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トシが迎えに来てくれるまで、あたしはずっと眠っていた。ネグリジェにガウンをはおって出て来たあたしを見て、トシは「オッと」と小さくつぶやいた。
「何よ。」
「いや、ちょっと早く来すぎたかなと思って。」
「いいのよ。トシが来てくれなかったら、晴美ちゃん達と約束した時間が来ても、ずっと眠りっぱなしだわ。上がって待っててよ。」
「ここでいいですよ。」
「遠慮されて、大事な玄関先汚されちゃ適わないから、リビングで待っててよ。」
「ひでぇな、どうも。」
と、頭を掻きながらリビングに付いて来た。ソファーにかけさせて、珈琲を出してやる。
「ずっと以前にお邪魔した所とはえらい違いですね。あの頃は四畳半二間だったと思うんですけど。」
「それに二畳ほどの台所とね。」
「ここは、ええっと....。」
「3LDKよ。」
「広いんですね。」
「そりゃ、苛酷な肉体労働してるんだから、これくらいの場所に住めないと割りに合わないよ。トーストでも食べるかしら。」
「いや、俺、食って来ましたから。いつもの癖で、朝御飯、自分で作っちゃったもんで。」
「へぇ、自分で作るんだ。」
「有り合わせなんですけど。」
「賄い夫に調度いいわね。ちょっと待っててね。シャワー浴びて、仕度してくるから。テレビ、これでつくから。リビングは気を付けて掃除してるんだけど、他の部屋は無茶苦茶なのよ。開けて覗いたりしたら命の保証は無いからね。」
三、四十分たって仕度を終えてリビングに行くと、トシはソファーの上に足を組んでテレビを見ていたけど、ティーシャツにジーパン姿のあたしを見て、
「今日はちょっと曇ってるし、風も吹いてるんで、ウィンドブレーカーかサマーセーターでもあった方がいいですよ。バイクに乗ってると冷えるから。」
と言う。それで、ウインドブレーカーを引っ張りだして、はおったけど、実際にバイクで走り始めて暫くも行かないうちにトシの忠告を聞いていて良かったと感じた。
薄曇りの上に、高速が海沿いを走っているので結構風が冷たい。それに、高架に上がると、風を遮る建物が無いので、海風が思った以上にきつい。バイクの風と海風で体温が見る見る奪われていく。風を防ぐためにトシにしっかりとしがみつく。そうすると、俊二とのツーリングが思い出されて、段々に興奮していく自分がわかる。あたしが興奮し始めると、トシの背中の温度も少し上がったように感じたのは、たんなる気の所為だったんだろうか。
高速に乗って三十分ばかし走ると、道は山間部に向けて大きくカーブする。そのカーブする手前で高速を下りて暫く行くと、右手に晴美ちゃん達と待ち合わせの約束をした私鉄の駅がある。バイクから降りたあたしは、久しぶりにバイクに乗った緊張と興奮の余韻でまっすぐに立っていられなかった。
「大丈夫。」
と、トシが手を貸してくれる。手を差し伸べてくれたトシの体が急に大きく、やけにしっかりして見えた。
五分も待たないうちに晴美ちゃん達が白いベンツで到着した。
「御免ね、待った。」
と、晴美ちゃん。車が昨日の晩から持ち出されていて、朝になってもなかなか帰ってこなかったので、約束の時間に遅れるんじゃないかとヤキモキしながら事務所で待っていたんだそうだ。だから、高速を二百キロ近いスピードですっ飛ばして来て、日頃の憂さがみぃーんな晴れちゃったんだそうだ。
ゴロちゃんにトシを紹介する。ゴロちゃんは、オッと言う顔をしたけど、すぐに「どうも」と、頭を下げて普段の顔に戻った。だから、お互いに顔見知りなのかなとも思ったけど、どうやらトシの方はまるっきり初対面のようだった。
「もと、あたしの常連よ。」
と、晴美ちゃんが紹介する。ゴロちゃんは「そりゃ、どうも」と、二度目の頭を下げる。トシの方が、そう紹介されてドギマギしている。あたしは苦笑しているしかなかつた。
俊二のお墓は、その私鉄の駅の裏から出ているケーブルカーで山に登った所のお寺にある。そこからさらに先へ行くと、公園やキャンプ場になっている。どちらもそのお寺が経営しているらしい。
お墓と言っても、墓石も塔すらもない、ただ骨を預かってもらっているだけの事なんだけど、そのお寺には無縁仏も含めて、そんな骨壷が何十とある。無縁仏の骨壷は無造作に積み上げてあるだけ。俊二のは、高い供養料を支払ってあるので、ちゃんと棚に仕舞われている筈だ。
