(8)

 

病院を出て、街に戻り、晴美ちゃんを呼び出そうとしたけれど、携帯電話の電源を切っていて連絡が取れなかったので、しかたなく、デパートをぶらついて時間をつぶし、日が暮れた辺りで、おかまのマスターのやっている行き付けのスナックにもぐり込んだ。

ツレさんのアパートの近くに借りたワンルームマンションに入り浸っていたせいもあって、その店に顔を出すのは随分久し振りだった。

「そう言えば」と、おかまのマスターは、お客の途切れたあたりで近寄ってきて、「なかなか可愛い男の子が来てたわよ、あんた尋ねて。」

「可愛い男の子って、どんな子よ。」

「いっぱい心当たりがあるってわけ。」

「フアンが多いもんで。」

「あら、うらやましい。ちょっと、コウちゃん、あの子、何て名前だっけ。」

中年のサラリーマンの相手をしていたコウちゃんと言う名の新顔のニューハーフの子が振り向いて、

「トモとか言ってたわよね、確か。」

「トモだっけか。」

トシだなと、閃いた。閃いた瞬間、心の片隅がズキッと痛む。

「あら、心当たりがあるって顔ね、それ。ほら、目が潤んでるわよ。」

「バカ言わないでよ。アルコールのせいよ。」

いきなり大きな音で音楽が鳴り響き、中年のサラリーマンがコウちゃんとデュエットを始める。

「何時の間にカラオケ入れたのよ。」

「あんたも何か歌いなよ。」

あたしの声がよく聞こえなかったらしく、リストを放ってよこす。

あたしは、さっきより大きい声で、

「誰の許しでカラオケなんか入れたの。」

「ああ、時の流れでね、仕方ないのよ。あんたも若い子と付き合うんだったら、歌の一つや二つ覚えなさいよ。」

サラリーマンの濁声が店内を駆け巡る。調子外れの歌声が両方の耳から脳髄に乱入し、疲れ気味の頭を万力でグッと掴まれて、グルグル振り回されているような気になる。コウちゃんがハスキーボイスですぐに助っ人に入るけど、腕を組まれて満足そうな顔をした中年を見ていると、情けなさを通り越して、腹立たしくなった。

「彼ね、コウちゃんにぞっこんなのよ。」

何時の間に寄って来たのかオカマのマスターが耳元で唾の音をペチャペチャ立てながら、そう囁く。

「一流企業の部長さんらしいのよ。子供さん二人いて、どちらも女子高生ですって。」

「ビデオに採って、脅迫してやったら。」

「家に帰っても居場所がないんですって。外では優秀な企業戦士も、家ではホームレス同然。何処へ行っても冷たい目に晒されて、唯一心休まる場所はトイレの中だけらしいのよ。」

「他人のプライバシーを良くそこまで知ってるわね。」

「そう言って、コウちゃんの胸でさめざめと泣いたって。」

「彼、もうシリコン入れてるの。」

「まだ。来年の夏までには何とかしたいって。」

「下は。」

「当分無理。だって、あの子、お金使い荒いんだもの。取っちゃうくらいのお金はあるらしいんだけど。きょうび、取るだけじゃあねぇ。」

「じゃあ、まるっきりマスターと同じじゃない。」

「そうなのよ。でも、まぁ、いいじゃない。いろんな女の子がいたって。あたしだって、ママじゃなくてマスターって呼ばれても、一向に気にしちゃいないんだから。」

「あれ、本当はママって呼んで欲しいんだ。」

「あたりまえよ。」

店内に、一層濁声が響き渡る。中年がソロの歌を入れたらしい。もうこれ以上耐えられそうに無かったので、

「帰るわ。」

「ええっ、もう帰るの。もうちょっと待ってたら、あの子来るかもよ。ほら、あんたの事、探してた。」

「これ以上、濁声で耳を強姦され続けるのはまっぴら御免。よろしく言っといてちょうだい。近い内にまた来るからって。」

「もう、何回も通って来てるのよ。可哀想じゃないの。ほら、そこのカウンターで、ずっと待ってたのよ、あんたのこと。」

マスターの言葉に、トシがカウンターに腰掛けて、じっとあたしを待っている姿が思い浮かんで、会いたいと言う気持ちがいきなり胸に込み上げる。反面、そんな自分を煩わしく思う気持ちも強く、あたしの感情は、その間で激しく揺れ動いた。それに、おかまのマスターが、随分トシの肩を持つので、なんだか余計にイライラした。

