(5)
「ねぇさん、今日何時にあがるんだい。」
コンパートメントに向かう途中で擦れ違った晴美ちゃんが、小さな声で尋ねた。
暑い夏も過ぎ、まだ残暑の残る初秋の昼下がりの事だった。
トシや晴美ちゃん達と、俊二のお墓参りに行ってから、三ヶ月余りが立っていた。
その年の夏も、お盆を過ぎる辺りまでは、例年同様、何も無い、静かな夏だった。
夏。
あたし達は、夏に暗い思い出しかない。夏は人を狂わせる。その狂気の中で、犠牲になった者達が、ここに吹き溜まってくる。だから、夏はひっそりと生活する。
夏も後半に入ったある日、明美ちゃん達の身の上に起こった事件が、あたし達の心に引っかかっていた。
「七時過ぎにはあがれると思うけど。」
「じゃあ、海猫で待ってるよ。」
敢て小さな声で喋るのは、あたしに何か深刻な状況を伝えようとしているからなのだ
ろうかと、勘ぐってしまう。勘ぐってしまうだけの状況下に、あたし達は、あった。
「いいけど、どうしたの。」
「うん、ちょっと、やばいんだよ。」
「やばいって、明美ちゃんのこと。」
「そうなんだよね。」
暗い廊下で、晴美ちゃんの顔がはっきりと見えない。どんな表情をしているのかが分かれば、そこから話のあらましくらいは拾えるかも知れないのにと思う。
カンちゃんと言う、シンちゃんの後がまで入って来た男の子がじれったそうにあたしの顔を懐中電灯で照らしたので、それ以上の事が聞き出せずに晴美ちゃんと分かれてしまった。
現在失踪中の明美ちゃんの事が気になって、その後の仕事に今一つ乗れない。幸い常連さんばかりで、特にあたしが『C21 』に入った時からのお馴染みさんばかりだったので、多少の事には我慢してくれた。
「どうしたの、何かあったの。」
と、帰る間際になって心配そうに尋ねてくれたので、申し訳なさが倍増する。
「御免ね。今度の時に必ず埋め合わせするから。」
と、手を合わせて送り出す。
こんな時、シンちゃんなら「大丈夫ですか。」と聞いてくれるし、それなりに気を使ってくれるのにと思う。
話は、二ヶ月前に遡る。
明美ちゃんがことさら陽気に振る舞うし、それを見てマムシもバカじゃないので疑い深い目をし始めていて、ちょっと心配になったので、明美ちゃんを飲みに誘うと、案の定、二人だけになった途端それまでの明るさから一変して憂鬱丸出しの顔になった。
「何かあったの。」
と尋ねると、
「出来てもてん。」
「何が。」
「あれへんのよ、アレが。もう三ヶ月も前から。」
「病院には行ったの。」
「うん、今しかもう堕されへんて。」
「どっちの。」
「分かれへん。丁度あのゴタゴタが有った頃やし、シンちゃんとも内緒で会うて、切のうて我を忘れてセックスしてたし、マムシには疑われとうないので、奉仕してたし。」
「気を付けてなかったの。」
「うん、うち、シンちゃんの子供欲しかってん。本当に欲しかってんよ。今でもそうや。」
と、ひとしきり泣きじゃくった。
「じゃあ、何故マムシともやっちゃうの。」
「あいつ、うまいねん。始めにゴム付けてね言うねんけど、しつこうにいじくられてる内に、つい気がイッてしもうて、気が付いたら満足そうな顔して、見たらゴム付けてへん。」
「じゃあ、本当にどっちか分からないわけ。困ったね。」
「そやけど、女のカンてあるやん。うち、シンちゃんの子供やと思う、絶対に。」
「その事は、シンちゃんには言ったの。」
「言われへん。うち、よう言わん。言うたら、シンちゃんの事や、何とかしよって言
ってくれるに決まってる。そうなったら、今度こそマムシに殺されてしまう。あいつ、
プライドの為やったらそれくらいの事、平気でやる奴や。」
「じゃあ、マムシの子として認知させたらいいじゃない。流石のあいつだって、自分の子供を不幸には出来ないでしょ。」
「マムシが、そんなん認めるわけないやん。無理にでも堕させようとするか、生まれた子供をどっかに売り飛ばすかのどっちかや。前にあいつから逃げ出した娘いたやろ、あの娘から聞いてん、その話。あの娘、そやから命張ってマムシのとこから逃げ出してん。」
「じゃあ、どうするの。」
