(7)
この所、晴れ間の見えることが無く、その日も朝から雨がぱらついていて、薄暗かった。足元に置いたラジオから、異常気象についてディスク・ジョッキーがやかましい声で説明していた。去年も、一昨年も、異常気象だと言っていたような気がする。あたしは足を伸ばして、足の親指を使ってラジオを切った。静けさが途端に襲ってくる。向かいの家の屋根瓦を水滴の打つ音が聞こえる。その家の向こうに小さな空き地があって、そのさらに向こう側にツレさんの住んでいたアパートの玄関が黒く口を開けていた。
ここに空部屋を見つけて契約してから、もう五日になる。テレビも、箪笥も、炊事道具も無い。電気ポットと、コーヒーメーカーと、携帯電話と、ラジオと、蛍光灯と、布団だけがこの部屋でのあたしの財産だった。秋もそろそろ深まってきて、こんな雨が続くと、肌寒さが身に凍みる。あたしは、窓を少しだけ開けて、毛布を羽織って、その少しの隙間からツレさんのアパートを伺っていた。
ツレさんのアパートの入り口からちょっと離れた所には、マムシの派遣した黒塗の車が毎日止まっていて、ツレさんが帰って来るのを、あたしと同じように毎日見張っていた。車は、窓全面、フロントも、サイドも、バックも真っ黒なシールを張り付けて、中が見えないようになっていた。道を通る人は、殆ど、地元の人達で、毎日止まっている車を薄気味悪そうに、見て見ぬ振りして通った。子供が、その車に悪戯しようと近づこうものなら、母親が慌てて飛んできて、子供を横抱きにして連れ去る。そして、車から見えないように角を回った所で、二度と悪戯しようと言う気が起らないように、こっぴどく怒鳴り付けるのが、その仕草から分かった。声こそ聞こえないけれど、そんな街の日常のパントマイムは、一日じっとしているあたしの気持ちを随分なぐさめてくれた。
何も事件が起きない時は、あたしは、わざと警察に電話して、黒塗の車の事を訴えた。すると、いそいそとバイクを二人乗りしたお巡りさんがやって来て、車のナンバーを控えたり、窓をノックしたりする。車の中には、たいてい二人組みのチンピラが乗っていて、ツレさんを見つけた時以外は、顔を出すなと命じられているのか、お巡りさんに何をされようとじっと中で耐えていた。三度目の電話で、お巡りさんも業を煮やして、レッカー車を呼んだけど、この時ばかりは、中から二人が飛び出して、ペコペコ頭を下げた。お巡りさんの二人乗りのバイクの後ろを黒塗の車が謙虚に付いて行く様子は、最高に笑えた。車は、その日は戻って来なかったけれど、翌日にはまた、同じ場所に陣取った。多分、警察署の上の方に圧力を掛けたんだろう、その後、いくら警察に電話しても生返事ばかりで、二度とお巡りさん達は、来なかった。
あたしが、暇潰しに、直接差し入れを持って行くこともあった。二人いるうちのどちらかは、『C21 』で会ってる顔だった。彼等は、群れから外れると、謙虚で大人しい。特に、相手が知り合いだったりすると、一切のプロテクトを外してしまう。まさか、あたしに毎日見られているとも知らずに、差し入れに対しての感謝の言葉を述べ、あたしを車の中に入れてくれる。「本当は、誰も入れちゃあ駄目なんですよね」等と、言いながら。思いっきり肌と体の線を露出した服装で、彼等を数時間挑発して、「それじゃあ、また」と部屋に戻って、彼等が悶々とする様を想像しては、一人笑いながらツレさんを待つ。
ツレさんを待つと言っても、宛があって待つわけじゃない。もしかしたら、帰って来ないかも知れない。ツレさんが本当にお金を盗んでいて、それを持って逃げているのならば「帰って来ない」に賭けたほうが、確かだろう。でも、そうであったとしたら、あの押入の天袋に一人取り残されたあの子は、どうなるんだろう。あのまま、誰かに見つけてもらえるまで、また、長い長い年月を干からびながら待つのだろうか。
「大丈夫だよ。」
と、あたしは、サッシの隙間越しにあの子に声を掛けてやることがある。
「あんたのお母さんは、きっとあんたの事を見つけに来るよ。今は、ちょっと、どこかで道草食ってるだけだよ。」
それは、あたし自身に対する励ましの言葉にもなりつつあった。自分でも何をしたいのか良く分からず、今までと同じ事の繰り返しでは、もう埒があかないことだけしか見えていず、とにかく、取り敢えず生きていると言う事以上のもっと確かなものに触れたいという欲望が日に日に強くなって来ていて、その欲望の炎が内部から肉体を乾燥させていた。何でもいいから乾きを充たしたかったけど、何をしても充たされることは無いような気がした。何をすればいいのかも分からなかった。そして、その答えは、すぐには見つかりそうにもなかった。
あたしが、ツレさんの事にこだわり、ツレさんのアパートの近くのワンルームマンションに移り住んで帰りをじっと待っているのも、きっと、あたし自身の感じているあせりと、あたしが想像するツレさんの戸惑いとが、どこかで結び付いているからなんだろう。この間の夜、晴美ちゃんがしたたかに酔って、あたしを必要としたように、あたしも、今、ツレさんを必要としているのかも知れない。それは、案外、そこに居てくれればいいと言う程度の単純なものなんだろうと思う。
殆ど毎晩、蛍光灯だけの灯りの部屋で、安いウィスキーのボトルを一本開けてから眠りに付くんだけど、アルコールの所為で、チラチラと小刻みに輝く世界をボンヤリと見詰めながら、「ツレさん」と、何度もつぶやいてみる。
そんな時。
どこでどう迷っているのか、人形を片手に、何処へも帰りあぐねているツレさんの姿が目に浮かぶ。それは、夕日で真っ赤に染まった北国の炭鉱町の町外れを、二人の子供の手を引いて、呆然と立ち尽くす母の姿に重なって行く。そして、毛布を被って、わずかに開いたサッシの隙間から外界を覗き見るあたし自身の心の中の空洞が、そこに連なっていき、やがて朝まで前後不覚となる。
それが、日課になってしまった。
ある日の早朝、いつもの様に窓際で毛布にくるまって酔い潰れて眠っていると、携帯電話がなった。晴美ちゃんからだった。
「ねぇさん、すぐに来て。」
「来てって、何処へ。」
「店よ。店。」
「何かあったの。」
「来ればわかるから。」
