(13)

 

「随分、手間取らせてくれたな。」

聞き覚えのある声に、目を開けようとしたけど、旨く開いてくれない。特に、左目に靄がかかったようだった。

「折角、人が親切な態度で接してやってるのに、突然逃げ出すなんざぁ、ちょっと許しておけないよな。しかも、こんな夜中まで人を引きずり出すんだ。勿論、それなりの覚悟あっての事なんだろうな。」

そう言って、あたしの髪の毛を鷲掴みにして、顔を引き寄せる。ヤマネだった。

「トシは。」

口の中が腫れ上がって、旨く言葉にならない。

「何だって。」

「トシよ。トシは、どうしたの。」

「ああ、あの若造か。」

「殺したの。」

「いや、そこにいるよ。ほれ。」

と、あたしの顔をねじ曲げる。右肩に激痛が走る。狭い視界の中に、顔をどす黒く腫れ上がらせたトシの姿が入る。手をねじ上げられて、後手に括られている。意識は、あるようで、あたしの顔を見て、表情を歪ませる。暫くして、笑ってるんだと分かった。

「こいつだって、オオガミが止めなければ、マムシに殴り殺されてたところだぜ。」

と、そこへ当のマムシが入って来た。

「器材が揃いました。」

「よし、入れてくれ。」

突然、部屋の中に、何人かがバタバタと入って来た。そして、耳元で、何かの器材が組み立てられて行く時の金属的な音がする。周囲が明るくなって、背中に暑さを感じた。どうやら照明がつけられたらしかった。

「準備はできたの。」

何時の間に部屋に入って来たのか、初めて聞く女の声だった。ハイヒールの足音があたしの方に近づいて来て、止まった。上品な香りが漂う。

「あら、いい素材じゃない。」

「こいつらが、ちょっと痛めつけ過ぎたんだけどな。」

「調度いいのよ、これ位が。こんな風に気の強そうな人には。」

腫れ上がった顔の表面を、細い指が撫ぜる。それが、段々、下がって来て、首筋を這い、胸を揉み、下腹部や尻をさすり、足を舐める。女が恍惚とした吐息を漏らす。

「いいわ。ワクワクしちゃう。」

「カメラの準備ができました。」

オオガミの声だ。

「男優さん達は。」

「それが、まだ、ちょっと。」

「いいわ、あたしが手伝ってあげる。」

女の唇が、耳元をくすぐる。

「ねぇ、今から何が始まるか、分かる。」

あたしは、小さく首を振る。女の全然暴力的でない態度が、却って恐怖心を煽る。

「そりゃそうよね。あのね、今からあなた達に俳優さんになってもらうの。そう、映画を撮るのよ。あなた達が主人公。」

そう言って、フフフと笑う。背筋にドライアイスでも押しあてられたような気持ちになる。あたしは、思わず、女の顔に唾を吐いていた。

「あら、監督にそんな態度を取っていいと思ってるの。後で後悔するわよ。」

足音が遠ざかる。足音の遠ざかった先から、若い男の溜め息や、今の女の小さくあえぐ声が聞こえて来て、やがて、

「さぁ、準備万端ね。始めましょうか。」

と言う女の声と共に、カメラが回り始めた。それから先は、全くの悪夢だった。まず、あたしの服が乱暴に引き裂かれ、男が荒々しく愛撫し始め、その激痛に何度か気を失い、無理矢理、口をこじ開けられて、男の一物を腫れ上がった口の中に押し込まれて、窒息しそうになるその横で、トシが腹の出た中年男から同じ目に合されていた。トシの顔が屈辱に歪むのを、女が面白そうに見下ろしていた。やがて、あたしは男に背中から羽交い締めにされ、仰向けにされ、男の一物は、あたしの肛門に根元まで埋まり、その上にトシの体が覆い被さり、トシの上から中年男がのしかかった。あたしとトシの顔は、激痛と屈辱に歪み、男達は快感にのけぞり、女は恍惚とした表情でそれを撮る。中年男は、トシの肛門と、あたしの膣に交互に一物を挿入しているらしかった。仰向けにされたあたしの視界に、マムシやオオガミやヤマネのギラギラした顔が入る。そのようにして、一時間以上も、あたしとトシは陵辱の限りを受け、終わった時には、唾液と精液と汗と血と糞尿にまみれて横たわっていた。

「もうすぐ夜が明けるわ。あなた達の始末は、一休みしてから付けてあげるからね。最高の結末を用意してあげるわ。」

上気した顔で、ヤマネの腕に支えてもらいながら女が言い、部屋を出て行った。あたし達は、既に恐怖心さえもが麻痺してしまい、部屋の片隅まで這いずって行くと、体を寄せ合って、次に来るだろう悲劇を待ち受けていた。トシは、生まれて初めての陵辱に、青黒く腫れた顔を涙でグショグショにして、時々、ヒーヒーと、金属を擦り合わせた様な泣き声を喉の奥から漏らした。無理も無い。あたしだって、初めて本家のじじぃに犯された夜、この世の理不尽と、不条理と、現実の冷酷さに打ちひしがれ、この世のありとあらゆる物、神も、仏も、自分の在る事さえも呪ったものだった。

あたしは、トシの涙を舐めてやり、吸ってやった。

あたしは、トシの手を、あたしの裸の胸に導いた。そうする事が、トシの失われかけた自信を取り戻してやるのに、一番いい方法だと、咄嗟に思った。あたしは、トシの股間をまさぐった。トシは、一瞬、驚いたように、あたしから体を離し、あたしの顔を見た。