「うち.....、どないしたらええんやろ、.....わからへん。でも.....、産みたいねん。......子供産んで、普通の平凡な幸せ追いかけたいねん。それって、うちらが望んだらあかんことなんやろか。なぁ、あかんことなんやろか。」
「そんな事ない。絶対にそんな事ないよ。でも、早まった事をしちゃ駄目よ。」
その日は、そう言って、だけど元気付けられるようないい解決策も思い浮かばずに、体だけは大事にするようにと言い含めて、突然ブリザードにでも遭ったような冷え冷えした気持ちを胸に、明美ちゃんと別れた。
その後、あたしは、おかまのマスターが一人でやっている行きつけのスナックで飲ん
で、胸の中に吹きすさぶ、どうしようもなく切ない思いを癒そうとした。だけど、思
いは、どうしてこの世には幸せな娘とそうでない娘がいるんだろうとか、何故明美ちゃんみたいないい娘がこんな辛い目に会わなくちゃならないんだろうとか、あげく、あたしは一体この先どうなるんだろうとか、暗いほうにばかり走って、その内に結構酩酊して、トシに電話したまでは覚えている。取り留めもないことを喋って、トシはそれに一つ一つ相づちを打ってくれて、その内に無償に会いたくなって、だけど、会いたいと言えない自分が悲しくなって、年がいもなく涙が零れてしまい、棚に酒瓶と一緒に置かれたマスターお気に入りのアンティークなランブの光がボワッとにじんだ。
「そっちに行きます。」
と、言ってくれたトシに、
「だめ、来たら絶交するからね。御免、今日は本当にあたし変。また今度電話します。
さよなら。」
と一方的に電話を切って、ああ、年増の我儘は堪ったもんじゃねぇと、一人ごちて、おかまのマスターがタクシー呼んでくれて、「あんたの泣き顔も可愛いもんだよ。」と言ってくれるマスターの声を尻目に、どうやらなんとか、マンションに帰り着いたらしい。
シンちゃんから電話があったのは、明美ちゃんから妊娠の話しを聞いてから一週間後
の事だった。
「明美から聞きました。」
明美ちゃんが、内緒に仕切れずにシンちゃんに正直に告白したらしかった。
「どうするの。」
「........。」
しばらく答えが無い。
「まぁ、あんまり無理はしない方がいいよ。あんた達、まだ若いんだから。これから、まだまだチャンスはあるから.......。」
「明美、産みたいって言ってるんです。俺も、......できたら産ませてやりたいんです。」
「その若さで父親かい。まだ、遊び足りないだろうに、二人とも。」
「俺、冗談で言ってるんじゃないんです。」
「.....分かってるよ。でも、マムシの事はどうするんだい。今度は、ただじゃ済まないよ。」
「どうしたらいいんでしょう。俺、怖いんです。本当にあの人達が怖いんです。」
「そりゃそうだろうね、あんな目に会ったんだから。」
「何年か前にテレビでやってたでしょ、人間そっくりな宇宙人なんだけど、人がいない所では、蜥蜴みたいな本当の姿に戻るって奴。あの人達、まさにそれでした。マスターもマムシも普段は案外優しくて、いい人達なのかなと思ってたんです。でも、あの時、俺を取り囲んだ時のあの人達の目。俺達人間とは全然違う、まるで蜥蜴みたいで、自分達の楽しみの為なら、別に俺一人くらいこの世から居なくなってもどうって事ないみたいな感じで、俺の事見たんです。そのうちにあの人達の目が白く光り始めるんじゃないかって思った程でした。」
「それが奴等の本性なんだから、仕方がないよ。でも、シンちゃん、明美ちゃんの事どうにかしてやりたいと思ったら、あんなエイリアンみたいな奴等を相手にしなくっちゃならないんだよ。人の命なんか何とも思ってない連中とね。」
「ええ....、分かってます。戦わなくっちゃって思ってます。でも.......本気でその事を考えると、やっぱり怖いんです。俺、どうしたらいいんでしょう。」
「まず、自分の態度をハッキリさせることだよ。誰だって怖いよ、あんな奴等。だから、明美ちゃんの事はあたし達に任せて、尻尾巻いて逃げたって、誰も恥だなんて思わないよ。」
「逃げ出せるようなら、こんな電話しませんよ。それが出来ないから相談してるんじゃないですか。」
「じゃあ、明美ちゃんをあんたの力で守ってあげるつもり。」
