( 2 )

 

「シン、ちょっと来い。」

マスターの怒鳴り声に、控室でうつらうつらしていたあたしの背筋がビクンとなった。マスターは、さすがにかつてのその筋の人だけあって、迫力のある声をしている。あんな声をしている人は、他には、お客の中で売れない役者さんのタマさんしかいない。タマさんは新劇役者で、毎日、発声練習しているのだそうだ。だから声に表情がある。その筋の人達も、案外、発声練習を密かにやってるのかも知れない。

黒い背広を着たごつい男達が、一列に並んで発声練習をしている図を思い浮かべて一人ニヤついていると、明美ちゃんが真青な顔をして控室に飛び込んできた。「どうしたの」と聞くと、「何でも無いよ」と、声をおし殺して答えながらも、膝を抱えて真青になってブルブル震えている。何でも無い分けがない。そう言えば、一昨日、妙に真剣な明美ちゃんとシンちゃんを見かけたのを思いだした。

俊二の弟分だったトシという名の男の子に食事を奢る約束をして、待ち合わせの『海猫』と言う喫茶店にいた時の事だ。あたしは、その男の子と会う前に本番をしていた。仕事とは言え、その事が妙に心にわだかまって、もじもじしているその子を目の前にして、何も喋らずにセブンスターの煙の向こうの熱帯魚の浮かんだ水槽をぼうっと見ていた。

別に機嫌が悪かったわけじゃない。股間にさっきのお客のペニスの感覚がまだ残っていて気持ち悪かったし、それが誘発剤になって、長い年月の間に体内に蓄積されて来た男達のドロドロの液体が出口を探してジワジワと動き出しているような気がして、だからと言って関係無い筈なんだけど、なんだか不本意にさせられたことまで含めて、今までのことがその子に咎められているような気がして、どうしてもまともに見られなかったのだ。

その時ふと、水槽の向こうにシンちゃんを見つけた。心なしか、憂鬱そうな顔をして、手に取った雑誌を読むでもなく、パラパラとページを捲っていた。そこへ現われたのは、明美ちゃんだった。明美ちゃんは、脇目もふらずにシンちゃんの隣に座ると、テーブルの上にあった水を一息で飲み干した。シンちゃんは慌てて辺りを見回して、知った顔がいないのを確かめると、何か喋り始めた。明美ちゃんは、いつものだるそうな顔でそれに答えていた。話している内容は、水槽のブクブク言う音にかき消されて、こっちまで届いて来なかったけど、余程深刻な話だったのだろう、明美ちゃんの顔が、だんだん真顔になっていくのがわかった。明美ちゃんは、そのうちにイヤイヤを始め、そして、辺りをはばからず、「何でやねん」と叫んだ。シンちゃんは、そんな明美ちゃんを手で制すると、二言三言、明美ちゃんの耳元で囁いて席を立った。残された明美ちゃんも、しばらくそこに居たけど、オーダーした飲み物が来る前に、お金をそこに置いて出ていった。

明美ちゃんが出ていった後で、男の子の方を向くと、「どうかしたんですか」と言う顔で、あたしを見ていたので、「何でもないのよ」と答えたんだけど、多分、その時の表情には数えきれないくらいに「心配」の二文字が書き込まれていたと思う。男の子と食事して別れた後、明美ちゃんのアパートの前を通ってみたんだけど、部屋の灯は灯いていず、ドアをノックしても答えがなかった。

 

「本当に何でもないの?

あたしは明美ちゃんのうつ向いた顔をのぞき込んで、重ねて尋ねる。

「うるさいな。何でもない言うたら、何でもないねん。」

「あたし達には、本当のこと言ってくれてもいいんじゃないの。マスターがシンちゃん呼ぶ声、普通じゃなかったし、その時のあんたの顔ったら死刑宣告受けた見たいだったよ。」

何時の間にか晴美ちゃんが立っていて、分け知り顔に言う。やっぱり何かあったんだろう、シンちゃんと。

「ゴロも呼ばれて、入っていったよ、マスターの部屋に。他にも怖そうなのがいっぱい。」

ゴロちゃんと言うのは、晴美ちゃんの用心棒みたいな男の子で、俊二の知り合いで、俊二が死んで精神的にまいっていたあたしにこの店を紹介してくれた子でもある。年は晴美ちゃんより四つばかり上で、やっぱり組関係だけど、パッと見は若いサラリーマンみたいだ。週に一、二度やって来て、晴美ちゃんの上がりを待って、一緒に帰っていく。と言っても、情夫じゃないと思う。

その二人が出来てるかいないかは、二人が歩いてる所なんかを見ていると、何となく分かる。出来てる場合は、二人の間の何処かに一脈通じるところがあるもんだ。晴美ちゃんとゴロちゃんの間には、まるで高校時代の同級生みたいな雰囲気しか感じ取れない。ただ、お互い憎からずみたいで、何かが邪魔をしていい仲になれないだけのようだ。どちらからもその邪魔物を乗り越えようとしないのは、お互いにこのままの関係でいいと思っているからなのか、その邪魔物が二人の力では乗り越えられないくらいに大変な物だからなのかのどっちかだろうと思う。ま、どっちにしたって、晴美ちゃんはゴロちゃんという堅い用心棒のおかげで変な情夫が付かなくてラッキーしている。