「お願い。」

と、あたしは、言った。

「あたしの体をきれいにして。それができるのは、トシだけよ。」

暫くの間、互いの打撲の跡を労りながら愛撫しあう。トシのペニスが大きくなり始める。あたしは、それを口に含んで、さらに大きくする。それから、あたし達は、糞尿にまみれた体で、犬のように真剣にまぐわった。終わると、抱き合って、豚のように眠った。

 

「おはよう。よく眠れた。」

女の能天気な声に目を覚まし、身構えた。乾いてこびりついた、精液や唾液や汗や糞尿が、肌の上でパリパリと、小さな音を立てた。太陽は、もう、かなり高くまで昇っているようだった。白日の光の下で、あたし達の体は、余りにも惨めだった。女が顔をそむけた。

「ねぇ、せめて、お風呂に入らせてもらえない。」

「何言ってるの。それがいいんじゃない。芸術的よ。素晴らしい結末が撮れるわよ。」

「どうせ、殺されるんでしょ。」

「あら、どうして分かったの。」

「だったら、きれいな体で死にたいんだけど。」

「生意気言ってんじゃないわよ。あっ、そうだ。参考までに、今までに撮った奴、見せてあげようか。まだ、編集が終わって無いんだけど。それだけに、生々しくて、感動するわよ。」

「それより、体だけでも洗わせてくれよ。」

次の瞬間、トシの頬に、女の平手が炸裂した。

「オカマ掘られた男が、贅沢言うんじゃないよ。」

女は、あたし達の前に、二十九インチのテレビを転がして来て、ビデオのスイッチを入れた。

「まぁ、良く見て、研究してちょうだい。」

女は、そう言い捨てて、出て行った。

ビデオは、女の苦悶の表情のアップから始まった。バロック調の室内管弦楽をバックに、機械の回る大きな音がしている。

「明美ちゃん。」

そう、それは、シンちゃんと駆け落ちした筈の、明美ちゃんだった。カメラは、次に、椅子に縛り付けられた、裸の男の後ろ姿を捉える。男は、体をくねらせて、なんとか呪縛から逃れようとしている。明美ちゃんを助けたい一心なんだろう。カメラが横に回って男の顔が見え始める。シンちゃんだった。やがて、全体の構図が映し出される。明美ちゃんが、椅子に縛り付けられたシンちゃんの目の前で、万歳の格好で仰向けに転がされている。二人とも裸だった。明美ちゃんの足元に、男が一人立っていて、チェーンソーを持っている。さっきからのうるさい物音は、それだった。男が、それを振り上げる。悲鳴。シンちゃんの体に血が飛び散る。男は、何度も、チェーンソーを振り降ろす。悲鳴は、最初の数回は聞こえていたけど、すぐに途切れた。明美ちゃんの転がされていた辺りが、真っ赤に染まり、肉の塊がピクピクと動いていた。トシが嘔吐する。甲高い笑い声と共に、画面に女が現れる。女は、白いドレスを着て、シャンパングラスを片手に血溜りの中をなよやかに歩く。ハイヒールの踵の先で、転がっている肉の塊をもて遊ぶ。シンちゃんに近づき、体中に舌を這わせる。血溜りの中にドレスのまま寝転がると、チェーンソーを持った男を誘う。男は、チェーンソーを投げ棄てると、女に挑みかかる。血まみれになったドレスを引き裂き、互いの体に血糊を塗りたくりながらファックする。あえぐ女の横で、肉塊になった明美ちゃんの口がパクパクと動いているけど、それは、既に、意志のある動作ではなかった。終わると、画面は恍惚とした女の表情をアップにして、フェイドアウトする。

トシが、激しく嘔吐する。

しばらくのノイズ画面の後、次に映し出されたのは、モノクロ画面の中で、初老の女の恐怖に引きつった顔だった。どこかの高原らしい。女は、五六人の若い男達に囲まれて、逃げ惑っていた。音は、無い。男達は、無表情に女を犯していく。画面に、女の萎びた乳房や陰部がアップになる。男達は、さらに、無表情に女を切り刻んでいく。切り刻まれた肉は、串に刺され、焚き火の中で焼かれ、男達の胃に収まっていく。昔、アメリカ映画で、騎兵隊がインディアンを切り刻むシーンを見た事があったけど、ちょうど、あんな感じだった。あの時、あたしは、どんな感想を持っただろう。可哀想だとか、酷いとか、そんなところだっただろうか。スナック勤めしていた時に、近所の女子大の助教授に言い寄られて、そいつは変な男で、女を口説くのに、アウシュビッツだとか、ドレスデンだとか、南京だとか、ベトナムだとかの事を、見て来たように、さんざん喋りまくった挙句、対立セクトだとかに殴り殺されて、あたしとの愛は、成就しなかったんだけど、人は常に犬死にするんだと言うのが、その男から得た教訓だった。でも、そんな一切合財は、全て、無関心の側から出たものだと悟った。憐憫や同情は、無関心からしか生まれない。無関心は、中立の立場を取ろうとする。けど、この世に中立は、有り得ないだろう、多分。もし、中立の立場を強引に取ろうとすれば、煎じ詰めた所で、想像力を欠いた、加害者の側に近い理屈を振りかざす事になってしまう。

明美ちゃんやツレさんの悲劇は、次には、確実に、あたしとトシの上に起こるんだと思うと、全身の力が抜けて行くような恐怖が沸き起こる。「次は自分だ」と言う恐怖のみが、被害者の心を占める全てだった。

あたしの知らない娘の映像が二三、続いた。どれも筋と結末は同じ、陵辱と殺戮だった。その中を例の女が、甲高い笑い声で飛び跳ね、踊り、血まみれになり、ファックした。女は、自分以外の事に無関心だった。血まみれになった時、その血の意味を問う事が出来ない程に、無関心だった。無関心だからこそ、自分に求められている通りに映像を撮り、自分に求められている通りに演じ、それで、何の呵責も感じない。それは、女だけでなく、マムシや、オオガミや、ヤマネも同じだった。