「そうですね。........勿論、そうします。そうしたいです。」
明美ちゃんは、幸福だと思った。迷いながらでも守ろうとしてくれる男がいる。強がりもせずに、怖がっていることを素直に認めて、それでも自分のために勇気を奮い出そうとしてくれる。
「ねぇさん.......、あの........。」
暫くお互いに喋らない時間が続いた後、シンちゃんが思い切ってと言う感じで切り出した。
「俺達、逃げようかって言ってるんです。」
「逃げるって....。何処へ....。」
「何時逃げるのかも、何処へ逃げるのかも、まだ何も決めてないんですけど、ゴロさんが、多分今が逃げ時だろうって。」
その頃、アノカタの健康状態が悪化していて、かつては他府県の暴力団組織にまで顔のきいたアノカタから、離れて行く者が増えてきていて、おまけに後継者の座を狙って命を狙う者さえもいるとのことだった。ゴロちゃん達警護団の若手は勿論、マムシやその一派、時にはマスターにもアノカタ警護の声が掛かっていた。だから、今逃げても、マムシも忙しくて、そうしつこくは追って来ないだろうと言うのがゴロちゃんの考えだった。
だけど、その電話から三日後のこと、マムシのしつこさは、長年接して来たゴロちゃんすらも読み間違えるほどだと言うことを、あたし達は思い知らされた。
「ねぇさん、これ。」
と、お店の控室で明美ちゃんが差し出した新聞には、雛日た漁師町を久しぶりに賑わした女性の全裸死体の記事が載っていて、死因は溺死で死後二週間経っていること、たまたま漁師の網に掛かったこと、全裸とは言え、乱暴された形跡がないこと、所持品もなく身元が分からないこと、妊娠七ヶ月だと言うこと、右足首に大きな痣があると言うことが書かれていた。
「あの娘や。前にマムシから逃げ出した娘や。あの娘、妊娠してたし、確かに足首に大きな痣、あったもん。あの娘のお腹の中の子、誰の子やったと思う。マムシの子やで。あいつ、あの娘と一緒に自分の子供まで殺してしまいよったんや。」
「まさか。人違いだろ。それに、明美ちゃんの直感が当たってたとしても、すぐに警察に捕まるよ。」
と、あたしが慰めるのを、新聞を横から覗き込んで、晴美ちゃんが、
「いや、ああ見えて結構顔の広い奴だからね。今ごろあっちこっちに手を回して、自分にまで警察の手が届かないように裏工作してるよ。万が一、誰かがたれ込んで捕まりそうになっても、見替わり立てて、一件落着だよ。」
「うち、どないしょう。どないしたらええのん。」
「逃げ出すのを止めたら。」
晴美ちゃんは、明美ちゃんのすがりつく視線を撥ね付けて、
「簡単だよ。その子はマムシの子だと言う事にして、産んじゃえばいいんだよ。その子をどうするかは、マムシに任せちゃって、あんたは相変らずマムシの目を盗んでシンと相引きしてりゃいいんだ。」
「ほな、子供は.......。」
「マムシの事だから、外国へでも売り払っちゃうんだろうね。」
「そんなん嫌や。何で子供と離れ離れにならなあかんの。」
「でも、それが、あんたにとってもシンにとっても一番安全な方法だと思うんだけど
ね。だいたい、どっちの子供なのかも分からないんだろ。」
晴美ちゃんの言葉に、明美ちゃんはプッツン切れた。
「黙って聞いとったら、ええ気になって。この子は、うちとシンちゃんの子に決まったある。何でマムシなんかに渡さなあかんねん。あんた、他人事や思て適当に言うてるやろ。もうええわ。あんた等なんかには頼れへん。うち、一人ででも逃げたる。絶対逃げ切ったるねん。」
晴美ちゃんは、何故明美ちゃんが急に怒りだしたのか理解出来ないと言う顔で、あたしを見た。明美ちゃんにしてみれば、晴美ちゃんの言葉は心底冷たく聞こえたんだろう。でも、あたしは、晴美ちゃんが彼女なりのやり方で明美ちゃんを慰めようとしているのが、わかった。ただ、晴美ちゃんは、自分が決定したことについては一人ででも実行できる強さを持っているから、明美ちゃんのような、つい他人に頼ってしまうような弱さを持った人間の求めていることが理解できないだけなんだ。
「とにかく。」
と、あたしは、他の女の子達が一仕事終えて控室に入って来たのもあって、明美ちゃんをなだめにかかった。