「待たしときゃいいのよ。」

そう言い放って、振り向きざま店のドアを開けようとして、丁度入って来ようとしてドアを開けた初老の男とぶつかった。

「あっと、ごめんなさい。」

と、男を見ると、これが何処かで見た顔だった。誰だったか思い出せないでいると、向こうから、

「やぁ、やっと会えた。探してたんだよ。」

「あの...。」

「ほら、おたくのお店のマスターが自殺した日にお会いした。」

「ああ、刑事さん、だったかしら。」

「そう、ワカミヤです。今日一日ずっと、あんたを探してたんだ。ちょっと時間いいかな。」

トシの事もあって、あまり気がのらなかったので、

「ごめんなさい。今日は、ちょっと都合が悪いんです。」

「五分でいいんだよ。なんだったら、ここで立ち話でもいいんだけどね。」

「明日にしてもらえないですか。」

エレベーターで降りると、同じボックスに乗って来られそうだったので、階段で駆け降りようとするあたしの背中に、

「明美って娘が潜伏していた温泉の名前が分かったんだけどねぇ。」

と、ワカミヤ刑事の声が響いた。

あたしは、バネの入った人形みたいに回れ右すると、そのまま相手の胸ぐらを掴んでもよさそうなくらいの勢いで後戻りした。

「それを早く言ってよ。」

「聞く耳持たなかったでしょうが。」

「ごめんなさい。謝ります。で、何処。」

「その前に、こっちも聞きたいことが幾つかあるんだ。」

「質問は、後で幾つでも受け付けるから、何処なのよ。明美ちゃん、無事なの。」

「ここは、一つ交換条件と行こうよ。」

「わかったわ。じゃあ、そこの角の喫茶店で。ボックス席があるから、ゆっくりお話しできるでしょ。」

あたしは、スナックのドアを開けて、おかまのマスターに、角の喫茶店にいるから、トシがやってきたらその旨連絡してくれるようにと頼んで、刑事の後を追った。

 

喫茶店は薄暗く、少し大きめの音でジャズが流れていた。ワカミヤ刑事が奥の片隅から手を振る。ちょうど、他の席から死角になっている場所を見つけて、そこに席を取っていた。あたしが向かいに座ると、大きな声で話すと他人に聞かれるからと、横に座るように指示する。

「聞きたい事って。」

「うん、幾つかあるんだけど」と話を切り出そうとして、ウェイターが水を持ってきたので慌てて口をつぐむ。

「コーヒー二つ。で、いいですよね。」

「うん。」

ウェイターは、興味津々の目つきであたしと刑事を見比べて、

「かしこまりました。」

と、カウンターに戻っていく。

「何だ、奴の目つきは。」

「そりゃ、関心あるでしょ、片や年老いた刑事と、片や水商売風の女ですよ、意味有りげに並んで座っている。どこで、どうやったら引っかかるんだろうって。」

「簡単だよ。金を積むか、事情聴衆にかこつけるかだよ。」

そこまでは大きな声だったけど、

「一つ教えて上げよう。」

と、急に小さな声になる。

「明美ちゃんの事。」

首を振る。

「死んだマスターの事だよ。」

「死人に口無しとでも言うんですか。」

「ははは、まさか。いや、待てよ。うん、そうか、そうかも知れない。あんたはなかなか頭がいいね。そうかも知れない。」

「勝手に独り合点しないで下さい。」

「うむ。事実だけを簡単に言うと、焼け残った内臓を調べてみるとね、麻薬が検出されたんだよ。で、完全にラリってる状態で火遊びをしてて、誤って衣服に火が燃え移って、焼死したんじゃないかって見方が強まってるんだ。最初は焼身自殺の線で当たってたんだけど、前にあんたも言ってたように、仮にも元組員が自殺なんてするかなって疑問が誰の胸にもあって、大量の麻薬の検出でみんな合点がいったってところなんだよね。で、裏付けを取るための聞き取り調査をしてみると、うん、彼の麻薬中毒を裏付ける話ばかりが返って来るんだよ。」

