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繁華街に面した雑居ビルの三階に『C21 』はある。『C21 』に行くお客は一階のレンタルビデオショップの横の衡立に隠れた小さなエレベーターに乗る。エレベーターには「開く」「閉じる」「一階」「三階」「非常用」の五つのボタンしかない。エレベーターの中もお店の中も、いつも耳障りにならない程度の音量でジャズが流れている。

エレベーターに乗って、「三階」のボタンを押して、ドアが開いたところがお店の入り口だ。淡い紫色の暖簾が掛かっていて、その向こうにクリーム色の壁に囲まれた白いカウンターがある。この白いカウンターはアルバイトの男の子達が毎日磨いていて、ピカピカだ。その向こうにビシッと糊の効いたカッタシャツに黒い蝶ネクタイをした男の子が立っている。お客はここでお金を支払い、指名したい女の子がいれば、指名する。

お金を支払ったお客が右手の白いドアを開けると、ショーケースと呼ぶガラス張りの三畳程の部屋があり、その中には常に何人かの女の子を屯させている。特に指名するあてのないお客はここで女の子を選ぶ。

ショーケースにはお客がゆっくり女の子を選べるようにとミラーグラスが貼り付けてあり、お客からは中の女の子の様子が伺えるけど、女の子の側からはお客が見えないようにしてある。シャイなお客が中の女の子から意識的に視線を合わされ、断りきれなくなるような事が起こらないようにと言う配慮からだ。

ショーケースの周囲には椅子とテーブルが置いてあり、お客はここで順番待ちをする。ショーケースの中の女の子を見ているも良し、沢山置いてある週刊誌に目を通すのも良し、壁に埋め込まれたテレビに無音で流され続けているアダルトビデオを見ているもよし。珈琲とジュースが飲み放題になっていてジャズが流れていてと、ちょっとしたカフェバーみたいで、その雰囲気を味わうために来ているお客がいてもいいくらいの所だ。

ただ、ショーケースの中の装飾については、とても趣味がいいとは言えない。女の子の部屋らしくするために壁は淡いピンクで、ローマンシェード式の白いシースルーのカーテン、掛け時計にはディズニーの七人の小人、白と黒の細い斜め縞模様のソファーにはピンクの生地に白いフリルの付いたハート型クッションと来る。これは、女の子の部屋なんで女の子達に内装や小物を選ばせるのが一番と考えて、マスターが誰彼構わず趣味を聞いて取捨選択無しに殆ど取り入れてしまった結果だ。おまけに置いてある漫画や雑誌が有志からの寄付で、ベルバラあり、微笑や主婦の友あり、プレイボーイありで、一体誰の部屋なんだと叫びたくもなるけど、お客はそんな事が目的で来ているのではないので、多少のアンバランスには頓着無い。

ショーケースの中で普段通りの女の子の生活をお客に見せることをあたし達はナイキンと呼んでいる。あたし達店の女の子はナイキンを命じられると、タンクトップにホットパンツから、ちょっとお洒落っぽい服装に着替え、お化粧も仕直して見栄え善くする。そのために普段から女子大生なんかがよく読む雑誌を見てファッションやお化粧の勉強をしておく。最近は、知的なファッションやお化粧に人気があるからで、この勉強する努力を心掛けるか否かで指名度がグッと変わってくるのだ。

あたし達はショーケースの中では、大抵雑誌を読んで過ごす。それにも飽きると順番待ちをしているお客を見て楽しむ。中から外は見えない筈なんだけど、実ははっきりとでは無いにしても、常連さんの顔が判別付く程度には見えている。あたし達は退屈すると、お客とできるだけ視線を合わさないようにしてチラチラとニンゲンカンサツをやる。あたし達を見ていきなりアッカンベーをする奴とか、あたし達のことを見たいのが見え見えなのに見ない振りして格好付ける奴とか、穴が開く程にあたし達をジットリと見る奴とか、完全にあたし達を物としてしか見ていない奴とか様々な奴がいる。ガラスの向こうで、それぞれがお互いに張り合って生きている。どれがどうと言うわけではない。他人事で見ると、どうあがいたって十把一絡げなのに精一杯が丸見えに見えて、落ち込んでいる時なんかに、逆に「まぁ、いいじゃない、こんどうまくやれば」と無言で励まされているような気がする。

それに、この店の中だけの話しだけれど、あたし達の存在価値がこの人達の為にあると思うと、何となく元気が出てくるから不思議だ。聖母マリアの気持ちとでも言おうか。

でも、店に入りたての頃はともかく、あたしほどの古株になると事前に電話であたしを指名して店に来るお客が多いので、忙しくてとてもナイキンなんかしていられないのが実情だ。それが、明美ちゃんの一件以来、晴美ちゃんかあたしのどちらかが、必ず明美ちゃんと一緒にナイキンすることになった。表向きは、シンちゃんが明美ちゃんに近づかないようにするということだけど、実はマムシから明美ちゃんを守ってあげるのが本当の理由だ。これは、あたしと晴美ちゃんが半ば無理矢理にマスターに認めさせたことで、マスターも、明美ちゃんとマムシの件については、何らかの手を打っておかないと、店が必要以上の損害を被ると考えていたようだ。なにせ相手はあのしつっこいマムシなのだ。このまま引き下がるとはとても思えない。ただ、あたし達がナイキンしてしまうと、店の売上がガクンと落ちてしまうことにマスターは不満だった。その埋め合わせは後で必ずさせてもらうとあたし達は約束した。あたし達にとってもナイキンの稼ぎは普段の半分以下に落ちるので、結構つらいものがある。ほとぼりがさめた後で今まで以上に肉体労働つまり売春行為をやって稼ぎを確保する覚悟だ。