「明美ちゃん。そのことについては、あたし達も力になりたいと思っているから、場所を変えて、冷静に話しようよ。ゴロちゃんにも入ってもらって、一番いい方法でもってやらないと、あんたもあの女の子と同じ羽目になっちゃうからね。それでいいよね、晴美ちゃん。」
「ああ、ゴロにも時間あけるように言っとくよ。」
明美ちゃんがペコリと、頭を下げた。
翌日の午後、明美ちゃんからマスターに、体調が良くないので二三日休むと言う電話が入った。マムシは、アノカタの警護で手が放せず、若手に明美ちゃんを始めとした女の子達の面倒を見させていたけど、この若手と言うのが頼りない男の子だった。だから、マスターが、おかしいと思って他の男を明美ちゃんのマンションに差し向けるまでの五日間、明美ちゃんの失踪は、マムシには発覚しなかった。
あたし達は、翌々日には感づいて、晴美ちゃんが様子を見に行った。
「おかしいよ。全然人の気配がないんだよ。新聞やメールだって溜まったままだし。取敢ず、全部取っておいたけどね。溜まったままだったら居ないの丸分かりだからね。」
「ついにやったか。」
「ああ。見直したよ。」
「でも、見つからずに逃げ切ってくれればいいけどね。」
あたし達は、毎日どちらかが配達された新聞やメールを取りに行くことにして、暫くは様子を見ることにした。それ以外に出来ることが無かったのも事実だ。
「何処に居るんだろうか、お金はあるんだろうか」と、あたしと晴美ちゃんは、毎日心配し合った。明美ちゃんのお金は、マムシが殆ど取り上げてしまった筈だし、シンちゃんはフリーターで、まとまった額など持っていそうにない。アルバイトをすると言っても、手っ取り早くお金が稼げるのは、今までのと同じ業種か、それに近いものとなるのだけれど、この業界は狭い、すぐに情報が駆け巡って、一番足が付きやすい。この前殺された女の子も、ウェイトレスをやっていて、それではとても出産費用など出そうもなくて、元の業界に舞い戻ったところでマムシに嗅ぎ付けられたと、聞いていた。
「シンちゃんと一緒だし、シンちゃん、結構しっかり者だから大丈夫だろ。あたし達が、ジタバタしても始まらないよ。連絡待つしかないよ。」
確かに、問題が、明美ちゃんの失踪だけに留まっていてくれたら、あたし達も、そうまで心配する必要がなかった。マスターに呼ばれて、マムシもいる前で、明美ちゃんの行きそうな場所や、失踪する前に明美ちゃんとどんな会話をしたのか等と、色々と質問されて、知らぬ存ぜぬで通して、マスターやマムシも忙しい最中の事なので、特にマスターなんかうんざりした顔をしていて、多分、マムシにお前が悪いんだみたいな話もしたんだろう、マムシも元気がなくて、「場合によっては明美の事は諦めるか、前の女の事もあるので、へたに騒いで出世に響くのも勺だし」てな辺りで、一件落着しそうな気配もその時は、あった。
クマガイやオオガミと言った、以前シンちゃんを痛め付けた男達が、ドカドカと慌ただしく店にやって来たのは、それから数日後だった。アノカタを警護している筈のマムシやゴロちゃんもいた。その日にゴロちゃんが来ることについては、晴美ちゃんも知らなかったらしく、ビックリした顔でゴロちゃんに話しかけようとして、完全に無視されて、
「あいつ、腹が立つ。」
と、プリプリ怒っていた。実際、ゴロちゃんが晴美ちゃんに対してそんな態度を取る所をあたしは見たことがなく、晴美ちゃんも「格好付けてんだよ」と言いながらも、ショックが隠し切れない様子だった。
男達は、暫くマスターと打ち合わせした後、数手に別れて、更衣室や研修室をそれこそ隅から隅までひっくり返して、何かを探し始めた。
マスターから外出禁止令が出たのは、そのすぐ後で、その日予約が入っていたお客まで完全にシャットアウトして、あたし達は、更衣室の外に並ばされ、二人の男に見張られたまま素っ裸にさせられた。裸にしておけば、誰も逃げ出せないだろうと言う事だったらしい。見張りの男は二人とも、まだ駆け出しのチンピラで、遠慮の欠片もなく、あたし達の体をジロジロと見た。仕事で裸になるのは慣れているけど、まるで囚人みたいな扱いで服をはぎ取られることについては、なけなしのプライドが傷ついた。