「誰が麻薬中毒ですって。」

「ヒロモトテツジ、マスターと呼ばれていた男だよ。」

「冗談でしょ。マスターは酒、タバコ、ギャンブルはやっても、女と麻薬にだけは手を出さなかった筈ですよ。」

「元組員なのに。」

「たまたま組員だっただけです。俺は正義感が強いだけのアホなんだよって、よく言ってました。これで賢けりゃ共産党員にでもなってるんだろうけどなって。」

「そりゃ、いい。元組員の共産党員か。」

「誰に聞かれたんですか、マスターの事。」

「店の女の子とか、交友関係、近所の人。ただね、確かに善良な一般市民からの情報ってのが少ないんだよね。いや、その、あの手の店の女の子が善良な一般市民じゃないって言ってるわけじゃないんだよ。」

「勿論、手っ取り早くお金を手にしたい善良な女の子ばかりです。」

「あなたも含めてね。」

「善良ですけど、我が身可愛さで嘘もよく付きます。自分が大事、他人の事は我関せず。」

「って事は、彼女らが誰かにそう言うようにって脅されてると。」

「さぁ、でも、そうかも知れませんね。」

「誰に。」

「それが今日の質問のポイントなんですか。」

「うん、まぁ。」

「残念ながら、分かりません。」

あたしは、咄嗟に嘘をついた。警察と言っても完全に信用するわけにはいかない。ヤマネ達と何処でどうつながっているのかはっきりするまでは、滅多なことは言えない。

「あいつかね。ほれ、あんた達がマムシって呼んでる。」

「やりかねないですけど。でも、刑事さん、これは単にあたしの勝手な想像なんですからね。」

「分かってるよ。ただね、わたしもちょっと変だなって思い始めてる所なんだよ。ほれ、人間の記憶って結構曖昧だろ。だから、話の内容にもっと食い違いがあってもよさそうなものなのに、殆ど同じなんだよ、しかも紋切り型、どの証言も。マスターの机の引き出しにヤクが入ってるのを見たとか、タイ辺りに良く出かけるとか。」

「誰かが入れ知恵してるんじゃないですか。」

「そんなレベルじゃなくて、仕組まれてるって言う感じなんだな。それにね、ヤクの関係でしょっ引いた連中が、今更になって、あれはヒロモトに命じられたって言い出してるんだよ。どういう事なんだろうねぇ。」

「さぁ、良く分からないですけど。」

「それに、ほれ、明美って娘とトシって男、それとツレさんって婆さんが連携プレイで、ヤクを捌いてたって話じゃないか。」

「何ですって。」

あたしが思わず大きな声を出したので、店中の目がこっちを見た。ウェイターが様子うかがいを兼ねてか、「お待たせしました」と珈琲を運んで来た。

「遅いじゃない。」

「すいません。一杯ずつたてるもんで。」

そう無愛想に言うと、ガチャガチャと音を立てて二人分の珈琲を置いた。

「誰がそんなことを。」

「事実、ツレさんて名の女の部屋から末端価格で二千万分のヤクが発見されてるからね、明美って娘のスポーツバッグの中にあったんだ。」

「嘘でしょう。」

「嘘なんかつかないよ。わたしがこの目ではっきりと見たんだから。」

ツレさんのアパートが頭の片隅に浮かび上がってくる。帰る場所を見失ったまま、行方不明のまま、ツレさんや明美ちゃんはついに麻薬取締法違反の容疑者にされてしまった。

あの赤ちゃんは、一体どうなるんだろう。

刑事達が家宅捜査した時に見つからなかったんだろうか。

「あたしが見た時は、」と言いかけて、あまりヤボな事は言うもんじゃないと、自制する。あたしまでが参考人として連れて行かれることはないと思った。

「あんたが、何を。」

「いえ、明美ちゃんのスポーツバッグでしょ。あたし、よく明美ちゃんが持ってるとこ見ました。それ持って一緒にスポーツジムにも行きました。そんな物騒なもの入ってなかったですけど。」

