(6)

 

 

海猫では、晴美ちゃんの方が先に来ていて、店の一番片隅の、殆ど誰からも見られないテーブルにあたしを手招きした。

「やばいって、どうしたの。」

ウェイターが珈琲を置いて、向こうに行くのを見届けてから、あたしの方から切り出した。

「おかげで、あれから気になって、仕事になんなかったじゃない。」

「うん。誰かがちくったみたいなんだよ。」

「ちくるって、何を。」

「ツレさんと明美ちゃんの事だよ。アノカタに。」

「誰よ。」

「それがわかりゃあ苦労はしないよ。マムシじゃないかって噂なんだけど。」

「マムシが、自分で墓穴を掘ったって言うの。明美ちゃんが絡んでるって事になったら、マムシの責任が問われるんだろ。」

「あいつの事だから、絶対にそんなヘマしないよ。きっと、うまく立ち回っていると思うよ。」

「じゃあ、明美ちゃん達、どうなるんだろう。」

「うん。その事なんだけど....。」

と、言いかけて珈琲をすする。

「やばいんだよね。」

「だから、どうやばいのよ。」

「こんな時期だろ。あせってるんだよ、アノカタ。どんどん失われてく権力の回復に。それに、結構病気のほうも進行しているらしくって、性格も前より意固地になってるんだよね。多分、見つけたらただじゃ置かない。ぜひとも、見つけろみたいな感じなんだよ。だから、もし万一見つかるような事にでもなったら、明美ちゃんもツレさんも、シンちゃんも、大変なことになるよ。この間、殺されてただろ、漁港でさぁ。」

「マムシの犯行じゃないかってやつ。」

「そう。あんな程度じゃ済まないと思うよ。」

「死ぬより酷いことってあるの。」

と、笑いながら言うと、

「笑い事じゃないよ。」

晴美ちゃんが、いつにはない真剣なまなざしであたしを見たので、思わず言葉を無くした。

「あいつら、やるとなったらやるからね。人間一人この世から抹殺するくらいお茶の子さいさい。あいつらの体の中に血や涙なんか何処にも流れてやしないんだから。」

「明美ちゃんから連絡は。」

「無いよ。そっちは。」

「こっちも無い。せめて連絡だけでもくれたらねぇ。」

「いくら待ったって、ここしばらくは連絡は来ないよ。多分。」

「どうして。」

「前に、逃げ出したいって言ってた時に、逃げ出すんだったら、絶対誰にも連絡しちゃいけないよって、あたし言ったんだよ。どっからばれるかわかったもんじゃないからね。犯罪には時効ってのがあるけど、暴力団相手に時効はないからね。とにかく、死ぬまで親しい相手とは連絡取らずにじっとしているんだよって。」

「そう。」

「独りぼっちに耐えなくちゃいけないよ。耐えられなくなった時が命の終る時だよ。やつらから逃げるって事は、そう言うことなんだよって。間違ってるかな。」

「そのとおりだけど、明美ちゃんの性格からして、そんな生活に耐えられるかしら。」

「無理だと思うよ。絶対に電話してくると思うよ。電話で済めばいいけどね。」

「電話で済めばって。」

「あの娘、すぐに油断しちゃうからね。ひょこひょこと、おかしな所から出てこなけりゃいいんだけど。例えば、ツレさんのアパートの近くとか。」

「まさか、晴美ちゃん、あんた、何か知ってるの。」

「知らないよ。ただ、あの娘だったら、あんな危険地帯でもうろつきかねないってことよ。」

「ツレさんか....。」

瞬間、あたしの頭の中を、ツレさんが、あの赤ん坊を抱いて、アパートの前に立っている光景が駆け抜けた。黄色い土埃の向こう側に、ツレさんは、やるせない顔でじっと立っていた。それは、セピア色の写真の中にたたずむ母の姿にダブった。久しく思い出さなかった母の姿だった。

「どうしたの。」

「うん。」

あたしは、先日、ツレさんの部屋で見た赤ん坊の事を話した。

「ツレさんの、あの隠し子の話、本当だったんだね。てっきり、妄想だと思ってたんだけど。」

「そうだね。」

暫くして、晴美ちゃんがポツンと、言い添えた。

「でも、.....その赤ん坊、ツレさんが殺したんだよ、多分。」

「どうして。」

「なんとなく。でも、余程の事情が無い限り、そんなふうに扱わないよな、自分の子供を。」

晴美ちゃんのその一言で、あたしのなかにくすぶっていたしこりみたいなものが、一気に溶け出した気がした。それは、何故、その子がそこに押し込められているのか、みたいな素朴な疑問から始まって、徐々に膨れ上ってきたものだった。そうだ、あの赤ん坊は、病気で死んだんなら、丁重に葬られていたはずなんだ。あれは、ツレさんの母親としての我儘から発して、ああなったのに違いない。だからこそ、葬り切れずに、常に自分の近くに置いていたんだろう。それも、当の赤ん坊にして見れば迷惑な話なんだけれど、誰かが親切心で知らぬ間に埋葬したとしたら、ツレさんは、身を切られるような思いで嘆き悲しむだろうと思う。

「あたしもねぇ」と、晴美ちゃんが言葉を続けた。

「この世に生まれて来なかった子だったかも知れないんだ。貧乏だったもんで、あたしを身ごもった時、母親は、生まれて来ても不幸になるだけだと思ったんだって。それで、始末しようといろいろ試して見たらしいんだけど、結局、うまくいかずに、あたしが生まれて来たんだ。でも、産んで良かったよって、言ってたけどね。あたしに何かあったら身を切られるように辛いって。あたしも、そう思ってたよ、産んでくれて良かったって、両親が生きている間は。」

ここにもあの赤ん坊の同類が一人いると、あたしは、思った。

「今は。」

「今は、どっちだっていいよ。生きてるのは、あたしの責任で生きてるんだし、同じように、死ぬのだって、あたしの責任で死ぬんだからね。でも、母親は、相変わらず草葉の陰から身を切られるような思いで見てるんだろうね。それでもって、もっと早くにこんな事になるってのがわかってたら、産んでなかったのになんて思ってるんだろうね。」

あたしの母も、多分同じだろう。死んでから、あたしの身に起った事の一切を自分のせいにして、歯ぎしりしていることだろう。でも、それにしてからが、母の母としての我が儘の成せる業だとも思う。なぜなら、今、あたしは自分の責任でもって生きているんだから。

さっき、あたしの脳裏をよぎったツレさんのやるせない表情は、我が子を殺して以後まで続く自分の子への思いをもてあました女の焦燥のそれだったんだろう。

そう言えば、父が事故死して、確か葬儀も終わって一段落した頃の事だったと思う、あたしと俊二の手を引いて、夕焼けに赤く染まった炭鉱町を宛もなく、ふらふらと歩く母の姿があった。あの時の母の心情は、ツレさんの心情と同じだったんじゃないかしら。あの時、母は、あたし達を道連れにして、父の後を追いかけるつもりだったんじゃないんだろうか。

ツレさんと母の姿とが、徐々にオーバーラップしていく。やがて、赤ん坊を抱いて、町中を彷徨っているのが、いったい誰なのかが判然としなくなる。ツレさんであったり、明美ちゃんであったり、母であったり、あたしであったりする。そうすると、せつなく、懐かしい匂いが鼻の奥をくすぐって、だからと言う分けではないんだけれど、とっさに、明日から仕事を休もうと、考えた。そして、ツレさんをぜひ見付け出そうと思った。ツレさんを見つけて、事の真相を聞き出したかったし、それより何より、赤ん坊に対するツレさんの気持ちに終止符を打たせて上げたかった。さらに言えば、明美ちゃんに連絡を取る方法をマスター達より早く聞き出したかった。

「ねえ、あたし、あしたから暫くお店休もうかと思うんだけど。」

「休むって、どれくらい。」

「一ヵ月から二か月くらい。」

「随分長い休暇だね。マスターには言ったの。」

「まだ、明日。だって、今思いついた所だからね。」

「そりゃ、許してくれないよ。」

「脅してみるわ。」

 