「あたし達を人間として見てくれていたのか、それとも、ただの商売道具としてしか見ていなかったのかって所が、この辺で分かってくるよね。ま、この程度だろうとは思っていたけどね。」
と、晴美ちゃんがつぶやいた。ゴロちゃんが何度か通り過ぎたけど、わざと目を反らして、こちらを見ないようにしていた。
「こら、ゴロ、こっちを見ろ。何で、こんな格好させられなきゃならないんだよ。ちゃんと説明しろ。」
晴美ちゃんの罵声を浴びても、やっぱり目を合わせずに通り過ぎて行く。
「今度、通ったら足引っ掛けてやる。」
と、晴美ちゃんが息巻いた、その今度の時にゴロちゃんは見張りをしている男達に近寄って、二三言葉を交わすと、こちらを向いて、服を着て良い旨の伝達をした。
「悪かったな、晴美。理由はちゃんと後で説明するから。」
「納得のいかない理由だったら張倒すからな。」
晴美ちゃんの言葉に、分かった分かったと、手を振りながらマスタールームに入っていった。
ゴロちゃんが後でしてくれた説明では、大事な書類が紛失したので、皆で慌てて探したのだが見つからなかったために、取敢ず女の子達にも裸になってもらって、書類など持っていないと言う証拠を見せてもらったのだそうだけど、ゴロちゃんにしては説明がたどたどしく、まだ何か隠しているのがはっきりと分かった。
「現ナマだそうだよ。」
翌日も、相変らずバタバタと男達が出入りする中、擦れ違い様にコソッと晴美ちゃんが教えてくれた。その日も、その次の日も、女の子は全員店に出るように言われて、かと言って、店を開けているわけではなく、私語が出来ないように見張られていたので、読み飽きた雑誌やコミックのページを捲るしか、することがなかったけど、それでも大事な情報は瞬く間に皆に伝わっていった。紛失したのは、現金だったという情報は、晴美ちゃん以外のルートからも流れてきて、結構信憑性があるように思えたけど、金額等の情報がまちまちで、やっぱり真実は霧の中に漂っているままだった。
やがて店の中を探しあぐねた男達は、外に出て行った。何処を探したのか、何の手掛かりもなかったのだろう、最後はもう一度あたし達のところにやってきて、無理矢理マンションや家の鍵を出させると、また外に散っていった。
その日、夜遅くに開放されて帰宅してみると、部屋中が掻き回されていた。日頃から結構散らかっている部屋ではあったけど、箪笥や押し入れから引きずり出されたままの衣類なんかを見ていると、そこに無言の暴力と冷たさを感じて、そんな人間と付き合わなければならない自分自身に腹が立って、怒りのために溢れてくる涙を拭いながら、一通りの後片付けが終わったのは、明け方近かった。
翌日、
「ツレさんのアパートの場所を教えてくれない。」
そうマスターから言われて、寝不足と涙で充血した目を擦りつつ、まさかツレさんがと思いながら地図を書く。
情夫が亡くなってからこっち、痴呆症一歩手前のツレさんに、一体何が出来ると言うんだろう。けれど言われてみれば、確かに、このところツレさんの姿を見ていない。
マスター達があたふたし始める少し前くらい、まだ明美ちゃんが失踪していなかった頃に、一度姿を見て以来、とんとご無沙汰していた。
「ツレさんまで疑うんですか。」
「無駄足になるとおもうんだけど、でも、あと残っているのはツレさんだけなんだよ。」
「そう言えば、最近、見ないですよね。」
「ああ、長年勤めてくれたツレさんに、無下に辞めてくれとも言えなかったしね、殆どボランティアのつもりで働いてもらってたんで、いなくなってくれたのには、内心ホッとしてるんだけどね。」
「鬼の目にも涙ですか。」
「バカ言わないでよ。ここだけの話、冬生ちゃんにだから言うんだけどね、似てるんだよ。」
「誰にですか。」
「死んだおふくろに、ツレさんがさぁ。似てるって言っても、単に厚化粧の所だけなんだけどね。」
「へ、マスターにも、お母さんがいたんですか。」
「当たり前じゃない。失礼しちゃうな。」
マスターは、あたしと二人で喋っている時は、話に熱が入ってくるとちょっとおねぇ言葉が交じって、元組員のおねぇ言葉はいただけないながらも、いい人なんだと思えてしまう。それでも、その前日、あたし達のマンションを荒らしたように、目的の為なら人の心を踏みにじるくらいのことを平気でやってしまうので要注意ではある。