晴美ちゃんの提案で、お寺まで徒歩で登ることにした。ケーブルカーで二十分、徒歩だと二時間くらいの道のりらしい。ゴロちゃんが先頭に立ち、晴美ちゃん、あたし、トシの順にジグザグしてても結構急な山道を登っていく。ゴロちゃんと晴美ちゃんには勝手知ったる道らしく、先にドンドン進み過ぎてたちまち姿が見えなくなる。二人は、適当な所で待っててくれて、やっとこ追い付くのだけど、歩き始めると再び姿が見えなくなる。静かな山の中にいて、後ろで規則正しいトシの足音がする。それだけで、随分と安心感を与えてくれる。
中腹を越えた辺りで雑木林を抜け、展望が利くようになる。山の登り口にあった私鉄の駅自体はまだ見えないけど、私鉄の駅からも見渡せた海が眼下に拡がっている。陽光が海面に反射して無数の煌めきを投げかけて来る。その中を大型船舶が何隻かゆっくりと移動している。多分、何百年の間変わりもせずに、ここから見渡せた海の姿だろう。海面の光りの乱反射も、島影も、大きいか小さいかの違いこそあれ、船達も、その上を舞う海鳥も。
海からの風が心地良く吹き始める。濃い緑が山一面を覆い、山道にも遠慮なく張り出し、余程注意していないと道を見失ってしまう所もある。風が吹き、山全体の緑が揺れ動くと、自分自身の体すらもその中に置き忘れて見失ってしまいそうな気がする。そんな中、「あっ」と思う間も無く、あたしは道を踏み外していた。はみ出した草で、道のある所かどうかがわからずに、そこに足を置いた途端に斜面を一つ転がり落ち、その向こうの空が殆ど見えない緑の天井の下に仰向けに倒れ込み、腰をしたたかに打った。転がっている最中に、目の前を空や地面や緑なんかが交互に流れて、自分が何処にどんな風な格好で倒れているのかがわからなくなる。
「ねぇさん、大丈夫ですか。」
トシが慌てて、同じ緑の天井の下に飛び込んできて、肩を抱き上げてくれる。あたしを心配そうにのぞき込む顔が一瞬、俊二に見える。
「俊...。」
と言いかけて、あたしは「はっ」と気が付き、折角親切に差し伸べてくれた手を
「大丈夫だよ。」
と、邪険に払いのけてしまった。トシは、それを気にする風もなく、あたしが立ち上がるのを待っててくれる。そのトシの態度に何故かカチンと来た。
「大丈夫だよ。」
と、もう一度言うと、あたしはズキズキ痛む腰を我慢してさっさと登り始める。その後から、トシの足音が規則正しく付いてくる。あたしは、何故かこれにもイライラさせられた。
「先に行ってよ。」
トシが不思議そうな顔で見る。昔、弟と二人で内緒で飼っていた小犬を一瞬思い出す。
「先に行ってって言ってるのよ。」
トシは、突然言われて驚いたままの表情で先に立って歩きだす。ピチッとしたジーンズに包まれた長い足が規則的に動くのを見ながら、あたしは、乳首がツーンととんがって来るのを感じた。
山頂近くにあるお寺に、晴美ちゃん達は、一足も二足も早く着いていて、本堂の石段に腰を降ろして、あたし達を待っていた。
「遅いよ。」
と、晴美ちゃん。ゴロちゃんと二人で、石段に腰掛けている姿は、やっぱりどう見ても高校の同級生だ。それ以上のものが感じられない。
本堂の脇から住職を呼び、納骨堂に案内してもらう。住職はお堂にはあたし達を入れず、中から白い素焼きの壷を大事そうに顔の前に捧げ持って出てきた。それをそのまま本堂まで持ち込むと、白木の箱に入れて仏壇の上段に安置し、香を焚き、お経をあげる。一連の作業が、淀みなく、手慣れた様子で進められる。お経が終わると、あたしは手土産の和菓子の包みに金子の入った点袋を添えて差し出す。住職はそれをチラッと見て、自分の左側に寄せ、抑揚のない声で訓話を垂れる。どこにでもある訓話に、トシは、殆ど夢うつつの状態だったけど、全く頓着せずに最後まで、住職自身眠ったような顔で語り終えると、それではこれでと、立ち上がりかけた。
「あの。」
と、住職を引き止める。
「何か。」
「お骨を見せていただきたいんですが。」
多分、頻度の高い要望の一つなのだろう、住職はちょっと、太い眉毛を動かした後、
「あまり、前例のない事なんですが。どうしてもと、おっしゃるなら。」
と、重々しく言い添えた後に仏壇から箱を取ると、恭しく畳の上に置き、中から素焼きの壷を取り出すと、あたしの前に置き、「どうぞ」と蓋をとる。あたしは、おそるおそる中を覗き込む。あとの三人も、あたしの後ろからそっと覗き込む。壷の中には所々黒く焦げた灰色の欠片が幾つも詰め込まれている。
「俊ちゃん。」