次の日、マスタールームに行くと、意気消沈した顔で、机に肘をついたマスターの姿が目に飛び込んできた。マスターは、あたしを見ると、ちょっと笑って、

「ああ、冬生ちゃんか。」

「どうしたんですか、マスター。元気ないみたい。」

「うん、ついに呼び出しくらっちゃってね。ばれちゃったみたいなんだよ、例のお金の事。始末つけろって。」

「どう始末つけるんですか。」

「わかんないよ。指、詰めさせられるんだろうな。俺って、世渡り旨い方だったから、ほれ、まだ指、詰めたことないんだよ。」

「いいじゃないですか、指くらいで済めば。」

「他人事だと思って、そんなこと言う。ツレさんも、本当に罪なことしてくれるよ。」

「その後、何か情報ありますか。」

「情報。」

「ツレさんの。」

「ああ、いや、特にないんだけどね。何か、ある。」

「いえ。」

マスターは、困っちゃうんだよねと、つぶやいて煙草に火をつけた。

「そうそう、駅前の、ほら、浮浪者連中がたむろしている場所があるでしょ。あそこで、ツレさんらしき婆さんを見かけたって情報があったのよ。ぼろぼろの服着て、いつもの化粧もせずに立ってたって事なんだけど、俺も見に行ったんだけどね、それらしい婆さんいなかったんで、多分ガセネタだと思うのよ。でも、まぁ、折角だし、冬生ちゃんも暇があったら行ってみてよ。若いのを張り込ませてるんだけど、頼りなくってね、これが。」

「ツレさん、お金持って逃げてるんですから、ぼろぼろの服ってのは無いと思いますけど。」

「カモフラージュって事もあるからねぇ。何とも言えないよ。」

そう言いながら、小さなグラスにブランデーを注ぐ。目で「飲む」と、訊ねるのを首を振って答えておいて、

「ねぇ、マスター、こんな時にあれなんですけど、暫く休ませてもらえませんか。」

「いいよ、二日、それとも三日。」

「もっと長く。二ヶ月くらい。」

マスターは、信じられないという顔をして、あたしを見た。

「嘘だろ。冬生ちゃん、こんな時に冗談はやめてくれよ。まぁ、こんな業界なんで、多少の無理は聞けるけどさぁ。どうしたのよ。」

「ちょっと考えたいことがあって。」

「冬生ちゃんが逃げ出したい相手ってのもないしねぇ。強いて言えば、俺くらいか。でも、二ヶ月も休んじゃうと、常連さん沢山逃がしちゃうよ。冬生ちゃんの事だから、すぐに、またできるだろうけどね。あ、もしかして、冬生ちゃん、このまま戻ってこない積もりじゃないだろうね。」

「まさか、ちゃんと戻って来ますよ。」

「頼むよ。頼りにしてんだから。」

「じゃあ、明日から休みます。」

「ちょっと待ってよ。それとこれとは話が別だよ。二ヶ月は長すぎるよ。もうちょっと、何とかなんないの。」

「じゃあ、切りが付いたらってところで。一番長くて二ヶ月、早ければ二週間。」

「どう言うこと、それ。あ、ツレさんや明美ちゃん探しに行くんでしょ。」

「御明答。」

「止めといたほうがいいよ、この時期に。気の荒い連中が駆り出されてんだから。へたに邪魔しようもんなら、酷い目に合っちゃうよ。」

「あの人達を助けたいのもあるんですけど、あの赤ん坊の事が気に掛かって。」

「赤ん坊、ああ、ツレさんの所の。」

「ええ。」

「気に掛かるって。」

「マスターには、わかんないかも知れないけど、あたしとあの赤ん坊って、結構似通ってるような気がするんです。うまく説明できないんだけど。」

「あのね、冬生ちゃんが言いたいのは、親と子のいびつな関係って辺りじゃないかなって思うんだけどね。お互いに、その辺りで不幸な目を見ているって感じでさぁ。」

「そんな所かも知れませんね。」

ちょっと違うと思ったけど、マスターと長話する積もりは無かったので、適当に相槌を打った。

「この業界にいる連中ってのは多かれ少なかれ、いびつな親子関係ってのを根っこに持ってるんだよね。そんな連中ばかりなの。だから、一々そんな所に目くじら立ててたら切りがないんだよ。冬生ちゃんも、あの赤ん坊にはつい同情しちゃうのもよくわかるんだけどさぁ、あんまり深刻に考えずに、忘れたほうがいいよ、早く。でないと、変な気苦労ばかり背負込む事になっちゃうよ。」

「ご忠告有難うございます。でも、まぁ、 とにかくそういう事で、休みを許可していただいて、感謝します。」

「え、ちょっと本当に休んじゃうの。」

「お店、辞めちゃうよりいいでしょ。」

適当に切り上げて、休みだけは取り付けた。

確かに、マスターの関わっている業界や、あたしのいる業界には、親子関係で言うと、過去や現在にかなり歪んだ関係を持っている人のほうが多いと思う。きちんとした愛情を与えてもらえなかったり、与えてもらっていないと勘違いして、すねてしまっていたり、それが尾を引いて世間一般からはその存在さえもがいびつな世界に足を突っ込んでしまっている。そして、すねたまま、そのことに気が付かずに、あるいは気が付かない振りをして、自分の都合のいいように物事を考え、生き方さえもそのように都合良くねじ曲げて、何食わぬ顔で日々を生きているマムシみたいな器用な人も多い。でも、あの赤ん坊の有り方は、そうじゃ無いと思う。あたしは、それを確認したかった。

 

とは言うものの、ツレさんを探すのに、何のあてがあるわけでは無かったので、まず、あたしは、マスターの情報を頼りに駅前の地下道に行ってみた。

地下道は、結構人通りも多いのだけれど、風通しが良く雨露を凌ぐに丁度いい場所なので、住む場所の無い人達の溜まり場になっていて、急ごしらえの段ボールの壁だけの家が立ち並んでいる。

ここには、確か、晴美ちゃんの常連さんの御隠居さんが住んでいた筈だ。お店で何回か顔を合わせているので、すぐに見つかるだろうと思って、地下道を行きつ戻りつしてみたけど、見知った顔には行き当たらない。

殆ど諦めかけたところに、

「探しておられるのは、僕の事じゃないですか。」

地下道の半ば辺りの段ボールの陰から、いきなりその半分以上が髭で覆われた薄汚い顔が現われた。垢と髭の間から羊のような柔和な目が覗いていて、始めて御隠居さんだということがわかった。

「お前に用のある女が、そうそう居る分けないだろう。」

と、隣の段ボールの熊みたいな男がむっくりと起き上がる。御隠居さんより随分体格が良いけど、着ている服は殆ど擦り切れて、やっぱり垢にまみれたおへそが顔を出している。

あたしが、御隠居さんに手を上げて挨拶すると、目を丸くして何やらぶつぶつ言った後で、ゴロリと寝転んでしまった。

「どうぞ、汚い所ですが。」と、差し示された所は、地面に敷いた段ボールの上で、座布団も無さそうだったので、

「どこかその辺の喫茶店でも入りません。」

と言うと、また、隣の男が起き上がって、

「俺達を入れてくれるような喫茶店があれば教えてくれ。」

「昨日、段ボールを替えたばかりなんで、汚くないですよ。」

そういう問題では無いんだけどなと思いながら段ボールの壁をすり抜けて、御隠居さんの住まいである、二畳程のスペースに体を入れる。寝転がればそうでもないんだろうけど、どう座っても道行く人から見えてしまって、沢山の好奇の目線を感じる。

御隠居さんの住まいは、隣の熊男の住まいのように電熱器や扇風機など、コンセントも無いのにどうして使うんだろうと考えてしまうようなゴタゴタした家財道具が一切無くて、タオルケットとウィスキーの瓶と数冊の文庫本だけで、文庫本には近くの図書館のスタンプが押してあった。

「月に一度、風呂に入って髭を剃って、さっぱりした時に借りに行くんですよ。」

と、聞いてもいないのに答える。今は、まだ季節がいいので、持ち物も少ないんだけれど、寒くなってくると、流石に布団や着るもので足の踏み場が無くなるんだそうだ。

「こんな頼りない男のどこがいいんだい。あんたで二人目だよ。」

と、熊男が覗き込んで言う。

「二人目。」

怪訝そうなあたしの眼差しを受けて、

「ええ、先日ね、晴美さんが来てくれたんですよ。聞きたい事があるって。いつも、お会いする時は、できるだけきちんとした身なりをするように心がけてるんですが、先日といい、今日といい、突然なもんで、こんなむさ苦しい格好でまことに申し分けない。」

「晴美ちゃん、何か聞いてました。」

「いや、多分あなたと同じ目的だと思うんですが、女の人を探してるんだとか。」

言いながら、ショットグラスを二つ取り出す。

「飲みますか。」

断わるのも悪い気がしたので、頷いたついでに指先でちょっとだけとジェスチャーをする。

「いやぁ、嬉しいなぁ。これねぇ、僕のスペシャル・ブレンドなんですよ。高級スナックばかりを梯子して、厳選した材料だけを集めて、ブレンドしたんですよ。絶対に喜んでもらえると思うなぁ。あ、このショットグラス、心配しなくても、ちゃんと洗ってあるから。」