「ごめんな。ほんとに悪いと思てるわ。必ず恩返しするから。」

と、明美ちゃんが繰り返し、繰り返し言う。

「いいよ、気にしなくても。あたしだって、あんたに頼る時もあるだろうから。」

「その時は、遠慮せんと何でも言うて。寝たきりになったらおしめやったって替えたげるから。」

「おしめねぇ。それまでにはいい男見つけておくから、そこまでの心配はしてくれなくてもいいよ。」

「そらそやな。うちやったってそうや。」

そこまで言うと、明美ちゃんはもう泣き顔になる。シンちゃんのことを思い出しているんだろうか。あの気の強かった明美ちゃんが、と思うと、可愛想になってくる。

「ショーケースの中で泣いちゃだめよ。ほら、お客が変な顔で見てる。」

「そうやな。あ、ツレさんまで見てるわ。」

明美ちゃんが指差すほうを見ると、確かにツレさんが男達に交じってこちらを見ている。これで涙でも拭けと言わんばかりに白いハンカチをヒラヒラさせている。

「ツレさん、こんな所に出てきたらマスターにどやされるのに。」

明美ちゃんは、今、涙ぐんでたばかりの自分のことを忘れてしまって、ツレさんの心配をしている。それが、彼女のいいところでもある。

アルバイトの男の子がツレさんを裏口に連れていこうとしているが、ツレさんは強情にショーケースの横を通ってコンパートメントと呼ばれるあたし達の仕事場へ通じる薄暗い廊下へと入っていこうとしている。情夫を亡くしてからこっち毎日だ。ちょっとおかしくなっている。だからと言って、へたに同情して心臓の弱いお客が薄暗い廊下であの厚化粧のツレさんと鉢合わせして、卒倒し、救急車沙汰にでもなったら大変だ。

「ツレさん、最近おかしいんよ。あたしを見て、変な名前でよぶねん。」

「変な名前 ?

「うん、何て言うたかな、ヨウコとかヨシコとか言うねんよ。」

「誰の名前だろうね。」

「知らんよ。でも、かなり親しそうに話しかけてくる。」

「そう。お葬式の時も大変だったからね。」

ツレさんの情夫は肝臓癌で亡くなったんだけど、それまでツレさんにさんざんな事ばかりしてきたのでさぞ喜んでいるだろうと思いきや、どこから調達してきたのか喪服を着、いつも通りの厚化粧の鼻の頭にうっすらと汗を掻いて悄然としていた。

ツレさんには、さしたる知り合いもなかったので、最初は全部自分で手配するつもりだったらしいのだけど、はたと考えてみて、今まで葬式に参列したことがなかったので、いったいどうやればいいのか見当もつかずに、あたし達が行った時にはアパートに一人でじっと座り込んでいるところだった。結局、あたし達がいろいろと手伝ってあげたんだけど、お葬式の間中、始まりから終わりまで殆ど何も喋らなかった。弔問の挨拶にも軽く頭を下げるだけで、時には客の言葉に不釣り合いな薄笑いさえ浮かべていたけど、それは嬉しくて笑っているのではなくて、対応の仕方を考えるのが鬱陶しくてその場凌ぎに作った反応という感じだった。

ツレさんの情夫の葬式は、まず会場探しから始まったけど、それはマスターの顔ですぐに見つかった。病院から葬儀会場までの遺体の運搬をサービスさせたとマスターが自慢していた。ツレさんは葬儀会場で自分の人生を棒に振らせた男との最後の対面をした。外では油蝉が今が盛りと鳴き叫んでいるのに、そこはクーラーが効き過ぎて風邪を引いてしまいそうな部屋だった。ツレさんはしばらく死後硬直の始まった情夫の顔を見つめた後、あたし達の方を向いて、

「これで。」

と貯金通帳を手渡し、軽く頭を下げた。おそらく情夫の目を盗んでコツコツと貯めこんだんだろう、葬式を出してお墓を作って充分お釣りの来る金額がそこには記されていた。

「これでお葬式出すんだね。」

ツレさんが無表情にうなずく。

「お墓も作りたいんだけど。」

「こんな奴と一緒にお墓に入るのかい。」

ツレさんが今までにどれだけ酷い目に合ってきたか見聞きしているだけに、言わなくてもいい事まで口について出てしまう。

「この人は天涯孤独だと言ってまして。このままだと入る墓も無いですし。あたしだって身寄りの無い身ですから、一人で入るよりはいいと思って。」

ツレさんの息が冷たく凍って見えた。

ツレさんにおかしな兆候が見え始めたのは、お坊さんの読経も終わりに近づいた頃だった。それまでうつ向いていたツレさんがふと何かに気がついたように上を向くと、きょろきょろとあたりをまるで何かを探すみたいに見始め、やがて意気消沈してまたうつ向く。こんなことを何度か繰り返すのをあたしや明美ちゃんが目撃している。