「上げ底にしてね、その下に敷き詰めてたんだ。何処のスポーツジムだろう。そこが取引の場所かも知れない。」

「駅前の、ほら、ビルの三階、四階にある。」

「ああ、あの日焼けサロン付きの。」

「そうです。何回か一緒に行きましたけど、そんな感じじゃなかったんだけどな。」

「そりゃそうだよ、人前で堂々とあんな物取引された日にゃ我々刑事の商売上がったりだ。」

「明美ちゃんは、それを持って逃げようとしてたんでしょうか。」

「どうも、そうらしいね。」

「明美ちゃんは、何処で見つかったんですか。」

「見つかった訳じゃないんだよ。ただいま、逃走中。」

「でも足どりは掴めてるんでしょ。」

「うん、途中まではね。」

刑事は、ちらっとこちらを流し見て、言おうか言うまいか考えているようだったけど、小さな声で、ボソッと東北にあると言う聞いた事もない小さな温泉地の名前を出した。

「そんなところまで、一人で。」

「いや、そこまでは男と一緒だった。」

「そこまでは。」

「うん。一緒に旅館に住み込んで働いていたようなんだけどね。晴美が客に絡まれた時に助けようとして男が客に怪我させてしまったらしいんだよ。で、警察の取り調べがあって、そのすぐ後だね晴美の方が先にいなくなって、一週間ほど後に男もいなくなったらしい。男は一度、宇都宮辺りで浮浪者みたいな格好でうろついているところを職務質問されているんだけど、派出所の巡査が親切心を出して宿を都合付けてやろうとしている内に逃げたらしい。女の名前を頻りに叫んでたらしいよ。」

「その後は。」

「杳として知れず。」

「案外、どこかの精神病院に入っているとか。」

カマをかけるつもりでそう言って刑事の表情を盗み見たけれど、特に変化も見せずに、

「さぁ、殺されたって言う話しもある。」

「殺された。何故。」

「その、旅館で怪我させた客というのが地元の組員だって言う情報があってね、ヤクを巡るトラブルとも考えられるんだ。男が逃げる時に持ち出したのを温泉地で売り捌こうとして地元組員と利害が対立したんで、今後の事もあるんで地元の連中が見せしめに殺しちゃったんじゃないかって。まぁ、どれが正しい情報なのかは、まだはっきりとはしていないんだけどね。」

シンちゃんがこの街の精神病院にいることをこの刑事は、まだ知らないらしい。

「ツレさんは。」

「そっちも行方不明なんだ。」

「明美ちゃん達と一緒に動いてたとか。」

「いや、その女は単独で動いていたらしい。ただ、ある日からいきなり足どりが途絶えてるんだ。この街を出たと言う話しもない。」

「この街の何処かに潜んでいるとか。」

「殺されたと言う可能性もある。」

「誰に。」

「その女がいなくなってホッとする奴等に。」

「誰ですか。目星ついてるんでしょ。」

「さぁ。一番可能性の高いのは、明美とその男だろうなぁ。女を殺して残りのヤク洗いざらい持って逃走したと考えられるだろ。」

「警察は、明美ちゃん達を逮捕するつもりですか。」

「ヒロモトとツレと言う女と、明美とその男友達だな、やっぱり。まだ逮捕と言う段階じゃないけれどね。ヒロモトは死んだし。間も無くツレと明美とその男に捜査令状が出ると思うよ。ツレがヤクの取り扱い、明美とその男は、ヤクの取り扱いに加えて、ツレとヒロモトの殺人容疑だよ。」

「マスターは自殺か事故でしょ。」

「他殺の線もまだ捨て切れてないんだよ。とにかく明美達のどっちかを探し出して話を聞いてみないと。」

「じゃあ、刑事さんも行くんですか、その明美ちゃんが働いてたって温泉地に。」

「そういう事になるだろうねぇ。地元の警察の協力を仰がないといけないしね。こっちでも捜査員もっと増やしたいんだけどね、もうすぐ外国の要人がやって来るだろ、その警備に借り出されて人手不足なんだよ。」