「晴美ちゃん、ゴロちゃんから何も聞いてない。」

と、あたし。

「詳しい事はね。」

「そう言えば、マムシも見たわよ。」

と、それまで部屋の隅で週刊誌を読んでいたノンコと言う新入りの娘が話に入ってきた。マムシと聞いて明美ちゃんがビクッとする。

やっぱり何かあったんだ。マムシと言うのは、明美ちゃんの情夫の仇名で、尊大で、執念深くて、その癖ケチで、新入りの娘でもその名を知っているくらいに嫌な奴だ。マムシが来るとすぐわかる。まず、その甲高い声と早口。唾をとばしながらベラベラと良く喋る。運悪くつかまったのが女の子だと肩に手をやったりして、相手が嫌がっているのもそしらぬ顔で、週刊誌ネタのファッションの話なんかを次から次へと持ち出して、なかなか放そうとはしない。マムシは、明美ちゃん以外に何人かの女の子からお金を巻き上げて贅沢に暮らしている。そのお金をあっちこっちにばらまいて恩を売り付けるのがうまいので、この界隈ではいい顔だ。

 

この業界に入ってくる娘のパターンとして、それまでの生い立ち等から入るべくして入ってきたパターンと、たまたま巡り合わせが悪くて入らざるを得なくなったパターンとがある。あたしなんかは前のパターンで、身元証明もいらず、てっとり早く稼げる商売で、あたしに出来る商売はこれしか無かったし、あたしのそれまでの経験からして、ここに身を落とすのは造作の無い事だった。

でも、明美ちゃんは違う。明美ちゃんは、早くに父親を亡くし、母親の手一つで育てられたそうだ。だから片親とは言え、普通の生活を経験している。ところが、明美ちゃんが高校生になったころ、母親は勤め先の男と恋愛関係になった。相手は妻子ある男で、そのうちに二人の仲が相手の家族に知られるところとなり、随分揉めたらしい。

明美ちゃんは悩んだあげく家出し、ふらふらとこの街に出て来て、行く宛も無く歩いているところをマムシに声掛けられた。明美ちゃんは相手に弱みを見せたくないタイプで、高校時代は結構ツッパっていたらしいけど、悩んで家出して行く宛も無く、不安と心細さが胸の中で渦巻いている時にマムシみたいなプロフェッショナルに目を付けられてしまうと、これはもう逃げようがない。食事を奢ってくれ、寝る場所を用意してくれ、生活費に困ると適当なアルバイトを紹介してくれる。

マムシはそうして、少しづつ相手の自立意識を煽るのを餌にして心に侵入していく。もうここまで来れば大丈夫と言う所まで、手を抜かず巧妙に立ち回り、弱みを握り、ドンでん返しで相手に与える精神的なショックと絶望感を周到に用意する。そして、ある時を境に豹変する。

大抵は、それまでに立て替えてやったお金を返すようにと言う説得から始まる。勿論、言われた方は、お金なぞ借りた覚えなどないので拒否しかけると、その出鼻を挫くようにいきなり暴力だ。相手が反抗する気力を失うと、その体を値踏みして、お前なら何年で返せるんだがみたいな説得が始まる。

被害者は、つまりその一人である明美ちゃんは、それまでの薄気味悪いくらいにいたれりつくせりの優しさから、相手を物としてしか見ず、そこからどれだけ絞り取れるかしか考えない冷酷さへの豹変に一瞬、頭の中が真白になった筈だ。マムシは、そこを見逃さない。ある時は言葉で、ある時は態度で、ある時は暴力で、獲物を絶望のどん底に落とし込み、奴隷へと変えていく。自分の言うことを聞かないと、行き着く先は地獄しかないみたいな意識を擦り込んでいく。事実、明美ちゃんはマムシが引いた境界の中では、何をしようと自由だ。でも、少しでもそこから足を踏み出そうとすると、手厳しい一撃が待っている。誰よりも執念深く追いかけ、追い詰め、二度と同じことをしようとは思わなくなるまで肉体と精神の両面で叩きのめす。叩きのめす相手は、明美ちゃんだけではない。明美ちゃんをそそのかした相手にもきっちり落とし前つけさせる。

「隠さなくてもわかるよ、あんた達の間に何があったかくらい。でも相当マムシを怒らせたんだね。」

という晴美ちゃんの言葉に、明美ちゃんが縋る様な目で見た。それから暫くうつ向いていたけど、何かを決意して、

「うち、行ってくる。」

「行くって、何処へ。」

「マスターの所へ。うち、シンちゃんとの事、素直に白状して土下座して謝るわ。」

と、立ち上がりかけたところを晴美ちゃんが制する。

「止めといたほうがいいよ。あんたが行くと、火に油を注ぐようなもんだ。あんたの気持ちをわかる奴なんてあそこには誰一人いないんだから。」

確かにシンちゃんは素人なので、指つめろなんて事は言われないだろうけど、何もなければマムシの気が治まらないだろうから、それなりの事はされるに違いない。そこへ明美ちゃんが出て行ったとしたら、治まるものも、治まらなくなる。謝って済むほどの単純な精神構造を、彼らはしていない。あらゆる機会を自分自身の快楽のために利用するのが彼らだ。明美ちゃんが顔を見せようものならマムシは、待ってましたとばかりにシンちゃんを怒鳴りつけ、殴りつけるだろう。

「ほな、うち、どないしたらええのん。」

そこへゴロちゃんが入って来た。

「どんな様子?