出棺の時、ツレさんはますます落ち着かなくなった。何かを探すように喪服の袂を探っては、首を傾げている。

「何か落としたの、ツレさん。」

晴美ちゃんが心配して声を掛けると、

「おかしいねぇ、ここに入れといたんだけど。」

「何を。」

「何をって、そりゃあ、何だったかねぇ。そう大事な物でもないんだけど、無いとなると気になってねぇ。何だったかねぇ。」

と言いながら、なおも探している。

「おかしなツレさん。」

とは思ったけど、そう気にはならなかったのも、ツレさんの気持ちを全然把握していなかったからで、それと言うのもあたしと明美ちゃんや晴美ちゃん同志でもそうなんだけど、同じ店に務めていながら互いのプライバシー、特に私生活については積極的には触れないのが鉄則で、ツレさんが実際にどんなことを考えて日々生活しているかなんて気に掛けたこともなかったからだ。

火葬場の焼却炉の扉が閉められると、ツレさんはいきなり白目を剥いてガタガタと震えだした。狐付きにでもなったみたいだった。腕を胸の前で組んで震えるツレさんをあたしと晴美ちゃんとで火葬場の隣にある休憩所まで抱えていった。途中、何度か我に返ったツレさんは火葬場に駆け戻ろうとしたけど、数歩戻るとすぐに力なくその場に崩れ込んだ。強い夏の日差しの中で、ツレさんは青ざめた顔に汗を一杯掻いて、それでもガタガタと震えていた。しばらく休憩所に寝かせていたけど、これはもうアパートに帰して、場合によっては医者を呼んだ方がいいだろうと判断して後をマスターと明美ちゃんに託してタクシーに乗せたけど、アパートが近づくとツレさんは正気を取り戻していった。

西日の差し込む、殆ど何もない殺風景なアパートの部屋で、ツレさんは、

「本当にすまなかったねぇ。自分でも何があったのか全然覚えていないんだよ。突然上も下も無い所に放り込まれちゃってさぁ、何が何だかわからなくなっちゃって、とにかく情けないばっかりで。」

あたしは、ツレさんのその時の状態がわかるような気がした。弟が死んだ時がちょうどそんなだった。あれは、地面にうっすらと雪の積もった二月の事だ。事故の知らせを受けて慌てて駆け付けた病院で、連れていかれたのは霊安室で、あたしはそこで無残な弟の姿と対面した。あまりに傷みが激しく目を背けたくなる遺体に弟である印を見つけた時、あたしはいきなり強い力で宇宙に放り出された様な気がして、気がつくと病室のベットに寝かされていて、看護婦さんが激しく暴れたんで鎮静剤を打った旨を告げて出ていった。あたしはその時も随分混乱していたけど、自分まで同じ所に行ってしまったんでは、誰も弟の後始末を付けてやれないじゃ無いかと自分に言い聞かせて何とか正気を保った。でも、その後からやってきたのは、それこそ狂った方がいっそ楽な程の悲しみだった。あたしは、それに病室の天井の染みを見ながらじっと耐えた。

ツレさんは一見正気に戻ると、それまでの寡黙さから打って変わって、あたし達を相手にペラペラと喋り始めた。多分そうすることで悲しみと戦っていたんだろうと思う。自分の今までの苦労話や楽しかった事なんかを取り留めもなく、息つく暇も無い感じで喋った。その中には、かつて自分は幸福な結婚生活を送っていただの、隠し子がいて今は立派に成長して、もうすぐ自分を迎えに来てくれるだの、どう考えても作り話としか思えないような話も交じっていた。あたし達は適当に相づちを打って、ツレさんが疲れ果てて寝入るのを待って、アパートを引き上げた。

翌朝、ツレさんはいつも通りに出勤していた。いつも通りの服装に、いつも通りの化粧に、いつも通りの歩き方だったけど、どこかが違っていた。行動が少しづつずれていた。本当は、裏の従業員用の入り口から入らなければならない所をお客用の入り口から入ったり、話をしている時に突然黙り込んだり、話題がとんだり、明美ちゃんを他の名前で呼んだりするのも、後でわかったことなんだけど、明美ちゃんのことを自分を迎えに来てくれた隠し子だと勘違いしていたからだった。そのために、ツレさんは明美ちゃんには随分優しかった。お菓子なんかをよく差し入れしている。明美ちゃんは甘党ではないので、ツレさんの差し入れてくれるお菓子があまり有難くない。といって、無下に断るわけにも行かないので、いただくだけいただいて、控室にほうりっぱなしにして置くと、何時の間にか空っぽになっている。たまにツレさん自らが控室に潜り込んでモグモグとやっている。目が合うと、

「これ、誰が持ってきてくれるのかしら、おいしいねぇ。」

と、空とぼけている所を見ると、ああ、この人はいよいよ駄目だと、思ってしまう。自分が他人に何をあげたかすらも忘れてしまうのだろう。マスターもツレさんには辞めて欲しいみたいだけど、今追い出すと、路頭に迷い出るのが落ちなので、なかなか言い出せない。殆ど敬老の精神で置いてあげているみたいだった。

 

ところで、あの一件以来、明美ちゃんの態度は随分変わった。反抗的な所がなくなり、仕事にも熱意が感じられる。そうなると、また、指名される回数が増えてきた。明美ちゃんは、そのさっぱりした性格のために、最近増えてきた自分の意見を持てない大学生に人気がある。