「あたしも行っていいですか。」
別にあたしが一緒に行ったからといって、何がどうなるわけでもないけれど、ツレさんとは、彼女の情夫の葬式の時以来の縁で、知らん顔して居られ無い気がした。
「いいけど、邪魔しないでよね。ちょっとばかし手荒なことするかも知れないけど。」
大通りから外れて、車一台がやっと通れる路地をくねくね曲がって、やっと辿り着いたアパートの前には、クマガイやマムシ達、武闘派といわれる連中が四五人先に到着して待っていた。マスターが自分で運転する黒塗のサーブが彼らの前に止ると、マムシが率なく寄ってきて、ドアを開けた。途端にマスターは、それまでのおねぇ言葉から、元組員で彼らの兄貴格の風貌に一変した。
マムシは、反対側から降りたあたしを見つけると、慣れ慣れしく擦り寄ってきて、
「なんだ、冬生ちゃん、どうしてこんなむさくるしい所までついてきたんだよ。」
と、あたしの肩を抱こうとしたので、延びてきた腕を邪険に祓いながら、
「マスターの許可は取ってます。」
「けっ、何が目当てなのか知らねぇけど、あんまり出娑婆ると後悔するぜ。」
いきなり態度を変え、冷たい目であたしを見た。マムシのこのいい加減さ、態度の豹変は、良く承知しているので、特に気にもならなかったけど、先に錆び付いた階段を上がっていくマスターに追い付いて、
「何であんな奴連れて来たんですか。やばい事が全部漏れちまいますぜ。」
と、聞こえよがしに言うのには、ちょっとムッときた。
ツレさんの部屋の前では、オオガミが待っていた。
「誰もいませんよ。」
「ノックしたのか。」
「ええ、何度か。」
「ちょっと、かしてみろ。」
マスターが何度かツレさんの部屋の戸をノックしたけど、返事がなかった。
「踏み込みましょうぜ。」
「まぁ、待て。手荒なことは、できるだけしないように。」
隣の部屋に住むフリーターらしき男の子が、外の騒がしさに、戸を開けて顔を出して様子を伺おうとしたけど、クマガイに睨まれて、すぐに引っ込んだ。
マスターがマムシに、大屋を連れて来るように命じて、マムシは誰に聞いたのか、五分程で目尻に脂を付けた老婆を引き連れて戻って来た。
老婆は、いかつい男達に囲まれ、無言の圧力を受けて手先を震わせながら、合鍵で部屋の戸を開けた。マスターが口止め料を手渡して帰した。
ドアを開けると、中に入ってすぐの所が二畳程の板間と台所になっていて、その向こうに四畳半の部屋が二間、縦に並んでいる。ツレさんは、手前を居間、向こうを寝室に使っていた。部屋そのものが東西に細長い建物の二階の一番西のはずれに位置していたので、どの部屋にも窓があって、明るくはあったけど、この前、ツレさんの情夫の葬式の後、この部屋の夏の夕方の暑さときたら、西日がもろに差し込むために並大抵のものではないことを経験していた。部屋の中、寝室の方は煎餅布団が敷きっぱなしになっていたし、居間の方は茶ぶ台の上に湯飲み茶碗が転がっていて、数分前まで人がいて、生活していたかのように雑然としていたけど、充満した空気は黴臭く、暫く掻き回される機会もなしに、そこに淀んでいたことを物語っていた。餡パンの空き袋が、開けられたばかりだと言う顔で、茶ぶ台の下に潜んでいて、でも日付は一か月前のものだった。マスターの目配せで、男達が部屋の隅々までひっくり返しにかかる。押し入れと小さな作り付けの箪笥と、カラーボックスが収納スペースの全てなので、たいした物があるわけじゃなく、瞬く間に持ち物が部屋の真ん中に積み上げられた。
マムシがニヤニヤしながら、その中の一つを取り上げた。それは、赤いスポーツバッグで、あたしも見覚えのある物だった。
「これ、明美のだよな。そうだろ、冬生ちゃん。」
マムシに冬生ちゃんと言われて、鳥肌が立つ。ニヤニヤしているように見えたのは、驚きと怒りで、顔が痙っている所為だというのがわかった。
スポーツバッグの中身が、焼け付き、擦り切れ、薄汚れた畳の上に開けられて、やはり見覚えのある明美ちゃんの紺のトレーナーやジーンズが出てきた。