と、心の中でつぶやく。これらを始めて壷の中に入れた日の事が昨日の事のように思い出される。変わり果てた弟の死体との対面から、お葬式を経て、管の蓋の閉じられる音、火葬場のかまどの中から出て来た骨だけの姿、そこには弟の姿など何処にも認められず、「違う、違う」と言いながら壷に入れていったっけ。
「よろしいですかな。」
「え、ええ。もう結構です。」
それでも住職は何かを待っているかのように、動こうとしない。やがて、
「仏様に手を合わせられんのですかな。」
あたし達は、慌てて手を合わせる。住職は満足して骨壷の蓋を閉じた。蓋にマジックで俊二の姓名と、享年が書き込まれていた。
「折角ですので、今日一日、お骨をここに置かせていただいて、お経をあげさせていただきましょう。」
これは、忙しいから帰れと言う丁重な合図と見て、「よろしく」と後をお願いして、本堂を出た。
何時の間に上がってきたのか、さっきまで誰も居なかったお寺の境内に、黄色い帽子を被った幼稚園児の一団が思い思いに座り込んで、お弁当を食べている。全部で二十人ばかり。二人、三人と輪になって、あたし達にとっては何の意味もない言葉を口々に言っては、笑ったり、怒ったりしながら食べている。あたしも、トシも、晴美ちゃん達も、その子達からちょっと離れた所に座って、麓の駅前にあったファーストフード店で買った、冷えたハンバーガーを食べた。
「あたし達だって、あの頃は、まだ父ちゃんも母ちゃんもいたのにね。」
と、園児達を見ながら、誰にともなく晴美ちゃんが言う。
「あの...。」
と、トシが言いにくそうな顔で晴美ちゃんを見る。晴美ちゃんはトシが何を言いたいのかを察して、
「殺されちゃったのよ。」
「殺された。」
「あたしが小学校三年生の夏だったっけ、組同士の喧嘩で。一家団欒している所にいきなり相手の組員が入ってきて、父ちゃんを刺して、止めに入った母ちゃんを刺して、見てたからって言うんで兄ちゃんを刺して、あたしを刺そうとしたところで止めて出て行っちゃった。血の海の中で動かなくなった父ちゃんと母ちゃんと、まだ生きてて痛い、痛いって呻く兄ちゃんを見てたのよね、あたし。近所の人が物音に驚いて見に来てくれるまで。」
「父さん、組員だったの。」
「ちがう。真面目な工員だった。間違えたのよ、そいつ。同じ長屋の隣の隣と。」
「そりゃ酷い。」
「酷いなんてもんじゃないよ。まぁ、不孝中の幸いで兄ちゃんは助かったんだけどね。」
「兄さんて。晴美ちゃん、兄さんいたの。」
「いたよ、でも何処かでのたれ死んだんじゃないかな。」
「会ってないの。」
「まぁね。」
ゴロちゃんがいきなり立ち上がって、水道の所まで行き、水を勢い良く出して、飲み始める。
「あいつ、昔っから涙もろいんだよ。」
と、晴美ちゃんが笑う。それで、話題がゴロちゃんの事に移った。
「ゴロちゃんとの付き合いは、長いの。」
「知ってるだけなら幼稚園の頃からだから二十年近い付き合い。今みたいな付き合いは、あたしが高校生の頃からだから、もうかれこれ七年だよね。」
「彼氏なわけ。」
「違うよ。ダチよ、ダチ。」
ダチと言われたゴロちゃんは、晴美ちゃんの隣に寝転がって憮然と園児達を見ている。
ゴロちゃんは、必要以外のことはあまり喋らないので、どっちかと言うと取っ付きにくいタイプで、一人で居る時の方が多い。あたし達は勿論のこと、マスターの弟分達でさえ、あの誰からでも情報を入手するマムシでさえもゴロちゃんの氏素性は知らないようだ。知っている筈の晴美ちゃんは、ゴロちゃんのことについては、あまり話題にしたがらない。
「あたしとゴロはダチにしかなれないんだよ。ね、ゴロ。」
ゴロちゃんは、やっぱり憮然として園児達を見ている。
帰りは、登ってきた道とは反対の方向に降りることにした。お寺のある山自体が半島みたいになっていて、登り口とは反対の方向に降りていってもやっぱり海がある。線路は、山の麓伝いに大きく回っているので、降りていくと、私鉄の一つ隣の駅に辿り着くことになる。晴美ちゃんやゴロちゃんが育った町がそっちの方向にあるんだそうで、今回、晴美ちゃんがゴロちゃん共々、俊二の墓参りに付いて来ることになったのは、ゴロちゃんが俊二と知り合いだったからと言う理由の他に、晴美ちゃんがゴロちゃんに見せたい場所があるからなんだそうだ。