と、晴美ちゃんが尋ねる。

「マムシの奴は、かなりカリカリきている。二週間前にも女に逃げられたところだからな。あいつの古いやり方じゃあ、若い女の子を繋ぎ止められないって事に全然気付いていないんだ。」

「シンは。」

と、明美ちゃん。

「とりあえず、無事。でも、これからどうなるかは、わからない。マムシは、指詰めろと言ってる。」

「素人相手に。」

「ああ。タイミングが悪いんだよ。あいつ、女に逃げられてからこっち、チンピラに金渡して、他の女達を見張らせてたらしい。おまけに明美、お前、最近随分口答えしてたって言うじゃないか。怪しいと思ってたらしいんだよ。」

「でも、今までにさんざん金を絞り取ってきたんだから、惚れたハレタくらい見逃してもいいじゃない。」

と、晴美ちゃん。

「マムシ、明美の部屋にあったと言って、旅行鞄を持ってきてたぜ。」

それを聞いて、明美ちゃんがハッと顔をあげた。

「洋服だの下着だのが詰め込んであって、マムシに内緒で作った貯金通帳まで出て来たけど、一切合財持って誰と何処へ行くつもりだったんだ。」

「あんた、まさか。」

と、あたしが言うのと同時くらいに明美ちゃんは、部屋を飛び出した。

「やばいよ。」

「ゴロ、つかまえて。」

ゴロちゃんが走り出て、それに晴美ちゃんとあたしが続いた。明るい控室から廊下に飛び出すと、一瞬何も見えなくなる。晴美ちゃんやあたしは馴れているので、何無く目的の方角を見つけ出せたけど、ゴロちゃんは何度も壁に頭や体をぶつけた。

狭く暗い廊下をコンパートメントとは逆方向に行くと、突き当たりの左手に小さいドアがあって、開けるとビルの非常階段に出る。あたしが非常階段に出た時には、明美ちゃんは既に、マスタールームや新人研修室のある一つ上のフロアーに飛び込んだところだった。

非常階段からドア越しにコンパートメントの方を見ると、お客の待合い室の灯が暗い廊下に漏れて、人の頭の影らしいのが二三見えた。多分、今の騒動を聞き付けて、待っているお客がのぞき込んでいるのだろう。今日の案内係はシンちゃんと、この店に入って二ヶ月目の子だ。シンちゃんがいない以上、その子にお客のあしらいをお願いしなければならないんだけど、シンちゃん程の機転を期待するのは、どだい無理な話しなので、ちょっと心配になったけど、事態が事態なので仕方あるまいと、晴美ちゃんの後を追って階段を上がる。

やたら激しく足音の響き渡る非常階段を上がってフロアに飛び込むと、そこは一つ下の階とは打って変わって、極く普通の事務フロアだ。明るいまっすぐな廊下のどん尽きに、マスタールームとあたし達に呼ばせている部屋のドアがある。普通の事務フロアと変わりないと言っても、廊下や部屋の、特にマスタールームの入り口は普通よりも狭く作られている。それが有事に備えた設計なんだそうだ。

廊下の左手は壁で、真ん中辺りにエレベーター、右手は男性用トイレと手前の女性用トイレに挟まれて、奥からあたし達のロッカー室、新人研修室、ゴロちゃんやマムシ達の溜まり場になっている部屋、シンちゃん達アルバイトの男の子達の仮眠室が並んでいる。マスターの部屋のドアだけが、他の部屋のドアに比べて重役室っぽい木目調に誂えてある。その木目調のドアが、今は大きく開かれて、中に何人かの人の姿が見えた。濛々とたち込める煙草の煙のために、誰が誰なのかはわからない。

廊下にはゴロちゃんと晴美ちゃんの後ろ姿しかなく、明美ちゃんはマスタールームに、もう飛び込んだ後なんだろう。晴美ちゃんが廊下に出してあった出前の食器にけつまずいた時、木目調のドアが一度バタンとしまり、反動の為にまたちょっと開いて、ゴロちゃんと晴美ちゃんがその中に吸い込まれていく。あたしも、続いて入ろうとして、ふとロッカー室を見ると、ツレさんが真ん中に置いてある長椅子に座ってボウッと中空を眺めているのが目に入った。ツレさんは、あたしに気がつくとニッと笑って、

「あっちの部屋は人が多くって、煙たくってね。」

と、つぶやくように言う。ツレさんは、年齢不祥のこの店唯一の事務員で、かつてソープで一世を風靡したことがあったらしいけど、つまらない情夫のためにいい年まで扱き使われて、体が使い物にならなくなってもやっぱり事務員として働き続け、情夫を養っている。扱き使われてきたために顔も不健康に黒ずみ、しわだらけで、とても老けてみえるところを、昔取った杵把の派手な厚化粧で覆い隠しているんだけど、それが逆効果になってよけいに老けて見えることに本人が気付いてない所が哀れさを誘う。底が見えないくらいに人が良くて、かつての情夫も年老いて、それまで入れ込んだ女達皆に見離されてしまったのに、ツレさんだけが律儀に面倒を見ている。何度か店にツレさんの給料の前借りに来たことがあるので、あたし達も相手の情夫の姿格好は良く知っている。痩せて、頭の禿上がった老人で、目が悪いのかしょっちゅう目脂を溜めていて、あたし達を見るとだらしない顔でヘヘヘと笑う。多分昔は、いなせな遊び人だったんだろうけど、あそこまで萎びてしまえば、それも見る影もない。完全にツレさんに頼り切って生きているくせに、たまに二人並んで帰る後ろ姿を見ると、ツレさんの一歩前を肩で風切る風にして偉そうに歩いているのは、最後のプライドの火を消すまいとしてのことだろうか。背中の曲がったツレさんがその後を付いていく図は、どうにも寂しく感じて見ていられない。