自分の悦楽だけを求める連中。

場面は、変って、夜の学校の校庭が映し出された。全身ずぶ濡れの男がフラフラと歩いて来る。松明を持った黒装束が、後を追う。男は、酒でも飲みすぎたのか、千鳥足で、黒装束の松明を見て、大笑いする。松明が、男に手渡される。次の瞬間、男の体は火に包まれる。映像は、男の体に火が燃え移り、男が転げまわり、やがて動かなくなり、燃えつき、火が消えるまでを執拗に映し出す。

朝焼けに染まる校庭に、真っ黒なマネキンが両足を跳ね上げて転がっている。それが、ビデオの最後の映像だった。

その後、暫くノイズ画面になり、自動的に止まり、シャカシャカと音を立てて巻き戻される。

 

テープが完全に巻き戻され、テレビに何も映らなくなる。

あたしは、自分の体のまだ動かせる部分をチェックした。激しい打撲で、多少ギクシャクするけど、なんとか歩けそうだし、例の女の腕ぐらいなら締め上げる事ができそうだった。ただ、右の胸のちょっと上あたりが、一本くらい折れていそうで、ここを押さえると、飛び上がるくらいじゃすまない。そこさえ気を付ければ、何とかなりそうだった。

「トシ、あんた歩ける。」

尋ねても、返事が無い。見ると、顔の筋肉が弛緩して、目に力が無い。

「トシ。」

と、体を揺すっても、煩わしそうに、ちょっと目蓋を動かすだけで、さっき吐いた汚物の上に寝転んだままだ。どこか打ち所が悪くて、おかしくなっちゃったんだろうか。それとも、恐怖に五感が占領されてしまったんだろうか。

「トシ、トシ。」

と、名前を呼びながら、何度も頬や体の無傷な場所を平手打ちする。

「トシ、そろそろ行くよ。」

「行くって、何処へ。」

やっと返事があった。でも、まだ、全然、目の焦点が合っていない。

「決まってるじゃない。ここを逃げ出すのよ。」

「だめですよ、そんな。ここを出たら、やられちゃいますよ。ここが、一番安全なんですよ。」

力の無い、不明瞭な喋り方だった。

「あいつらのやり方、見たでしょ。ここから、この部屋から出ると、あいつらが待ってて、あんな目に合っちゃうんですよ、僕達。」

「このまま、ここに居ても同じなのよ。」

「頼んでみましょうよ、助けてくれるように。」

「何をバカな事、言ってるの。そんなの聞いてくれる連中じゃないでしょ。さ、起きてちょうだい。」

と、腕を持って、抱き起こそうとするけど、すぐに床に崩れ落ちてしまう。痛そうに顔を歪める。

「一人で行ってくださいよ。僕、ここに残りますから。」

「いいから、来るのよ。」

と、もう一度、抱き起こそうとして強い拒絶に合う。トシは、あたしの体を予想外の力で突き放し、体を丸めて横たわってしまった。肋骨に、言い知れぬ痛みが走る。

「わかった。あたし一人でやるから、あんた、気が向いたら手伝ってちょうだい。」

あたしは、そう言うと、もう一度座り込んだ。

「あれ、逃げるんじゃないんですか。」

「あんたを置いて、逃げるわけに行かないでしょ。」

それから日が暮れるまで、あたし達は、そのままだった。

 

「どうだった。」

と、女が現れる。もう部屋の中は真っ暗で、目を凝らさないと何も見えなかった。女は、白っぽいナイトガウンを素肌の上から羽織っていた。

「いいできだったでしょ。」

「ねぇ、お願い。あたし達を助けて。何でもするから。」

「今更、それは無いわよ。」

「そんな事、言わないで。」

「駄目よ。あなた方は、あたしに与えられた恰好の素材なんだから。悔いの残らないように撮ってあげる。」

「ほら、どんな事でもするから、ほら。」

と、あたしは、女の足の甲を舐める。

「駄目、そんな事したって。芸術には、常に犠牲が必要なの。」

「わかる、芸術を愛する、あなたの気持ち。とっても良くわかる。でもね。」

と、跪いて、脹ら脛から太股へと舌を這わせる。女の手が、あたしの髪に伸びる。太股から、精液の匂いのこびり付いた、程良く刈り込まれた陰毛を撫で付けるように舌の先を転がす。その辺りのテクニックには自信があった。女の口から溜息が漏れる。そこからさらに、舌を移動し、乳首を噛み、首筋を攻め、歯と歯の間から舌を入れる。女は、さらに切ない吐息を漏らし、あたしにしがみつく。女が、逆にあたしの口に舌を差し入れてきた時、あたしは、下顎に渾身の力を込めた。口の中一杯に生臭い匂いが広がる。女が口から血を滴らせながら床を転げる。あたしは、小さな肉の塊を吐き捨てると、女の髪を持って、上半身を起こし、鳩尾に拳を当てる。ぐつたりするところを、脱がせたガウンを引き裂いて、女を後ろ手に縛り上げた。トシは、その間も無関心に、壁の方を向いて、寝転んでいた。

「しんらう、しんらう。」

突然の事態に、漸く声を出せるようになった女が、痛そうに顔をしかめながらうめく。

「死んじゃうって言いたいの。大丈夫よ、舌の先、ちょっと噛み切っただけだから。」

「あらららり、こんらころひれ、らられすむろおもれるろ。」

女は、縛られている事に気が付いて、悔しそうに、体をばたつかせながら怒鳴った。すごく怒っているんだけど、呂律がまわっていないので、その事がうまく伝わらないのを感じて、余計にいらいらしているようだ。縛られた足を床にドンドンと打ち付ける。その声と物音を聞きつけ、さっき、あたし達を陵辱したうちの若い方が様子を見に来て、びっくりして戸口で立ち止まった。