登りよりも急な坂道を転がるようにして降りて来ると、山道は、国道に達した所で終わっている。山の上は吹く風も涼やかだったけど、麓まで来ると、どんよりと淀んでいる。クマゼミやアブラゼミの鳴き声が暑さを一層募らせる。国道沿いに海側を国鉄と私鉄が並んで走り、その向こうにはかつて海岸があったらしい。今は、埋立が進んで、海岸の名残の打ち捨てられたトタン拭きの海の家が幾つかあるだけで、本当の海はもう何十メートルも沖に押しやられてしまった。
「これは、アノカタの息のかかった工事だよ。」
と、晴美ちゃんがゴロちゃんに言う。ゴロちゃんは、緊張した面持ちで、それでもやっぱり憮然としている。
「工事業者も、何もかも、アノカタの息のかかった奴等なんだ。地元業者は一切入ってないんだって。地元の人達は皆反対したんだけど、押し潰されちゃった。最後まで反対した地元の環境保護団体の人達の中には怪我人すら出たらしいよ。」
晴美ちゃんは、怪我をした人達の名前を幾つか挙げた。そして、最後に「皆知り合いだよね」と、付け加えると、ゴロちゃんの顔が一瞬痙った様に見えた。
国道を横切り、二メートル程の高さの金網を乗り越えて私鉄の線路に侵入する。昔は、金網でなくて、古い枕木にコールタールを塗ったもので垣根が組み立ててあって、簡単に乗り越えられたらしい。
線路は私鉄とその海側に国鉄とがあって、あたし達が渡り切ったところで私鉄の臙脂色の上り電車がうだる暑さをかき分けてやってきた。ちょうど大きなカーブで、線路が曲がり切った辺りにあたし達はいて、多分電車の機関士からは、突然あたし達が現われたように見えたんだろう、驚いて大きく目を身開いた機関士の顔が、悲鳴のような警笛の音と共に走り去っていった。
晴美ちゃんは、電車の走り去った方に歩き始める。線路の上に逃げ水が出ている。あたし達の背中は汗でべったりと服が張付いていて、誰も喋ろうとはしない。線路の石を踏む音と、国道を走り過ぎる車の音と、埋立工事の音が耳に纒割り付く。
「ここだよ。」
と、十分程歩いて、突然立ち止った晴美ちゃんが振り返る。ゴロちゃんは何時の間にかあたし達の後ろにいて、じっと埋立地を見ている。
「ゴロ、ここなんだよ。」
「晴美ちゃん、何がここなのよ。」
「由紀枝ねぇちゃんの自殺した場所。」
「自殺。」
「そう、いきなり下り電車に飛び込んだのよ、あたしの目の前で。」
突然の話であたしとトシは面食らってしまう。
「由紀枝ねぇちゃんて....。」
「あたしとゴロの共通の知り合いなんだけど。ゴロと同い年で、あたし達三人は、いや、他にも何人か仲間がいたんだけど、一時期同じ場所に寝起きしていたことがあったんだよ。自殺したのは、ちょうどあたしが中学生の時だった。」
「その人が、自殺...。」
「由紀枝ねぇちゃんは、生まれて間無しに患った病気のために耳が聞こえなくて、全然音の無い世界に住んでたんだ。だから、電車の来るのがわからなかったんだろうって、事故で片付けられちゃったけど、あたしと何度も来てる場所なのに、どんなに運が悪かったとしても事故なんかで死んじゃうわけがないんだよ。」
「電車に飛び込んだんですか。」
「あたしは見てたんだ。一度はあたしと線路を渡って海岸に降りて来てたのが、いきなり引き返して、通り掛かった電車の前に手を広げて立ち尽くすのをね。」
ゴロちゃんは、相変らず無表情に埋立地を見ている。晴美ちゃんは頓着せずに、
「あの時の由紀枝ねぇちゃんの横顔、毅然として、覚悟を決めた顔だった。キッと電車を見据えてた。何かに立ち向かう時の顔だった。いじめっ子からあたしを守ってくれた時の顔だった。そう、由紀枝ねぇちゃん、どれだけあたしのことを守ってくれたか。由紀枝ねぇちゃん自身聾唖者で、言葉一つ喋るのにあたし達の数倍も努力して、それをまたバカにする奴もいたのに。あたしが、親無しっ子ってからかわれて泣いていた時に、よく、そのいじめっ子達の前に立ちふさがって、あたしを守ってくれた。こんなふうに手を広げて立って、ウォーッてうなってくれたんだ、すごい形相で。皆気味が悪いって逃げ出した。そのねぇちゃんの血が、あたしの顔や体にもいっぱい飛んできて、ねぇちゃんの体が、あっという間に電車に巻き込まれて、骨の砕ける音がして、手や足が飛び散って......。聞いてんのか、ゴロ。」
「聞いてるよ。」
「聞いてねぇよ。」
「聞いてるって言ってるだろ。」
「聞いてる振りしてるだけだよ、お前は。何度も誘っただろ。由紀枝ねぇちゃんが、お前が来てくれるのを待ってるから、由紀枝ねぇちゃんは、お前のこと許したがってるからって、何度も誘ったのに、一度だって来やしなかった。」