信じられないことなのだけど、明美ちゃんはあのマムシに対しても随分愛想良くし始めた。そうなるとマムシの警戒心も薄くなる。もっとも、マムシもさるもので必ず何か裏があると睨んで、最初はなかなかその警戒心を解いてくれなかった。明美ちゃんのマンションに必ず誰かを張り込ませていたし、時には、多分他の女達が稼ぎに出ていて遊び相手がいない時などは自分が張り込んでいたりした。あたしと晴美ちゃんは必ずどちらかが明美ちゃんに付き添ってあげて、晴美ちゃんが付き添っている場合はゴロちゃんの手前もあってそんな事はなかったけど、あたしが付き添っている場合などは自分の情婦の部屋に上がり込んで何が悪いんだと言う感じで部屋まで入って来ることもあった。明美ちゃんは嫌な顔一つせず、それどころかあたしの前でマムシにしなを作って甘えたりもした。マムシも最初は怪訝そうにして、時には「へたな芝居うつんじゃねぇ」なんて言ってたけど、二度三度と重なるとさすがに悪い気はしないらしく、金を巻き上げて出て行くだけでなく、そのまま泊まっていくようにもなった。そうなると邪魔になるのはあたしの方で、二人が妖しい雰囲気になってくるとそそくさと帰り仕度を始める。明美ちゃんは、「皆にこれ以上迷惑を掛けたくないので、嫌々ながらや」と言ってたけど、夜道を明美ちゃんのアパートから一人で歩いて帰る時などは明美ちゃん風に言えば、" あほくさく " なって、へんに酔っ払いに絡まれたりすると、こっちにこそボディーガードを付けて欲しいもんだと思ったりもした。

あたしと晴美ちゃんはここらあたりで明美ちゃんの付き添いを止めることにした。

「本当に大丈夫かな。」

と、晴美ちゃんは疑心暗鬼だったけど、子供じゃあるまいし、何時までついてても仕方がない。それに、明美ちゃんは皆の事を考えてマムシとも旨くやろうとしているようなので、やっぱりその思いは汲んであげるべきだろうと思うと主張して、晴美ちゃんを納得させた。実は、一日でも早くショーケースや明美ちゃんのお守から開放されたかったのだけど。

 

明美ちゃんから開放されて、久しぶりに休みを取ることにした。とは言っても、会社勤めじゃないので結構自由に休んではいる。生理休暇はきちんと取れるし、それ以外に、ただその日は気が乗らないとか、寝坊したついでにとかでのん便だらりと休む場合が多い。そんな日は、何をするでもなく、夕方近くまでひたすら眠るとか、街に出てぶらぶらするだけとかが常で、何かこうもっとスキッと気分転換できるような休みの取り方をしたことがない。

今回は、一週間も前から、マスターに休む許可をもらい、常連さんにも皆にも、休む休むと言い続けて気持ちを切り替えつつの休みだから、気合いが入っている。かと言って、特にスケジュールをぎっしりと詰め込んでいるわけでもないんだけど。

三日間ある内の二日目だけは、弟のお墓参りと決めている。それ以外は、海岸まで歩いてみようとか、ちょっと郊外に足を延ばして田園の中を歩いてみようとか、色々なプランを練っているだけでもわくわくする。まだ秋には遠く、真昼時など暑過ぎて蝉さえ鳴かない日々が続いているけど、日常の大半を占めているコンパートメントと控室とその間の薄暗い廊下を飛び出して、炎天下をデイパックと麦わら帽子で宛もなく歩いてみるのもいいと思った。。

考えてみれば、あたしの青春時代のどのページを捲ってもそんなお気楽なシーンは出てこない。弟と二人肩寄せ合って、今日をどう耐え忍ぶか、明日をどう生きて行くのかと言う不安と、他人とどう戦うか、他人をどう落しめて甘い汁を吸うかと言う精神的なひもじさだけが、あらゆるページの備考欄に記されている。

油断や弱気を少しでも見せた時が食われる時、加害者から被害者に転落する時で、そうなると同じ様に餓えた連中から寄ってたかってカモにされ、骨の髄まですすり尽くされる、そんな生き地獄が日常だった。あたしの心はカミソリのように冷たく、常に張り詰めていた。宛もなく歩く余裕など勿論何処にも無かった。

けれど年を取ったせいだろうか、あたしは今、たわいも無いシーンでこそ濃く浮き彫りにされるような何気ない心のゆとりを激しく求めている。別に今が平穏だと言うわけではない。女一人、生きて行くのに様々な障害が待っている。

それに、冷静に考えれば、毎日あそこを見せ、触らせながら、見知らぬ男の一物をしごいて排泄を手助けする自分の姿には、嫌悪とやり切れなさしか感じられず、胸の詰まる思いがする。

だからこそ、頬を撫でて行くだけの風、耳元を騒がせる虫の羽音、地面から立ち上る草息れ、遠い街の騒き、そんな物で今は、自分の心にアイロンをあてて、深く刻まれた皺を延ばしてしまいたいと切に思った。

明日は今日よりもっと辛い事が待っているかも知れないと言った類の気の滅入る予想にはもう慣れっこだ。

でも、ゆとりに対する欲求は、最近になって生まれた物で、馴れ合いになることを、なかなか許してくれない。それだけ、急ごしらえに贅沢に出来上がってきたんだろうか。それが時々体の裏側からあたしの皮膚をガリガリとひっかく。それが始まると、例えばコンパートメントから飛び出して、何処かに自分の身を埋めてしまいたくなる。そうでないと、あたしがあたしで無くなる感じがする。

多分、それは、あたしみたいに真暗闇の人生を歩いて来た者達が普通であろうとする時に通らされる通過点、踏み絵みたいなもので、人間の上層と下層に分けられる境目なんだろうと思う。普通に生まれ、普通に育ち、普通に生きていれば味あわなくてもいい感覚の筈だ。そう思うと、普通の女の子達に激しい嫉妬と憧れを感じる。その嫉妬心が、埋もれたあたし自身の肉体から別の新しいあたしの芽をふかせ、新生させてくれるんじゃないだろうかと言う期待もある、そんなことがある筈もない事をとっくに知ってしまっているのに。