どんな種類のお酒が、どれだけ混ざっているのか、確かに濃くがあって、それでいてきりっとした味のブレンドに仕上がっていた。

「こいつの酒はねぇ、この辺りでも一目置かれてるんだ。沢山作って商売しろって言ってるんだけど、欲がねぇから駄目だ。みんな無料で飲ましちまうんだから。」

熊男が壁の向こうから声を掛けてくる。

「晴美さん、一ヵ月位前にここにふらっと流れて来たばあさんの話しを聞いていかれましたが。いや、名前はわからないんです。ここでは、誰も名前を名乗らないですから。おかしなばあさんで、薄汚れたミルク飲み人形を後生大事に抱えてましたっけ。」

「しばらく、大臣の所にいたばあさんだろ。」

と、また、熊男が顔を出す。

「そうだよ。」

「ありゃぁ、ちょっと、ここあたりが、これだったよなぁ。」

と、頭の横で人さし指を立てて、くるくる回す。

「大臣てのは、向こうの端っこにいる年寄りなんですけどね、そのばあさんを自分の愛人にしようって思ったらしいんですよ。いろいろ面倒見てやってましたけど、二週間も居ましたか、ある日突然居なくなっちゃったんですよ。」

「どこへ行ったか、その大臣て人に聞いたらわかるかしら。」

「わからないと思いますよ。大臣もしばらく探したみたいだったですけどね。結局、諦めちゃいましたからねぇ。」

あたしは、帰りにその大臣の所にも寄って見た。大臣は、背の低い皺だらけの老人で、自分の下心に照れているのか、うつむいてしまって、なかなか話そうとはしてくれない。見かねた熊男がやって来て、

「おい、懺悔しろよ、懺悔。」

「いや、懺悔も何も。そんな、変な事はしてねぇんですからねぇ。」

と、上目使いでこちらを見る。

「名前は、ついに言ってくれなかったんですけど、汚いミルク飲み人形を大事に抱えて、寝る時も離さねぇんですよ。ほれ、そこにペタッと座り込んでは、その人形になんやかやと話し掛けてましてねぇ。そうだ、誰かが待ってるから行かなくっちゃって、何度も人形相手に喋ってたなぁ。その翌日でやすよ、居なくなったの。」

その老婆がツレさんだという保証はどこにもないけれど、多分そうじゃないかなと思う。あたしは、ツレさんが、抱きかかえたミルク飲み人形を見ては違う違うと言い、さりとて何が正しいのかについては、完全に心に鍵を掛けてしまって、自分ではどう判断することもできずに、街をふらふらと彷徨っている図が眼に浮かんだ。ツレさんは、一体何処へ行こうとしているのだろう。

「人形の名前、何て言ったかなぁ。」

「陽子じゃないですか。」

「陽子、陽子ねぇ。陽子じゃなかったでやすねぇ。」

「どこに行くって言ってました。」

「いや、誰かが待ってるからって、それだけ。」

「お金は持ってました。」

「からっきし。だから、貸してやったくらいですよ。随分の出費だったでやすねぇ。」

「お前、どうせ下心見え見えで世話してやってたんだろ。いいじゃねぇか、それくらいのこと。こいつはねぇ、たいした甲斐性も無いくせに、すぐに格好つけて女の世話したがるんですよ。」

と、熊男がしゃしゃり出る。

「あたしは、親切心でもってやってるんでやすよ。誰かに表彰してもらいたいくらいだ。」

これ以上いても、何も新しい情報が手に入りそうに無かったので、「どうも、ありがとう」と、礼を言って退散することにした。

「お酒、飲みたくなったら、また何時でも来てください。」

と、御隠居さんが地下道の出口まで見送ってくれた。

「その、あんた方の探してる人ってのは、余程大切な人なんですか。晴美さんも探してるってのは。」

地下道を出た所で、太陽の光に顔をしかめて御隠居さんが訊ねる。それは、まるで地下の住人が禁を犯して地上に現われ、太陽に射すくめられてしまったかのように見えた。

「大切って言うか、その人が鍵を握ってるのよ。」

「鍵。」

御隠居さんのみすぼらしさが、太陽の下では、より増幅されたように見えて、思わず目を反らす。

「どんな鍵なんですか。」

「御免なさい。今は、言えないのよ。」

「そうですか。あの、僕のイメージなんですけどね。あの人、頭がおかしいってわけじゃなくて、心が病んでるだけなんじゃないかなって。見てたら、ずっと何かを探してるって感じなんですよ。」

「探してる。」

「ええ。自分が探されてるのも知らずに、探してるんですよ。探すのに夢中になっちゃって、だから逆に、誰にも見つけてもらえなくって、それでますます自分の世界に入り込んでしまう。そして....。」

「ますます見つけにくくなる。」

「そう、その通り。だから、同じ様に探してしまうと、余計に見つからなくなるんで、その人が来そうな場所に網を張って、じっと通りかかるのを待っていたほうがいいと思うんです。」

「来そうな場所って。」

「心に傷を作った原因のある場所が、そうじゃないかなって。ほら、推理小説なんかでよく言うでしょ、犯人はきっと犯行現場に帰って来るって、あれですよ。あれって、実は、見つけて欲しいって言う反作用的な心理が働くからだと思うんですけど、今回は、犯人でもなんでもなくて、ただ、神経が病んでるだけだと思うんで、ぐるぐると帰るべき場所の周囲を回りながら、徐々にその輪を小さくして行って、最後にはたどり着くんだと思いますよ。いや、すいません、差し出がましい事を申し上げました。」

日陰の地下道に比べると外は暑くて、暫く歩くうちにじっとりと汗ばんだ。直射日光にアスファルトが溶けて行くようで、あたしは、その溶けたアスファルトの中を泳いでいるような気分になった。そして、向こうからあたしと同じように浮きつ沈みつしながらこちらにやってくるツレさんの姿が見えた、ような気がした。

 

その日の夜、やっぱり同じ様な夢を見た。

夢の中では、どろどろの地面の中を泳いでいるのは、ツレさんだけではなく、大勢いて、明美ちゃんも、晴美ちゃんも、シンちゃんも、マムシさえもが殆ど沈みながら、なんとか泳いでいて、人の事など構うゆとりもなく、みんな生き延びる事だけを考えているようだった。誰も彼もが、渦巻きに巻き込まれて、ぐるぐると同じ所を回っていた。その渦の中心に、指先でぐるぐるとかき回しながら渦を作り出しているみすぼらしい姿の男が一人いて、それがどうも御隠居さんによく似ている。あるいは、あたしがまだ見たことのないアノカタのようにも思える。その男がこちらを見て、「ほら、皆こうしてぐるぐる回りながら結局帰り着くんですよね。」と、愉快そうに笑いながら言う。

あたしは、大勢の中から俊二を探すんだけれど、それらしき姿もなく、「俊二、俊二」と呼ぶんだけど、まるで薄暗くてだだっ広い銭湯の中見たいで、誰も彼もの声がわんわんと響いて、あたしの声なんかたちまちかき消されてしまう。「死んじまった奴はここにはいないよ、ねぇさん」と、晴美ちゃんがあたしの横を流されて行きながら、そう言う。「わかっているよ、うるさいねぇ」あたしのはすっぱな言い方に、晴美ちゃんが目を丸くて、流されて行った。

向こうからあたしに手を差し延べながらやって来る影があって、一瞬、それが俊二に見えた。「俊二、やっぱり、あたしを残して死んじまったりは、しなかったんだね」あたしは、俊二の体を力一杯抱きしめようとする。それだけで、胸が熱くなって、乳首がツンととんがる。あたしは、俊二の頭を思いっきり抱きしめて、「さぁ、昔みたいにねぇさんの胸を思いっきり吸って」でも、一向に吸ってくれないその顔を覗き込むと、トシだった。「あんた、何故こんな所に」「すいません、でも俊二さんは僕の憧れでした」あたしは、トシの頭を向こうに押しやろうとして、止めた。「トシ、あんたも寂しいんだね」逆にトシをぎゅっと抱きしめる。そうすると、冷え切った体に温かいスープを流し込んだ時のような、ほっとため息を付きたくなるような感覚が体の奥の真っ暗闇の所から沸き上がった。「あたしは、このまま流されてもいいんだよ」と言うと、「ねぇさん、そりゃだめだ。あきらめちゃだめだ。帰るんだよ」「どこへ」「昭和新山へ、僕達の過去が埋っている場所ヘ。そこから新しくスタートするんだ」その顔をよく見ると、トシであったり俊二であったりする。「もういいよ。疲れちゃったよ。あんたとこのまま流されて行くよ」「だめだよ。あきらめるのはよくないよ」そう言うと、トシは、あたしの体を渦の外に向かってぐっと押し出す。その反動で、トシは随分と渦の中心に近づいて、やがて飲み込まれてしまった。「トシ、トシ」と叫ぶ自分の声が、反響して「俊二、俊二」に聞こえる。「死んだ者は、ここにはいないよ」晴美ちゃんが、そう言いながら、渦に巻き込まれて消えた。

