(12)

 

ヤマネ達を振り切ったものの、あたし達は、特に何処へと言う宛があるわけではなかった。

「取りあえず、僕のアパートに行きましょう。」

と、トシが言ってくれて、そこに身を隠すことにした。

「でも、夜になったら、ここも出ないと。」

トシが、不審そうな顔でこちらを見る。

「だって、あんたのバイクのナンバー、覚えられてるでしょ。すぐに足がつくわよ。明日中には、奴等やって来るわよ。」

「そうか。そうですよね。じゃあ、ここを出て行く準備をしなくちゃ。」

「準備ったって、あんた。」

比較的清潔に保たれたトシの部屋にある物と言えば、十四インチのテレビと、炊飯器と、卓袱台程度だった。あとは、安っぽいカラーボックスや水屋で、いくら愛着があっても持って出れる代物じゃあない。たった今、十四インチのカラーが、海外の要人を迎える為に、今日の午後四時から七時の間と、明日の午後九時から十一時までの間、高速道路は通行止めだと、喋っている。

「一体何を持って出るつもりなのよ。」

「いや、特に何って、あれじゃないけど、着替えもいるし。」

「まさか、大家さんに挨拶してくつもりじゃないでしょうね。」

「あれ、いけませんか。」

「あたりまえじゃない。あたし達は、追われてるのよ。逃亡者なんだから。あいつらに捕まったら最後、命は無いんだよ。」

「そうか、そうですよね。でも、何処へ逃げよう。」

「わかんない。」

あたしは、漠然と、逃げなくちゃと焦っていたけど、確かに、トシに何処へと指摘されると、何処へ逃げていいのか宛も何も無かった。

「ねぇさんの方は、いいんですか。何も持ってないけど。」

「うん、仕方ないよね。どっかで買い揃えるか。」

「お金は。」

「無い。でも銀行に行けば。」

「キャッシュカードは。」

そうだ、キャッシュカードすら持っていない。

「取りに戻ろうか。」

「それこそ、奴等の思う壷ですよ。」

「あたしの元のマンションなら大丈夫かも。あたしが元々住んでる方。」

「そっちの方が危ないですよ。お店にはそっちの住所を届けてるんでしょ。」

「そうか。あれ、でも何で、あたしが臨時に借りてる方のマンションが分かったんだろう。」

「僕達以外に知ってる人は。」

「晴美ちゃんくらい。でも、彼女、あたしの目の前でゴロちゃんに撃たれたんだよ。」

「他には。」

「あいつだ。精神病院で出会った偽刑事。あいつに教えちゃったんだ。あたし、シンちゃんの事で頭一杯だったから、多分、聞かれるままに答えちゃったんだ。どうしよう。」

「まぁ、済んだ事は仕方ないじゃないですか。それより、これからどうするかですよ。」

何処かに隠れるしか無い分けだけれど、奴等の情報網の広さは、先の明美ちゃん達の場合や、その前のマムシの情婦の場合で既に立証ずみだから、一体何処へ行けばいいのか、どう頭を捻ったって結論は出てこない。

「何処に行くにしたって、お金がいるし。」

「そうよね、お金よね。そうだ、トシ、ちょっと携帯貸してくれる。」

あたしは、トシの携帯を借りると、覚えているある番号をプッシュする。かかるかどうか殆ど宛にしていなかった番号だけど、呼出し音が鳴る。三四回の呼び出しの後、聞きなれた声が出た。例の御隠居さんの隣人の熊さんだった。

「誰だよ。どこのねぇちゃんだっけ。」

「あたしよ。忘れたの。」

「交際相手が多いもんで、顔が見えりゃ分かるんだけどね。」

「とにかく、御隠居さんに代わってよ。」

「あ、思い出した。例のファッションマッサージのねぇちゃんだろ。変な婆さん探してた。」

「そうよ、やっと思い出してくれたの。で、御隠居さんは。」

「どうも御無沙汰してます。」

御隠居さんだった。

「何処に雲隠れしてたのよ。携帯の電源も切ってたみたいだし。」

「いや、住み慣れた地下道を追い出されましてね、あわや収容所送りにされる所をどうにかこうにか逃げ出して、でも、いく先々で厄介物扱いされて、携帯の電池切れても充電する場所もないし、例の出版社の編集者に泣き付いて、まぁ、比較的安全な空き倉庫を紹介してもらって、今は、そこに隠れて、海外の要人たらが帰ってくれるのを待ってる次第なんですよ。あいつらが帰ってくれたら、街の美化運動なんてのに誰も見向きもしなくなって、あたし達も古巣に戻れると思うんですよね。そっちは、どうですか。」