そのツレさんが、もう一度あたしを見てニッと笑うと、手を顔の前で左右に振って、早く行けと催促する。木目調ドアの隙間から男と女のどなり声が聞こえてきて、ツレさんが首をすくめるのを横目に部屋の中に飛び込むと、部屋の一番奥まった所にある檜の机に腰掛けたマスターの姿がまず目に入った。煙草を横にくわえて剃った眉毛の間に縦皺を作っている。マスターがこういう表情をする時は、たいてい何も考えていず、事の成り行きを楽しんでいる時だ。

そのマスターのまわりにかつての弟分だった派手な背広を着た五人の連中が腕組みしたり、腰に手をあてたりして、一番偉そうに見えるだろうと本人が信じているポーズで立っている。見てくれ程には中身はない。

シンちゃんは部屋の真ん中でパイプ椅子に座らされてうつ向いている。別に動きが取れないように縛られているわけではないけど、恐怖で体が硬直してしまったのか、微動だにしない。

どなり合っていたのは、入って右手突き当たりの金庫の前にいるマムシと明美ちゃんだった。マムシが明美ちゃんの貯金通帳らしきものを持っていて、明美ちゃんがそれを取り返えそうとして必死の形相でつかみ掛かっていた。ゴロちゃんと晴美ちゃんは、明美ちゃんに加勢するタイミングを逸したのか状況を見守っているだけだ。

「返して、返してぇな。」

と、明美ちゃんが必死にすがりつくのを、

「バカ野郎、舐めた口きくんじゃねえ。」

マムシが、さもおぞましい物を見る目で振り解こうとしていた。

「それ、あたしが貯めてきたお金や。あたしのもんや。」

「この世にお前の物なんか何一つあるか。お前が家出して来た頃、おれがどれだけ面倒見てやったと思ってるんだ。あの時、おれが居なかったら、お前どうなってたかわかんねぇんだぞ。その恩も忘れて裏切りやがって、このアマ。」

「裏切りやなんて...。今まで、あんたの言うとおりに働いてきたやんか。嫌なことでも我慢してきたんや。」

「当たり前だろが。お前みたいに汚れた女が、いっぱしの口きくんじゃねぇ。ちょっとくらい嫌なことでもありがたくさせていただいて丁度いい位だろうが。」

「汚れたやなんて、あんまり酷い言い方やない。」

「朝から晩まで男のチンポコばっかり舐めるくせに。それで、汚れてないとでも言うのか。」

「あんた、よう言うわ。あたしをこんなにしてしもたんは、あんたやないの。」

「おおそうだよ。今のお前があるのも、俺あってのことだよ。おい、シン。この女はな、俺の真珠入りのでないと駄目なんだよ。わかるよな、この意味が。何て言ってお前をたぶらかしたのか知らねぇけど、そのうちお前のにも真珠を入れてくれるように泣いて頼むようになるんだぜ。どうするよ、シン。」

明美ちゃんの顔が耳朶まで真っ赤になる。

「何て事言うのよ。」

「本当じゃねぇか。なぁ明美、思い出してみろよ。ええ、俺の体の下で何度も失神させてやっただろうが。あれ以来だろ、お前が男のあれ無しで暮らせなくなったのは。」

「あんたは...。」

「痛い。やめろ。バカ野郎。」

マムシの言葉に耐えかねて明美ちゃんが、マムシの右手に齧り付いた。それをマムシが床に殴り倒す。倒れたところをさらに二三回蹴り付けた。見かねて飛び出そうとしたあたしと晴美ちゃんをゴロちゃんが止める。

「だけど、明美ちゃんが...。」

「話がこじれるだけだから。」

シンちゃんはと言うと、明美ちゃんとマムシが揉み合っている間は何か言いたそうで、それでも何も言えずに横目で見てるだけだったけど、明美ちゃんが殴り倒されると怒りで顔を真っ赤にして助けにいこうとした。

「お前は大人しく座ってろ。」

立ち上がったシンちゃんを足ですくって倒したのは、マスターの弟分の一人で、オオガミというマムシに負けず劣らず見えっ張りで、だからこそマムシの良きライバルでポン友の男。シンちゃんはオオガミに派手にすくい倒されてかなり強く顔面を打ったらしく、上げた顔にベッタリ鼻血がついていた。晴美ちゃんがゴロちゃんの制止を振り切ってシンちゃんの元にかけより、顔を拭いてやる。オオガミは、倒れたシンちゃんに蹴り掛かろうとしたけど、血相変えた晴美ちゃんに気おされたか何もせずに後ろに下がった。