やがて皆、渦の中心に吸い込まれて行って、あたしだけが取り残された。真ん中の男が笑いながら、「もうすぐ締切ですよ。」と、言う。あたしは、「待って」と叫びながら、必死になって泳ぐんだけども、全然渦の真ん中に近づけない。やがて終了を知らせるベルがけたたましく鳴り響き、真ん中にいた男の姿もかき消えていく。あたしは、疲れ果てて沈んでいく中で、相変わらず終了のベルを聞き続けていた。

その終了のベルが一度鳴り止んで、再び鳴り始めたところで、あたしは目を覚ました。枕元に手を延ばして、携帯電話を取る。晴美ちゃんだった。

 

「まだ寝てたのかい。何時だと思ってるんだい。」

時計を見ると、午前十時をとっくに回っている。

「あたしなんか、五時から働らいてんだからね。何度か鳴らしたんだよ、七時に一回、八時に一回、九時に三四回。」

「全然気が付かなかった、御免。で、何。」

「電話が掛かって来たんだよ。昨日。」

「もしかして、明美ちゃんから。」

「そう。ちょっと逃亡生活に疲れた声をしていたけど、取り敢えずシンちゃんも元気だって。」

「何処に居るの。」

「詳しい場所は言ってくれなかったけど。山の中の小さな温泉で住み込みの中居さんやってんだって。」

「そう、シンちゃんも。」

「うん、シンちゃんは同じ旅館の喫茶店でアルバイト。二人でなんとかかんとかやってるみたいだよ。」

もやのかかっていた頭が段々にはっきりとし始める。

「で、ツレさんは。」

「知らないって。」

「知らない。」

「それがどうもね、聞いて見ると、最初から一緒に行動してないんだよ。」

「どう言うこと。」

「服は預かってもらってるんだけどって。」

「あたし達にまで隠してるんだろうか。」

「そりゃまぁ、一番親しい人間を真っ先に疑えって言ってやったから。で、無くなったお金の話しをしてやったんだよ。そしたら、やっぱり知らないって。」

「ツレさんからも聞いて無いのかなぁ。」

「どうもそうらしいね。疑われてんだったら出て行ってもいいって言うから、その時はこっちで棺桶用意して待ってるからねって言ってやったら、何か憎まれ口たたいて切っちゃった。」

 

あたしが『C21 』に顔を出したのは、それから一週間後だった。一週間の間、あたしはツレさんを求めて方々を探し歩いたけど、結局手がかりすらもなく、一体自分で何やってるのかさえも段々とわからなくなって来ていて、こんな事ならお店に出てた方がましだと思い始めて、かと言って、長期休暇の口上を並べ立てて休んでる手前、のこのこと出ていくのも気恥ずかしいので、取り敢えず様子を伺いに来ました体で、茶菓子を買い込んで立ち寄った。

一週間は、そう長い期間ではないと思う。世間では日曜日から次の日曜日までの期間なんだから、多少の動きはあっても、そう、唐突に何もかもが変わってしまえるものでもないと思っていた。でも、一週間振りの『C21 』を見て、あたしのその考えが全然間違っていた事に気付かされた。

駅前からお店のある繁華街の外れへと通じるアーケード街は、昼間歩くと、相変わらず薄汚れていて、路端には菜っ葉服を着たホームレス達が、夜の間にばらまかれた小便や吐瀉物と、暑さでより強烈に立ち上るその匂いの間に所在なく座り、寝転び、ネオンサインと夜の闇とアルコールでしたたかに濁った視線と、各々が自分が主人公だと信じている沢山のエキストラ達の体臭とがなければ成立しない街の現実をいつも通り、はっきりと浮き彫りにしていた。そんなアーケード街を小さい路地で折れ、左手に歓楽街に隣接した小学校の裏門を見ながら、路地の行き止りにあるビルの勝手口から中に入る。この勝手口は、エキストラ達に一時の夢と快楽を与える歌姫達の小さなステージに続いている。歌姫達は、つまり『C21 』の女の子達は、毎朝この勝手口を通り、突き当たりのエレベーターに乗り、四階の事務フロアーのロッカールームに吸い込まれ、そこでホットパンツとタンクトップに着替え、そして、コンパートメントへと向かう。そこが、歌姫達の舞台で、ひがな一日、口先舌先のダンスを踊る。

エレベーターを降りると、あたしはロッカールームを横目に見て、マスタールームへと向かった。マスタールームのドアの前には、寿司の入れ物や丼や大皿が洗いもせずに放り出してあって、そこにゴキブリが数匹、季節外れの暑さのためか緩慢に動いていて、あたしが近づいても逃げようともしない。あの几帳面なマスターが、 と思いながらドアを開けようとして、金文字の「マスタールーム」のパネルの下に、金釘文字で「対策室」と書いた紙が張ってあるのに気が付いた。マスターは、小学生の頃、県の書道コンクールで銀賞を受賞した事が義務教育期間唯一の自慢だった位の達筆家だから、いかに忙しい身でも、こんな紙を張ることを許すわけがないので、「おかしいな」と一人言を言いながらノブを回すと鍵が掛かっていて、澄ました耳に中から女のすすり泣く声が聞こえてきて、実はそれは喘ぎ声なんだと気付くのにさして時間はかからなかった。これも今だかつてなかった事だ。マスターは、新人の女の子を教育するのに自分の体を使うことがあっても、必ず研修室を使って、公私混同を避けるようにしていた。それに、ここだけの話、マスターは実はホモっ気があるんだと、あたしは確信している。気の許せる相手と話していると、つい、おねぇ言葉を使っているし、「商品には手を出さない」主義でもない癖に、店の女の子とついぞ深い仲になった事がない。あたしも新人の頃、マスターに手解きを受けたことがあるけれど、勃起はしても漏らす事もなく、あたしの体を見ても別に値踏み以上の興味は示さなかった。あたしだけでなく、他の女の子の場合もそうで、マスター・ホモ説は、まことしやかに店内を駆け巡っていた。

さて、ドアの向こうの喘ぎ声は一度、聞いている方が恥ずかしくなる位に卑猥に大きくなって終息し、囁き声に変わったので、あたしは、ドアをノックして「マスター」と呼んだ。中でゴソゴソと音がして、人の気配はするのだけど、一向に出てこない。「マスター」と、さっきよりちょっと大きい声で呼ぶと、

「冬生ちゃん、俺はここだよ。」

と、後ろで声がした。振り向くと、左手の先にぐるぐると包帯を巻いたマスターが研修室から顔を覗かせていた。

「研修中ですか。」

「いや、ちょっとね。それより、冬生ちゃん、どうしたの。もう出勤できるの。」

「ちょっと陣中見舞を。ねぇ、マスター、この部屋に誰か居るみたいなんだけど。マスターだとばかり思ってたんだけど、誰かに部屋貸してるの。」

「うん、いろいろとわけがあって。」

「ラブホテルでも、オープンしたんですか。」

「いや、まぁ...。」

と、弱々しく笑う。その時、マスタールームのドアが開いて、中からマムシが、ズボンのチャックを上げながら現われた。マムシの後ろには、カーテンを閉め切った薄暗いマスタールームが口を開けて、淀んだ空気を吐き出していた。その空気には、情交が終わったばかりの、あの独特の獣臭さが混じっていた。

「誰かと思ったら、冬生ちゃんか。」

恥ずかしげもなくニタニタ笑いながら摺寄ってくる。それが親しみを表わす唯一の方法だと信じているんだろう。こいつなら、今使ったばかりのペニスを拭きながらでも同じことができるだろうと思った。

「まぁ、入りなよ。」

と、さも自分の持ち部屋のように言う。

「マスター、何なんですか、これは。」

「あれ、マスター、まだ言ってくれてないんですか。休んでる娘も含めて全員にちゃんと伝達しておいてくださいねと、あれ程念を押しておいたのに。」

「ああ、うっかりしていた。実はね...。」

「マスター、折角なんだから、こっちの部屋使ってくださいよ、もとの自分の部屋。今、お茶入れさせますから。」

半ば強引にマムシが言う。マスターは、「ああ」とも「うん」ともつかない相槌を打って中に入ろうとして、マムシに止められる。

「おい、早く服を着て、窓を開けろ。」

と、マムシが中に向かって叫んだ。中で白い影が動いて、カーテンが開けられ、床に沢山の白い花のちりばめられた見覚えのあるマスタールームが現われた。白い花と見えたのは、丸められた沢山のティッシュペーパーだった。