「だから、今日来たじゃねぇか。」
ゴロちゃんの消え入るような声が、通り過ぎる電車の音にかき消される。あたしとトシは、唖然として成り行きを見ている。晴美ちゃんは、流れる汗か涙か分からないけれども拭おうともしない。
「十年目にして、やっと。誰に義理立ててたのか知らないけど。」
「お前だってそうだろ、晴美。」
「あたしは快楽で返してやったよ。あたしの体を使ってな。義理なんて何一つ残っちゃいねぇよ。」
「それ以上に世話になってる部分てのがあるだろう。」
「そんなもの、今までのあたしへの仕打ちを考えれば、全部帳消しだよ。ゴロ、お前だって同じだろ。お前だって、悩んだ筈だ。あたしのことや、由紀枝ねぇちゃんのことや、お前自身のことや。」
「悩んで仕方ない場合もあるんだ。」
「そうやって、自分一人、先に整理付けちまったわけかい。」
「整理が付かないから今まで来なかったんだよ。」
「由紀枝ねぇちゃんを殺した奴が憎くはないのか。」
「ちょっと待ってよ、ついさっきは、自殺したって。」
「いや、あれは殺されたんですよ。そうだな晴美。お前はそう言いたいんだろ。」
と、ゴロちゃん。
「わかってるじゃねぇか。」
「あたしには全然わからないんだけど。」
「御免、冬生ねぇさん、何がどうなってるのか、折角ここまで付き合ってもらってるんできっちりと説明したいのは山々なんだけど.......。」
「晴美。」
と、ゴロちゃんが制する。
「わかってるよ。今は、もうちょっと、あたしとゴロに付き合って。時期が来れば必ず全部を話すから。」
あたしは、晴美ちゃんの気迫に圧されて頷くしかない。
強い日差しが容赦なくあたし達を焦して行く。黒い影がふと横切る。鳶だろうか、一羽、獲物を求めて高い所を舞っている。
「あの時は、ほら、ゴロが立っている丁度その辺り、トオモロコシが実を付けてたんだ。よくあっただろ、線路っぷちの貧相な畑。あたしと由紀枝ねぇちゃんは、おやつがわりにキュウリをもいで、よく食べたもんだったけど、あの年は作物は殆ど立ち枯れてしまっていて、四、五本のトオモロコシだけがなんとか実を付けていて、それにも血がいっぱい飛び散って、それが見る間に固まって、赤茶けたトオモロコシが出来上がって。実が熟したら盗んで食べようねと、前から楽しみにしていたトオモロコシだった。海からの風で、トオモロコシが思い思いに茎と葉を揺するんだけど、まるで由紀枝ねぇちゃんが御免ねと、あたしに謝っているみたいだった。」
晴美ちゃんは、そこまで言うと、口をつぐんでじっとゴロちゃんの方を見る。ゴロちゃんでありながら、実は全然別物となってしまったゴロちゃんが物理的に存在しているだけであるかのように、無表情に見ている。
近くの電柱にアブラゼミが止って、うるさく鳴き始める。
そう言えば、蝉は長い長い年月を土の中で暮らして、わずかの時間だけああして地上で生活するんだと、昔、俊二が教えてくれたっけ。そうだ、二人でハルゼミの抜け殻を探して歩いて、迷子になりかけたこともあった。あれは、母ちゃんが死んで、本家に引き取られてすぐの頃で、あたし達は、あの時からずっと、蝉みたいに土の中にもぐりっぱなしなんだなと、何故かふいにそんな事を考えた。
ハルゼミの抜け殻はとても薄くて、手荒に扱うとすぐに壊れてしまった。土の中で、蝉の見ていた夢が、飛び去る時に全部そこに置いていかれてしまって、主がいなくなって、自分が現実だか夢だかわからなくなって、方向性を失って、一つ一つの結び付きが弱くなってしまうから、だからあんなに華奢で壊れ易かったんだろうか。
ゴロちゃんは、晴美ちゃんに見られているのを知っているのかいないのか、やっぱり埋立地の方を見ている。ゴロちゃんも晴美ちゃんも蝉の抜け殻みたいだなと思った。
晴美ちゃんが無表情に見ているのは、ゴロちゃんの抜け殻で、晴美ちゃんとゴロちゃんはそのことをよく知っていて、そして、当の晴美ちゃん自身も実は抜け殻であることを二人はやっぱりよく知っているんじゃないだろうか。じゃあ、二人の本当の姿はいったいどこに飛んで行ってしまったんだろうか。
「由紀枝ねぇちゃんは、ゴロの事、好きだったんだよ。」
ゴロちゃんは、煙草を胸ポケットから取り出して吸おうとしたけど、空なのに気がついて、空箱を手の中で握りつぶして放り投げる。トシが差し出したのをちょっと笑って手を振って断る。
「ゴロも好きだったよな。」
「....。」