そう言うと、慌ただしく電話を切る。声の調子からすると、あまりいい用件ではなさそうだった。もしかして、明美ちゃんかツレさんのどちらかが見つかってしまったのだろうか。あたしは、胸騒ぎを押さえながら、本来のマンションに戻り、身支度を整えて『C21 』に向かった。
ちょうど朝の通勤時間帯で、サラリーマンやOLに混じって、足早に、お店に向かうアーケード街を歩いていると、大勢の人だかりにぶつかった。その向こうには、チラチラと赤い光が見えた。人だかりの殆どがアーケードを抜けた所にあるオフィス街に通勤する人達だった。会社に出るより面白いことがそこにあるのか、それとも何かがアーケード街を塞いでいて、通れないので仕方なくそこに群れているのか、おそらく両方の理由から、時には背伸びして人だかりの中心を覗き見たり、後から来た同僚に何が起ってるのか、情報を伝えたりしていた。仕方なく引き返して、わき道に逸れる人達もいた。
人だかりは、ずっと向こうまで続いていて、お店の通用口に通じる路地も、表玄関のエレベーターの乗り口も、どちらもその人だかりの中を掻き分けて入っていかなければ、たどり着けそうになかった。
人だかりの真ん中には、パトカーが数台止まっていた。チラチラ赤い物が見えたのは、それだった。パトカーの回りには、新聞記者や地元のテレビ局のリポーターもいて、お店の通用口に通じる路地の入り口を塞いでいた。パトカーや新聞記者の間を縫って、エレベーターからお店に上がろうとして、
「何処へ行くんだ。」
と、がっしりした手に引き止められた。今までに見たことのない顔だった。
「あんた誰よ。」
「警察だよ。」
昔の習性で、一瞬走って逃げる体制を取る。
「放してよ、忙しいんだから。」
「『C21 』に行くんだったら、今日は休みだ。」
突然、見ず知らずの人間から、特に警察からお店の名前を出されて、動作が止まり、頭の中が真っ白になる。
「関係ないわよ。放してちょうだい。」
「『C21 』以外に行くんだったら、ここは通れないから別のルートで行ってくれ。」
「キノシタ。」
と、誰かに呼ばれて、その男が向こうを向いた瞬間に、あたしは男の手を振り解き、エレベーターに駆け込んだ。間一髪でドアが閉まり、三階へとエレペーターがゆっくりと上昇する。
ドアが開くと、そこには見慣れた蝶ネクタイの男の子が立っていず、電気の消えた薄暗い部屋にやはり見たことのない男が二人立っていて、年老いた方が、
「やぁ、いらっしゃい。」
と言うや否や、「閉まる」のボタンを押したあたしの手を取って、エレベーターから引きずり出した。
「痛いじゃないの、いきなり何するのよ。」
「悪い、悪い。下から連絡もらってね、元気の良さそうなのが行くからって。君、このお店の人だね、名前は。」
掴んだ手の力を緩める気配もなく、にこやかな顔で訊ねる。そっぽを向いて、答えないでいると、
「まぁ、いいさ。いずれ分かるんだから。ただ、そっちから飛び込んで来たんだから、我々の捜査には協力してくれよ。」
「捜査。捜査って、何の。」
「知らないのか、そうか。まぁ、それもいずれわかるさ。さ、こっちへ来なさい。」
そのまま引きづられてショーケースの部屋に入る。ここでも、何人かのとてもチンピラには見えない背広姿の男達がせわしなく動き回っていて、いつもの女の子達やお客の姿は何処にもなかった。
「女の子達は、上のロッカールームで話を聞かせてもらってるんだ。お客達には、帰ってもらった。」
あたしの気持ちを見透かすように、年老いた方が言う。
コンパートメントに向かう通路にも、何人かがいて、懐中電灯で足元を照らしながら何かを探している。
「君達は、あれだね、実に不健康な環境で仕事してるんだね。お店にかけあって、もっとこう、明るくしてもらえばいいのに。」
「おじんは、何も知らないんだね。」
「おいおい、老けて見えるかも知れないけど、これでもまだ四十代なんだぜ。もっとも、あと数ヵ月で五十になっちゃうんだけどねぇ。まぁ、わたしも仕事柄、こんな風な店には何回か入らせてもらってるんで、いや、お客としてじゃなくてね、捜査の為なんだけどね残念ながら、まぁ、何処行ってもこんな風な造りだよね。」
「明るいと、お客同士が顔合わした時に困るだろ。」
男は、しばらく頭を掻きながら考えた末、
「そうか。そうだよね。そうだよ、そういう理由もあったねぇ。こんな風に暗くしとけば、お客同士が擦れ違った時に、万が一お互いに見知った顔だったとしても、気が付かないよねぇ、それで安心して遊ぺるわけだ。いや、わたしなんか、商売柄か、どうも人間が疑り深く出来ていてねぇ、わざわざこんな風に暗くするのは、絶対に何かやましい事をしているからに違いないなんて、思っちゃうんだよ。阿片窟みたいなね。」
それも一つの真実には違いない。阿片窟というのが、どんな所なのかは知らないけれど、多分、充分に淫らな、官能を刺激するためだけに造られた場所なんだろうと思う。『C21 』なんかよりも、もっと退廃的な。
ロッカールームには、その日に早朝出勤した女の子達が全員集められていて、晴美ちゃんも奥の椅子に座っていて、手を振ってあたしを呼んだ。
「じゃまぁ、私語は慎んでくださいね、できるだけね。また、呼びに来ますから、それまで待っていて下さい。」
「何があったのよ。」
刑事が出ていくなり、晴美ちゃんに問いかける。
「電話じゃあ、刑事が近くにいたもんで、詳しい話ができなかったんだよ。御免。あのね、マスターが自殺したんだよ。」
あたしは、晴美ちゃんが何と言ったのか、暫くの間、理解出来なかった。それは、ショックだとか、あまりの驚きのためだとかではなく、例えば、ニューハーフの子がお店にお客としてやって来たみたいな、どう考えてもあり得ない例えを聞いているような気がしたからだった。
「マスターが...何て....。」
「自殺、じ・さ・つ、わかる。」
「自殺って...。」
「自分で死んじゃうやつ。」
「首吊り。」
「焼身。隣の小学校の校庭で。」
「嘘でしょ。」
首吊りや投身ならばまだ可愛げがある。元組員のくせに自殺をするなんてと言いたい所に、よりによってまた派手な死に方を選んだもんだ。
「あたしが店に来た時にはまだ暗くて、校庭の方は良く見えなかったんだけどね、だから全然気付かなかったんだけど、六時過ぎに学校の守衛が見つけたらしいんだ。真っ黒焦げになったのをね。最初、人形だと思ったらしいよ。誰かが悪戯して、マネキンを焼いたんだって。けど、よくよく見ると人間だったんだって。背広が鉄棒に掛けてあって、そのポケットに免許証が入ってたらしいんだ。それで、身元が分かったらしいよ。」