「さ、どうぞ。」

マムシに勧められるままに中に入ると、ちょっと小柄だけど胸の大きい女の子が、後ろ手で髪を束ねながらあたし達を迎えてくれた。マムシはその子の後ろに回って、胸元から手を入れて、その大きな胸を揉みしだきながら、

「ちょっとね、お茶を入れてくんないかなぁ。濃いのを一発ね。」

マムシの手招きで、あたし達はソファーに腰をかける。まだ、温かい所を見ると、どうやら先程の一戦は、今あたしの座っているソファーの上だったのかも知れない。

「さ、マスター。」

と、マムシが促す。

「うん、ええっとね。」

「マスター、まず、その手の事から話してよ。」

「これはね、切っちゃったんだ。詰めたの。」

「要は、責任をとったんだよね。ね、マスター。」

「責任て。」

「だから、例の紛失した金の責任だよ。それくらいわかんねぇのかなぁ。」

「あたしは、マスターに聞いてるんです。どうして、マスターが責任取らされるんですか。」

「いや、そういう結論が下ってね。」

「責任取るの当り前じゃねぇか。五千万円だぞ、五千万円。」

「マムシ、あんたの責任はどうなるのよ。明美ちゃんの監督不行届じゃないか。」

「いや、冬生ちゃん、その件については充分に審議してだね、証拠不十分てことで、マムシは取り敢えず対策室長って事で、責任を持って犯人究明に当たると...。」

「マムシ、あんた、どんな裏工作したのよ。」

「人聞きの悪いこと言うなよ。責任を持って犯人究明に当たるって言ってるじゃねぇか。何が裏工作だよ。滅多な事言うもんじゃないぜ。おい、お前だって容疑者の一人なんだからな。」

「あたしの何処が怪しいって言うのよ。」

「ツレさんの事をよく知っていたし、明美と仲がいいし、比較的自由にマスターの部屋に出入りできたじゃねぇか。」

「あんたこそ、マスターの部屋に出入り自由だし、明美ちゃんの事は隅々まで知っているし、一番怪しい癖に、何でこの部屋でふんぞり返っていられるのよ。」

「まぁ、冬生ちゃん、マムシも俺の嫌疑晴らすために頑張ってくれてるわけだし、冬生ちゃんも早く出てきて、一緒に『C21 』を盛り上げてよ。」

「マスター、何言ってるのよ、こいつ、この店乗っ取るつもりよ。」

「こいつ、言わしとけばいい気になりやがって。おい、お前なんか首だ、出てけ。」

あたしが、口を開いて言い返そうとするのと、マスターが立ち上がって怒鳴るのとが同時だった。

「バカ野郎、誰が首だと。お前、何もかもを手中に収めたつもりなのか。ここのマスターは、まだ俺なんだぞ。」

そう言って、マスターは、しまったと言う顔をする。マムシは、マスターに怒鳴られて、以前の様に怖じ気づくかと思いきや、ニヤニヤ笑いながら、

「あれ、マスター、どうしたんですか、今日はやけに勢いがいいですねぇ。そりゃ確かに今だあなたがマスターですがねぇ、アノカタが一番疑ってらっしゃるのが誰か、よぉく御存知なんでしょうね。」

マスターは、どっかりと腰を下ろすと、矢でも鉄砲でも持って来いみたいな調子で開き直って、マムシの目をしっかりと見据え、俺は事の真相を全部知ってるんだぞみたいな顔をして、

「そりゃ俺だろ。わかってるよ。誰が吹き込んだか知らねぇが、上納するのが惜しくなって、一芝居打ってるんじゃねぇかだと。よくもまぁ、そんな下らねぇでっち上げがまかり通ったもんだ。おい、調子に乗ってられるのも追風が吹いている間だけだぜ。」

さすがマスターと言うべきか、勢いづいているだけのマムシは、慌てて視線をそらせて、顔をひきつらせる。

そこに、先程の女の子がお茶を持って来た。

「おい、お客さんは、もう帰られるんだとさ。」

と、マムシが言い、女の子が怪訝な顔でこっちを見た。とっさには機転が利かない娘のようだ。何を言われたのか、理解できなかったらしい。あたしがニコっと笑ってやると、顔を強張らせてお茶を置こうとする。そのお盆を下からマムシが蹴り上げた。多分、喧嘩用に革靴の爪先に何か入れてるんだろう、木のお盆が真っ二つに割れて、茶碗が散乱した。

「茶はいらねぇと言っただろ。」

女の子は、泣きべそをかきながら、飛び散ったお盆や茶碗の破片をかき集める。それをマスターが「びっくりしたねぇ」と言いながら、手伝ってやる。一通り片付け終えると、マスターは、ズボンの裾を払いながら、

「さぁ、冬生ちゃん、あっちで話そうか。」

と、立ち上がった。

あたしも、マムシを睨み付けながら立ち上がる。マスターは、まるで何事も無かったかのように、

「いや、マムシ、邪魔したねぇ。また、仕事の続きをやってよね。」

 

いまはマスタールームとなった研修室に入るなり、あたしは、

「マスター、いったいどう言うことなの。」

と、詰めよった。

「見ての通りよ。」

部屋の中に据え付けられた研修用のベッドに腰掛けて、煙草に火を付けながら、マスターが答える。

「どうして。」

「こっちが、知りたいよ。指詰めに行ったら、アノカタの隣に奴がちゃっかり座っちゃって、何くれとなく世話焼いてんだよ。こりゃ何かあるな、仕組みやがったかなと、思ってるうちに、いきなり寄って集って押さえ付けられて、出刃包丁でチョンなのよ。そんでもって、アノカタが 『これで済むと思うなよ。』って、俺、どういう意味かわからなかったんだけど、とにかく痛いんで聞きなおす気も起らなかったのよ。なんせ、切り口の所、ハンカチで押さえてんだけど、血がドバドバ出てきて、マムシなんか吐きそうになってやがんの。俺、わざと傷口のところ、奴に見せてやったのよ。そしたら、慌てて便所に駆け込みやがんの。それから、病院行って、痛み止め打ってもらって、止血してもらって、俺の指見て医者が何て言ったと思う。指は無いんですかだって。指があれば元に戻せるんですけどって。無いって言ったら、ちょっと高くつきますけど、イミテーション付けますかだってさ。指輪じゃねぇんだぞって、思わず怒鳴り付けたら、びびってもくれずにさぁ、あたしだったらプライドより生身の指の方が先立ちますけどって、そりゃそうだよね。その晩、ショックで四十度近い熱が出ちゃった。何のショックかって、そりゃ、痛さと指が落ちる時の音が頭蓋骨の裏側にこびりついちゃって、その時の恐怖が何度も襲ってくるのよ、そんな事で熱が出るんだよね、人間て。次の日に、マムシがアノカタの辞令を持って来たんだよ。マムシを今回の現金紛失の対策室の室長とするって書いてあったの。俺、アノカタにもう一度理由を聞こうと思って行ってみたのよ、そしたら、病状悪化の為面会謝絶だって。それ以来なんだよ、マムシがふんぞりかえっちゃって。今じゃあ、あいつの好き放題。」

そこまで、一気に喋ってしまうと、手元にあった角瓶のウィスキーをグッと飲んで、顔をしかめる。以前は、結構値の張りそうなブランデーしか飲まなかったのに、と思って見ていると、それに気が付いたのか、

「これ、昨日、晴美ちゃんが差し入れてくれたのよ。中身は、レミー・マルタンだよ。高そうなレッテル張られた酒飲んでたら、何時、マムシから変な噂を流されるかわかったもんじゃないじゃない。だから、安物の瓶に高い酒入れて飲んだらって、晴美ちゃんがアドバイスしてくれたんだ。酒くらい自分の好きなのを飲みたいよ。」

「で、マスター、いつもこの部屋で何してるんですか。」

「何も。帳簿は、マムシに取られちゃったし、新人の研修もマムシがやってるし、組からの連絡も、もうマムシにしか入らなくなってるし。外出するのも身の潔白が証明されたわけではないので、罷りならんそうなんだよ。だから、酒を飲むより他、何もしようがないのよ。」