「あれ、誰かもそんな事言ってましたよ。えっと、シモダって刑事、ご存知ですか。」

シモダねぇ、シモダ。いや、そんな刑事いたかなぁ。」

「警察も人が多いから。」

「うん、でもねぇ、私くらいの古株になると別の部隊の者でもだいたい知ってるんだけどね。余程若けりゃ別だけども。」

「三十五から四十くらい。」

「それくらいの年格好でシモダってのは知らないなぁ。その男がどうかしたの。」

あたしは、シンちゃんの事を言うべきかどうか迷った。こんな時、晴美ちゃんならどうするだろう。警察にヘタに巻き込まれないように口を閉ざしたままにするのだろうか。

「明美ちゃんと一緒に行動してたシンちゃんって男の子の事なんですけどね。ある病院で、とても良く似た男の子を見付けたんです。」

「まぁ、他人の空似ってのは良く在ることだからね。」

「この近所を彷徨いてた所を保護されたんです。」

「保護ってのは。」

「ええ、どうやら記憶喪失に罹っているらしくて。保護された時は、服はボロボロ、何日間も何も食べてなくって、しかも体中傷だらけ。」

刑事の目がチロチロとまるで研ぎ澄まされたナイフみたいに光った。

「シモダって刑事は、その男の子に付き添っているらしくって。毎日その病院に来てるんですけどね。あたしも、その子の事が気になってるもんで、日に一度は必ず面会に行くんです。それがシンちゃんだって確証は何処にもないんですけど、気になっちゃって。」

「名前を呼んでみれば。」

「ええ、やってみました。一番最初の時に、シモダ刑事にしつこく促されて。そしたら、アケミって、口が動いたような気がしたんです、気のせいかも知れないですけど。」

「その事について、シモダってのは、何て言ってる。」

「まだ、確実にその子がシンちゃんだって分かったわけじゃないし、焦らずに時間をかけて記憶が戻るのを待ちましょうって。でも、本当は、あたしは、その子はシンちゃんに違いないって確信してるんです。」

刑事は、キャビンマイルドに火を付けると、暫く上を向いたまま考え込む。あたしも、刑事の煙草を拝借して、シンちゃんの件をこの刑事に話した事が良かったのかどうかを考えてみる。この刑事は、あたしが精神病院で出会ったシモダ刑事を知らないと言う。それは、どちらかが偽の刑事だと言う事を表しているのだろうか。もし、この刑事が偽の刑事で、晴美ちゃんの言う組の廻し者だとしたら、シンちゃんをみすみす危険に晒してしまった事になる。逆なら、こうしてはいられない。すぐにでも病院に駆け付けて、シンちゃんを安全な所に匿ってくれるようお願いしにしなくちゃならない。

向かいの席には、いつの間にか若いカップルが座って、濃厚なキスを始めた。女の子の方が時々こちらを盗み見るのは、見られている事を意識してもっと熱くなろうとしているからなんだろう。

「多分、そのシモダって男もあなたと同じ確信を持ってると思うよ。」

向かいのカップルに無頓着に刑事が言う。

「同じ確信って、どう言う事。」

「そいつは元々、シンちゃんてのを付け狙ってたんだよ。理由は分からない。まぁ、口封じの為だろうとは思うんだけどね。おそらく、ヒロモトの属してたのと同じ一派の奴だろう。シンちゃんてのがどういう姿であれ、この街に帰って来てしまったので、口封じのために消してしまおうとしたんだよ。けど、チャンスを狙っている内に騒ぎを起こされて病院に収容されたんで、刑事と偽って病院に入り込んだんだよ、次のチャンスを待つためにね。早速警護の為に手の空いている奴等を病院に向かわせよう。何処の病院。」

「ちょっと待って下さい。あたしには、あなたが本物の刑事だって確証が何処にもないんです。」

「あれ、警察手帳見せなかったっけ。ほら。」

「そんな物、見せられたって、本物かどうかどうやって判断すればいいんですか。あたしは、本物の警察手帳を見たことがないんですから。」

「疑り深いね。私とあんたとが一番最初に会った時のシチュエーションを思い出してみてくれよ。まわりは本物の警察官だらけだったんだよ。テレビ局も沢山来てたし。どんな詐欺師でも、あの状況で嘘をつき通すなんて、到底無理な事だと思うんだけどね。」

確かに、言われてみればそうだ。あたしは、この刑事を信用する事にして、シンちゃんが保護されている病院の名前を告げた。

「警護は今夜から早速やった方がいいだろう。その病院の経営者とイワタとは同級生だった筈だよ。互いに知らない中じゃない。」

「じゃあ。」

「ああ、ちょっと電話をかけさせてくれ。」

そう言って、刑事は喫茶店の外に出ていった。

 

向かいのカップルは、依然として熱い。濃厚なキスからペッティングに移っている。男の子の手が、女の子の服の中で野獣のように動いている。ウェイターも気になるらしく、チラチラと見ながら仕事をしている。時計を見ると、もう十一時近くだった。これから、この二人はラブホテルに直行するんだろうか、それともお金が無いから、こんな所で我慢しているんだろうか。そんな事を考えていて、斜め前に人影が立ったのを気が付かないでいた。