「おい、マムシ。いい加減にしねぇか。」

ここらが潮時と、マスターが腰を上げた。これ以上やられると、明美ちゃんの商品価値がなくなってしまう。

「しかし、マスター。」

「もう満足しただろう。」

「まだもうちょっと解からしてやりたいんですがね。もう二度とあんなことしねえように。それに...。」

と、明美ちゃんの髪の毛を持って顔を引き上げて、

「ほれ、まだこんなに反抗的な面してやがるんですぜ。この機会に痛めつけておかないと、他の女に示しがつきませんや。」

明美ちゃんは、殴られた時に口を切ったのか、キッと結んだ唇の端に血がにじんでいた。

「しかしなぁ、あんまり傷つけられると商売に支障がでるからな。そんな女でも指名してくれるお客がちゃんといるんだから。」

「傷だらけの体で出したほうが興奮する奴だっていますぜ。」

と、横からオオガミ。

「なるほど、そういう新しい趣向で考えてみるか。」

「そうそう」「その通り」と男達が相づちを打つ。

「ちょっと待ちなよ。手前勝手な事ばかり言いやがって。」

とうとう我慢できなくなって晴美ちゃんが口を出した。

「晴美、やめろ。」

と、ゴロちゃん。

「そうだ、ここはお前なんかの出る幕じゃねぇ。」

と、オオガミ。

「お前なんかとは、何なんだよ。」

あたしもつい応戦する。

「誰のおかげでそうして真昼間から遊んでられると思ってんの。あたし達みたいな女が骨身をおしんで働くからじゃないか。」

「わかった。わかったからそうカリカリするな。」

あたしと晴美ちゃんの剣幕を見て、マスターが場を取り繕う。

その時一瞬マムシの押さえ付ける手が緩んだのだろう、明美ちゃんがいきなり立ち上がって、マムシの手から通帳を奪い取り、

「これだけは、死んでも放さへんからね。」

と、自分のお腹に抱え込んだ。それはまるで、我が子を守る母親のようにも見えた。あたしは、早くに母親とも死に別れているので、その愛情がどんなのかも良くは知らない。でも、やっぱりいざとなったらああして、自分の身を犠牲にして守ってくれたんだろうなと思うと、その事を身を以て知っている明美ちゃんが羨ましい。

明美ちゃんの様子を見て、マムシ始め何人かの男達が鼻先でせせら笑った。

「いい根性してるじゃないですか。」

と、男達のうちの一人が手中にした獲物を品評するような口調で言う。マスターの一の弟分でクマガイと言う見るからに武闘派の男だった。

マムシはその言葉には答えなかったけど、その言葉の裏に込められたある種の期待に答えるべく、無言でゆっくりと一歩踏み出した。その殺気だった気配を感じて明美ちゃんが堅く目をつむった時、黒い影がマムシと明美ちゃんの間に割って入り、マムシに向かって飛び掛かっていく。さすがに空手二段で色々な修羅場をくぐり抜けてきたマムシだけあって、ひょいと影をやり過ごそうとしたけど、影の方が一瞬早かった。マムシは姿勢を崩して無様に尻餅をつく。ただ、そのことがマムシにとって致命傷になる筈もない。即座に跳ね起きて影の正体を確かめる。

シンちゃんだった。シンちゃんは鼻血で顔の下半分を真っ赤にし、唇の端をヒクヒクさせながらボクシングの構えでマムシを迎え撃つけど、ボクシングをかじったこともないシンちゃんと、空手二段のマムシでは結果は見え透いてしまっている。

「おい、シン。お前本当にいいんだな。」

そう言いながら、マムシはターゲットをシンちゃんに変更して、じわじわと楽しみながら間合いを縮めていく。明美ちゃんがシンちゃんを庇おうとして飛び出すのと、マムシがシンちゃんを餌食にしようとする瞬間と、突きを入れようとするマムシの手をしっかりと誰かが押さえ付けるのとが殆ど同時だった。

手を押さえ付けられて、マムシは全く動けなくなった。

「素人に手を出すのは反則ですよ。」

マムシの手を押さえ付けていたのはゴロちゃんだった。ゴロちゃんは押さえていたマムシの手を放すと、今度は関節をヒョイと捩じり上げてマムシを二人から遠ざける。

「放しやがれ、この野郎。」

マムシが開いた手を振り上げてボディーブローを入れに掛かるところをその体の勢いを利用して、まるでマムシ自らが転んだような体でひっくり返すと、両の手のひらをマムシの方に向けて、ちょっとタンマをかけた。

「ゴロ、てめえ。」

と、他の男達が殺気だつ所をマスターが押さえに掛かる。だけど、激怒してしまったマムシだけは押さえようが無い。顔からは完全に血の気が失せ口許がヒクヒク痙って、それは一見ニタニタと笑っているようにも見えた。ゴロちゃんは一瞬しまったと言う顔をしたけど、本気になったマムシを見て、これは止めようが無いと悟ったのかすぐに身構えた。その筋の人間を怒らせてしまったら、避けて通れないことをゴロちゃんはよく知っている。事は男のプライドにかかわる問題なのだ。ただ、あたし達から見ればそんなプライドなんかどうでもいいことのようにも思えるのだけど。

「おい、マムシがマジになっちまった。」

と、誰かがつぶやく。それは半ばマムシをからかい、より一層怒りを煽っているような口調だった。

「やめろよマムシ。」

「だめだ、もう奴には何も聞こえねぇ。」

「ハジキは隠しとけよ。ぶっ放されるとヤバイからな。」

男達は口々に言いながら、この状況をそれなりに楽しんでいた。後で酒の肴にでもするつもりだ。ある筈もない自分の武勇伝をでっち上げて交えながら。だから誰も本気で止めに入らない。