「それって、マスター。」

「うん、軟禁って奴。」

「完全に乗っ取られちゃったってわけね。」

「そうは、思いたくないんだけどね、流石にね。」

「クマガイやオオガミ達は。」

「ここは、素通りよ。マムシの所にしか行かない。ここには、立ち寄りもしない。冷たいもんよ。」

「ゴロちゃんも。」

「ゴロは、別の仕事に回されちゃって、どっか地方へ飛ばされたみたい。まぁ、そのうちに帰って来れるんだろうけど、ちょっと先だろうって事なのよ。」

「それって、完全にマムシにはめられたって感じじゃない。」

「ゴロの場合は、彼の力量が是非必要だったからなんだけどね。」

「違うわよ。全体の事よ。まず、何故、マスターが疑われなくっちゃならないのよ。今まで、ちゃんとこの店盛り上げて、それなりにお金を上納してたんでしょ。五千万ごときで人生を棒に振る程バカじゃないじゃない。」

「まぁ、数百万で人生棒に振る人もいるんで、何とも言えないけどね。」

「冗談言ってるんじゃないのよ。」

「うん、まぁ、こうなっちゃった原因は、はっきりしてるんだけどね。」

「やっぱりマムシね。」

「いや、違うんだよ冬生ちゃん。何て言えばいいのか、つまり、俺のコミュニケーション不足って奴なんだよね。ほら、最近は組関係者もこんな本読まなくちゃならないのよ。」

と、出してきたのは、『サラリーマン出世読本』って言うタイトルの文庫本だった。

「何よこれ。マスターこんなの読んでるの。」

「うん、ちょっと前にね、オオガミが置いてった本なんだけど。こんな事になっちゃって、暇なんで読んでみたんだよ。そしたら、この本の中に今回の原因がちゃんと出てるのよ。ほら、ここ、『最大の武器は、コミュニケーションだ』って章の所。現場でどんなに頑張ったって、上司とのコミュニケーションが悪ければ、評価も低くなるって。かつて、豊臣秀吉も織田信長に認められるためにあらゆる手を尽くしたって。これなのよ。俺、最近殆どアノカタとコミュニケーション取ってなかったのよ。そりゃあ、寝ても醒めてもアノカタの事ばっかり考えてた頃もあったのよ。

昔、アノカタも若くて威勢が良くて、俺もチンピラから漸く這い上がってきた所で、この世の中にどうやってのさばってやろうかと夢膨らませてて、そんな時にアノカタと知り合ったのよ。あの頃、俺より二十ばかし年上のアノカタは、戦後のどさくさの頃から腕を鳴らして、既に近在の右翼団体にも顔が利いて、労働争議や左翼集会潰しの先峰に駆り出されて、血の気の多い連中を後ろに従えて、素手で会場に乗り込んでたのよ。別に誰を傷つけたり殺したりしたわけでもないんだけど、声や喋り方に迫力と説得力があったのよね。アノカタの姿を見ただけで、こそこそ逃げ出す運動家が沢山いたのよ。反対に、アノカタのためなら命を投げ出すって信奉者も結構いたのよ。左翼運動家の中にも人間的にアノカタのことが好きだっての何人かいたんだから。そりゃまぁ、向こうの運動潰した後で、まだ文句のありそうなの掴えて、『おい、飲みに行こう』って、主義や主張は横に置いといて、人間対人間で渡り合おうってんだから、格好良かったのよ。俺も、そんなアノカタに惚れちゃったってわけ。とあるスナックで知り合ってさぁ、俺も血の気多かったんでアノカタと殴り合いになって、こてんぱんにのされて、その後で抱き起こされて『飲もう』って。二人で鼻血拭きながら、飲んだのよね。それから、俺は、アノカタと行動を共にするようになったんだけど、アノカタもどんどん勢力拡大して、やばい事もそれまでに随分やったんだけど、仁侠だけは忘れないようにしようって言ってた筈なんだけど、いつしかアノカタの中で権力やお金の欲求が膨れ上ってきて、それ見ててどうも違うなって思い始めて、それがアノカタにもわかっちゃったのよね、俺を煙たそうにし始めて、資金源にこの店オープンした時に、長い間の功労に報いるとかなんとか言っちゃって、マスターに仕立てて、追出しちゃったのよ、俺を。それならってんで、必要以上の事は喋らないようにして、今までやって来たんだけどね。結局、アノカタも偉くなり過ぎちゃったのよね、自分に一番都合のいい事を一番沢山言ってくれる人間を取り立てるようになっちゃったのよ、マムシみたいな奴を。それを防げなかったのは、俺のコミュニケーション不足のためなのよ。」

「それでいいわけ。」

「何が。」

「マムシにいい様にやられて、それでいいわけなの。」

「いいも悪いも、ただいま面会謝絶なんだから弁明にもいけず、まぁ、マムシがどっかで尻尾を出すのを待つだけよ。」

「そんなことしてたら、本当にこの店乗っ取られちゃうよ。」

「大丈夫よ、冬生ちゃん。あいつに、情夫稼業はできても店の経営はできないよ。だからこそ、俺を始末しちまわずに軟禁してるんじゃない。いざとなったら引っぱり出して、こき使う腹なのよ。」

「ねぇ、マスター。逃げなよ。」

「駄目駄目。そんなことしたら、それこそ奴の思う壷よ。たちまち俺を犯人に仕立て上げて、全力で追いかけてくるに決まってんだから。そうなったら、小指くらいじゃ済まないよ。しばらくは、このまま様子を見るよ。」

そう言って、寂しそうに笑う。あたしは、それがマスターを見る最後になるとは、思いもしなかった。

 

「一体どういうことよ。」

あたしは、晴美ちゃんにもマスターにしたのと同じ質問をぶつけた。マスターと話した後、控室に晴美ちゃんの顔を見に寄ったんだけど、待てども晴美ちゃんの姿は現われず、他の女の子を呼びに来たカンちゃんって男の子に確認すると、晴美ちゃんはショート専科に張り付いてるとのことで、お客が多くて控室にも戻って来れない状態なんだそうだった。それで、いつもの海猫で待ってるからと伝言だけして、ひたすら待ってたんだけど、晴美ちゃんが現われたのは、あたしがそこにあった週刊誌四冊分の特集記事を隅から隅までじっくりと読み終えた頃だったので、三、四時間は立ってたと思う。晴美ちゃんは、目の下に隈を作って、ぐったりした顔で現われた。あたしの質問にも答える元気が無いって感じで、にが笑いだけを作った。あたしは、晴美ちゃんが口を開くのを待った。

「毎日、朝の五時からショートばかり、夜の八時まで、二、三十人のをしごいてるんだ。地獄だよ。口の中がガサガサになっちまって、ろくにろれつも回らないんだ。アルコール消毒に付き合ってよ。」

そう言うと、冷めかけたコーヒーをまずそうに一口だけ飲んで、立ち上がった。アーケード街の外れからタクシーに乗って、晴美ちゃんのマンションの近くの年取ったママが一人でやってる小さなスナックの前で降り、その店の一番奥のボックスに席を取った。

「ママ、ちょっと静かに飲ませてね。」

と、晴美ちゃんが声をかけると、

「あたしは、いつも静かだよ。そのうちに、五月蝿くなるのはあんたの方だろ。」

そう言いながら、ワイルド・ターキーのボトルとショットグラスをテーブルに置いた。

「おっと、こちらさんは氷とお水がいるんだね。」

軽く頷くと、大儀そうにカウンターに戻って行く。カウンターの中から、氷を砕きながら、

「後で、焼きそばかい。」

「柔らかめのをね。」

返事の代わりに、右の眉を軽く動かす。

「ママ、誰かに似てないかい。」

「誰。」

「ツレさん。」

「そう言われれば。」

「ね、もうちょっと痩せて、みすぼらしくなれば、ね。」

でも、よくよく見ると、濃い化粧が似てるだけで、仕草も派手で、性格も陽気そうで、どこが似てるのかわからなくなってくる。

「化粧の濃い人は皆同じに見えてくるのさ。」

そう言いながら、晴美ちゃんは、まるで水みたいにショットグラスにワイルド・ターキーを入れると、二口くらいで、顔をしかめて飲み干した。

「さてと、当のツレさん本人は見つかったの。」

「全然。手がかりもないのよ。」

「そう。」

「それより、お店どうしちゃったのよ。マムシの横柄な態度と言い、マスターの弱腰と言い、晴美ちゃんのその疲れ切った顔...。」

晴美ちゃんは、「うん」と言ったきり、虚ろに視線を天井に這わせている。しばらくして、

「まいったよ、流石のあたしでも。」

「晴美ちゃんが、そんな弱音吐くなんて、よっぽどね。」

「うん。ありゃぁ、リンチだ。なんせ、次から次へと客が来るんだ。そりゃぁ、来るわな。十五分二千円だぜ。」

「嘘でしょ。」

「嘘であって欲しいよ、今でも。」

「ショート専科って言ってたの、それ。」

「うん。よしゃいいのに、マムシの奴、スポーツ新聞や三流新聞、写真雑誌の取材まで、全部こっちから申し込んで、あたしゃ、あっと言う間に売れっ子スターよ。まぁ、あたししかいないんで、売れっ子になるのも当り前か。」