 

休暇前日に早上がりしてトシを呼び出し、弟のお墓参りに同行してくれるように頼もうと思った。トシとは、晴美ちゃんの代打で知り合ってから、何度か会っている。久しぶりに弟の思い出話がしたくて食事に誘ったのが最初だけど、シンちゃんと明美ちゃんの事が気になったり、会う前に本番をしていた事がわだかまって思い出話など出来なくて、それが心残りで、また会う約束をした。

トシは携帯電話を持っていて連絡が取り易いし、誘えば二つ返事で出てきてくれるので、その後、あたしの方が甘えてしまって、滅入った時の話相手に選ばせてもらっている。トシにとっては、本当に迷惑な話だとは思う。仕事が終わって寛いでいるところを、あるいは女の子とデートの約束をしているところを、はたまた眠るまでの数時間を自分だけの為に使おうとワクワクしているところを、いきなり携帯電話で中断させられ、かつて世話になったことがある人の姉と言うだけで、自分の都合しか考えないずうずうしい依頼を掛けてくる。相手が若い女の子ならまだ許せるけれど、とんでもない、自分より五つばかり年増で、不特定多数の男の排泄作業を助ける仕事に従事した薄汚れた女からの依頼だ。うんざりして聞いているに違いない。最近は、何時かトシに、あたしの願い事の全てを断られる日が来るんだろうという、小さな刺の様な不安にチリチリとさいなまれ始めている自分を感じる。

最近、考え方も身のこなしも自分でもやたら前向きだと思うし、晴美ちゃん達からも「若返ったんじゃないの」と言われ、怪しまれている。全てそう、と言うふうに認めたく無いけれど、トシが文句を言わずに付き合ってくれることが一因ではある。

感謝の気持ちを込めて毎回奢ってあげているんだけど、何処で奢ってあげようか、何に喜ぶだろうかと考えを巡らせている時間が、あたしにとっては嬉しい時間に成ってきている。でも、それは、恋とか愛とかの類ではなくて、単に若い男の子の面倒を見てあげると言う自己満足な楽しみに留まっていると思う。ただ、そんな楽しみが無くなってしまうと、相見ての何とやらで、余計な寂しさを抱える事になるんだなと、まるで中空に張り渡されたピアノ線に足を踏み出す瞬間のような脅えが顔を出す。また逆に、まだそんな不安を抱えることができる自分に愛しさも感じてしまう。

 

その日も、トシは電話してから三十分で待ち合わせ場所の海猫に来てくれた。

「ごめん、待たせてしまって。」

相変らず、人の目をあまり見ないでものを言う。

「こっちこそ無理に呼び出して、忙しかったんじゃないの。」

「いや、電話してもらって嬉しかったです。」

「本当に。何か用事でもあったんじゃないの。」

「どうして。」

「え。」

「いや、どうして用事があったって思うのかなって。俺って、そんなに無理しているように見えますか。」

「あ、いえ、そんなんじゃなくて。あたしが俊二の姉だって事だけで、あなたを無理に呼び出してるんじゃないかなって、そう思ったの。そんな事してあなたに嫌われでもしたら俊二に顔向けできないでしょ。」

「大丈夫ですよ。俺ね、変わったんです。」

「変わった。」

「ええ、俊二さんに会ってから、変わったんです。俺、俊二さんにいつも、お前は無理してる、無理して、しなくていい事までしてるって言われてたんです。」

「俊二がそんな事を。」

「いえ、本当なんですよ。俺って、いちびりだったんですよ。小さい時から。自分で何でもこなして行かなくちゃって、何時も思ってたんです。だから、無理して何でもやってたんで、よく自分で自分に疲れてましたよ。おかしいでしょ、自分で自分に疲れるなんて。でも、本当に、その時は一生懸命で他のこと考える余裕なんかないんだけど、後になって、何であんなことやったんだろうって。そう考えると、どっと疲れを感じて、日曜日なんか丸一日寝てたこともあったんですよ。でも、そのおかげで、こう見えても優等生だったんですけどね。」

そう言われれば、そう見えないこともない。

「ある時を境に突っ張りの仲間入りをするんですけど、突っ張っててもやっぱりいちびりで、自分の度胸や強さを見せびらかしたくて、特にそのころ俺達の間ではもういい顔だった俊二さんに認めてもらいたくって、いろんなことやったんですけど、最後に小さな組のちょっといい位の奴に喧嘩売っちゃったんです。いかついのが何人か俺のまわりを取り囲んで、事務所に連れ込まれて、袋叩きにされて、あわや指落されるって所に俊二さんがダイナマイト持って助けに来てくれたんです。」

「ダイナマイトを。」

「ええ、ダイナマイト。でも、それがまた、偽物なんですよ。」

「ダイナマイトが。」

「そう。相手もおっかなびっくりで、今回ばかりは勘弁してやるって、俺もてっきり本物だって思ったんですけど、俊二さんに聞いたら、バカ野郎、お前ごとき助けるのに本物なんか使えるかって。その時、始めて俊二さんが言ってくれてた言葉の意味がわかったんですよ。無理し過ぎてるって意味が。この世の中には、無理できる人間と、無理すると底の見えちゃう人間と、二通りあると思うんですよ。偽物のダイナマイトを持って仁王立ちした俊二さん、格好良かったなぁ。俺なんかには、とても真似の出来ないことです。へたにやったら、ボロが出て半殺しの目に会うだけでしょうね。俊二さんだからこそ出来たんだ、あんな事。」