「それがね」と、今の状況を手短に話して、

「で、御隠居さんの知り会いの方で、幾らか用立てしてもらえる人いないかしら。」

「いいですよ。用立てしましょう。百万もあれば当面は大丈夫でしょう。」

「百万って。そんな大金でなくていいのよ。」

「いや、大丈夫。ほら、浮浪者の手記書く話があったでしょ、あれ、結構旨く行ってて、そこそこの貯金もあるんですよ。出版社に前借りもできるし。どこで渡しましょう。そうだ、北港の倉庫まで来てもらえます。辺りに変な奴もいないし。ここなら大丈夫ですよ。」

あたしは、一時間後に訪問する事を約束して、電話を切った。

 

久し振りに見る御隠居さんは、心成しか少し太って、恰幅良くなっていた。着ている物も古着ではあったけれど、カッターシャツやスラックスや、比較的いいものを選んでいるようだった。熊さんなんか、ボロボロの臍出しルックから一変して、長袖の厚手のポロシャツにコールテンのパンツで、まるで、いきなり日本に連れて来られたカリビアンだった。

「大変でしたよ。」

と、御隠居さんが口を開く。

「なんせ、いきなりだったからな。」

「水を巻き始めるんですからね。消防車のホースで。」

「いたいのなんのって。」

「突然なの。」

「いや、まぁ、一週間くらい前に退去勧告があったんですけどね。あんたらは、違法だから、公共の場所を不法占拠してるんだから、速やかに立ち去りなさいって。行く場所の無い人は、言ってくれれば仮設住宅を用意してますからって。」

「俺達は、それを無視したわけだ。」

「そしたら、ある日の早朝、まだ寝てる所に水をぶっかけられて。あの地下道の片一方から放水して、反対側に我々を追い出すんです。そしたら、そこに、おまわりが待ち構えていて、片っ端から収容所行きのバスに載せるんですよ。」

「収容所ってのは、仮設住宅の事を俺達、そう呼んでるのよ。何せ酷い所らしい。家が貰えるってんで早々と名乗りを挙げた連中の中で、一旦は住み込んだけど、二三日で嫌気がさして、どうにかこうにか逃げ出した奴等が言うには、家なんて名ばかり。隙間風の吹きすさむトタン張り住居で、火事の心配ありって事でガスも電気も来てないんだって。一番近いバス停まで歩いて三十分だ。途中、警察の車が行く手を塞ぐように止められてて、ちゃんとした理由がないと、そこから先へは行かせてくれない。周りには何も無くて、死ぬ程退屈な所なんだそうだ。」

「私達も一度は乗せられたんですけどね。途中、バスが高速道路のサービスエリアに止まった時に何人かで逃げ出したんですよ。」

「そっから、歩いて戻って来たんだよな。」

「戻ってみると、あの地下道は見る影もなく綺麗に片づいちゃって。さすがの私達も、あんな綺麗な所にはちょっと住めないし。」

「水清くして、魚住まずってやつよ。」

「で、住める場所を探して転々として、漸くここに落ちついたってわけなんですよ。」

「仮設では、食事も支給されるんでしょ。」

「人間は、食い物だけで生きてるんじゃねぇぜ。いくら無料だからって、恵んでやるって態度で出されちゃあ、食う気もしないよな。」

「話聞いて判断しただけなんで、本当の所は、どうなのか分からないですけどね、辺鄙な所に作ったり、ガスが引いてなかったりって事から考えてみるに、あの仮設住宅は、他人に対する想像力と思いやりの欠如した人間によって設計され、運営されているしろ物だと思うんですよね。当然の事ながら、支給される食べ物も人知を越えているだろうって。」

「まぁ、是が非でも俺達をこの街から追い出そうって魂胆で作ったんだろうから、あんな物なんだろうけどね。俺達は、いや、俺達だけでなく誰が見ても、こんな所に住みたくないと言う筈なんだよね。」