「晴美ちゃんしかいないの。」

「うん、テストケースだから、暫く一人でこなしてくれだってさ。そのうち、増員するからって。でも、ありゃあ増員する気なんて更々ないね、どうも。朝の五時からだよ、馬鹿がもう列作ってやんの。こっちは最初っから裸だよ。診察室みたいなベッドに寝かせて、手っ取り早くズボンとパンツを下ろして、ひたすらしごいてやって、十五分たったら、はいさようなら。そしたら、入れ替わりに次の奴が入って来るんだよ。昼過ぎには顎も手もガタガタだよ。酒の量は増えるし。そのうちに、あたしの手、健症炎になっちゃうよ。こういうのって、労災効くのかねぇ。おっと、そもそも、この業務自体が労働基準法に違反してると思うよ。落ち着いて昼飯食う時間さえ無いんだぜ。ただでさえ、食欲ないのを無理に押し込んで、煙草一本吸う時間もなく、すぐに呼びに来るんだよ。お客が待ってるって。」

「それって、いびり出されてるんじゃない。いっその事、辞めちゃえば、お店を。」

「それがねぇ、そういうわけにもいかないんだよ。ゴロが人質に取られてんだよ。」

「ゴロちゃんが。まさか。」

「いや、そのまさかなんだけど、あいつ腕っ節は強いんだけど、組織の中での機転が全然利かないんだよね。で、アノカタの警備役を解かれて、東北の弱小グループの助っ人に回されてんだけど、これにしたって、アノカタが是非ゴロにと言ったって、ゴロはそう信じて、喜んで行ったんだけどね、よくよく考えりゃ、今やアノカタにそこまで自分の意思を周囲に伝えられるだけの力が残ってるわけないんだよ。」

「そんなに具合悪いの。」

「身体の問題だけじゃないんだよ。アノカタが自ら招いた結果なんだけどね。何て言うか、組織とかシステムって奴なんだろうね、これが。」

「システム。」

「ああ、今、組織を実際に動かしてんのは、ヤマネって男なんだけど、こいつはマスターやマムシより後に入って来た奴なんだよね。組織から言うと、マスターの上に終戦直後からずっと従ってきた奴らがいて、互いに潰しあいしながら、残った連中が五人、こいつらが大幹部、その下にマスターと同じクラスの連中が十人いて、その下にマムシだのオオガミだの、それからヤマネってのがいるんだよ。ゴロは、そのまだずっと下ね。」

「よく知ってるんだね。」

「あれ、言わなかったっけ。あたし、アノカタの屋敷務めしてた事があるんだよ。十五、六の頃だよ。」

「へぇ。それが、どうして今、『C21 』なんて言うお店に。」

「放り出されたんだよ。素行が悪いの、性格不適確だの、理由はいっぱいつけられたんだけどね、まぁ、あたしが望んだっていうのもあるんだけど、アノカタに御奉公するのを辞めさせてくれって。ただ、糸の切れた凧みたいに何処かへ飛んで行っちまって、あること無いこと喋られても困るんで、『C21 』に勤める事を命じられたんだよ。 アノカタの息が一番沢山かかった店に。言うなれば、軟禁状態って奴ね。」

「それって、マスターと同じじゃない。マスターもそんな事言ってたわね。」

「奴らの得意業だよ。取り敢えず、殺さないようにだけはしておいて、手足をもぎ取って行くってのね。まぁ、口外されちゃあ困るような情報を握ってる奴に対して、それをやるんだけどね。」

「じゃあ、晴美ちゃんは、そんな情報を持ってるってわけだ。」

「ま、そんなとこ。あたしの情報は黴が生えてるんだけど。」

「黴が生えたって、さっきの組織の事。」

「あんなの情報通だったら誰でも知ってるよ。黴が生えるどころの騒ぎじゃないよ。どこの世界にも業界ネタってあってね、同業他社の連中や、業界新聞の連中や、とにかく業界をメシのタネにしてる連中だったら知らないって事はないね。あたしは、この業界を根城にしている小説家からネタ仕入れるんだけど。」

どうりで、組の話になった途端に難しい言い回しが出て来た筈だ。晴美ちゃんは、その作家から情報だけではなく、語り口まで入手するのだろう。

ワイルド・ターキーが空になったので、晴美ちゃんが「ママ」と、呼んで新しいボトルを取り寄せる。

「そんなに飲んで大丈夫。」

ママがボトルと、エイヒレのあぶったのを置きながら、

「二三言ギャアと叫んで、すぐにぶっ倒れてくれるから性質はいいんだけどね。」

と、バスの良く効いた声で言うのを、

「大きなお世話だよ。こんなの頼んでないよ。」

「余り物だから食べてよ。毒は入ってないから。」

「ふん、どうだか。」

と小さい声で返し、ママがカウンターに戻るのを見届けて、

「業界ネタってのは、ガセも多いんだけど、結構本当らしいのもあるんだよ。たとえば、うちの組で言うと、最初っからアノカタについてきた大幹部連中は、とっくにアノカタからの信頼を失っちゃってるんだ。これは、頭が硬くなりすぎてるってのが、一番の原因らしいんだね。昔ながらのやり方をそのまま律儀に守ってて、アノカタにさえそれを守らせようとする。それが、アノカタにとっては、小うるさいんだね。それに、アノカタにしてみれば、自分の地位を狙ってる連中の筆頭に来るのが、大幹部連中ってことなんだよ。ただし、これはヤマネが自分サイドの大幹部を使って、そう思うように、アノカタをうまく洗脳した結果らしいんだけどね。

小説家いわくは、ヤマネってのは、滅茶苦茶頭が良いらしいんだ。古い体質のまま大きく成り過ぎた組織の淀んだ部分をそうして切り捨てて行って、その上に弱い部分を叩潰して自分の配下に入れて、アノカタを頂点にしたシステムってのを作り上げようとしてるんだって。」

「アノカタが中心なのは変わりないわけだろ。そんな事して一体ヤマネの何の得になるのさ。」

「そう考えちゃうのが素人の浅はかさ。」

「素人で悪かったわね。」

「あたしが言ったんじゃないよ。小説家がそう言ったんだよ。ヤマネの究極の目的は、アノカタの実権を全部取っちゃって、表向きは、アノカタが相変わらず大将なんだけど、裏でその手綱を握ってるのは自分だって事にすることなんだよ。普通の人間ならば権力持っちゃったら威張りたいもんなんだけど、あいつはそうじゃないんだね。自分のおいしい所だけ持ってっちゃって、後はどうぞ、威張りたい方は御自由にってなもんなんだよ、多分。アノカタは、それで満足しちゃってシステム作りのアイデアに何でもゴーサインをだすわけよ。そうして、どんどん既成事実が出来上がって行って、大幹部や幹部連中が何が起ってるのか理解出来ないうちに権力がヤマネの所に転がり込んで来るってわけ。

ヤマネはもっと仕掛けを作っておいて、大幹部連中が互いに潰し合いするように仕組んだらしいんだよ。それに巻き込まれちゃったのが、マスター達幹部連中ね。創業時から立ち合った大幹部連中と違って、いわば途中入社組なんで、それなりに遠慮があって、えっと、何て言ってたかなぁ、独立心だっけ、まぁそんな感じだったと思うよ、それに欠けちゃうんで、オオガミやクマガイなんて連中はたちまち骨抜きになっちゃったんだって。その下のマムシ達は、ヤマネよりちょっとは兄貴格になるんだろうけど、はっきり言って、自分の目先の利益を貪る事にしか考えが働かなくって、ヤマネにとってはうまく利用できる連中ってことになるらしいんだ。特にマムシは、あの性格だけど、結構あっちこっちに顔が効くんで、それなりにヤマネから重宝されてるらしいんだよ。だから、最近、あいつの意見がすんなり通っちゃうんだ。

マスターは、早くから組織の外にいたんで、あんまりその辺のゴタゴタの影響を受けなかったんだけど、シンちゃんと明美ちゃんの件で、マムシから恨みを買っちゃって、あの体たらくだよ。マムシの思い通りにされちゃってる。ゴロも同じ。ゴロなんか、最初は海外のゴタゴタしてる所に助っ人として出そうなんて話があったのを小説家から教えてもらって、何とか日本国内に留めてもらえるようにって、あたしが方々頭下げて回って、この様だよ。あいつ、頭が単純に出来上がってるんで、アノカタがそう望んでらっしゃるって聞けば、何処へでも問答無用で飛んで行っちゃうからね。