確かに、俊二は色々な修羅場をくぐってきたから、度胸だけはあった。でも、誰にも負けまいとして、いつも無理して強がっていたのも事実だ。ま、それをトシに言う必要は無いだろうけど。

「結局、無理して何かやったって、底が見えるだけですもんね。それから後、無理したり、我慢するのを止めたんです。だから、別に、俺、無理して姉さんに会ってるわけじゃあないですよ。こうして、俊二さんの思い出話をするのが楽しいんです。」

「そう、だったらいいんだけど。あたしもそれ聞いて安心したわ。」

「姉さんも楽しそうにしてくれてるって、思ってるんですけど。あの、俺、姉さんに会えるのが嬉しいんですよ。」

今日のトシは良く喋る。普段は大人しい子なんだけど、俊二の話をする時は、結構多弁になる。それでも、今までは今日ほどじゃ無かった。多分、遠慮が無くなってきたんだろう。もっと垣根を取っ払って、甘えてくれてもいいとも思う。俊二も外では強がっていたけど、二人だけの時はかなり甘えん坊だった。

最近、あたしは、俊二がいなくなってからポッカリ開いた穴にトシを押し込みたいと言う衝動を感じる。それは別にトシでなくてもいいのかも知れない。丁度目の前にいるのがトシで、俊二を好いてくれていて、あたしのために時間を割いてくれ、あたしと話をしてくれる。格好の、と言うと語弊があるかも知れないけれど、対象として申し分がないのは事実だ。

俊二とは、精神的には勿論、肉体的にも強く結ばれていたと思う。確かにセックスこそしなかったけど、あたしに肉体的な悦びを感じさせてくれたのは、あたしの今までの人生の中で、悲しいかな実の弟の俊二だけだった。それを強い結合と言うならば、それ以外の男とは、どうしても強い結合を持てなかった。辛い、暗い過去があたしをそう言う風に捩じ曲げてしまった。

じゃあ、トシとは。トシとはどう言う風に結合できるのだろう。

「どうして嬉しいの。」

「え。」

「どうして、あたしと会うのがそんなに嬉しいのよ。」

「いや、だって...。」

「俊二の話をする為だけに、誘いに乗ってやって来るわけ。」

「それもありますけど、それだけじゃなくて...。」

「彼女がいないんだ。」

「います。」

「じゃあ、もっとそっちと会う時間を持たなくちゃ駄目じゃない。」

「そりゃまあ、そうなんですけど。」

「他の男に取られちゃうよ。」

「ねぇ、どうしてそんな話するんです。確かに彼女の事も大事だけど、俺と姉さんとの今の話題には全然関係ないと思うんだけど。」

確かにそうだ。何を言ってるんだろうと思う。何が言いたいのか。

「煙草ある。」

「え。」

「煙草よ。」

「マイルドなら。」

「いいわ。ちょうだい。」

トシの手から煙草を一本抜き取って、火を付けてくれるまで待つ。トシは、しばらくして、やっと気がついて、慌ててジッポーを取り出す。ハーケンクロイツの真ん中に骸骨の模様が浮き彫りになっている奴だ。オイルの匂いが鼻先をくすぐる。

何気ない感じで、トシの鼻先まで煙を送り込んでくゆらせる。そうして相手を焦らすのだけど、そんな芸当ができる自分を情けなく思う。

「嫌になっちゃうわね。」

ああ、まただ。あたしは、今、投げ遣りなセリフを牽制球にして、トシにモーションを掛けようとしている。自分の寂しさを紛らわせる為だけに。

「何が。」

「ごめん。何でもないのよ。」

中学生の時、始めて犯されてからこっち、あたしはずっと男でも女でもない、そんな存在になりたいと思ってきた。暗い雪の夜、あたしの上で、無表情に見開いたあたしの視線に頓着せずに、ひたすら腰を動かす大人にとって、あたしは人間ですらなかったけど、その方がいくらか気が楽で、そいつらが、たまにあたしを女としてジトッと見つめる時、あたしは自分の体が溶けて無くなればいいと、心から願っていた。

俊二と抱き合って眠る時、姉である間は安らげた。そこに男と女の内に秘めた情念が顔を出すと、途端に自分が乳房や生殖器だけで出来上がった大きななめくじの化け物になったみたいに感じた。神様か誰かが、あたしに塩をかけて、この世から消してしまってくれればいいと、そう思う半面で、そこから先、さらに広がる暗闇に化け物みたいな体ででも構わない、どっぷりと漬かり込んでしまいたいと願う自分の業に、涙したこともある。

女であることの凄まじさはもう御免だと、今までに何度となく味わってきて、もうとっくに一段落したと思っていた。

 