「何故、自殺なんか。」
「分からないんだよ。遺書もないんだって。」
あたしは、最後に見たマスターの顔を思い出そうとした。
そうだ、疲れ切ってはいたけれど、特に思い詰めた風もなかった。
あれから一週間余り、その間にマスターの心の中で、何が起こっていたんだろう。
「誰も止められなかったの。」
「わかってりゃあ、止めたよ。あんなマスターでも、この店の関係者の中じゃあ、一番まともだったからね。」
「自殺の現場は誰も見てないんだね。」
「そうみたいだね。もし、誰か見てたら、消防署に連絡してるだろ。あいにく、そこの校庭は、ちょっと入り込んだ所にあるからねぇ、アーケードの方からも見えないから。守衛が見つけた時には、もう火が消えて、煙がチョロッと出てたただけだったんだって。」
若い刑事が入ってきたので、晴美ちゃんはそこまで言って、口を閉ざした。その刑事は、女の子達の視線が一斉に集中したので、ドギマギしながら名前を呼ぶ。その子が手を上げて答えると、部屋の外に連れ出した。残った女の子達が口々に冷やかした。
その後、晴美ちゃんも、あたしも黙り込んだ。別に、マスターが自殺した事に対する悲しみとか、哀惜の情なんてのは、湧いてこないんだけど、ただ、自殺の方法が普段なかなかお目にかかれない焼身なんて方法なので、ビックリはしていた。
人が一人死んで、特に感情も動かされないってのも情けない話ではあるけれど、しょっぱい涙なんて、とっくの昔にどこかに置いてきてしまっている。たとえ、死んだのが晴美ちゃんだったとしても、やっぱり、同じ反応しかしないだろうとも思う。それは、晴美ちゃんだって同じで、「仕方ないじゃないか。死んじゃったんだから」なんて、ケロッとした顔で言うんだろう。
週刊誌のページをめくって時間を持て余しているうちに、晴美ちゃんにお呼びがかかり、やがて、例のおじん刑事があたしを呼びに来た。
「悪いね、長く待たしちゃって。もう暫く捜査に協力してくださいよ。」
今は取調室になってしまった研修室に行く道々、おじん刑事が、下からのぞき込むようにしてあたしを見ながら言った。あたしの顔の表情の変化を皺の動き一つ見逃さないんだろう眼差しが、あたしの皮膚を通過して、筋肉の毛細血管を鷲掴みにする。
研修室に入る手前で、下のフロアーから上がって来るマムシと鉢合わせした。言葉は、何一つ交わさなかったけれど、あたしに、鋭いけれども臆病さの入り交じった視線を投げかける。
「変なことは、何一つ言うんじゃないぞ。下手なこと言って見ろ、後でどうなるかわかってるだろうな。」
と、その視線の意味が読みとれた。
「刑事さんも忙しいですねぇ。最近は、水に放り込まれたり、焼かれたり、いろんな殺され方がありますもんねぇ。」
聞こえよがしに、わざと大きな声で言うと、マムシは視線をそらせて、慌ててマスタールームに入って行った。おじん刑事が立ち止まり、あたしとマムシの後ろ姿を交互に見て、「フム」と一つうなずく。あたしは、刑事にニコッと微笑むと、先に立って研修室に入り、ベッドの上に腰掛て足を組んだ。刑事が、その前の丸椅子に腰を下ろす。今日は短めのスカートなので、刑事の側から、あたしの太股の結構きわどい所までが見える筈だ。刑事が、眩しそうに目をそらす。
「今日は、君達に協力してもらってる立場なので何も言わんが、今度、もし、取り調べる機会があったら、ベッドの上で足を組むような態度だけは止めてくれよ。俺だって、まだまだ若いんだからな。」
その刑事は、ワカミヤと言った。
「しかし、あれだね」と、常套句でワカミヤ刑事が言葉を繋ぐ。とは言っても、今回の件については何一つ質問せず、自分に娘がいて、最近全然会話をしてくれないんだけど、どうしたら良いのかと、訪ねてきた。若い時から冬山とスキーが好きだったので、冬場のたまの休みは、娘の相手もせずにずっと山に隠っていたせいで、親子の関係が希薄なんだよと言う。
「育て方を間違ったせいで、万が一、娘がこんな職業に就いてしまったらと思うと。おっと、こりゃ失礼。」
「大丈夫ですよ、育て方を間違ったくらいで足突っ込めるような生半可な世界じゃないですから、ここは。労災も利かなければ、労働基準法も避けて通りますからね。いつのまにか行方不明だって沢山いますよ。」
「そうかい。この店にもそんな子はいるのかい。」
そらおいでなすったと、
「そりゃいますよ。沢山。」
刑事の目が光る。
「やっぱりあれかい、人知れず殺されちゃうのかい。」
「え、やだなぁ、刑事さん、物騒なこと言わないでよ。いい男作って逃げちゃうんですよ、みんな。あたしも早く逃げたいなぁ。」
「あっ、そうか、そうだね。刑事って嫌だねぇ、すぐに悪い方に考えちゃう。そうか、行方不明ってのは、男と幸せになることだったのか。なんだ。」
ハハハと言いながら、目は笑っていない。
「でも、幸せになれるとは限りませんよ、男に逃げられちゃったり、虐待されて、働かされたりするのが落ちですからね。どっちにしても、誰も助けちゃくれないんで、自活の道を探すんですけど、どの会社も氏素性のわからない女なんか雇っちゃくれないんで、てっとり早く稼ぎになる所を探すんです。それは、結局こんな仕事なんですよ。こんな店に雇ってもらえれば、まだいい方です。もっと酷い店だって沢山あるんですから。」
「ほう、例えば。」
「例えば、売春を強要されたり、ヤク中毒にさせられたり。」
「ここも、同じだろう。」
「ここでは、そんなことないですよ。」
別に嘘をついているわけではない。マスターから売春を強要されたことはない。皆、お金が欲しいので自主的にやっている。麻薬は、マムシが覚醒剤なんかを胴元で安く仕入れて来るらしいんだけど、あたし達にはバカみたいに高い値段で売ろうとするので、誰も買わない。それに、マスターは、お店の中での覚醒剤の使用は、禁止していた。別に社会道徳がどうのと言うためではなく、人の出入りが多いので、どこから警察に情報が漏れるか分かったものじゃないからと言うのが、理由だったんだけど。
「しかしねぇ、ヒロモトテツジってのは、元組員だそうじゃないか。」
「えっ、何です、そのヒロモトっての。」