マムシの手がすばやく動いてゴロちゃんのお腹の辺りを横向きになぜる。白い光りが真横に走った。マムシは何時の間にかナイフを右手に持っていた。

マスターを見る。マスターは事務所が荒らされてしまう前に止めに入りたいのをこらえているのがわかる。でも、中途半端なところで止めると、かえって後に諍いの種を残してしまい、今までの、表面は一つにまとまった組意識がそこからバラバラになってしまう。店に問題が発生した時や、他店から営業妨害を受けた時や、あたし達女の管理には組の人間であるゴロちゃんやマムシの協力体制が必要なのだ。だから、中途半端に止めずに、どちらかが死なない程度にダメージを受けるのを待っているしかない。お互いプロなので、相手を殺してしまうことはない。勝負がつけば互いの優劣もはっきりする。そうなれば、上下関係が明確になり、陰でどうであろうが、表面上の協力関係が再び成り立つ。それに、ゴロちゃんとマムシは、ゴロちゃんの方が強いだろうと思われながら、互いの優劣をはっきりとはさせていなかったので、それにはちょうどいい機会だくらいにマスター始めまわりの男達は思っているんだろう。

マムシがさらにナイフを閃かせて突きを入れた。この喧嘩、冷静なぶんだけゴロちゃんに分があるみたいだ。ゴロちゃんはその手を叩いて、ナイフを奪い取り、背を低くしてマムシの次の攻撃に構える。

「ゴロちゃん、もういいよ。やめてよ。」

と、あたしは思わず叫ぶ。あたしの遠い、暗い記憶の中にこれと同じ光景が在った。ゴロちゃんの姿が弟の俊二の姿と重なる。多分次の瞬間、ゴロちゃんのナイフを持つ手がマムシの血で染まるに違いない。そして....

「だめだよ。もう止められないよ、多分。」

と、晴美ちゃん。

「だけど...。」

 

だけど、過去を蘇らせ始めたあたしを誰が止めてくれるんだろう。激しく眩暈がする。心臓がドクドクと大きな音を立てて、まるでそれは、暗い過去へと一直線に突き進む蒸気機関車のラッセルのようだ。体から力が抜けて崩れ始める。それを支えてくれる俊二はもういない。

目の前が突然真っ暗になって、あたしは中学生の頃のある夜の出来事の記憶を辿っていた。あの頃、まだ中学生だというのに、あたしは既に世間の事や大人達の事を知り過ぎるくらいに知っていた。世の中には何処に行っても受け入れられず心休まる寝床さえも与えられない者達がいて、恵まれた者達によってさらに追い詰められていく事を知っていた。力でその関係を逆転させようとしても絶対に不可能なことも。

大人達が早くに成熟したあたしの体から快楽をむさぼり奪い、苦痛だけをあたしのまだ幼い精神のあちこちに記すために毎夜訪れる事も、その、あたし達にとっては許されない行いが、大人達にとっては至福の瞬間である事も知っていた。そして、その事に怒りを感じながら、抵抗する術も持てず、暗いドロドロした敵意を身内に蓄積していた。

それは、弟の俊二も同じだったろう。

あの夜、俊二はこらえ切れずについにその身を撥ね起こした。若く荒々しいばねが彼の体を押さえ付ける理不尽な圧力に対して突然自己主張を始めるように、毎夜毎夜、大人達が本家のじじいの案内であたしの布団にもぐり込みに来る時、頭まですっぽり布団にくるまって、何も見ず、何も聞かないふりをしていた俊二は、密かに用意した登山ナイフを持って布団を撥ね除け、あたしの体をまさぐっていた大人に向かって立ち上がった。

「出ていけ」と叫ぶ俊二に、あたしは「もういい、もういいから」と、何がもういいのか自分でも判然としないままに、自分自身の怒りをさらに身内の奥深いところに沈めようとしていた。

「だめだよ、ねぇちゃん、あきらめちゃだめだ、こいつらはクズなんだ、クズにこんなことされてて、ねぇちゃん、なさけないよ、おれ。」

俊二は空いたほうの手を握り拳にして、ぐりぐりと涙を拭きながらそう言った。

あたしだって、毎晩のようにあたしの体に重くのしかかってくるそいつらが憎かった。そいつらは、昼間出会っても素知らぬ顔をして通り過ぎ、自分達の娘があたしと親しそうに口を聞いていると「あんな奴と口をきくんじゃねぇ」と有無を言わさず付き合いを止めさせ、そのくせ、夜になると交代でいそいそとあたしの布団に忍び込んできた。

あたしは何度、そいつらを皆殺しにするところや、そいつらの娘や息子を破滅させてやるところを思い描いただろう。でも、両親のいないあたし達の生活を守るために、本家のじじいに世話になっている以上、毎夜の大人達の訪問は仕方のないことなんだと、自分自身の感情の方を殺すことを身に付けてしまっていた。

それが、俊二の構えるナイフの鈍い輝きを目にして、殺しても殺しても殺しきれない無数の怒りの感情の亡霊が蘇えった。そして、体の奥底から骨と筋肉をギシギシ鳴らして熱い物が沸き上がり、四肢がわなわなと震え始めた。だけど、こんな奴等の為に犯罪者には成りたくない。俊二からナイフを取り上げなければと思った。だけど、体がすぐには動かない。俊二の動作の方がわずかに早かった。

