った。

「晴美ちゃん。」

と、崩れ落ちた晴美ちゃんの体を抱く。どこからか血が出ていて、掌がベットリと濡れる。

「晴美ちゃん、しっかりして。ゴロちゃん、あんた何て事するのよ。病院よ、早く救急車呼んでよ、早く。」

殆どパニック状態で、自分でも何を言っているのか分からなかった。

「大丈夫、ねぇさん。腕をかすっただけ。今のは牽制だよ、多分。」

晴美ちゃんが、右手を押さえて立ち上がる。ゴロちゃんがまた、ライフルを構える。晴美ちゃんが、ゴロちゃんに向かって、歩き始める。今度は、ゴロちゃんも、すぐには引き金をひかなかった。

「ゴロ、小さい頃、よくここで遊んだよね。あの頃は、あんたの立ってるそこ、まだ地面なんてなくて一面の海で、線路を越えて行かなくちゃならなかったんで、地元の人しか泳いでいなくて、よく空いてて、海水浴にはもってこいの場所だったじゃない。」

風は、晴美ちゃんからゴロちゃんに向かって緩く吹いている。晴美ちゃんは、その風の中をまるで浮輪を持って泳いでいるみたいに、ゆっくりとゴロちゃんに近づいていく。時々、電車の音に声がかき消されるのを気にも止めずに、昔の思い出を語りながら、一歩一歩、ゴロちゃんの記憶の片鱗を引っぺがしていくみたいに、ゆっくりと近づく。ゴロちゃんは、まだライフルを構えたままで、体中に走った緊張感を解いていないけれど、ゴロちゃんの脳裏には、まだ男の子だった頃の晴美ちゃんとの思い出の場面がくるくると回っているのに違いない。それがどんどん膨れあがって、破裂しそうになった時、ライフルを落とし、涙をぼろぼろ流したゴロちゃんが、あたし達のほうに駆けて来るんだと思った。

でも、次の瞬間、現実の厳しさが甘いふやけた妄想を木っ端微塵にする。

晴美ちゃんが、あたしとゴロちゃんとの調度中間辺りに来た時、ゴロちゃんがライフルの引き金を引いた。破裂音の中を、晴美ちゃんの体は左回りに半回転して崩れた。あたしが、倒れた晴美ちゃんに走り寄ろうとした時、弾が風切音と共に足元を掠めた。今度は、ゴロちゃんは、こちらを真正面に捉えている。足がすくんで、一歩も歩けなくなる。

「どういう事なの。」

ゴロちゃんは何も答えずにライフルを下げると、晴美ちゃんの方に歩き始める。

「ゴロちゃん。あんた、本当にゴロちゃんなの。」

ゴロちゃんは、一瞬こちらを見たけど、後は全くあたしのことを無視して、晴美ちゃんに近づいた。晴美ちゃんは、生きているのか死んでしまったのか、地面に突っ伏したままだった。

「晴美ちゃんをどうするつもりなの。」

ゴロちゃんは晴美ちゃんの所まで来ると、サングラスを取って、もう一度あたしを見た。その顔は、確かに、いつものクールだけれど、どこかに優しさを捨て切れないゴロちゃんの顔だった。

「ねぇさん、これは、この事は、俺と晴美、いやヤスヒロとの問題なんだ。」

そう言うと、かがみ込んで晴美ちゃんの息を調べ、二言三言囁く。晴美ちゃんは、少し頭をもたげると小さく肯く。ゴロちゃんは、グッタリした晴美ちゃんの体を担ぎ上げると、「大丈夫」と、あたしに目で合図して、ヘリコプターに向かった。

ヘリコプターは舞い上がると、二三度あたしの上を旋回して、元来た方に飛び去って行った。

それが、晴美ちゃんとの最後の別れだった。