「焼身自殺した男の名前だよ。君達がマスターって呼んでる。」
そういえば、あたしはマスターの本名を知らなかった。何処に誰と住んでいたのかも知らない。知る必要もなかった。年賀状を出すわけでもないし、訪ねて行くわけでもない。お店から一歩外に出れば、赤の他人。携帯電話の番号は聞いていたけど、こちらから掛けた事もない。
「で、だからどうだって言うんです。元組員がまじめな社会人やってちゃあいけないって言うんですか。」
「組から抜けた形にはなってたけど、本当は、組識にどっぷり浸かってただろ。その証拠にしょっちゅう出入りしていたオオガミやクマガイやハセガワ、いや通称マムシなんてのは、バリバリの組員じゃないか。」
「ハセガワって言うんですか、あいつ。」
「まぁ、なにはともあれ、この店が組と深く結びついているのは確かなんで、我々もそれなりの準備をしてやってきたわけだ。」
「それで、こんなに沢山の人がやって来てるってわけ。」
「まぁ、それだけでもないんだけどね。自殺ってのは、確実な証拠がない限り、殺人の線でも捜査をするもんなんだよ。特に、この店みたいに組織と深く繋がった所を捜査する場合は、調べなきゃならない所も随分多いからね。それに、ま、これは余談なんだけど、私はねぇ、やくざってのは自殺できる程往生際がいいとは思えないんだよ。」
あたしは直感的に、この刑事は、あたしと同じ疑問を持っているなと思った。つまり、いくら『元』が付いているとは言え、組識の人間が自殺なんかするだろうかって事だ。しかも、自分の根城のすぐ近くで、それも、焼身なんて言うド派手な方法で。
そこに、「ワカさん、ちょっと」と若い方の刑事が呼びに来て、暫く入り口でひそひそ話をした後で、あたしの方を振り向いて、
「今日は、ここまでにしとこうか。」
「今日はって事は、また今度もあるって事ですか。」
「ああ、いやいや、いつもの口癖でねぇ、特にそんな深い意味はないんだ。ただ、場合によっては連絡させてもらうかも知れないんで、所在地だけはきっちりと教えておいてよね。」
そう言って、ワカミヤ刑事はそそくさと部屋を出ていき、あたしは、若い方の刑事にロッカールームに連れ戻され、その後、二時間ばかし足止めを喰って、午後八時を回った所で、お店から解放された。それから、晴美ちゃんと食事をして、明美ちゃんについて聞こうとしたけど、晴美ちゃんの所にも全然連絡が無いと言うことで、特に新しい情報も得られずに例のワンルーム・マンションに十一時過ぎに辿り付いた。
お風呂から上がって、お店に入った時から携帯電話のスイッチをオフにしたままなのに気が付いて、入れ直す。すると、さっそく電話が入ってきた。晴美ちゃんからだと思って出ると、野太い声で、
「おお、やっとかかったぜ。電話が壊れてんのかと心配したじゃねぇか。」
どっかで聞いた声なんだけど、思い出せないでいると、人が入れ替わって、
「夜分にすいません。僕です。御隠居です。」
そういえば、御隠居さんにも電話番号を知らせていたっけ。
「どうしたのよ、こんな時間に。」
「ええ、耳寄りな情報を聞いたもんで、連絡をと思ったんですけど、晴美さんにも、あなたにも全然連絡が取れなくって。」
とすると、晴美ちゃんは、まだスイッチを切ったままなんだろう。
「例の、人形を抱いたお婆さん、居場所が分かったんです。駅前からバスに乗って一時間ばかし行った所に精神病院があるでしょ。そこに入れられてるって。」
「精神病院。なぜ、そんな所に。」
「公園で、小さい女の子を追いかけまわしたらしいんです。本当の理由は分からないんですけど、多分、その女の子が人形をどうかしようとしたんじゃないかって。」
「わかった、明日さっそく、その病院へ行ってみるわ。」
「ええ、ぜひ、そうしてください。晴美さんには僕の方から連絡取れるようにしてみます。最悪、明日の朝、お店に行けばいいことですしね。へへへ。」
「ちゃんと、お風呂に入ってから行くのよ。」
「そうですね。あっと、それから、こちらの電話番号を言いますね。用事がある時は、掛けてきてください。」
「それって、携帯。どっかで盗んだの。それとも、落ちてたの。」
「酷いなぁ。週刊誌の記者が取材に来て、いろいろ喋っているうちに、面白いからもっと話を聞かせて欲しいって事になって、いつでも連絡が取れるようにと、この電話を貸してくれたんですよ。電話代は、全部出版社持ちって事で。」
「へぇ、盗聴されてんじゃないの、それ。」
「かも知れませんねぇ。でも、さっきから熊さんが、散々テレクラに掛けてましたよ。」
「明日か明後日には、慌てて電話を取り返しに来るかもよ。」
「そりゃ困る。暫く使ってから、どっかで売り払って、酒代にしようって相談してる所なのに。」
御隠居さんは、そう言って、へへへと笑って、電話の向こうで頭をかいた。街のノイズに混じって、ジョリジョリと言う音が聞こえて来た。電話を切った後、試しに晴美ちゃん所に電話をいれてみたけれど、やはり繋がらない。
晴美ちゃんとの連絡は、御隠居さん達に任せて、寝ることにした。
お店に行くのとは反対側に広いロータリーがあって、そこから引っ切り無しにバスが出ている。ロータリーの向こうは、商店街と住宅街が広がっていて、駅の反対側、お店に向かう歓楽街と、その向こうのオフィス街、そして続く工場地帯とは、全然雰囲気が違っている。日中は、方やくたびれたサラリーマンと、もう一方はテニスラケット抱いた主婦、それに暇を持て余した学生達との対比、夜はどこか浮足だったネクタイ族や遊び人、それと対局には、真面目に家庭に帰っていく月給取りの群がある。
駅前から乗ったバスは、住宅街を通り抜け、ちらほらと田園風景の混じる郊外へとひた走る。最後の百姓の意地と言うところか、宅地の間に刈り取られた稲が干してあり、その黄金色が、たまに抜けるような秋の空の光を反射したように見えて、眩しく感じて、思わず目を閉じる。
バスに乗ってから、かっきり一時間、聞いていた通りの名前の停留所で下車した。ここまで来ると、見渡す限り、殆ど田圃だ。田圃の繋がりの向こうに小高い山があって、その手前を高速道路が横切っていて、太陽をキラキラと反射させながら、西へと向かう自動車の小さな屋根だけがいくつも見えた。
精神病院は、田圃の中の五階建てビルで、停留所から既に見えていて、それでも十分ばかし歩いた。その建物は、灰色の壁ばかりがやけに目立って、その建物の中を周囲から隔離してしまっているように見えた。