大人は、相手が小学生のチビなので油断していたんだろう、すっ裸で立ち上がってニタニタと薄笑いを浮かべてナイフを奪い取ろうと一歩足を踏み出したけど、その足に向かって俊二はナイフを振り翳した。大人は、いきなり太股をざっくりと刺されて大声をあげて布団の上を転げる。痛みのためにその顔は情けないくらいに醜く歪んでいた。布団が血でどす黒く染まっていく。

悲鳴を聞き付けた本家のじじいの足音がした。あたしの中で「早く静かにさせなくちゃ」と言う思いと、「俊二を犯人にすることは出来ない」と言う思いが交差した。

じゃあ、誰が犯人になる。あたし。あたしが、こいつを静かにさせる。あたしにそんなことができるだろうか。

あたしは咄嗟に俊二の手からナイフをもぎ取ると、転げ回る大人の背中に突き刺していた。二度ほど突き立てたようだ。断末魔が家中に響いて、それで我にかえってみると、あたしの両手はベットリと血に濡れており、大人が体を丸めて倒れており、その体がピクピク小刻みに痙攣していた。

 

「どうしたの。ねぇさん、大丈夫かい。」

晴美ちゃんの声がして、あたしは我にかえった。煙草の煙の充満する中で、ゴロちゃんとマムシの睨み合いがまだ続いていた。取り巻いている男達から盛んに声援が飛ぶ。マムシの服には二三、切り裂いた後があった。ゴロちゃんがマムシを牽制するために切り突けた結果なのだろう、マムシ本人は全くの無傷だった。

部屋の中は熱気と汗と煙草でむせかえり、酸欠一歩手前見たいな感じだったけど、誰も窓を開けようとする者がいない。それが、部屋の中の興奮をさらに増幅しているようだった。

「思いきりよくやっちゃえばいいんだ。ゴロは優しすぎるよ。」

晴美ちゃんがエキサイトして叫ぶ。

晴美ちゃんの声を聞いてゴロちゃんは一瞬動きを止めて考えた後、ナイフをこちらに向かって床を滑らせるようにして投げた。

「晴美、持っててくれ。」

ナイフは、晴美ちゃんとあたしの足の間をすべって通り過ぎ、後ろの壁に当たって止った。

「どうしてよ。」

「いいから持っててくれ。」

ゴロちゃんがそう叫ぶのと同時にマムシが横っ飛びに男達をかき分け、酒やウィスキーの陳列してある棚まで走る。そして、手に触れた適当な瓶の首を掴むと棚の角にうちつけて壊し、ナイフがわりに持ち替えてゴロちゃんに向かった。

「ゴロ、ナイフ。」

晴美ちゃんがかけ寄るのを、

「来るな。」

と、手で制する。

その隙をついてマムシが躍り掛かった。ゴロちゃんはその一撃を左手で受け止めると、マムシの腹部を蹴りつけた。

マムシが腹を押さえて屈み込む。そこをゴロちゃんが蹴るなり、殴り付けるなりして勝負がつくだろうと誰もが予想したけど、ゴロちゃんはじっと立ったままマムシが体制を整えるのを待っている。左手が切り裂かれて、血がポタポタと垂れている。

「ゴロ、バカ、やっちゃえ。」

と、晴美ちゃん。他の男達も「何でやらねえんだ」と口々に叫ぶ。

しばらくして、マムシが体制を整えて立ち上がった。

「もう、止めよう。」

と、ゴロちゃん。

「馬鹿野郎。」

と、マムシが次の攻撃に移ろうとした時、突然電話のベルが鳴った。部屋の緊張が一瞬緩む。けど、誰も電話を取りに行かない。せっかく盛り上がっているのを電話に出ることで台無しにしたくなかった。でも、電話の音は確実に皆の意識の中に滑り込んでくる。何時か切れるだろうと高を括ったけど、どう言う分けか電話は何時まで立っても鳴り止まない。マムシの顔に緊張を繋ぎ止めるための焦りが見え始めた。

「マスター、電話。」

と、ゴロちゃんが叫んだ。

マスターが舌打ちして電話を取ろうとした時、部屋のドアがバタンと大きく音を立てて開いた。今度は全員そちらに集中する。立っていたのはツレさんだった。

「ツレさん、悪いな。今ちょっと取り込み中で。」

ツレさんは、マスターの言葉を無視して思いつめた顔で部屋を横切る。ツレさんが自分で用意した灰色のスモッグ姿でゴロちゃんとマムシの間を通り抜けても、そのただならぬこわ張った表情に圧倒されて二人とも言葉が出ないみたいだった。

「はい、『C21 』です。」

と、ツレさんが電話を取る。ツレさんは電話の相手に一つ一つ丁寧に返事を返して、最後に「どうもありがとうございました。お世話になりました」と、深々と頭をさげる。事務所に掛かってくる電話は大抵組関係なのでそこまで丁寧な応対をしている所など見たことがない。それに、ツレさんで処理できる電話の内容もない筈だ。だから余計に皆の興味を引く。