「あの、お願いって何ですか。」

「お願い。」

「電話で言ってたでしょ。ちょっと、お願いがあるんだけどって。」

そう言えば、俊二のお墓参りに一緒に行ってくれとは、まだ言ってなかった。

「いいのよ、もう。」

「いいんですか。」

「ええ。そんなに大層なあれじゃなかったの。」

「遠慮せずに言ってくださいよ。」

「ええ、ありがとう。でも、片付いちゃったし。」

あたしは、咄嗟に嘘をついた。そして、なんてじめじめした奴だと、後悔する。

「明日からの休みの事じゃないんですか。」

「休み。」

「三日間の。この前、言ってたじゃないですか。始めてきっちりした休みを取るんだって。」

「ああ、そう言えば、そんなこと言ってたよねぇ。」

「俺、明日は仕事だけど、明後日は休みが取れたんで、何処か付き合って欲しい所があれば、言ってくれれば付き合いますよ。」

「いいわよ、そんな。せっかく休みが取れたんなら、自分の為に使いなよ。」

心の中にギリギリと歯軋りするもう一人の自分がいる。そんな自分を打ち消すように完全に冷めてしまった珈琲をグイッと飲み干す。

「あたしは、三日間、この町を離れて、心の洗濯をしてくるから。」

「何処かへ旅行ですか。」

「まぁ、そんなとこね。」

「そう.....。」

トシは、言いかけた言葉を飲み込んで、口をつぐむ。あたしは、天井に向かって煙を吐きだす。自分自身を欺く時は、天井に向かって煙を吐き続けるのがいい。自分が一本のズンベラボウの管になったような気がして、何も考えられないように仕向けることができる。トシはトシで、ジッポーを手の中で弄んでいる。

と、そこにトシの携帯電話が鳴り響いた。

「すいません。ちょっと電話してきます。」

「そこですればいいじゃない。」

「ええ、まぁ、外で掛けてきます。」

「彼女から。」

「まぁ、そんなとこです。」

トシが席を立ち、目の前が寒くなる。店の真ん中に置いてある水槽の泡の音が妙に大きく聞こえる。

「だらしねぇな。」

突然、後ろの席で声がした。最初は自分に掛けられた声とは気が付かない。

「やきがまわったね。」

.......。」

「昔の冬生ねぇさんは、そんなじゃなかったけどね。」

そこで始めて後ろを振り向く。晴美ちゃんだった。

「何時の間に。」

「男の子が来る少し前あたりから。」

「声、掛けてくれればよかったのに。」

「心ここにあらずって顔した人に声なんか掛けられますか。」

「そんなじゃないよ。」

「出て来た相手が、昔のあたしの常連だとくる。」

「その件に付いては.......。」

「シンちゃんから情報を貰ってるよ、とっくに。それは、まぁ、いいとして。こんな風に発展するなんて。また、マスターがピリピリ来るよ。」

「何でもないのよ。」

「何でもなくって、あんなじれったい喋り方になるわけ。『C21 』の最古参の冬生ねぇさんがねぇ、へぇ......。おっと、戻って来たよ。」

晴美ちゃんに促されて、入り口の方を振り返ると、こちらを見て足を止めたトシがいる。多分、晴美ちゃんの姿を見かけて一瞬、戸惑ったのだろう。でも、再び視線を落として歩いて来た。

「お久しぶりね。」

そう言いながら、晴美ちゃんがこっちのテーブルに珈琲持参で移ってきた。

「どうも。」

と、トシ。あたしと晴美ちゃんを前にして、眩しそうに眉をしかめて席に着く。

「どう、あんたの体の隅々までを良く知っている女二人を前にした感想は。」

「晴美ちゃん。ちょっと止めてよ。」

「御免。からかってみたかったのよ。ところで、何の話してるのよ。明後日の俊ちゃんの墓参りの話かな。」

「墓参り。」

「ねぇさん、言ってたでしょ、墓参りに行くって。」

普段は、外で逢っても声掛け合う程度で、後はお互い干渉せずの筈の晴美ちゃんが、今日に限ってシャシャリ出て来た理由がはっきりした。踏み込む勇気がなくて、物別れに終わりそうなトシとあたしとの話に弾みを着けてやろうという魂胆だ。

「墓参りに行くんですか、俊二さんの。」

「いや、やっぱり止めとこうかなって。それより旅行の方がいいでしょ。」

「行けばいいじゃない、墓参り。たまには行ってやりなよ。そうだ、あんた、一緒についてってやりな。世話になったんだろ、俊ちゃんに。」

「ええ。明後日なら空いてるんですよ。」

「決まりだよ。明後日、行っておいで。この子についてってもらいな。そうだ、あたしも行くよ。俊ちゃんのお墓のある町の隣町ってのが、実はあたしとゴロが幼い頃に住んでた町なんだ。ゴロ、全然近づきたがらないんだけど、冬生ねぇさんダシにして、連れてってやろう。いいだろ、ねぇ。」

勝手に話を進めて、「いいだろう」もない。

「ちょっと、待ってくれない。こっちにはこっちの都合ってものがあるんだし。」

「都合も何もないよ。行くことに決まったんだよ。ねぇ、ええっと、何て名前だっけ。」

「トシ。」

「御免、ねぇトシ。そうだよねぇ。」

「そうですね、行きましょう。」

「トシ、あんたまで。」

「旅行なんて口から出任せ言うんじゃないよ。俊ちゃんがいなければ、日も夜も開けなかった癖に。おまけに、こんな若い男たぶらかして。」

「たぶらかしてだって。」

「それは、ま、いっか。」

「よくないよ。あたしが、何時たぶらかしたって言うのよ。」

「そうですよ、俺たぶらかされてないですよ。」

「そうか。たぶらかしたのは、トシ、あんたの方か。」

「晴美ちゃん。」

「おっと、悪い悪い。そう怒らないで。」

それから晴美ちゃんは、テキパキと明後日のスケジュールを決めていく。あたしは、不承不承の顔をしていたけど、内心では晴美ちゃんに感謝すべきだろうと思っていた。

結局、ゴロと晴美ちゃんは組事務所のベンツに乗っていく、あたしとトシは、トシのカワサキの四百で行くことにした。

オートバイに乗せて貰うのも久しぶりだ。俊二が生きていた頃は、二人でよく、信州あたりまで遠出したものだ。そのまま雛日た温泉に一泊か二泊する。ちょうど、俊二が死ぬ一年前くらいだったろう。あたしも水商売で結構な稼ぎになっていたし、俊二もバーテンとして働き始めて、それなりに収入があって、二人遊んで暮らしていくには充分なお金になった。あたしは、そのままずっと人生が続いて行ってくれればいい、いや、続いていくものだと信じていた。