刑務所の壁がこんなだったなぁと、ふと思い出した。それは、弟が喧嘩による傷害罪で二年ばかし入っていた刑務所で、あたしは、何度も差し入れに通ったのだけど、刑務所の壁は、何度行っても、外部の者を拒絶しているようにしか見えなかった。刑務所の面会者入り口に通じる道端には、小さな公園があって、背もたれのないベンチが置いてあって、晴れた日の午後などには、必ず老夫婦が座って、刑務所の方を見やりながらヒソヒソと声を殺して話をしては、溜息をついていたっけ。あたしは、その頃は、他人の事情に耳を貸すほどのゆとりもなく、声を掛けたこともなかったけれど、多分、その夫婦の息子あたりが刑務所にいたんだろう。今にして思えば、老夫婦にとっては、あの拒絶に満ちた刑務所の壁は、特に厳しく、冷たく、つらかっただろう。
病院の建物は、窓が随分と小さく、その全てに白くペイントされた鉄格子がはめ込まれていた。鉄格子は、正午近くの秋の太陽光線を白々と反射して、外と中とを完全に分離していた。建物に隔離の印象を持ったのは、そのせいらしかったけど、施設の性格上、やはり周囲から拒絶される物であり、拒絶された者達を内包して処理に窮したまま、その葛藤から来るストレスを周囲を拒絶し返すことで解消しようとしているように見えた。
病院の中は、他の種類の病院では見られ無い緊張感が漲っていた。どことなく刑務所に一歩踏み込んだ時に感じる緊張感に似ていた。ただ、その建屋の中にある物や、中で蠢いている人々の陰の部分からの匂いは、種類を異にしていた。病院のそれには、夏の日差しで溶けだしたコールタールのような感があった。刑務所の空気には殺伐とした諦観があったけど、病院のには、さらに不定形に固まろうとするいびつさと、そこから来る獣じみた力強さみたいな物が感じられた。
受け付けに行き、面会の旨を申し出る。住所、氏名に始まって、面会者との続柄、面会理由等、細々したことを紙に記入し、呼び出されるのを待つ。待つ間に辺りを見回すと、外来ベンチにボンヤリ腰を下ろしたパジャマ姿の中年の女あり、薬局カウンターの前を右往左往している骨張った若い男あり。玄関の扉が開くと、大きな声で叫びながら、拘束衣に制限された身体を激しく動かしている二十歳前後の女の子が看護人に抱き抱えられて、エレベーターに乗せられていく。
「可哀想に。」
と背中で声がして、振り向くと良く太った中年の看護婦が立っていた。白衣から丸太のような腕と、それよりもっと太い足が出ていて、丸太のような腕の先のムチムチとした手が、さっきあたしの書いた面会希望届けを握りしめていた。度の強い銀縁眼鏡の向こうで、細い目が神経質そうに瞬かれていた。
「精神病院に入るって事だけで、ああしてショックを感じちゃうんだよね、まだ若いからねぇ。」
「だったらどうして、無理矢理入院させるんですか。」
「放っとくと手首切っちゃうんだよ。」
「自殺ですか。」
「ああ、もう四回も。その度に入院させてるんだけどねぇ。」
「なんで、また。」
「あの娘の義理の父親ってのが原因でね。非道い男なんだよ。母親が、また、何も言えないし。」
それだけの言葉で、あたしは、さっきの娘の背負った不幸の全てが読み取れたような気がした。
看護婦が、細い目をさらに細くしてあたしを見る。
「あなたね、面会希望者ってのは。」
「はい。会えますか。」
「ええ、開放病棟なんで、何時でも会ってもらえるんだけど。続柄が書いてないわねぇ。」
「はい、ただの知り合いなんです、仕事場が同じだった。行方不明になってて、ここの病院にいるんじゃないかって聞いたものですから。」
「確かに、肌身放さず人形を持ってて、公園で小さい女の子を追いかけ回して、病院に入れられた人なら、ここにちゃんとおられますよ。でも、その人が本当にあなたの探している人なのかしら。」
「さぁ、それは会ってみないと。」
「完全に記憶を無くしているんですよ、あなたの顔を見たって分からないと思いますよ。」
「無事かどうかさえ確認できればいいんです。」
「わかりました。じゃあ病室の窓から覗いてもらって、目的の人かどうかをまず確認してください。」
看護婦は、そう言うと先に立ってエレベーターに乗った。エレベーターの案内には一階が外来、二階が男子開放病棟、三階が女子、四階が閉鎖病棟で、五階が作業場と検査室になっていて、看護婦は三階のボタンを押した。奥行きのある、かなり旧式のエレベーターで、モーターの回転音が頭上に響き渡って、いきなり動き出し、二階の表示の所で止まり、ドアが開いた。逞しい体を白衣に包んだ看護人の姿があった。「失礼します」と言うと、ベッドをエレベーターに押し込んだ。広めのエレベーターがたちまち窮屈になる。ベッドには若い男が縛り付けられていた。
「どうしたの。」
と、看護婦が声をかける。
「また、暴れたんですよ。テレビを見てて、いきなり。」
「普段は大人しいのにねぇ。」
エレベーターが三階に止まり、ベッドの横をすり抜けて外に出る時、縛り付けられた若い男の顔をチラッと見て、体が凍り付いたようになった。もう一度、良くその顔を見ようとして、間一髪の所でドアが閉まり、急な動きをしたあたしの体が、エレベーターに激突して倒れた。看護婦が寄って来て、抱き起こしてくれる。
「どうしたのよ、いきなり。」
「い、今の人。もしかして。いや、でも、まさか。」
「ああ、看護人のコンドウさん。」
「違います。ベッドに縛り付けられていた人。」
「ナナシノゴンベね。彼、記憶喪失なのよ。近くの街でフラフラしてて、パンか何かを万引きして捕まったんだけどね。自分が誰なのか全然思い出せ無いみたいで。時々暴れるんで、その度に、ああして個室に連れて行くのよ。普段は、大人しくていい子なんだけどね。」
「もしかしたら、知ってる人かもしれないんですよ。」
「あなた、何故この病院にそんなに知り合いがいるのよ。」
「気のせいかも知れないんですけど。」
「他人の空似って事もあるからねぇ。まぁ、後で、もし向こうの具合が治まっていたら会わせてあげるわ。手掛かりが無くって困ってた所だから。」