「そう、私達は住むのを拒否したんです。」

「でも、この街だって、住むのを拒否したくなっちまうよな。いきなり牙むいてくるんだもんな。」

「酷いですよ。」

「私達を全然人間扱いしてくれないんですからね。戻って来てからも、警察からは追いかけられるし、夜になると覆面した若い奴等が鬼みたいな目をして棒持ってやってくるし、昼間は、おばさん達がタスキ掛けで出ていけコールするし。」

「私達が一体何したって言うんですかね。」

「まぁ、何したって、あれじゃあないんでしょうけど、少なくとも、あんた達って他の人達とは随分違うから。」

「どう違うって言うんだい。見てくれが汚いからいけないってのかい。貧乏だからいけないってのか。仕事しようとしないからいけないってのか。」

と、熊さんがいきまくのを、

「まぁまぁ、ねぇさんに怒ったって仕方ないじゃないですか。それに、ちょっとは、お金が入るようになったんだから、少しずつ身奇麗にして、いい生活しようじゃないですか。」

そう、御隠居さんがなだめる。が、熊さんの怒りは治まらない。

「おい、御隠居、間違ってもらっちゃ困るぜ。俺はな、あの生活にプライド持ってるんだ。好きでやってるんだ。確かに、前は、いい服着て、いい食べ物食いたいって思ってたけどな、実際にそんな生活してみると、こんな不自由なもの無いぜ。俺達には、道端でゴロッといきなり横になって昼寝始める自由があったんだよ。それが、こんな服着ちまったら出来ねぇじゃないか。」

「この騒ぎが収まったら、また昔の生活に戻れるよ。」

「戻れねぇよ。この街の嫌な所見ちまったら、もう元の平和な気分になんか戻れないんだよ。出てくしかねぇのかな。」

「この街の人達も、早く気付いてくれればいいんですけどね。私達のような人間が住めない場所ってのは、どこか問題があるんだって事を。自分達が、人間の多様性ってのを受け入れられなくなってしまったんだって事に。」

「奴等に、そんな高尚な事考えられっか。ところで、あんたもそんな変な奴等に追いかけられてんのかい。」

「いぇ、あたし達は。」

「ねぇさん達も大変ですね。ところで晴美さんは元気なんでしょうか。」

「御隠居さん、やっぱり知らないんだね。晴美ちゃん、死んじゃったかも知れないんだよ。」

あたしは、明美ちゃん、ツレさんの失踪や、晴美ちゃんの事を最初っから順を追って話した。

「全部、ヤマネって奴の仕業なんだろうな。それって。」

「何をたくらんでんでしょうか。」

「それが、分かりゃあ苦労はしないけど。どうせ、ロクでもない事しか考えてないんだろうな。女絡みじゃあ、今更金にはなんないから、やっぱ薬だろうな。薬。」

「所詮は金か。あっと、お金で思い出しましたよ。ちょっと、待っててください。取って来ますから。」

「御隠居さん、本当にいいの。」

「いいの、いいの。気にしない。俺達、貧乏生活には慣れてんだから。」

御隠居さんの代りに、熊さんが、恰もそのお金が自分の所有物みたいに言う。やがて、御隠居さんが、札束の入ったスーパーの白いビニール袋を持って戻って来る。

「で、ここに六十万あります。今おろせる貯金はそれだけなんですよ。もうすぐ出版社から残りの四十万を持って来ます。」

「ごめんね。そんな大金。」

「いいんですよ、私達は、一日に二千円もあればいいんです。充分生活していけますから。あなた達は、交通費にホテル代にと、百万円でも足りないくらいでしょう。」

「必ず、お返しします。何時になるか分からないけど。」

「そんなのお互いに宛にしてちゃあ、息苦しいだけですから。そうだ、今の晴美さんや明美さんの話を買った事にしましょう。いつか、それで何か話を書かせてもらいますよ。それでいいですよね。あ、それと、これからのあなた達の逃避行をいつか聞かせていただく事。これで交渉成立です。」