「お互いに好きあっているのは知ってた筈だし、その事についてとやかく悩む事は何もなかった筈だよ。ゴロも由紀枝ねぇちゃんも、まわりで煩く言う親や親類縁者がいなかったんだから。」
長い貨物列車が地面を揺らして通り過ぎる。線路と鉄輪の触れ合う時の無機質でかん高い音が鼓膜を強烈に刺激して、頭の働きの全てが一度中断させられる。
「あたしは多分、由紀枝ねぇちゃんの自殺の本当の原因を知っている。」
「やめろ。」
「そうか、やっぱりゴロも知ってるんだな。ゴロが一度いなくなったのが、あの後だったから、何か関係がありそうだったけど。あいつの差しがねなんだろ。」
「やめろと言ってるだろ。」
「それから五年後に戻ってきたゴロは、もう昔のゴロじゃなかった。まさに身も心も。あたしもそうだった。何もかもが変えられてしまっていた。」
「晴美、やめてくれ。それ以上言うと、おれはもうお前を守ってやれなくなる。それどころか、....。」
ゴロちゃんが、夏だと言うのに思わず震え上がる程に冷たい視線を放つ。
「わかったよ。」
晴美ちゃんは、近くの草むらで野の花を集めて花束を作り、それを線路の枕木の上に置いた。
「あたしも由紀枝ねぇちゃんが好きだったよ。多分、始めて好きになった女だよ。ねぇ、ゴロ、由紀枝ねぇちゃんは決してあんたのこと責めちゃいないと思うよ。」
そう言うと、一人で先に立って元来た方に歩き始める。
それは、まるでたちのぼる陽炎の中に自分の全てを投げ入れ、焼き尽くしてしまいたいと考えているみたいだった。
「ゴロちゃん、あんた晴美ちゃんのことどう思っているのよ。」
と、晴美ちゃんには聞こえないようにゴロちゃんに尋ねる。
「ねぇさん、勘弁してくださいよ。」
「好きなんでしょ。」
「あいつと俺とは、そんなんじゃないんです。」
「じゃあ何故いつも一緒にいるのよ。それが、あなたの仕事だからなの。」
「多分、時期が来たら晴美の方から喋れると思います。それまで待っててやってくださいよ。俺だって、まだ分からないことがいっぱいあるんです。」
ゴロちゃんは、懇願するような顔でこちらを見た。
ところで、あたし達は国鉄の線路の上を歩いていたんだけど、前からクリーム色の快速電車がやって来たので、線路の端に寄った。少し前を歩いている晴美ちゃんも一度は寄ったんだけど、捜し物をするみたいに線路の上をキョロキョロと見ていた。
電車はどんどん近付いてきて、線路の端にいるあたし達を見つけて、お愛想程度に警笛を鳴らした。勿論、速度を落とすわけでもなく、陽炎の中、客車の箱をユラユラさせながら通り過ぎようとしたその時、晴美ちゃんがいきなり線路の上に踊り出た。
「晴美ちゃん。」と、あたしが叫ぶのと、ゴロちゃんがダッシュするのとが、殆ど同時だった。
電車が悲鳴のような警笛をあげる。
電車の前に手を広げて立った晴美ちゃんに、ゴロちゃんの黒い影が重なり、少し遅れて、そこを電車が通過した。
電車はブレーキの音をきしませて、あたしとトシの前を灰色の塊になって駆け抜ける。
電車が通り去った後、線路の向こう側に二つの人影が立ち上がるのを見た。
「すげえ。」と、トシが言いながら、そっちに駆け出す。あたしも後を追う。
人影の一つ、ゴロちゃんの方が、もう一つの晴美ちゃんの頬を叩く。
あたし達が駆け付けた時は、晴美ちゃんが頬を押さえてうつ向いていた。あたし達を見ると顔をあげて「御免」と、つぶやくように言う。ゴロちゃんは、そんな晴美ちゃんを冷たい目で見ている。
「どうしたの。」
「へへ、由紀枝ねぇちゃんの気持ちを実感してみたかったんだ。怖かったよ。」
「バカ。」
ゴロちゃんが、人が来るとやばいと言うので、金網を乗り越えて国道に出る。道路は海水浴帰りで既に渋滞が始まっていた。ノロノロと動いている車の助手席に座った女の子や子供達が、あたし達を怪訝な目で見る。
とにかく、四人とも汗みずくで、特に晴美ちゃんとゴロちゃんは泥だらけの格好だった。晴美ちゃんが銭湯に入って帰ることを提案した。
五分も歩くと、昔は海岸線だった堤防際にへばり付いた薄っぺらな町が見えてくる。町は、国道沿いの飲食店やラブホテルと、漁師町と、山沿いの住宅地と、小さな駅前の商店街とで出来上がっていた。駅前の商店街は、あっと言う間に通り抜けてしまえる規模で、八百屋と肉屋と本屋と小さな地元のスーパーマーケットで主に構成されている。
あたし達は、スーパーマーケットの二階で下着やティーシャツやジーンズを仕入れて、晴美ちゃんの案内で商店街を出て、今にも崩れそうな壁や屋根を丸太でつっかい棒した平屋で仕切られた狭い路地を通り抜けたところにある銭湯に入った。