あたしも、チラッとその顔を見ただけなので、他人の空似だろうとは思った。あたしの知っている顔より随分むくんでいたし、第一髪の毛も染めていなかった。ただ、長い間、連絡も取れていないし、置かれた状況から、あんな風になる可能性も充分あるには、あった。でも、まさか、こんな所にいる筈がない。そう考えて、気を落ち着けようとした。
それでも、あたしは、かなり狼狽していて、その老婆を指さされた時も、いったい誰に会いたかったのか忘れてしまっていた位だ。残念ながら、その老婆はツレさんではなかった。あたしは、厚化粧のツレさんしか見たことがなかったけれど、顔の輪郭、仕種、全体の雰囲気までがこうまで変わることは無いと思った。ただ、何度も思い描いた、帰る場所を忘れてしまって堂々巡りをしている、その戸惑いの表情は、確かにその老婆にもあった。何が彼女をこんなに迷わせるのか。
「違ってました。」
とだけ、看護婦に言う。
「そう。それは、残念ね。まぁ、あなたの探している人も、こうして何処かの病院に入ってればいいんだけどねぇ。」
「そうですね。」
「他の病院にも聞いておいてあげるから、探している人の名前と、特徴と、あなたの連絡先を書いて置いてちょうだい。」
わかりましたと言うものの、ツレさんの特徴なんかは、とっくの昔にあたしの中から抜け落ちてしまっている。あまりにツレさんのイメージをあたしなりに膨らませ過ぎたようだ。ツレさんの虚ろな瞳が、例の赤ん坊のミイラの虚ろな眼窩に重なっていく。
外来の長椅子で、あたしは長い時間待たされた。もう一度、看護婦がやって来たのは三時近くで、お昼ご飯も食べていなかったけれど、その事を思い出したのは病院を後にして、バスに乗ってからだったので、多分、かなり平静を欠いていたと思う。
「随分待たせたわね。やっと冷静さを取り戻したので、会わせてあげられます。ただし、窓から覗いて、確認するだけにしてちょうだい。何かのショックで、また暴れ出すと困るから。それと、事前に会っておいて欲しい人がいるの。」
そう言って、あたしを五階に連れて行った。エレベーターを降りるとすぐにドアがあって、その向こうは、半分が畳敷きもう半分が板敷きの三十畳程のホールになっていた。板敷きの方にはパイプ椅子が並べてあり、その中程の所にずんぐりした背の低い中年の男が座っていた。
「やぁ、どうも。」
と、その男が片手を挙げながら近づいてくる。
「県警のシモダと言います。」
身長が、あたしの首の辺りまでしか無い。その上目遣いの視線に何処かで会った事があると思っていたら、先日、お店に来ていた刑事と目つきがよく似ていた。
「ナナシノゴンベさんの件で、色々と調べてらっしゃるのよ。」
と、看護婦が横から口を出すのを遮るようにして、
「いやね、彼が保護された時の様子が、非常に何かに脅えているみたいだったし、体中に打撲や傷があったんでね、何かの事件に巻き込まれた可能性が強いんで、調べてはいたんだけど、身元の確認もまだできてなくって。なにせ、前科も無いみたいだし、身内の人からの捜索願が出てるわけじゃあなし。打つ手無しって所だったんですよ。もし、あなたの知り合いだったら、随分と助かるんですよね、我々も。まあ、話だけしてても仕方が無いんで、一度見てやって下さいよ。こっちです。」
刑事と看護婦は、ホールの奥の突き当たりのドアを開けて、さらに向こうの部屋へと入っていく。ホールから受ける感じがどうも普通じゃあないなと思ってたら、外から見た通り、窓という窓に白い鉄格子が入っていた。一階の外来以外の窓全てに白い鉄格子が入っていて、外界と病院とを分離してしまい、病院の中を特殊な世界にしてしまっている。医者や看護婦達も、この世界の中で静かに狂って行くんだろうかと、考えた。
「こちらですよ。」
背後で、看護婦の声がした。
そのドアの向こうは、長い廊下になっていて、右側に灰色がかったドアが幾つか並んでいる。左手は鉄格子のはまった窓になっていて、格子の向こうには、バスを降りた時に見たのと同じ、高速道路と山の連なりが見渡せた。
右側のドアのうち、手前の三つは検査室だった。十二畳程度の広さで、真ん中に事務机が置いてある。机の向こうに広い窓があって、床から天井まで鉄格子が入っていた。鉄格子の向こう側は、ちょっとした広さのベランダになっていて、看護婦に付き添われて、何人かの患者が行ったり来たりしている。
一番奥まったところにある
ドアの前で、刑事が立ってこちらを見ていた。あたしが近づくと、覗き窓を指さして、無言で覗くようにと指示する。中は薄暗くしてあり、一瞬は何があるのかさえも分からない。目が慣れるに従って、クッションを張り付けた壁やベッド、そのベッドに腰掛けた男の姿が見えて来た。男は、俯いたまま身じろぎもしない。
「どうですか。」
と、刑事がせっかちに聞く。
「ええ、暗くて、よく見えなくて。」
「明かりを点けますか。」
「だめですよ、また、暴れ出したらどうするんですか。」
看護婦が慌てて止めに入る。
「弱ったなぁ。」
刑事は、そう言ってドアをコツンと、軽く握り拳で叩いた。その音に驚いたのか、その男がそれでも、ゆっくりとこちらをむく。顔色が悪く、ひどくむくんではいるけれど、
まだ二十歳前後の若い男だった。顔の特徴は、捉えられなかったけれど、随分脅えていて、視線が無作為に宙を漂っているのが分かった。
「どうですかね。」
「はい。」
「お知り合いの方ですか。」
「ちょっと違うような気がするんですけれど。」
ちょっとどころか、全然違うと思って、内心ホッとしていた。あの子は、髪の毛を茶色に染めていたし、耳におしゃれなピアスもしていたし、全体のイメージだって、決して逞しくは無いけれど、静かな自信に満ちていた。こんなに頼りない風じゃあなかった。頬骨から首筋にかけての線にちょっと似た面影があるので、それで間違えてしまったんだろう。
「そうですか。残念だなぁ。」
「あたしは、ホッとしてます。」
「そうか。そりゃそうですよねぇ。あなたの恋人か何かだったんですか、その人。あ、いや、こりゃ失礼。つい立ち入った事を尋ねてしまって。」
「いえ。ただの知り合いですけど。でも、とても親しい知り合いだったんです。ここんとこ連絡が付かないんで心配してたんです。」
「ねぇ、一度だけでいいんですが、その人の名前で呼びかけてみてくれません。」
「ちょっと、シモダさん、だめですよ。」
と、看護婦が止めるのを、
「ねぇ、一度だけですよ、一度だけ。」