「どう言う事なんだよ、これは。」
「そんな事、こっちが知りたいわよ。」
「マスター、これ、見てくださいよ。」
オオガミが拾い上げた、明美ちゃんのスポーツバッグから出てきたらしい細長い紙の切れ端を見て、マスターの顔色が変わった。
「おい、マムシ、これが何かわかるよな。」
オオガミの見つけたものは、堅めの細長い紙を輪っかにして糊付けしてあり、マスターの朱印が押してあって、それを誰かが引き千切ったものだった。
「これ、盗ったのが明美だったとしたら、マムシ、お前、大変な事になるぞ。」
「ええ、いや、明美が、あいつがそんな事できるわけないですよ。第一、そんな金があることすら知らないのに。」
「お金。やっぱりお金なんだね、マスターがあれ程必死になって探していたものって。」
「冬生ちゃん、この話しは聞かなかった事にしてくれよ。あんまりおおっぴらに出来ない話なんだよ。」
「でも...。」
「まぁ、聞いちゃったものは仕方が無いか。」
と、手短に話してくれた所によると、無くなったのは、マスターがアノカタに上納する為に事務所の金庫の中に保管していたお金で、三千万円程あって、百万ずつ、先程オオガミが見つけたのと同じ様な紙で束ねてあったらしい。勿論、表には出せない類のものなので、盗られたからといって、警察に捜査を頼める筈もなく、マスター達が必死になって探しているわけなんだけど、アノカタには理由を言わずに待ってもらっている状態で、それでも催促は毎日の様に来ているらしくて、このまま自分達で何とかして穏便に済ませるにもそろそろ限界に近いらしい。
「明美が盗ってたとしたら、お前、指だけじゃ済まないぞ。それとも、是が非でも探し出して明美の首差し出すか。」
クマガイにそう言われて、マムシは油汗を浮かべて、青い顔をしていた。
「とにかく、どこかにまだ隠してあるかもしれないから、その辺の荷物、全部ひっくり返して、徹底的に探すんだ。」
マスターの言葉に男達が一斉に動き出す。
結局、出てきたものは、札束が縛ってあった細い紙切れが、十四五枚、流しの下のゴミバケツの乾き切った生ごみの下から出てきただけだった。
「まとめて運ぶとなると、結構かさばって重いから、多分何処かに隠してるんだろうが。」
「マスター、ちょっと。」
と言う声に振り向くと、オオガミが天袋の奥から片手で小脇に抱えられる程度の大きさの新聞紙の包みを引っ張り出した所だった。
「天袋の奥の、本当に片隅に置いてあったんで、見落としてたんですよ。でも、持った感じ、どうも例の物じゃなさそうですね。とっても軽いんですよ。」
「開けてみろよ。」
それは、日付の古い新聞紙に何重にも包まれていて、新聞紙を破っていくと、最後に油紙の包みが出てきた。油紙に巻いた色褪せた和紙の帯に太いマジックで、陽子と書いてあるのが読めた。油紙を無造作に破り開けたオオガミの手が、一瞬止る。
「何だ、これ。」
それは、最初、黄ばんだベビーウェアを着せられた木切れに見えた。でも、良く見ると、木切れでも何でもなく、本物の赤んぼうのミイラだった。新聞紙の日付は、1960年代だったから、もう三十年以上も前の赤んぼうだった。小さな右手を喉元まで持ってきて、少し口を開けている。口許に指を持って行こうとして、持って行けないままに三十数年間、油紙の中で干涸び続けて来たんだろうか。
「ツレさん、これ、冗談がきついよ。」
「陽子だって。」
「そう言えば、あの婆さん、明美のことを陽子、陽子って呼んでたよな。なぁ、冬生ちゃん。」
「ええ、まぁ、間違えられて困るとは言ってましたけど。」
ツレさんの情夫の葬式の後、この部屋に連れ帰った時に、ツレさんは、自分にも幸せだった時期があって、実はその時の隠し子がいるんだなんて話していたけど、それはこの事だったんだろうか。あたし達は、連れ合いを無くして心にポッカリ穴の開いてしまった人の世迷い言だと思って聞いていた。
確かにそれは隠し子ではあったけど、あまりに悲しいツレさんの現実で、ツレさんは、この子と三十年余の間、ずっと背中合わせに生きて来たんだろう。
「どうする、これ。」
「どうするって、元に戻せよ早く。」
でも、誰も、もう一度その子に触れようとはしなかった。