銭湯は、二十人も一度に客が来れば満員御礼の札を掛けなければならない程に狭く、そして、多分その程度の広さで充分な人数の客しか来なくて、たいした儲けもなく、長年改装すら出来てないんだろう、ガタピシと鳴る女性用のドアを開けると、老人が番台に座っており、目をしょぼつかせて料金を受け取っていて、脱衣室のプラスチックの篭など、番台の老人同様殆ど変色しかかっていた。あたしは、汗で体にはり付いた服を脱ぎながら番台の老人を見て、昔『ゲゲゲの鬼太郎』であんなのを見たなと思った。たしか、山奥の森の中で片足で立っていて、人がやって来るまで何百年と待って、人が来るとうまく騙して、交代してもらう奴だ。
床が歩く度にキュッキュと鳴る脱衣室から浴室に入ると、暗さで一瞬前が見えなくなった。外がまだ明るいので、電灯をつけずに天井の明かり取りからの光りだけを頼りにしているからだろうと思ったけど、目が暗さに慣れてよくよく見渡してみると、タイルの継ぎ目の白い筈の部分が黒っぽく変色している。不潔で黴が繁殖しているからではなくて、やはり長年の澱のような物がそこに溜まっているからだろう。タイルそのものは毎日磨き込まれて艶が出ていた。さらに言えば、浴槽の向こうの壁の絵などは富士に松原と言うオーソドックスな物で、富士はかろうじて判別できたけど、松の木や砂浜の色なんかが殆どかすれてしまっていて、かつて色の載っていた所が白く残っており、それが余計に薄暗く感じさせる元になっている。
お客は、あたし達を除くと老婆ばかり三人、仲良く湯舟につかって、潮風にもまれてきた甲高いだみ声でのべつ幕無しに喋っている。男湯は、ゴロちゃんとトシだけなのだろう、喋り声もなく、その内に湯の音さえもしなくなった。どちらも、自分からすすんで喋るタイプではないので、二人で湯から顔を出して黙りこくっている所が想像できた。
晴美ちゃんは、少し遅れて入ってきて、洗い場で体を流しているあたしの隣に腰掛けて、いきなり顔をジャブジャブと洗い始める。少し硬そうだけど小気味良く盛り上がった乳房が小さく揺れている。晴美ちゃんが下を向くと、乳房の下側の普段は見えない場所にチリチリと痙った後が見えたけど、誰しもそれなりに他人に触れて欲しくない過去があるのをあたし達は毎日の中で嫌と言うほど見てきているので、知らぬふりをした。
晴美ちゃんが化粧を落とすと、骨ばった素顔が現われた。いつもは、化粧で顔の丸みを出しているんだろう。そう言えば、晴美ちゃんにしろ、明美ちゃんにしろ、今までにも彼女らの素顔を見た記憶があまりない。どんな時でも、同僚にさえ、自分の素顔を見せないというのが、この業界で生きて行く者の鉄則みたいになっている。それは、翻せば人様に自信満々で見せられる様な素顔を持っていないと言うことなんだろうか。
「お先に」と、湯舟に体を浸す。午後の早い時間の銭湯の浴槽は、まだ、あまり汚されていない青い水の匂いがした。
あたしは、浴槽の縁に肘をついて目を閉じる。老婆達は、飽きもせずに湯舟の中で昔話や世間話の花を咲かせている。腑抜けたような平和な空気が、そのまわりを取り巻いている。あまりに平和過ぎて、誰かに催眠術を掛けられているような気がする。手を打ち鳴らす音と共に目を開けると、あたしは裸で寝かされていて、農作業や出稼ぎ労働に疲れ果てた中年が、あたしの体の上で、恍惚として自分勝手に体を動かしていて、障子の向こうでは静かに、しめやかに、だけど滔々と降頻る雪。
暫くして、晴美ちゃんが前も隠さずにやってきた。隠さないだけの事はあって、無駄の無い、良く引き締まった体をしている。それは、女性的と言うより、十代半ばの少年だった。あたしは、キャベツの様な匂いのした弟の体毛を思い出して、晴美ちゃんの茶色に染めたあそこもそんな匂いがするんだろうかと考える。男と女ではあそこの匂いは違うんだろうか。でも、晴美ちゃんの場合、男と女との比較ではなくて、男と女と晴美ちゃんとの比較と言う気がする。それ程、晴美ちゃんは印象が強い。
晴美ちゃんが湯舟に入ってからこっち、老婆の一人が、じっと見ているのに気がついた。晴美ちゃんは知らぬ振りして鼻歌を歌っている。
「ヤッちゃんだよ、あれ。」
その老婆が、別の老婆に話し掛ける。話し掛けられた老婆は、チラッとこちらを見て、ちょっと驚いた顔をしたけど、
「何がヤッちゃんなもんか。あの子がこんな所にいるわけなかろう。」