「で、何処へ逃げるつもりなんだい。」

「それが、全然決まってないのよ。」

「海外ってのは、やばいでしょうね。もう手がまわってると思いますよ。」

「パスポートもないし。」

「北海道ってのは、どうです。」

「北海道。」

一瞬、暗闇の中から、昭和新山がせり上がってくるのが見えた。

「北海道に私の知り会いがいるんですよ。旭川の近くだって言ってました。牧場をやってるんです。」

「ねぇさん、行こう。」

それまで黙っていたトシが口をはさんだ。

「前に、もう一度北海道に戻りたいって言ってたじゃないですか。」

昭和新山の麓で俊二が手を振っている。

「ねぇさん、そこからもう一度やり直すんだ。新しくスタートするんだ。」

トシの声に俊二の声が重なって聞こえる。

「あそこなら広くて、おいそれとは見つからないですよ。」

あの日、俊二と隠れた穴は、まだ残っているだろうか。

「俊二。」

「え。」

「俊二よ、俊二。連れて行かなきゃ。」

トシは、やっと合点のいった顔をして、

「そうか、今から取りに行きましょう。」

と立ち上がって、外に出ようとする。

「待って。明るい内は、ここに居させてもらって、夜になってからにしましょう。」

「何処まで行くんですか。」

あたしは、弟の俊二の事をかいつまんで話し、俊二の骨を預かってもらっている寺の名前を告げた。

「そりゃ、今はやばいぜ。警察が至る所にゴロゴロしてるし。」

「交通規制の解ける七時以降よね、動けるのは。」

「こうしましょう。私達が先に行ってます。で、納骨堂の鍵を壊しときますから、あなた達は後から来て、こっそり持って行ってください。」

「納骨堂の鍵、壊すのか。」

「お寺に言って、出してもらった方が良くはないかしら。」

「寺に言って、すぐに骨を出してくれると思いますか。それに、万一、寺にもヤマネ達の手が回ってたらどうします。こういうのは、コッソリやった方がいいんですよ。さ、熊さん、ケーブルカーの動いている内に行きましょう。あなた達は、麓から歩きですね。夜道、気を付けて下さい。お寺の前で会いましょう。」

「えらく急な話しだな。」

と、熊さんも慌てふためく。

「でも、御隠居さん、あんた達に、そこまでしてもらわなくても。」

「俺達、暇なんだから、別に気にしなくていいんだけどね。」

「私は、こういうのに血が沸く方なんですよ。あなた方の逃避行に少しでも参加させてもらえれば、それで満足なんですから。いいですか、これは自分の楽しみの為にやることなんですからね。」

そう言うと、御隠居さんと熊さんは、そそくさと出かけて行った。その二人の後ろ姿は、これから、秘密の場所にカブト虫取りにでも行く少年の姿にも見えて、苦笑させられた。

二人が出て行った後、暫く他のホームレスの人達に混じって待っていると、出版社の人間がお金と懐中電灯と、携帯電話を持ってやって来た。

「私が、事務所を出る寸前に御隠居さんから連絡をいただきまして、懐中電灯と携帯も持って行くようにって。」

御隠居さんの心遣いだった。

「使わせてもらっていいのかしら。」

「ええ、結構ですよ。特に、この携帯電話は御隠居さん用に、もう一つ余分に取ってた奴なんで。それに、今度の話は、あなた達をモデルにするんだって聞いてまして、取材協力金だと思えば安いもんですよ。」

「分かったわ。でも、これ、盗難届けは出しておいてもらえませんか。」

「盗難届け。これは、あなた方に差し上げたものなんですけど。」

「万一、あたし達が組織に捕まっても、盗難届けを出しておけばグルだって思われないでしょ。そっちに迷惑掛けたくないの。特に御隠居さん達には。」

「成る程、そうしましょう。」

 

出版社が帰り、日も冷え冷えと力無く落ちて行き、六時を回る頃には、倉庫の床に寒さが染み込んで行く。それが、お尻から体に入って来る。トシが体を抱いてくれる、そこだけが温かかった。

「納骨堂の鍵は開けておいたぜ。待ってるからな。」

熊さんから連絡があったのは、七時ちょっと前だった。

「そろそろ行きましょうか。」

トシが立ち上がる。

「気を付けろよ。」

少しの時間だけれど、一緒にいたホームレスの人達が心配げに見送ってくれた。外に出ると、忍びやかな晩秋の夕暮れで、溜め息の一つもついて、トシと腕を組んで歩きたい気分だったけど、今は、そんな場合じゃないと軽く首を振る。