あたしは、女の首に、壁際にあったウィスキーの瓶を割って先の尖った方を押しあて、

「入らないで。」

「何してるんだ。」

若い方は、女の口から喉元にかけての血糊の後に愕然とする。

「見りゃ分かるでしょ。何か着る物を持って来ないと、この女どうなっても知らないよ。」

そう言って、首に押しあてた手に力を入れた。

「おれらい。いうころ、きいれ。」

女が、苦しそうに叫ぶ。

「あたしの言う事を聞けって。」

「あらひのへやりようふくがあるらら。」

「この女の部屋にある洋服を持って来いって。二人分よ。一着は、ジーパンにして。服を部屋に放り込んだら、ドアの所でおとなしくしてるんだよ。誰かに告げ口すると承知しないからね。この女が殺されたら、あんたのせいだよ。」

足音が遠ざかって、五分もしない内に、部屋に二着分の洋服が投げ込まれた。

「トシ、服を着るのよ。」

トシは、ちらりと洋服に目をやるけど、動こうとしない。

「トシ、お願いだから。」

女が、それを見て勝ち誇ったように笑い、何か言うのを、平手討ちで制する。女の顔が怨みの形相で醜く歪む。あたしは、寝転がったままのトシに洋服を着せ、自分も手早く着込み、床に落ちたままになっていた俊二の骨を拾うと、

「トシ、これが最後だよ。一緒に行かないんだったら、あんたを置いて行くよ。」

と、もう一度トシに声をかけた。トシは、さすがに置いて行って欲しくはないらしく、むっくりと体を起こす。でも、はっきり言って、こんな状態のトシを連れて、逃げ切れる自信はなかった。

窓の外を伺おうとした時、ドアが補蹴破られ、オオガミ達がなだれ込んで来た。

 

「それ以上、動かないで。」

トシをあたしの後ろに隠し、女を前に立てて、オオガミ達を睨み付ける。

「どうするつもりなんだ。」

「ここから、出してもらうのよ。当たり前じゃない。」

「逃げ切れるとでも思っているのか。」

「さぁ、やってみないとね。あんた達がドアを開けてくれたんで、手間が省けて助かったわ。そのまま、皆、そこのドアから出てくれる。早く。」

オオガミ達が、ジリジリと下がり、ドアの外に出掛かった時、

「どうしたんだ。」

と、ヤマネの声がした。女が走り寄ろうとするのを押さえつけて、

「そろそろお暇させてもらうわよ。」

ヤマネが、オオガミ達の間から顔を出す。

「どうしたんだ、その女は。」

「人質に取らせてもらったから。悪く思わないでよね。近づくと、こいつの命は無いよ。」

ヤマネが、不審そうに、女の顔を見る。

「レイナ、お前、誰の許しを得て、この部屋に入ったんだ。オオガミ、お前か。」

オオガミが、首を振る。ヤマネが、険しい目で女を見る。レイナと呼ばれた、その女は、首項垂れて、ヤマネの視線を逸らした。

「勝手に入って来たのよ。あたし達にビデオを見せてくれる為にね。」

「何故、そんな勝手な事をしたんだ。まぁ、いい。レイナ、この責任は取ってもらうけど、いいな。」

女が、いやいやをする。ヤマネは、それを無視して、

「丁度いい。カメラの用意をしろ。ついでに照明もつけてやれ。」

女の体から、力がみるみる抜けて行く。

「その女は、お前に呉れてやるから、好きなように切り刻んでくれていい。ただ、カメラの用意ができるまで、もう少し、待ってくれ。」

「そんな暇、無いのよ。あたし達は、すぐにでも、こんな所から出たいの。」

「自分達の置かれた状況を、もっと、ちゃんと把握するべきだな。その女には、もう利用価値が無い。俺達にとっても、お前達にとってもな。」

あたしは、ここを抜け切らないと、命が無い事を悟った。それで、女を楯に中央突破する事を決めたけれど、トシが、ちゃんと付いて来てくれるかどうかが心配だった。

「トシ、走るよ。ちゃんと付いて来てよ。」

小さな声で囁くけど、伝わったかどうか、確認する術も無い。照明がつけられ、カメラのまわる音が聞こえ始めた時、あたしは、女をヤマネに押し付け、さらにその背中を渾身の力で押して、真ん中に逃げ道を作った。そこを一気に駆け抜け、人垣の向こうに出た時、ふと振り返り、トシが付いて来ていない事を知り愕然とする。立ち止まった一瞬の隙をついて、何人かが、あたしに飛び掛かる。もう一度、部屋に放り込まれたあたしに、さらに、オオガミ達が殴りかかる。あたしは、背中を丸めて、必死に耐える。気が遠くなり始めた頃、何かが、体の上に被さった。トシだった。

「トシ、もういいよ。あんただけでも、何とか逃げ切ってよ。」

そう言いかけた時、突然、下からの激しい振動を覚える。窓ガラスが、ビリビリと震える。と、同時に非常ベルがけたたましく鳴り始める。

「何があったんだ、見て来い。」

ヤマネ達が慌てている間に、床がもう一度激しく揺れ動き、火薬の匂いが、立ち込める。

「ダイナマイトか。」

「どこの奴等だ。」

三度目の振動。スプリンクラーが作動する。若いのが一人残って、後は全員、応戦に出る。廊下のはずれから、人の喚き声が沸き起こる。鬨の声のようだった。

「何だこいつら。」

と、誰かが叫んだ。ガラスの割れる音、何かが打ち壊される音がする。あたし達の見張りに残った若いのは、脅えて、ドアの影から物音のする方を伺う。背中に隙ができる。その隙に、トシが躍り掛かった。若いのは、声も立てずに倒れる。