「座っていいですか。」

いきなり声をかけられて、慌てて見上げる。トシだった。何週間ぶりだろうか、少しの間に随分逞しくなったような気がした。向かいのカップルに見せつけられていたからだろうか、「空いてるわよ」と言う声が、自分でも上擦っているのがわかって動揺する。

「久しぶりね。元気だった。」

紋切り型の挨拶で、動揺を悟られまいとした。

トシは、「うん」と言ったきり俯いてしまう。ウェイターが水を持って来て始めて顔を上げ、珈琲を注文した。

「俺、探してたんですよ、ねぇさんの事。」

「どうして。」

何を他愛もない受け答えしてんだと、自分で自分がじれったくなる。

「心配だったんです。いや、その、心配って言うか、会いたかったんです。」

「何度かお店に顔出したんだって。」

「ええ。でも、遊んでないですよ、俺。」

あたしは、思わず笑い出す。声が大きかったのか、向かいのカップルの愛撫の手が止まる。

「何がおかしいんですか。」

見ると、真剣な顔をしている。

「御免、笑ったりして。でも、遊ばなかったのは、あたし達のような女相手にお金を払って遊ぶのが嫌になったからじゃないの。」

「そんなじゃないですよ。あの、仕事辞めちゃったもんで、遊ぶ資金もなかったし。」

「仕事、辞めたの。」

「ええ、一生続ける仕事じゃなかったもんで、この辺で、真剣に人生ってんですか、考えたくなったもんで。あ、いや、そんなのが理由じゃなくて、真剣に人生考えたくなったのも、その...。」

トシは、さらに何かを言おうとしている。「もういいよ」と、あたしは言ってやりたかった。「それ以上言わなくても」と。何が言いたいのか、トシの目を見れば、一目瞭然。あんな目をして言う事は、一つの言葉に尽きる。でも、それと同時に、わざとすっとぼけて思いっきりからかってやりたい衝動も湧き上がってきて、抑えるのに四苦八苦する。それは、トシの気持ちに答えるだけの自信が無いことの裏返しだった。

トシが嫌いだとか、鬱陶しいと言うわけじゃない。その反対で、トシの事を考えると胸の奥から甘酸っぱい物がこみ上げてくる。それまで、あえて閉じてきた全性感帯がまるで嘘のようにスルスルと開いて行くような気さえして、トシに体を預けてしまいたい衝動に駆られる。でも、今までのあたしの不幸な経験が、それを邪魔しにかかる。感情に流されてしまい、うかうかと他人を信じてしまうと、何処かでしっぺ返しを食らうぞと。信じられるのは、身内だけ。それも、弟だけだろと。

「弱ったよ。」

刑事が外から帰ってくるなり、ぼやいて、トシに気づかずにドカリと腰を下ろす。

「どうしたんですか。」

「どうもこうも、手の空いた奴が一人も居ないんだよ。外国の要人が来るまでに、まだ一週間あるってのに、みんな警備に借り出されてるんだ。あれ、君は。」

始めてトシに気付いて、あたしの方を見る。

「ええ、トシって言って、死んだ弟の知り合いです。」

「へぇ、あんたに弟がいたのか。もう、死んだって。」

「交通事故で。」

「そりゃ、気の毒に。」

「誰も廻せないんですか。」

「え、ああ、そうなんだよ。どうするかなぁ。」

「あたし、行きます。」

「行くって、君が。」

「ええ、シモダって男の顔を知ってるのは、あたしですし。」

「でも、君一人じゃねぇ。そりゃあ無理があるよ。」

「この子がいますし。ね、トシ。一緒に行ってくれるよね。」

トシが、コクリと頷く。

「探偵ごっこじゃないんだから、とても無理だよ。」

「携帯の番号を教えてくれれば、不審な奴が現れたら連絡しますから。そうしたらパトカーくらい出してくれるでしょ。とにかく、一刻を争うんですから。躊躇してる暇は無いです。」

あたしは、トシが珈琲を飲み終わるのを待って、刑事を後に、トシのバイクに跨った。

冬の始めのキリッとした空気があたしの中の暗い部分を吹き飛ばしてくれそうで、あたしは、トシの体に回した腕に思いっきり、けれど思いっきりの優しさを込めて、力を入れた。