市内の地道は何日か前からの高速道路封鎖の案内が功を奏した為か、心配した程には混雑はしていなかった。あたし達は、ヤマネやマムシ達に見つからないように、あえて裏道ばかりを選んで、高速道路の入り口に向かった。高速道路は、封鎖が解除されたばかりで、入り口に結構な数の車が並んでいたけど、あたし達のバイクは、その間をすり抜けて殆ど待つ事なしに入る事が出来た。高速道路に入ってから、ケーブルカーの乗り場まで、三十分余り。近くの草むらにバイクを隠して、ケーブルカーの軌道沿いに山頂のお寺を目差す。昼間、ケーブルカーが動いている時には使えない路で、これが山頂への一番の近道だったけど、夜道と言う事もあって、突っかかったり、踏み外したりして、化擦り傷を創りながら、たっぷり三時間かかった。

御隠居さん達は、山門の影に隠れて、待ちわびていた。

「遅いじゃねぇか。」

「もうとっくに鍵は開けときましたよ。」

と、金切り鋸を見せる。

御隠居さん達に導かれて本堂の裏手に廻ると、墓地を背景に白壁の御堂があり、入り口の鉄扉の南京錠がはずされている。扉を開けると中から線香とかびの匂いが流れ出す。懐中電灯の明りを向けると、その輪っかの中、壁際に設えられた棚の上に行儀良く並べられた無数の白い骨壷が浮かび上がった。

「随分あるんですね。」

「どれが弟さんのか分かるのか。」

「探すしかない。」

たしか、蓋の所にマジックで名前が書いてあった筈だ。

暗闇の中を懐中電灯の明りだけを頼りに、手分けして小一時間も探しただろうか、やっと見つけ出せたので、あたしは、ハンカチを広げると、壷の中の灰色のかけらの幾つかをそこに取り出した。

「壷ごと持って行かないのか。」

「荷物になるだけだから。」

それに、ここに置いておけば定期的に供養して貰えるだろう。取り出したかけらをハンカチで丁寧に包み、それをブラの間に押し込む。俊二のはにかんだ顔が目に浮かんだ。乳首がツンと立つ。

「御免、お手数かけました。」

と立ち上がりかけた所に、御隠居さんの携帯が小さく鳴ったので、あたし達は御隠居さんだけ中に残して、一足早く外に出た。

本堂の軒下の裸電球の明りが、目に鋭く飛び込んで来る。一陣の風に枯れ枝が揺すぶられ、微かな音を立てて、小さなのが一つ、あたしの右肩に落ちて来た。

「大変ですよ。」

それが、納骨堂から遅れて出て来た御隠居さんの第一声だった。

御隠居さんは、あたし達を本堂から離れた所に聳えている大きな樫の下に連れて行き、周りに誰もいないのを確認すると、

「いいですか。ピンチですよ、ピンチ。」

と前置きして話し始めた。

「もうすぐ、奴等がやって来ます。」

「奴等って。」

「奴等ですよ。ヤマネ達ですよ。」

「どうしてここが分かったの。」

「仲間の誰かが裏切りやがったんだな。」

「大臣だそうです。」

「あいつが。そうか、いやにソワソワしてやがると思ってたら。」

「熊さん、分かってたんですか、あの人が裏切りそうなの。」

「いや、今から思えばってとこ。」

「冬生さん達が出て行ってすぐに連絡しに出て行ったんだそうです。で、情報だけ取られて、お金も貰えずに道端に転がされていたんですって。ただ、山の上のお寺ってだけで、何処のお寺か忘れてしまっていたらしくて、今ヤマネ達がやっきになって探している所でしょう。」