「そりゃそうだよね。でもね、見てよ、ほら。似てるんだよ。鼻の型や顎のところなんかがさぁ。」
晴美ちゃんは、老婆達の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか、目を閉じて鼻歌を歌い続けている。その横顔は、どこか頑なな感じがする。
「あのう。」
と、最初に晴美ちゃんを見つめていた老婆が、恐る恐る近付いてきた。晴美ちゃんは、知らぬ顔で鼻歌を続ける。
「あのう、ちょっと聞きたいんだけど。」
「ヤッちゃんだったら、知ってるよ。由紀枝ねぇちゃんと良く来てた子だろ。」
知らぬ振りをしながらも、やはり老婆達の声が聞こえてたんだろう、面倒臭そうに晴美ちゃんが答える。
「そうそう、由紀枝って言ったっけねぇ、あの耳が聞こえない子。」
「知ってるのかい。」
「あたしゃ、この銭湯に何十年、漬かってるんだよ、お馴染みの顔は皆知ってるよ。」
「由紀枝ねぇちゃんは、死んだよ。」
「そうだってねぇ。」
「電車に撥ねられて。」
「酷い事だよねぇ。ヤッちゃんは、どうしたんだい。」
「ヤッちゃんか....。......やっぱり死んだよ。」
「一緒にかい。」
「由紀枝ねぇちゃんが死んで、少し後に。」
「なんで死んだんだい。」
「知らない。」
「あんたもあの子達と一緒に住んでたのかい。」
「まぁね。」
「だけど、あんまり見かけなかったねぇ。」
「銭湯が嫌いだったからね。」
「そうかい。あたしはすぐそこで駄菓子屋やってたんだけど、ヤッちゃんなんかも良く買いに来てくれたよねぇ。可愛い顔しててねぇ、この界隈じゃあ、玉三郎って呼ばれてたよ。女にしてもいいくらいの可愛い顔だったねぇ。由紀枝って子と姉弟みたいに仲良くって、随分大きくなるまで一緒に女湯に付いて来てたよね。由紀枝って子も可愛そうな事したねぇ。生まれつき耳が聞こえなくて、最初は喋ることも出来なかったらしいじゃ無いか。それを努力して片事でも喋れるようになってたのに。あんた達が住んでた家、ホームって皆呼んでたけど、ホームの子供達は皆どうなっちまったのかねぇ。」
「ろくでも無いのが多かったからね、殆ど早死にしちゃったよ。残ってるのはあたしぐらいなもんだよ。」
「そうかい。皆この婆ぁちゃんにはよく懐いてくれたんだけどねぇ。しかし、あんた、本当にヤッちゃんに良く似てるよ。」
「うるさいなぁ。皆死んじゃったって言ってるだろ。」
突然、晴美ちゃんが捩が外れたように大声をだす。
「あんたも、いつまでもしがみついてないで、早くこの世からおさらばする方が身のためだよ。」
晴美ちゃんは、何に腹が立ったのか、プリプリしながら洗い場で水を浴びると、脱衣室に出ていった。老婆は、言われた事が分からなくて、キョトンとしている。
「すみません。乱暴な言葉使いで。」
「いいえ。でも本当に似てるんですよね。」
そう言うと、向こうでお喋りに熱中していた二人の老婆の方に戻っていった。
銭湯から出ると、ゴロちゃんとトシが、待ちくたびれた顔で、ジュースの自動販売機の前で煙草を吸っていた。日はもうかなり傾いて、多分路地の向こうの埋立地の先にある海に沈もうとしている真最中だろうけど、アスファルトから昼間吸収された熱気が上ってきて、立っているだけで汗ばむ。
路地を抜けて私鉄の駅のホームに上ると、パチンコ店とラブホテルの間から、真っ赤な光りが一直線に差し込んできたけど、電車を待っている間にその勢いがどんどんしぼんでいった。
「この町も潮の匂いがしなくなったな。」
ゴロちゃんがポツリと言う。海沿いにラブホテルや、ファミリーレストランや、パチンコ店が立ち並び、海から切り離されてしまった漁師町は、新たに始まった埋立で、完全に海を捨ててしまった。昔は質素で勇壮だったかも知れない漁師町は、海を捨てると、ただの貧民街みたいに薄汚くなり、鉄筋の建物の間で、ギュウギュウと窮屈そうに寄り合っている。それは、元海岸だった所に打ち捨てられたボートの残骸とよく似ていると思った。
晴美ちゃんは、さっきの銭湯以来、不機嫌な顔で黙り込んでいる。ゴロちゃんは、その事を特に心配するでもなく、相変らず無口で無愛想だった。各駅停車に乗り込むと、二人はやっぱり無口に並んで座った。その姿は、どう見ても口喧嘩した後の高校の同級生だった。二人の間には、やっぱり何かあったみたいなんだけど、それ以上の詮索今ははするべきじゃないと、電車の窓の向こうを通り過ぎる海の残骸を見ながら思った。