ツレさんは受話器を置くと、暫くそこに佇んでいたけど、ホッと溜息をつくとこちらに振り返る。

「ツレさん、どっからなんだい。」

「はい、マスター。病院からの電話でした。」

「病院。」

「ええ、主人が入院しておりました。」

「へぇ、しばらく姿を見ないと思ってたら、どっか悪いの。」

「はい、あの、癌でした。それで、つい先程息を引き取りました。皆様方には色々とお世話をおかけしました。最後に迷惑かけるのは、お前だけでいいから誰にも俺が入院していることは言わないでいてくれ。と言いましたので、皆様には何も連絡しませんでしたけど、昨夜は自分の最期を覚悟したのか、皆様によろしく言っといてくれと言ってました。とにかく、今日はこれで失礼させていただきます。後は葬儀屋に任せますので皆様にお手伝いいただくことは何もないと思いますが、お焼香に来ていただければ主人も喜ぶと思います。」

ツレさんはそれだけ言うと、またゴロちゃんとマムシの間を通って出て行った。その後姿には情夫から開放された女の喜びは何処にも無かった。ツレさんが出て行った後の部屋は興奮が殆ど醒めてしまっていて、それまでの熱気と比べると妙な静けさが漂っていた。誰もしばらくは動かなかったけど、

「どうします。まだ、やりますか。」

「今日のところは、やめだ。とんだじゃまが入っちまったんで、これ以上やったら茶番になっちまう。だが、これで済んだと思うなよ、ゴロ。かならず決着つけてやる。いいな。」

ゴロちゃんがその言葉にうなずく。さすがのマムシもこの急展開について行けず、不精不精の言葉だった。マムシの目からは闘争心は消えていたけど、怒りは相変らずくすぶっているように見えた。

「さて、じゃあ今日の落とし前だけはつけておくか。」

マスターが妙に明るい声で言う。取敢ず揉め事が片付いたのでホッとしたんだろう。ただ、マムシがまた妙な因縁を付ける前に後始末だけはきちんとしておこうと言うつもりだと思う。

「おい、シン。」

シンちゃんがビクッとしてマスターを見る。明美ちゃんがその肩をしっかりと抱く。

「お前は、チョーカイメンショクだ。なかなか良くやってくれるんで、お前さえ良ければ俺の弟分にでもしてやろうかと思ってたんだが、他人の女に手を出すな、店の商品にも手を出すなってのが、この店のルールだ。それを破ったんで、まぁ仕方ねぇだろう。本来なら指の一つも詰めて欲しいところなんだが、お前は素人なんでそれだけは勘弁してやる。だが、二度とこの界隈をうろつくなよ。うろついてるのを見つけたらただじゃぁおかねぇからな。特にこのマムシに見つかった日には命の保証は無いって事を良く覚えておけ。マムシ、シンは二度と明美には近付けねぇ、お前もシンや明美をこれ以上どうこうしようなんて考えるんじゃねぇぞ。素人に手を出して警察沙汰にでもなってみろ、アノカタにまで迷惑が掛かることになるんだからな。」

マムシは不服そうな顔でうなずく。

アノカタと言うのは、この近隣の県を束ねる右翼の大物で、ゴロちゃんやマムシの所属する組だけでなく、その組を管理する広域組織までも動かす実権をにぎっている老人の事だ。ゴロちゃん達の所属する組は特にアノカタがそこまでの権力を持つに至った素地を築くのに一役買ったので、近隣の組の上下関係図があったとしたら結構上位に位置している。また、『C21 』はアノカタの資金源になっている店の一つで、マスターが経営を預かり、ゴロちゃん達の組がその面倒をみている。マスターも元は組関係者だけど、アノカタから指名されて組を出て、店の経営者になった。この界隈にはそう言う店が結構ある。マスターは、そういう関連店舗のマスター達の兄貴分なのだ。ただ、かつては一睨みしただけで相手の対抗意識を失わせてしまう程の気迫に満ち溢れたアノカタも、寄る年波には勝てず、最近は裏切るものも出てきて、県警等はここがチャンスとアノカタが戦後築いてきたアンタッチャブルなベールを躍起になって剥がしに掛かっていて、マスター達も結構日々の行動に気を使っている。

「明美、お前は三週間の出勤停止だ。ゴロと晴美はシンがちょっかいかけねぇようにしっかり明美の面倒をみてやってくれ。」

「明美なら俺が。」

「馬鹿野郎。お前に面倒見させた日には、明美が使い物にならなくなっちまわぁ。そうだ、明美、お前にアルバイトさせてやらぁ。ショーケースの中に一日いててくれ。時間二千円でどうだ。晴美と一緒に来て、晴美と一緒に帰ればいい。これならシンもちょっかい出せねぇだろう。なぁ、マムシ。」

マムシは「グゥ」と一声鳴いた。

「シン、これは今までのバイト料だ。迷惑料差っ引いておいたからちょっと少ないかも知れねぇけど、今すぐこれ持って帰れ。ゴロ、シンが明美恋しさにフラフラ戻って来ねぇようにシンのアパートまでしっかり付いて行ってやってくれ。」

シンちゃんは、手渡されたお札の束を見て、何か言おうとしたけど、マスターの早く行けという目配せに、何も言わずに立ち上がった。

ゴロちゃんとシンちゃんが部屋を出ていくのを見届けると、あたし達に向かって、

「お前らも早く仕事にもどれ。明美、お前今日だけは仕事してもいいからな。」

マムシだけが憮然として部屋の隅の椅子に腰掛けていたのが気になったけど、明美ちゃんを促して仕事場に戻った。これで、この件はとりあえずは落着した。