「だって、患者に変な影響を与えちゃったらどうするんです。」
「いや、分かってますよ、充分に。分かっちゃいるんですけどね、もしかしたら、この人が最後の手掛かりかも知れないんですよ。彼、このままずっとナナシノゴンベだったら可哀想じゃないですか。ねぇ、ちょっとだけ協力してくれます。」
「別に、いいですけど。」
あたしは、刑事のその懸命な態度に思わず吹き出しそうになりながら答えた。あの子じゃ無かったと言う安堵感が、あたしにゆとりを与えてくれていた。
「いいでしょ、ね、看護婦さん。」
「どうなっても、知りませんよ。無駄だと思うし。」
刑事は、それを承諾と受け取って、
「さぁ、やってみて下さい。」
そう言って、覗き窓の下の小さな開閉口を開けた。
「さぁ。」
促されて、あたしは、そこに顔を近づけると、小さな声で、
「シンちゃん。」
と、呼びかけた。一見、何の反応も無いように思えた。
「ほら、無駄だったでしょう。」
と、看護婦が開閉口を閉じようとするのを制して、
「もう一度。もう一度だけ。」
「ちょっと、シモダさん、いい加減にして下さい。」
「もう一度だけですよ。ね、ほら。」
あたしは、さっきより少し大きいこえで、もう一度呼びかけた。
「見て下さい。」
と、刑事が言うのを
「何も変わりは、無いですよ。」
「いや、ほら、ちょっと口が動いてる。」
確かに、宙をさまよっていた視線が一つ方向に固定されて、唇が微かに震えているのがわかった。
「何か言ってるんですよ、あれ。」
「まさか。」
「シンちゃん。」
あたしは、思わずもっと大きな声で呼びかけていた。刑事の熱意に圧されたのか、一抹の不安を感じ始めていたからなのかは、わからない。
「ほら、何か言ってるんだ。」
その男の唇が、さっきよりもはっきりと動いている。
「嘘でしょ。」
あたしは、叫んでいた。
「シンちゃん、あんた、シンちゃんなの。」
あたしが思わず叫んだのは、その唇の動きが、「ア・ケ・ミ」と読み取れたからだった。
男は、あたしの叫び声を聞いて、錯乱し、脅えた目で辺りを見回しながら、壁やベッドに体をぶつけ始めた。拘束衣を着ていても、すごい勢いだったので、放って置いては危険だと判断して、看護婦が内線電話で看護人を呼ぶ。医者と三人の看護人がやって来て、部屋の鍵を開け、暴れる男を取り押さえると、鎮静剤を打ち、しばらく、看護人が三人掛かりで押さえつける。その間に医者が出てきて、看護婦から事情を聞いた。
「シモダさん、やばいよ。困るよ。」
「すみません。」
刑事が謝るのを聞こうともせずに、あたしの方を見て暫く思案していたけど、
「彼について、話を聞かせてくれますか。いや、勿論、まだ、あなたのお知り合いの方だと確定したわけじゃないんですけどね。いいですよね。」
と、あたしを検査室へと促した。
「あたしも、いいですかね。」
と、刑事が言うのに、渋々ではあったけど医者がうなずく。
検査室での聞き取りが終わって、病院を後にしたのは、それから二時間後だった。あたしは、シンちゃんについて、知っている限りの事を話した。『C21 』について話した時、刑事の表情が変わったのを、あたしは見逃さなかった。
「その、最後に彼が働いていた場所って、もうちょっと、何か手掛かりらしいものがありませんかね。」
「あたしが、直接話したわけじゃないんで、何とも言えないんですけど、晴美ちゃんなら、もう少し何か聞いているかも知れないです。」
「晴美ちゃんって人も、あなたの仕事仲間ですか、その、『C21 』ってお店の。ええっと、最後に彼と同棲してた可能性のある明美ちゃんって娘も。」
「ええ。」
「『C21 』って言うとあれですよね、先日、マスターが焼身自殺した。そこへ行けば、彼の履歴書か何かが残してあって、出身地くらい分かるんだろうか。」
「無いと思います。あったとしても、見せてはくれないでしょう。」
それに、ヘタに動けば、何処かで一人取り残されている明美ちゃんの身に何が起こるか知れたものじゃない。あたしは、ここに聞いてくれと、晴美ちゃんの携帯電話の番号を教えた。晴美ちゃんならうまく対応してくれるだろうと思ったからだった。
翌日も、あたしは、その精神病院に足を運んだ。シンちゃんの記憶回復に繋がるような事で、あたしに手伝えることは、何でもすると申し出たからだけれど、実際の面会時間は僅か五分程度だった。その五分間も、こちらから何か話かけるのではなくて、シンちゃんからの自発的な働きかけを待つようにと言うことだったので、焦点の定まらないシンちゃんの視線の動きをあちらこちらに追いながら、明美ちゃんの事を聞きたいのを必死に押さえて、言葉を待った。ただそうすることだけで、あっと言う間に五分間が過ぎ去り、シンちゃんは、あたしの前から姿を消した、それがシンちゃんであると言う確信だけをあたしに残して。
その病院では、午前中、患者達を作業場に集めて造花作りの作業をさせている。リハピリを兼ねての事なんだろうけど、作業場の長机に向かって黙々と手を動かしている患者達を見ていると、まるで戦争の捕虜のようにも思えてくる。少しも作業をせずにひたすらウロウロしている者が何人かいるのが、何故か救いのようにも見えてくる。その中に混じって机の前にじっと座って、作業をするでもなく、隣の患者から話しかけられても返事もしないシンちゃんを、あたしは、作業場の入り口のドアに開けられた覗き窓からじっと見ていた。
何が、彼をあんな風にしてしまったんだろう。一体、何があったんだろう。明美ちゃんは、どうなってしまったんだろう。あたしは、彼の優しい細やかな心遣いと彼女の勝ち気な物言いとを思い出していた。
携帯電話が鳴ったのは、ちょうど作業が休憩に入った時だった。晴美ちゃんからだった。あたしは、病院の外に出て、こちらから電話をかけなおした。
「シモダって刑事から電話があったよ、シンちゃんや明美ちゃんの事を根掘り葉掘り聞かれたよ。」
晴美ちゃんの第一声がそれだったので、あたしは、事情を説明した。
「ふぅん、やっぱりそうか。」
「やっぱりって。」
「最近、マムシの動きが慌ただしいんで、何かあったんだろうって思ってたんだ。多分、シンちゃんと明美ちゃんを殺そうとして、シンちゃんだけ取り逃がしちゃったんだろう。それで、慌てて探してるって事だったんだね。」
「じゃあ、晴美ちゃんは、もう明美ちゃんは殺されてしまってるって思ってるわけ。」