「トシ、大丈夫なの。」

「ええ、何とか。」

恥ずかしそうに、うつむいたけど、次の瞬間、

「さぁ、行きましょう。」

「行きましょうって、何処へ。」

「取り敢えず、この建物から出ましょう。」

「今。大丈夫かなぁ。」

「ここにいるよりは、安全でしょう。今、騒いでる連中が、ヤマネ達と同じように、変な連中だったら、本当に命は無いですよ。」

「どうせ、さっき、一度は諦めた命なんだけどね。で、どっちへ行く。」

「音が聞こえて来るのとは、反対の方。こっちです。」

廊下に出て、右手方向を覗き見ると、もうもうと煙の  立つ中、何人かが棒を振り上げたり、掴み掛ったりしていた。あたし達は、体の痛みを庇いながら、反対の方を目指して駆け出す。後ろで、誰かの声がする。廊下の突き当たりは、人の体がようやっと這い出せる大きさの小窓になっている。そこから、外を覗いたトシの動きが、ピタリと止まる。

「どうしたの。」

「参ったな。」

トシの横から、顔を突き出して、困惑の原因を知る。あたし達の居るフロアは、周囲の景色から見て本当は三階くらいの筈なんだけど、小窓の下辺りが、丁度吹き抜けの地下駐車場になっていて、結局、窓から駐車場のコンクリートまでが五階か六階くらいの高さになってしまっていた。

「どうする。飛び降りる。」

「まさか。」

背後で人の足音がして、振り返ると、ヤマネやオオガミ達、四五人が、こっちに急ぎ足でやって来る。あたしは、いつでも飛び掛かれる体制を取る。どうせ殺されるなら、せめて一人くらい道連れにしてやろうと思った。トシも、同じ事を考えたんだろう、あたしより一歩前に出て身構える。けど、ヤマネ達は、あたし達には目もくれずに、慌てて一番端の部屋に入っていった。その後を、鶴嘴や棍棒を持った連中が追い掛けて来た。ヤマネ達の入って行った部屋のドアを開けようとするけど、ロックされていて、開かない。一人が、鶴嘴でドアを壊すと、ドヤドヤと雪崩打って駆け込んで行った。最後に飛び込んだ男が、煙の立っている方に向かって、

「おーい、ここにも二人居るぞ。奴等とは、ちょっと違うようだけどな。」

と、怒鳴る。

その声を受けて、顔に大きなガーゼを貼って、びっこを引いた男がやって来た。

「おーい、無事だったか。」

聞き覚えのある声だった。

「熊さん。」

「あんたらも、多分ここだろうって聞いてたんで探してたんだよ。」

「あんたらもって事は、他にも誰か。」

「あいつらだよ。さっき逃げてった。俺達を酷い目に合わせた奴等よ。いきなりだぜ、御隠居と二人で、あんたらを待ってたら、後ろからガツンって。そのまま、訳分からなくなっちゃって、気が付いたら、崖の下だよ。随分高い所から落とされたらしい。おかげで、御隠居が。」

「どうしたの。」

「死んじまったんだ。もう、あいつの旨い酒が飲めねぇ。」

と、さめざめと泣き始めた。

「で、よ。近くに落ちてたあんたのハンドバックの中に、携帯があったんで、あんたが登録してた番号に電話したんだよ。そしたら、女が出て来て、どうしたって聞くから、一部始終を話したら、そこで待ってろって。暫く待ったら、ヘリコプターが来て、俺と、御隠居の遺体を拾い上げてくれて、街まで運んでくれたんだ。」

そこまで喋ると、ポケットからボロ切れを出して、大きな音を立てて鼻を噛む。

「晴美ちゃんね。」

「晴美ちゃんって、御隠居が入れ上げてた女かい。そうかい。でも、ヘリコプターには男が一人乗ってるだけだったな。そいつがよ、ここを教えてくれたんだ。あんたらも、多分、殺されてなければ、ここだろうって。で、あっという間に、ダイナマイトや鶴嘴やトラック用意してくれて。俺、収容所行って、仲間集めて、御隠居の弔い合戦だって。」

ヤマネ達の入って行った部屋から、男が顔を出す。

「おい、逃げられちまったぞ。隠し階段があって、そこから出て行ったらしい。どうする。」

「逃げられたんじゃぁ仕方ない。引き上げるか。」

小窓から覗くと、数台のベンツが、音を立てて走り去った。

 

建物の入り口のドアは、トラックが突っ込んで、跡方も無い。硝子張だったようで、細かい破片が無数に落ちていた。窓と言う窓に穴が開いているのは、一回目のダイナマイトの性だろう。階段の手摺なんかが、ねじ曲げられていて、その力の強さを思い知らされる。二階の廊下には、吹き飛ばされた連中が、血だらけで転がっている。

「悪く思うなよな。怨むんだったら、あんたらの大将を怨むんだぜ。」

と、熊さんが、そいつらに捨てゼリフを言う。トラックの荷台には、敵味方関係無しに、まだ息のある負傷した連中が運び込まれていた。例の女もいた。恨めしそうにこちらを見る。

「全く、これだから素人は、困るんだよ。何もかも無茶苦茶じゃないか。」

悪い予感がして振り向くと、例のワカミヤと言う名の刑事だった。

「あれ、刑事さん、またお会いしましたね。」

「何だ、あんたか。あんたも絡んでんのか。」

「絡む。まぁ、そういう事になるのかしら。」

「じゃあ、一緒に来てもらう事になるな。なんせ、街中で大変な物を爆発させてくれたんでね。しかも、無許可で。で、こいつら一体何なんだ。あんたとどういう関係があるんだ。」