 

その夜、また俊二の夢を見た。

晴美ちゃんと別れた後、トシと軽く飲みながら、俊二の思い出話を幾つかしたのだけど、その中で北海道の話もして、自分達が炭坑の町で生まれたこと、その町で、父親が落盤事故で死に、母親はあたし達を育てるのに懸命に働き過ぎて過労で死んだこと、両親との死別によって叔父の家に引き取られたこと、叔父の家は昭和新山の近くにあったこと、そこで辛い経験を沢山したこと、その度に弟と抱き合って我慢したこと、弟が死ぬ少し前に「ねぇさん、今度昭和新山見に行こう」と言ってたこと、だから、いつか弟の骨を持って昭和新山に行きたいと思っていること等を取り留めもなく喋った。俊二の夢を見たのは、その所為じゃないかと思う。

夢の中で、あたしと俊二は草原の中に寝っ転がって、昭和新山を見ていた。その日の昭和新山は、抜けるような青い空をバックに、柔らかな稜線を見せていた。弟は、あたしの方を見て、ニコニコ笑っている。優しい笑顔だった。「あんた、そんな顔できたんだね」と、あたし。「もうすぐだよ」と、弟。「何がもうすぐなんだい」弟は、それには答えずに、前をじっと見ている。と、山の麓からこちらに二人、駆けてくるのが見えた。「あれだよ、ねぇさん」「何が」「もうすぐ解かるよ」「何が解かるのよ」二人の姿が近づいて、大きくなってくる。それは、叔父の家を逃げ出した頃のあたしと俊二の姿だった。追っ手を気にして、時々後ろを振り返りながら走ってくる。二人の後ろを十人ばかりの大人が追いかけて来る。「こっちよ、早く」と、あたしは思わず叫ぶ。だけど、二人にはあたしの声が聞こえないようだ。すぐ間近に来ても、二人は前方を見据えて、ひたすら逃げ延びることだけを考えて、走り続ける。と、あたしの方が何かに足を取られて、つんのめった。「ねぇさん、早く」「だめ、足を挫いたの、あんただけでも逃げて」大人達が近くに迫ってくる。それは、毎晩のようにあたしの体にのしかかってきてた奴等だった。大きく足を広げさせられたあたしの上で、良心の呵責などとっくの昔に崩れ去ってしまった顔をして、ひたすら腰を動かし続けていた奴等だった。「ねぇさんだけを置いて行けない」俊二があたしにおおい被さる。そこを大人達が取り囲む。奴等は手に手に棍棒を持っている。「だめ、止めて」あたしは弟の制止を振り切って、奴等の間に割って入り、あたしと俊二を守ろうとする。と、あたしの体が、もう一人のあたしの体をすり抜けた。その瞬間、晴れていた筈の空がかき曇り、風が吹き、雪が舞い始める。幼い日のあたしと俊二の姿も、大人達の姿も消えてなくなった。その風景の冷たさは、必死で逃げていた、あの頃のあたしの心を写しているみたいだった。そして、あたしの側には、霊安室で見た変わり果てた姿の弟が倒れていて、微かな息の下で、「ねぇさん、御免」と言う。「無理に喋らないで」と、あたし。「でも、もうすぐだからね」「何がもうすぐなの」「もうす.......」弟の姿が見る間に地面に溶け込んでいく。弟が完全に溶け込んだ地面を茫然と見つめるあたしに、また温かな日差しが降り注ぎ始めた。昭和新山は、再び柔らかな稜線を取り戻す。「そうして、繰り返していくんだ」と、弟の声がする。「だから、ねぇさん、もうすぐなんだよ」「そうね、もうすぐね」

 

夢から冷めて、あたしは、すぐにでも俊二の骨を抱えて北海道に帰りたいと言う衝動に、布団の中で膝を抱え込んで必死で耐えた。俊二は帰りたがっていると、確信した。あたし自身も、もう一度出発点を確認したいと、心から願っていた。そう、昭和新山の麓を駆け抜けたあの日が、あたし達にとって全ての意味に於て出発点だったのだ。

あの日、あたし達は大人達に見つからずに逃げおおせた。確かにあたしは足を挫いたけど、昭和新山の麓の草原の小さな風穴が、あたし達の体を隠してくれた。そこで夜まで待って、暗くなると国道沿いに歩き、トラックを拾い、あたしの体を条件にして、青森まで移動した。それから、あたし達は西へ西へと逃避行を続け、気が付けばこの町まで来ていた。途中、生き抜くために色々な事をした。殆どが、後ろ目たい事だったけど、まだ未成年のあたし達が誰の助けも借りずに生きて行くには仕方がなかった。誰の助けも借りたくなかった。あたし達は、お互い以外は誰一人として信用できなかった。そんな人生の出発点にあたしは、必ず帰り着こうと思った。そこには、あの時、あたし達が気が付かなかった何かがきっとあるに違いない。