「山の上のお寺って、そう沢山あるもんじゃない。すぐに当たりつけてやって来るぞ。」

「すぐに山を下りましょう。」

と、あたしが焦るのを、

「いや、ちょっと待ってください。まずは、私と熊さんが先に下ります。で、安全なのを確認してから連絡をいれます。」

「上がって来るとしたら、やっぱりケーブルカーの路沿いよね。」

「一緒に行動した方がいいんじゃないのか。」

「いや、大勢で動くと目立ちます。私達がケーブルカー沿いに下りて行きます。特に何もなければ、途中から連絡入れますから、そしたら下りて来てください。」

「途中で、あんた達に何かあったらどうするの。」

「途中で何かあって、山門近くまで引き返して来たら三度懐中電灯を振ります。そうしたら私達です。そうでなければ、すぐに逃げて下さい。」

「逃げるって、何処に逃げるんです。」

トシがとても不思議そうな顔で聞いた。

「山のてっぺんじゃあ逃げようがねぇよな。」

「墓場の何処かか、納骨堂の中か。」

「どっちにしても、御免被りたいわね。」

御免被りたい気持ちが何処に通じたものか、風の出て来た深夜の山門脇に隠れていたあたし達の携帯電話に、先に山を降りた御隠居さんの声が飛び込んで来た。

「今、半分くらいまで下りて来てるんですが、特に怪しい人影も登って来ないし、どうします。先を急いでいるんだったら、私達、この辺りで待ってますから、ここで合流しましょう。そうでなければ、ケーブルカーの下の駅まで行って、また、連絡しますけど。」

山門脇にずっと隠れて座っていたあたし達の体は、風が出て来た性もあって、もういい加減冷え切っていて、とにかく少しでも早く行動を起こしたかったので、

「じゃ、そこで待っててくれる。あたし達もすぐにそこまで下りて行くから。」

何か変った事があったら電話するからと言って切れた。

ケーブルカーのホームから、軌道に入って行く。ケーブルカーの軌道は、どんな鬱蒼と茂った山中でも、コンクリートで固められていて、真ん中が階段の様になっていて、他の山道よりも歩きやすい筈だ。それでも、用心の為に懐中電灯を付けていなかったので、随分と擦り傷を創った。途中、見通しの良い場所に出て、切り立った山と山の間から、そのままかき集めて宝箱にしまい込みたくなるような街の夜景が見えたけど、見とれる余裕も無かった。階段に設えてある分、勾配が急で、うっかりして重心を崩そうものなら、そのまま何処まで落ちて行くか分かったものじゃない。それに、時々、片側が切り落とされた様な崖の所もあった。手探り、足探りで下って行く。

山を半分以上下ったあたりで、

「変ですねぇ。」

と、トシが呟いた。御隠居さん達と出会えなければならない筈の場所は、とっくに通り越していた。

「寒いもんだから、先に下ったんでしょうか。」

確かに、風が強くなって来ていて、身を切るような冷たさではないにしても、その中でジッとしているのは辛いものがあるだろう。

「引き返しますか。」

「先に進みましょう。多分、先に下ったんだと思うわ。」

その時、一陣の風が山を揺るがす。周囲の木々の枝が激しく音を立てて逆巻いた。大気が急激に変化していた。

少し下った先の曲がりっぱなに短いトンネルがあって、その中がやけに明るい。一晩中、裸電球を灯しているらしかった。先に立っていたトシに何者かが襲いかかったのは、そのトンネルを抜けた辺りだった。

最初、人間程の大きさの野犬かと思えた。何者かは、人間らしい声で気合を入れながらトシを殴りつけた。トシの体がトンネルの外に消えた。何者かの後ろから、さらに幾つかの影が踊り出た。トンネルの明りの中に、そいつらが入って来て、初めて、そいつらがヤマネの手下だと分かった。オオガミの顔もあった。

「手間取らせやがって。」

あたしは、慌てて引き返すその足首を掴まれて、そいつらの間に引きずり下ろされた。何本かの足や腕が、あたしの体に降って来た。肋骨が乾いた音を立てた。激痛が走って、気を失いかける。体のどこかを動かして、身を守ろうなんて言う気力は、一瞬の内に消えて無くなった。オオガミ達は、そんなあたしの体を無造作に持ち上げると、手荒く抱えて、山を下りかける。

「おい、マムシ、いい加減にしろよ。」

と言うオオガミの声に、薄く目を開けると、倒れて動かないトシの体に執拗に挑みかかっているマムシの姿があった。トシが、あたしに向かって手を上げようとする。「いいのよ、トシ」と、言いたかったけれど、口が痺れて動かない。トシが生きていることが分かって、ホッとした所で、あたしの記憶が途絶えた。