「あたしは、掴まって不法監禁されている所を助けてもらっただけよ。この人達は、友達を殺されちゃったもんで、そのお礼参りよ。」

「それで、ダイナマイトか。」

その時、例の女の金切り声がした。質の悪いのが数人、女に不埒な事をしようとしている。

「ワカミヤ、助けて。お願い、ワカミヤ。」

まだ、呂律のまわっていない言葉だったけど、確かに、女がワカミヤと呼ぶのを聞いた。

「あれって、刑事さんを呼んでるんじゃないですか。」

「いや、こんな所に知り合いなんていない筈だけどね。」

「でも、確かにワカミヤって。」

「こら、つまらんことするんじゃない。」

と、熊さんが、不埒な奴等を追い払っている。

「熊さん、ちょっと、その女連れて来てよ。」

熊さんに引っ張ってこられた女の顔を無理矢理、刑事の方に向ける。

「この人、誰だか知ってる。」

「バカな、知ってるわけないじゃないか。」

「誰だよ、こいつ。」

「刑事さんよ。」

あたしの答えを聞いて、

「そりゃ、やばいよ。俺、もう逃げるよ。」

と、熊さんが慌てるのを、

「大丈夫、かも知れないわよ。ほら、ちゃんと、よく見て。誰なの。あんた、あたしにどんな事したか、覚えてるわよね。ヤマネにどんな風に裏切られたかも。あんた、もう、孤立しちゃってるのよ。よく考えて、行動した方がいいよね。」

女が、小さい声で呟く。

「何、何て言ったの。」

「ワカミヤさん。」

「何処の人。」

「刑事さん、ヤマネの知り合いの。」

「誰の知り合い。」

しつこく尋ねる。

「ヤマネの。」

「じゃあ、こいつ、偽刑事か。」

「バカな、ちゃんと刑事手帳を持ってるよ、ほれ。」

と、確かに刑事手帳らしいものを出したけど、誰も本物をシゲシゲと見た事がないので、真偽を判定しようが無い。熊さんが、口をとんがらかして、

「本当の刑事かよ。それで、暴力団とも付き合うなんざぁ、尚悪いや。」

「情報収集の為には、そう言う事も必要なんだよ。所謂、清濁合わせ飲むって奴か。あんたにも、大事な情報を知らせてあげたじゃないか。」

「その代わり、こっちの大事な情報も筒抜けってわけね。」

「まぁ、多少はね。」

「それに、奴等の罪、だいぶん揉消してやってるんじゃないのか。」

「今も、その為に居るんじゃないの、ここに。」

刑事が口篭っている所に、パトカーのサイレンが飛び込んで来る。それを聞きつけて、刑事が、

「まぁ、積もる話は色々あるんだけど、取り敢えず、わたしは、これでお暇するよ。」

と、慌てて何処かに行こうとするのを、熊さんが「待て」と、その肩に手を掛けたと同時に、熊さんの体が宙に舞う。見事な上手投げが決まる。

「腐っても鯛だな。」

と、わけの分からない捨て台詞を残して、出て行った。

 

「腐ったら鯛も鯖も一緒だろ。あの野郎。」

熊さんは、痛そうに顔をしかめながら起き上がり、トラックの荷台に乗り込む。パトカーは三台に増えて、ビルの前にバリケードを作っている。トラックは、パトカーの一台に当て身を食らわせ、隙間を作ると、そこをついて駆け抜けた。その後は猛スピードで街の幹線道路まで突っ走る。路上駐車の車のドアミラーがふっ飛ぶ。道に転がったゴミバケツがひしゃげる。通行人が慌てて道を開ける。

幹線道路に出ると、五車線の一方通行で、その先に警察のバリケードが見えた。熊さんが、荷台から運転席に向かって、「戻れ、戻れ。」と叫ぶ。運転手は何か叫んだけど、「戻るんだ。」と、また熊さん。トラックは一方通行の幹線道路を無理矢理ユーターンした。前から来る車が、慌てて道を譲る。車線変更した途端に、他の車とぶつかるのもあった。前方からの何十台という車に、かすりこそすれ、正面衝突しなかったのは奇跡に近い。ただ、その派手な動きは、警察の無線を通じてヤマネ達の知る所となる。幹線道路を外れて、比較的空いた路に入ってホッとする間も無く、黒塗りのベンツがスッと横に並ぶ。その窓ガラスが開くのを見て、誰かが「伏せろ。」と、叫んだ。ベンツの窓から何発かの弾が発射される。その内の一発が、トラックのタイヤを打ち抜いたようだ。いきなりガタガタと激しく振動すると、横を走っていたベンツに体当たりする。ベンツは、その拍子に道を外れ、電柱に衝突する。喜んだのも束の間、トラックは、そのままハンドルを取られて、街の広報看板を真っ二つにし、閉まっていた新聞屋の店先に突っ込んだ。その瞬間、昨日から散々殴られ、蹴られた肋骨が激しく痛む。

「悪いけど、ここまでだぜ。後は、自分で逃げてくれよ。」

熊さんが叫ぶのと同時に、銃声がする。ベンツに乗ってた連中が撃ってるんだろう。荷台の連中は、酷い怪我で動けないのを残して、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。あたしは、荷台から降りる前に、例の女の紐を解いてやる。

「悪いけど自分で逃げてね。」

言い終わらない内に、女は、あたしを突き飛ばして荷台から飛び降りる。

「あ、あの女。」

と言うトシの声に、指さす方を見ると、ベンツに向かって走る女の姿があった。あたし達が背を向けて走り始めて、すぐに、銃声がしたけど、もう一度振り向くゆとりもなく、女がどうなったかは知る由もない。