「お前が見つけたんだろう。」
「俺が、やるのか。ちょ、ちょっと待ってくれ。俺、アレルギー体質なんだよ。」
「そんなの関係無いだろ。」
「勘弁してくれよ。頼むから。」
「じゃあ、うっちゃっとけ。そのうち誰かが見つけるだろう。」
「そう言うわけにも、いかないだろう。ご近所に俺達の顔、見られてるわけだし。この時期、そうそう警察につつかれるのも良くないわけだし。」
「あたしがやります。」
「そうか、冬生ちゃんが、やってくれるのか。助かるよ。こいつら、日頃はいかにも怖い物知らずって顔してるんだが、いざとなると、てんで情けねえんだ。」
「こんなままで放置しておくの、この子がかわいそうですからね。」
あたしは、そう言いながら、重量を何処かに置き忘れてきてしまった、その子の体を抱き上げて、もう一度、油紙や新聞紙で包み直してやった。
その子は、死なずにいたら、あたしや俊二みたいな人生を歩んでいたかも知れないし、逆に、あたしや俊二が場合によっては、その子みたいに時間が止ったまま新聞紙で何重にも巻かれて、日の差さない場所に押し込められていたかも知れない。どっちにしたって、あたしとその子が同類と言う枠の中に一緒に収まってしまえるのは、間違いないと思った。
あたしは、人生の吹き溜まりみたいな場所にいるあたしの後ろのもっと暗い場所で、親から幻影として置き去られ、永遠の時間をじっと耐えている陽子と言う女の子が、確かにいるのを感じた。でも、その子がどんな顔をしているのか、どんな姿をしているのか、どんな声をしているのか、何が好きで、何が嫌いなのか、おぼろげな白い服を着た影からは、何も読み取れなかった。おそらく、ツレさんもあたしと同じで、その存在をあたしよりももっと強く感じ、三十数年という長い時間の中をその影と一緒にさまよいながら、結局、何一つ証となるような事に触れられずに、そのまわりを堂々巡りしてきたのだろう。それでも、情夫が生きている間は、その愛憎の中で、ジレンマを解消することができただろうけど、亡くなってからは、お仕入れの天袋の奥の新聞紙の包みの中の現実にまっすぐに向かい合わなければならなくなって、その事を否定するために、明美ちゃんを我が子に見立てたんだと思った。
明美ちゃんは、背景を知ってか知らずか、そんなツレさんを利用したんだろうか。ツレさんが単独で、五千万円と言うお金を盗ったとは思えない。仮にも、退職金がわりにみたいな適当な理由を付けて他人の物を盗ってしまえる人だったとしたら、人生そのものをもっとうまく切り抜けていると思った。可愛い我が子を天袋の奥に仕舞い込んでしまうような、そんな辛く苦しい道を選んだりしない筈だ。でも、そのことは、マスター達には口が裂けても言えないと思った。ツレさんみたいに、人生で負け続けざるを得ない者の心情を理解出来ないマスター達は、まだ、ツレさんが主犯だと考えている。そう考えてくれている間は、明美ちゃんへの風当たりは、きつくないだろうし、明美ちゃんやツレさんを捜索するにしても、内輪の人数だけでやるだろうから、まだ逃げ延びられると思う。ツレさんみたいな人を犯人として、アノカタに報告するのは、マスター達にしても、情けない話だろうし、まかり間違えば、『何故そんな年寄りをいつまでも働かせていたんだ』みたいな逆鱗に触れることも充分に考えられるからだけど、これが、アノカタの耳に入り、組織的な動きになれば、力を無くしかけているとは言え、まだまだ広い範囲の人間を動かせるだけのネットワークは持っているので、何時までも逃げ続けるのは明美ちゃんにとっても、ツレさんにとっても至難の技になる。それに、それだけのネットワークを動かして見つかったとすると、手温い対応をしていたんではアノカタの威信にかかわるし、マスター達の責任逃れの格好の材料としても、死んだほうがましだと言うくらいの厳しい追及を覚悟しなければならない。本当に殺されてしまって、闇から闇へと葬られてしまうことも充分考えられる。
あたしとしては、ツレさんがヒョンな場所からフラフラと現われて、マスター達に発見されたり、何かの拍子にマスター達が、明美ちゃんが一番怪しい事に気がついたりしない事を祈るしか手がなかった。