「そうだよ。そうとしか考えられないだろ。二人で手に手を取って逃げ出して、まだ数カ月しか立ってないんだよ、喧嘩別れには早いだろ。シンちゃんの目の前で明美ちゃんは殺されたんだよ。そのショックでシンちゃんはそんな風になっちゃったんだよ。」
そりゃ、あたしだって、それがシンちゃんだと言う確信を持ってからこっち、もう明美ちゃんは生きてはいないだろうって言う予感が、まるでテレビゲームの敵キャラクターみたいに次から次へと頭の中を駆け巡っていた。だけど、そんな風にはっきりと言われてしまうと、つい反論してしまう。
「でも、死んでるって言う証拠も何処にもないんだからね。」
「奴等はプロだよ。生きてたって証すらも後方もなく消しちゃうんだよ。それはそうと、ねぇさんも暫く姿消した方がいいよ。奴等、近い内にシンちゃんの居場所突き止めて、そっちに行くよ。その時に、ねぇさんまで巻き添え喰っちゃうよ。」
「まさか、ここまでは探しに来ないでしょ。」
「奴等、警察の中にも情報源を持ってるんだよ。特にヤマネは、独自のルートを持っているみたいなんだ。甘く見ない方がいいよ。」
「でも、ここは完全に外と隔離された精神病院なんだよ。」
「奴等は、どんな所へでも行くよ。人間が入っていける所なら何処へでも。そして、誰も知らない間に事故死することになるんだよ、シンちゃんもねぇさんも。」
「ちょっと、そんなに脅さないでくれる。どうしたらいいのか、分からなくなっちゃうじゃない。シンちゃん見捨てるわけにもいかないし。」
「逃げるんだよ。姿を隠すの。わかる。命あっての物種だよ。」
「うん、でも、まぁ、その前にシモダって言う刑事に相談してみていいかなぁ。やっぱり、このまま、あたしだけ逃げられないよ。」
「別に止めやしないけどね。無駄だとは思うんだけど、それで気が済むならどうぞ。じゃ、また連絡するね。」
そう言って、晴美ちゃんはプツンと電話を切った。
シモダ刑事は、その日のお昼一番に病院にやって来た。
「そりゃ、まぁ、うちにもいろんなのがいますからねぇ、そんな事は絶対に無いって言い切れない部分もあるのは事実なんですけどねぇ。」
「事前に何とか、その辺りを察知するっていうのは、出来ないんですか。」
「いや、はっきり言って、難しいなぁ。ほら、もうすぐ、外国のお偉方が来るんで。人手がみんな、そっちに取られちゃってるんですよ。」
「人の命が掛かってるんですよ。」
「わかってますよ。何とかしたいのはヤマヤマなんですけどね。」
「刑事さん、この件で旨く行けば、ヤマネ達一派を押さえることができるんですよ。」
「わかってますって。素人じゃないんだから、そんなこと。ただ、まぁ、あっちは別のラインからも目を付けてるし、きゃつらもその事を重々承知している筈なんで、そう好き勝手な動きはしてこないと思いますよ。」
「別のラインって。」
「うん、麻薬取引の疑いがありましてね。」
「疑いどころか、公然と麻薬取引をやってますよ。」
「その証拠がなかなか掴めないから困ってるんですよ。掴ませてもらえるのは、とかげの尻尾みたいな連中ばっかでね、それ以上には辿れないんですよね。」
「悪いのはヤマネって男と、その手下のマムシなんです。特に、シンちゃんをあんなにしちゃったのは、マムシなんです。マムシは、店の女の子に麻薬を売ってましたし、女の子を麻薬漬けにするなんて平気でやっちゃうんですよ。」
「そんな事も、みんな知ってますよ。イワタゴンゾウの抑えが効かなくなってるんで、尻尾出すのも時間の問題だとは思うんですけれどね。」
「イワタ・・・。」
「あんた方がアノカタって呼んでる男ですよ。」
「そのネームバリューを利用して、うまく立ち回っているのがヤマネだって聞きましたけど。」
「ヤマネねぇ、我々のリストにはあまり出て来ないんですけどねぇ。とにかく、あの患者の処遇については、ここの院長と相談してみるんで、ちょっと時間を下さい。」
シンちゃんを暫くの間、開放病棟から閉鎖病棟に移すことになったと、シモダ刑事が教えてくれたのは、その日の夕方だった。
シンちゃんは、その日のうちに閉鎖病棟に移され、五分間の面会時間以外は、全く顔を見ることが出来なくなってしまった。
翌日、あたしは、五分間の面会時間の間に、小さな声で、知ってる限りの温泉地の地名を言って、シンちゃんの反応を見た。晴美ちゃんからの入れ知恵があったからだけど、期待していた程にはシンちゃんは反応してくれず、時々、不思議そうにあたしの顔を見るだけで、それが、こちらの過剰な期待もあって、一瞬は、何かの言葉に規則的に反応しているようにも思えたのだけれど、シンちゃんが反応した地名には何の関連性も無かったので、とても虚しい気持ちで面会室からシンちゃんを送り出した。例えば、『道後温泉』なんて言う言葉に、いきなり錯乱でもしてくれたら、どんなによかっただろう。あたしは、すぐに道後温泉行きの列車に飛び乗るのに。
外来の待合い室で悄然としていると、また、晴美ちゃんからの連絡があった。
「警察の手入れがあってね、今日は店が休みなんだよ。」
「明美ちゃんの事で何かあったの。」
「ちがうよ、売春法違反て事らしいんだけどね、それにしては、ちょっと大袈裟なんだよなぁ。」
「この前もそうだったよね。で、今日は晴美ちゃんの部屋からなの。」
「開店早々に手入れがあって、店から外出禁止なんだよ、これが、また。ただ、今回は見張り無しなんで、こんな風に電話はかけられるんだよね。」
「今日の結果なんだけど」と、あたしは手短にシンちゃんの反応について話をした。
「そうか、どうなっちゃってるんだろうね、シンちゃん。あたしだったら、しっかりしろって二三発ケリを入れてるところだろうね。ねぇさん、よく我慢してるよ。それで、これからどうするんだい。もう、引き上げるのかい。」
「うん、閉鎖病棟に隔離されちゃったんだから、ここに居ても仕方無いしね。もう、退散しようかと思ってる。」
「くれぐれも気を付けてよ。その辺にいる奴等、片っ端から疑ってかかった方がいいよ。」
「忠告ありがとう。気を付けるよ。」
晴美ちゃんは、余程あたしの身を案じてくれているのだろうと思うと、さすがに嬉しかった。ただ、まだそれが、単なる心配性の言葉にしか聞こえなかった。
そうじゃないのが分かるのは、もう少し先の事だ。