あたしとトシは、熊さん達とは離れて、狭い路地を走り抜けた。繁華街に出ると、人混みに紛れて、出来るだけ何気ない風を装うとしたけど、服がボロボロで、髪の毛もグチャグチャに絡まり、薄汚れた顔をしていれば、嫌でも目立ってしまう。やっぱり、路地から路地へと渡って行かなければ、どうしようもなかった。新しい服を買おうにも、お金が一銭もない。お金が無ければ、何も出来ないと言う恐ろしさを久し振りに味わった。社会から隔離されてしまったような侘びしさを感じた。

「何処へ行きましょう。」

「決まってるじゃない。北海道よ。」

「でも、今の状態じゃあ、この街さえも出られないですよ。電車にも乗れないんだから。」

「歩いて出ればいいじゃない。どうせ、駅とかは、ヤマネ達が押さえちゃってるよ。歩けるところまで歩こうよ。ヒッチハイクって手もあるんだし。」

「最近は、物騒なんで、ヒッチハイクやっても、あんまり止まってくれないらしいですよ。」

「女のあたしが試してみるよ。」

「ちょっと待って。あれ。」

トシの目線を追うと、そこに大型のバイクがあった。公園の入口に置いてある所を見ると、当の本人達は、公園の中でよろしくやってるんだろうか。

「あれ、盗ります。」

「盗るって。」

「俺、昔、やった事あるんです、何度か。」

「本当に盗っちゃうの。」

「ああいうのって、やり易いんです。自宅とかに置いてあるのは、タイヤまでロックされてるんですが、ああいう所に置いてあるのって、大抵、ハンドルとスターターのロックぐらいなんですよね。ハンドル・ロックもしてなければ、ラッキーですよ。」

トシは、そう言うと、暫くその近くをうろつく。隙を伺っているのかと思ったけど、そうでは無く、鍵を壊す道具を探していたんだと、地面から幾つかの物を拾い上げるのを見て分かった。それからバイクに近付くと、一心に作業を始める。小半時、トシが見つからないかと、冷や冷やドキドキしていたので実際は、もっと長く感じたけど、トシがバイクを押して、こちらにやって来る。

「大丈夫なの。」

「ええ、比較的、簡単でした。」

「動くの、それ。」

「見ててください。」

と、スターターをキックすると、エンジンは、一発でかかった。公園から、皮ジャンのアベックが姿を現す。

「やばい。」

と、トシ。男の方が、バイクが無いのに気が付き、こちらを見る。

「早く乗って。」

男が、こちらに走って来るのが、目の端に映る。「ドロボウ」と、叫んでいる。通行人が、こちらを振り向くけど、誰一人、あたし達の行く手を遮ろうとしない。スピードを上げて過ぎ去る風景の中で、それらの顔が無気力に歪んで見えた。

 

バイクは幹線道路を避け、路地裏を走る。バイクに乗っていても、晩秋のライディングには、およそ似つかわしくないと言う点で、あたし達の格好は随分目立った。警察には、何回か止められそうになる。その度に、何とか振り切って行く。それでも、行く先々で白バイやパトカーの待ち伏せをくうのは、彼らが無線連絡をしているからに違いなかった。警察より恐ろしいヤマネ達も、その交信の様子を聞いている筈で、何処から出て来るか、角を曲がる度、大通りを横切る度にヒヤヒヤする。時折、上空をヘリコプターが飛ぶ。

「あたし達の為だけに、大袈裟ね。」

「いや、外国の要人てのが、そろそろ通る時間だから、その警護の為でしょう。それと、報道陣と。」

言われて、良く見れば、ヘリコプターの下の部分、確かに報道局の名前が街の灯かりを受けて、ぼうっと浮かぶ。

この向こうは隣町という橋を渡った所に、黒いベンツが止まっていた。誰の車か、見た瞬間に分かった。ヤマネ達だった。

「トシ、引き返そう。」

その橋をユーターンした所にも、いつの間にか、ベンツが止まっていた。

「挟まれちゃったみたいですね。」

「警察の無線を聞きながら、待ち伏せしてたのよ。」

二台のベンツは、ゆっくりと、あたし達に近付いて来る。

「どうする積りかしら。」

「今更、掴まえてどうこうって分けじゃないでしょう。川に飛び込みましょう。このまま、みすみす殺されちゃうよりいいでしょう。」

ベンツは、徐々にスピードを上げて、近付いて来る。まるで、兎狩りか何かで、獲物を追い詰めるのを楽しんでいるみたいだった。ベンツの窓が、音も無く開いて、そこからライフルの先が差し出されるのが見える。

「これで、あいつらの面目躍如ってわけね。」

ライフルの先が、こちらを見据える。ヘリコプターが、上空を横切る。その爆音に、全ての物音が掻き消される。あたし達の足元で、土煙が上がる。今の爆音に乗じて、狙撃を試みたらしい。

「ヘタクソ。」

「今のは、わざとですよ。多分。今度は、本当に狙って来るでしょう。」

車の中で、ヤマネ達が哄笑している様子が目に浮かぶようだった。あたし達にとっては、運が悪いことに、もう一機、ヘリコプターが、こちらにやって来るのが見えた。爆音が近付いて来る。ベンツが動きを止める。ドアが開いて、ヤマネが姿を見せる。ガムを噛みながらライフルを構える。爆音がさらに大きくなる。トシが、あたしの前に手を広げて立ち塞がった瞬間、閃光が走り、ヘリコプターの爆音より、さらに大きい轟音が、あたし達の体を地面に叩き付けた。