マムシは、前からあたしが気に食わなかった所に、ゴロ海外追放作戦に水を差したんで、あたしをとことん痛めつけようと思って、今回のショート専科なんて事考え付いたんだよ。店辞めるのが手っ取り早くて、楽でいいんだけど、そうしたら多分、刺客組って呼ばれてる奴らが口封じのために、あたしを殺しにやって来るんだろうし、ゴロはゴロで海外派遣させられて、コロンビアあたりでのたれ死んじゃうんだろうね。案外、あたしを殺すのにゴロが差し向けられるんだと思うよ。マムシのやりそうなことだよ。」

「ゴロちゃんが。まさか。晴美ちゃんをどうこうするなんて事、ゴロちゃんに出来るわけないじゃない。」

「あいつ、アノカタに完全に洗脳されちゃってるんだよ。あいつはアノカタの戦闘マシーンとして、いろんな国の戦場で鍛えあげられてるんだよ。信じらんないだろうけど。今でこそ、あたしが感情らしきものを吹き込んでやって、いくつか記憶らしき物も取り戻してやって、なんとか人間的になったけど、その前のあいつなんて、無表情で、冷酷で、まるで出来上がったばかりの日本刀を見てる様な気にさせられたもんだよ。

だから、今でもあいつ、アノカタの為だって言われればね、あたしくらい簡単に殺せちゃうのよ。」

そう言って、ショット・グラスにトリプルくらい琥珀色の液体をついで、一息で飲み干す。

「いつか聞きたいって思ってたんで、丁度いい機会なんで聞いちゃうんだけど、あんたとゴロちゃんて、いったいどういう関係なの。」

「どういう関係って言われても...。どういう関係だと思う。」

「恋人同士。」

途端に、晴美ちゃんが弾けたように笑い出す。退屈そうにカウンターに腰掛けて週刊誌を読んでいたママが、その声の大きさに驚いて、持っていた週刊誌を取り落とす。グラビアのヘアーヌードがこちらを向いて微笑んでいる。

晴美ちゃんは、しばらく大口を開けて笑い続けた。でも、だんだんその笑い声が乾いて、虚しく響き始めるのがわかった。やがて、晴美ちゃんは自分のそんな笑い声に馬鹿馬鹿しくなったのか、突然真顔に戻って、あたしの顔をじっと覗き込んだ。

「ねぇさんと俊ちゃんって、恋人同士だったの。まぁ、それに近い感情はあったかも知れないけど。でも、それ以上の親密感てあったでしょ、姉弟って事で。」

「どう言う事。あ、晴美ちゃん、まさか。」

「そう。その、まさか....だよ。くそっ、今まで小難しい話だったんで全然酔えなかったんだけど、湿っぽい話になると、なんだか、急に回って来ちまったよ。」

「じゃあ、ゴロちゃんて、晴美ちゃんの...。」

「たいそう頼りになる兄貴なんだよ。」

「でも、連絡が付かなくって野垂れ死んでるんじゃないかって言ってなかったっけ。」

「希望的観測って奴ね。死んでて欲しかったんだけどね、生きてたんだよ。死んでてくれれば、良い兄貴って思い出だけで片付いたんだけどね。」

「なに言ってるのよ、唯一の肉親なんでしょ。そうか、だから晴美ちゃんもゴロちゃんのことには必死になるわけだ。」

「肉親って、思ってるのはこちらだけかも知れないよ。あいつ、今だにあたしが誰だか分かってないような気がするんだ。ただ、懐かしさと言うか、うっすらと残る記憶だけで、あたしと結び付いているのかも知れない。そもそも、あいつは、アノカタにそう言った記憶の全てを一度は消されちゃってるんだからね。」

「消された。」

「実験台にされたんだよ。戦闘マシーンを作り上げるための。顔も整形手術で変えられちゃったし、性格も一度破壊されてるんだよ。久々に再会した時のゴロは、昔のゴロじゃなかった。あたしも、ゴロだとはわからなかった。で、あたしは、ゴロに宛てがわれたんだよ。」

「宛てがわれたって。」

「ゴロの女として、アノカタから。ゴロは、いろんな国の戦場を渡り歩いて、鍛え上げられて行く中で、ホモの格好の餌食になったのね。最初の内はされるがままだったらしくて、それが心の大きな傷として残ってたんだ、目の前で両親を殺された傷と共にね。この前、喋っただろ、目の前で両親が、刺し殺されちゃった話。体は鋼みたいに鍛えられても、そんな心の傷は、いざって時に致命傷になるだろうって、それじゃあ、同じ傷を持ってる者同士くっつければ、互いに補いあって、なんとかするんじゃないかって事になって、それまでアノカタの情婦だったあたしが宛てがわれたんだ。ゴロは、完全に不能になってたんで、あたしは必死になって治療してやったんだ。兄貴とも知らずに。」

「お兄さんだって、どうしてわかったのよ。」

「あいつ、整形前の写真を後生大事に持ってやがったんだ。一人の時にそれを取り出して見てるんだよ。ある日、それを見つけて問い詰めたら戦死した友人の写真だなんて言うんだ。それ、あたしの兄貴だよって言ったら、きょとんとして、急に頭が痛いって言い出して、寝かしつけたんだけど、寝言で、父さんも母さんも死んじまって、俺と妹だけが生き残ったみたいな事言うんだよ。どうもおかしいなって思って、次の日問い詰めたら、誰かからそんな話を聞いたことがあるなんて嘯くんで、暫くの間、毎晩寝言を盗み聞きしてたんだよ。そしたら、ある夜、大きな声で、住所を繰り返すんだ。そこに連れて行ってくれって。そこに大事な物が置いてあるんだって。その住所って、昔、両親が生きてた頃に住んでた場所なんだ。

それに、あたしが、事ある毎にあの町の話をしてやってたら、由紀枝ねぇちゃんの事、思い出したしね。」

「由紀枝ねぇちゃんって、自殺したって言う。」

「うん。あいつ、顔から性格まで何もかも変えられちまって、それ以外に決定的な証拠を掴んでるってわけじゃないけど。兄貴に間違いないよ。」

そこまで言うと、晴美ちゃんは、急に泣き崩れた。

「情けないよね。実の兄貴とだぜ。何の因果だか。」

「晴美ちゃん。しっかりしてよ。」

普段は、強気の晴美ちゃんの涙を始めて見て、あたしは戸惑った。

ママが近寄ってきて、晴美ちゃんの背中を何度かさすってやる。

「大丈夫だよ。この娘、最近、泣き上戸なんだよ。酔うと必ずメソメソし始めるんだけどね、暫く放って置くと、ケロッと元に戻っちゃうんだから。」

ママの言う通り、晴美ちゃんは暫くすると、何事も無かったみたいになって、

「ママ、焼きそば。」

と、注文する。

黙々と焼きそばを食べ終えると、「帰ろう」と言って立ち上がりかけて、大きな音を立てて床に倒れた。それで、始めて、彼女がしたたか酔っているのがわかった。あたしは、ママの手を借りて晴美ちゃんを抱き起し、マンションまで連れて行った。

部屋に着くと、ちょっとは正気を取り戻したのか、自分で立って水を飲みながら、

「迷惑かけちゃって、御免。」

と、謝る。

「いいよ。あしたも早いんだろ、早く寝なさいよ。あたしは、これで帰るから。」

と、帰りかけると、あたしの腕を取って、

「ねぇさん、今日泊まって行ってよ。布団一組しか今無いんだけど、一緒に抱き合って寝ようよ。ねぇ、頼むよ。一緒に寝ようよ。心細いんだよ。」

と、引き留めた。

あんまり頼むので根負けして、その日は泊まる事にした。

二人とも、下着姿で、一つ布団にくるまった。晴美ちゃんは、ほっとした顔で程なく寝息を立て始めたけど、一度ふと目を覚まして、

「そう言えば、ねぇさん、何度かトシがお店に顔を出してたらしいよ。遊びに来たわけじゃなくて、ねぇさん探しに来てたみたいだよ。あたしも人づてに聞いただけで、本当の事は知らないんだけどね。あの子、ねぇさんの事、好きなんじゃないかな。ねぇさんも満更じゃあないんだろ。一度、連絡してやった方がいいよ。」

トシの名前を聞いて、あたしの中で、甘酸っぱい物がひろがって、乳首がツンとなるのが分かった。明日くらい連絡してみようかと思ったけど、結局、連絡しないだろうなと確信している自分を何処かで感じながら、

「ありがとう。おやすみ。」

と、晴美ちゃんに声をかけた。