顔を上げた時に見た物は、燃え上がるベンツと、ベンツの中から炎に包まれて転がり出る男の姿だった。ヤマネは、車の外に出ていたので助かったらしく、それでも茫然として起き上がる。そこに、あたし達の後ろで、道を塞いでいた、もう一台のベンツが駈け付ける。遠くで、パトカーのサイレンが聞こえる。徐々にこちらに近づいて来るようだった。

「姉さん、早く。」

と、トシがバイクを立て直して急がせる。

慌ててバイクに跨ると、バイクは、頭をターンさせて、元来た方へと走り始める。向こうから、数台のパトカーがこっちにやって来るのが見える。白バイもいた。このままだと、バイクが橋を抜けて少し走ったかどうかって辺りで、警察の車に正面付き合わせることになる。そのまま警察に保護を求めればよかったんだけど、あたしもトシも、本能的に警察を避け、橋を渡ってすぐの路地に入る方を選ぶ。曲がる寸前にヤマネの方を見ると、こちらを指差して叫んでいる姿が、シルエットになって見えた。

 

入り込んだ路地は、狭く、足元には植木鉢や壊れた陶器なんかが転がっており、頭すれすれの所に、家の軒があった。バイクは、出口を探して、路地の中を右往左往する。その後ろを白バイが追い掛けて来る。あたし達のバイクも、白バイも、不案内の上に路地の狭さで思うようにスピードも出せず、運良く、白バイが何かに引っかかって倒れかけてくれた隙に、別の路地に入り込んで巻いた積もりが、すぐに路地が途切れ、大通りへと出てしまった。薄暗い湿った場所から、いきなり音と光の洪水の中に投げ込まれて、茫然とする。あたし達の迷い込んだ路地が、大通りのビル群のすぐ裏手の路地だったと分かったけど、まるで昭和の始めから、いきなり平成の世に出て来たみたいな気分だった。大通りには、三台のパトカーが待機していて、あたし達の姿を見付けると、サイレンを鳴らして追い掛けて来た。あたし達は、さらに逃げる。多分疲れはてて、うまく頭が廻らなくなっていた性だろうか、あたしも、トシも、何から逃げているのか、分からなくなる。

パトカーや白バイは、さっきより数が増えたようだったけど、後ろを振り返る余裕も無かったし、そんな事は、もうどうでもいいような気分になっていた。

報道のヘリコプターが、突然始まったカーチェイスに群がって来る。

あたし達は、結構な数のパトカーを引き連れて、市の幹線道路から、高速道路の下を走る国道に出た。

黒いベンツが、横道からいきなり飛び出してきて、行く手を遮る。ヤマネだった。

「どうします。」

「あそこ。トシ。」

高速道路の降り口が、黒いベンツの少し手前にあった。

「やってみましょう。」

トシは、アクセルを全開にして、ベンツに近付いていく。窓が開いて、銃口がこちらを狙っていた。ベンツの二十メートル程手前をいきなり回れ右して、高速道路の降り口に向かう。後ろから、銃声が何発か追いかけて来る。

高速道路の降り口は、まさか、そんな所から入って行く馬鹿もいないだろうと、警備は手薄だった。バリケードの間を、易々と、トシのバイクは擦り抜ける。

高速道路は、ちょうど、海外の要人が通ると言うことで、入り口は封鎖されており、一台の対向車も無く、バイクは、思う存分のスピードでオレンジの光の中を駆け抜けていく。報道のヘリコプターや、警察のヘリコプターがあたし達を取り囲むように飛んでいる。それらのサーチライトが、あたし達を夜の中に浮き彫りにする。

光よ、すべて流れ去れ。

トシの背中が、熱く、白く、輝く。その体を強く抱きしめると、思わず性交している時の様な声が出た。乳首がツンと立つ。そのうちに、俊二と一緒に居るような気がして来る。

その背中が、トシなのか、俊二なのか、区別が付かなくなる。「俊二、トシ、俊二、トシ。」と、あたしは二人の名前を交互に叫ぶ。だんだん、体が熱くなってきて、無性に涙がこぼれ始める。突然、トシの背中に緊張が走る。

涙に滲んだ視界の中、高速道路の遥か向こうから、光の奔流が押し寄せて来る。十台近い車だった。警察かと思ったけど、そうではないようだった。

トシは、一瞬、躊躇した後で、さらにスピードを上げる。

光は、真ん中の一つを囲むように、幾つかが、前に出て、停止する。

あたし達のバイクは、さらにスピードを上げて近付く。

停止した中から、沢山の黒い影が踊り出て、あたし達を出迎えるように跪く。その手に鈍く光る鋼鉄の筒がある。筒が、さらに強い光を放つ。体に鋼鉄の玉が、打ち付けられた。

あたしは、音を奪われた。音の無い世界で、さらに重力を奪われ、最後まで見開かれた視界の中を、オレンジや、ブルーや、白の光達が、奔放に駆け巡る。

一度は奪われた重力が、再びあたし達に戻された瞬間を知らない。あたしの目の前には、高速道路のアスファルトがあり、少し離れて、トシの体があり、駆け寄って来る人影があった。

トシに手を伸ばす。伸ばした手は血だらけだった。血だらけの手で、トシの腕を触る。二人の体の下から、アスファルトに黒々と流れ出るものがあった。トシは、不自然に寝返りを打った子供のように、ねじくれて、横たわっていた。

視界が霞む。霞んだ視界の中、腕を伸ばした先には、トシの体は既に無く、代って、幼い頃のあたしがいた。あたしが、血だらけのあたしを見て、クスッと笑った。そこから、白い、ぼんやりした光が広がって行く。今、目の前の現実も、過去の思い出も、未来への希望も、全てが、そこに溶け込んで行く。トシの顔も、俊二の顔も、笑いながら、歪んで、そこへ流れて行った。