(9)

 

「珈琲入れようか。」

あたしは、眠さで倒れそうな体をおして、キッチンに立った。トシも、部屋の真ん中で膝小僧を抱いて、今にも眠りそうな雰囲気だった。あたし達は、刑事からの連絡を待っていた。眠るのは、刑事から連絡が来てからにしたくて、無理に起きていた。トシもあたしも、昨日から一睡もしていない。

 

昨夜、喫茶店を後にして、トシのバイクでシンちゃんが保護されている精神病院に駆け付け、病院の深夜入り口の前で一夜を過ごした。夜勤の看護婦さんに理由を話して、中で待機させてもらおうかとも思ったんだけど、病院とアノカタとの密接なつながりを聞いていたので、敢えて病院には何も言わず、深夜入り口が見通せる暗がりに身を潜めて、じっと不審な人物の出入りに目を光らせていた。

病院の夜は賑やかだった。毎晩そうなのかは分からないにしても、その夜の病院はあっちで人の声がしたり、こっちで物の倒れる音や笑い声がしたり、何か夜通しドンチャン騒ぎでもやっているみたいに、その度に部屋の電気が点き、人影が右往左往した。あたしとトシは、植え込みの陰でそれを見ていた。まるで、物陰から外国のお祭りを覗き見ている気分になった。

「ねぇさん、寒くないですか。」

その夜は、特に冷え込んだけど、トシが横にしっかりとくっ付いていてくれたので、そんなに寒さを感じることはなかった。

「イタリアかどこかの映画でこんなの見たことあります。」

「あんた、映画が好きなんだね。」

そう言えば、この子の趣味とか好きな食べ物とか、あたしはまだ何も知らない事に気が付いた。かと言って、改まって聞くのも何だし、今はそんな状況でもないし。

「好きって言うか、お袋が映画が好きだったんで、小さい頃、良く見に連れて行ってくれました。映画なら何処の国のでも見てました。勿論、字幕が読めないんで、絵を見ているだけなんですけど、だから、ストーリーなんか全然分からないんですけど、頭の中に強く焼き付いちゃったシーンって結構あるんですよ。たしかイタリアだったと思うなぁ、精神病院で暴動が起こって、患者達が病院を乗っ取っちゃうんですよ。でも、全然緊迫感が無くって、カーニバルみたいになっちゃうんですよ。結局翌朝には鎮圧されちゃうんですけど、あっちこっちでいろんな色の発煙筒を焚くわ、病院の食べ物を引っぱり出してきて、宴会を始めるわ。あんまり楽しそうなんで、是非仲間に入れて欲しいって思って、夢の中にまでそのシーンが出てきたくらいなんですよ。」

そう言って、照れ臭そうに俯く。

「お母さんて、優しかったの。あたしは、家が貧乏だったんで、両親ともに働いていたし、結構早くに死に別れちゃったんで、お母さんの優しさってあんまり覚えてないのよ。」

「あの、俺も実のお袋ってのを知らないんです。生まれて間もない俺を捨てて行ったらしいんです。俺、拾われっ子なんです。五歳まで施設で育ったんですよ。」

その後、里子に出ていったり、また施設に戻ったりを何度か繰り返したらしい。決してトシが里親に反抗的だったり、里親がトシを可愛がらなかった為ではなく、里親に運が無かったとでも言うか、貰われて行く先の家庭で必ず何らかの不幸が待っていたらしい。で、里親も金銭的な問題でトシを養い切れなくなって、泣く泣く施設に戻したらしい。四度目にはついに、トシも学校を諦めて自活の道を選んだ。つまり、施設から脱走したんだそうだ。そして、この街に流れて来て、俊二と知り合った。

「俺、でも、恵まれてるんですよね。一人目のお袋には映画に良く連れていってもらったし、二人目には本を良く読んでもらったし、三人目は旅行好きで、四人目はおっと、これはギャンブルの味を教えてくれたんだ。」

やがて、病院の中も静かになる。

「何だったんでしょうね、今の騒ぎ。」

時計を見ると夜中の二時を少し回ったところだった。近くを夜鳴きそばが通りかかる。

「おそば、食べようか。」

「大丈夫ですか、食べてる間に何か事が起こったら。」

「その時は、おそば持って飛んで行こうよ。」

夜鳴きそばの屋台は、黄色い軽トラックの荷台を改造したもので、風流からは遥かにかけ離れていて、塩っ辛くて、普段なら半分以上残してしまいそうな味だったけど、寒さと食べ物を口にして始めて思い出した空腹とで、トシもあたしも夢中になって啜り込んだ。

そうこうする内に、雲に隠れていた月が顔を出し、辺りを青く染め上げる。

「満月だったんですね。」

トシに言われて見上げる。

「道理で賑やかな筈です。満月は人を狂わせるらしいんです。」

病院の建物が薄暗い灰色で夜空を切り取り、その向こうに丸い月が銀色に近い冷たい色で輝いていた。

人声がして振り向くと、夜勤の看護人数人がそばを食べに出てきた。トシもあたしも、顔を見られないように屋台の反対側に体をずらす。看護人の中には、一度、病院の食堂で向かい合わせになったのもいたので、顔を見られないようにして、耳だけそばだてた。

「この所、毎日だな、あの婆さんの突然の笑い声。」

患者達に聞こえないように配慮してか、一人が小さな声で言う。

「夜中にいきなりだからなぁ。」

「鎮静剤を打ちたいんだけど、先生がダメだって言うもんで、他の患者まで目を覚まして暴れ出すからねぇ、一人づつ端から寝かしつけるのに一苦労だよ。」

「今日は取り分けしつこく脅えてたね、あのナナシノゴンベ。何度か俺の足にしがみつくんだよ。可哀想になってくるんだよね。」

「彼もなかなか記憶が回復しないね。」

「余程激しく、精神的外傷を受けたんだろうって。」

「うん、記憶喪失以外にもう一つ要因がありそうだよね、自己防衛的な要因が。」

「今度、催眠療法を試してみるって事だけどね。」

「もう一つの要因が災いして、記憶が戻ると同時に性格破壊なんてことにならないんだろうか。」

「やってみるしかないんじゃないの。このまま放っておいても病状の改善にはなりそうもないんだから。」

「彼、身元が全く分かってないだろ、先生にしてみれば格好の研究材料なんだけどね。」

「そう言えば、このところ毎日、女が通って来てるじゃない。なかなかいい女が。」

「昔の恋人か何かなんだろうねぇ。でも、彼女の身内だって言う確証が無い以上、連れて帰る事も出来ないし、どうしようも無いよね。」

本当にどうしようも無いのかと、あたしは思った。例え、シンちゃんだと立証できても、本人が記憶を回復してくれない限り、あたしにシンちゃんを病院から連れ出す力は何処にもない。とは言うものの、今の看護人達の話しでは、このまま手を拱いていても、シンちゃんは病院の実験材料にされるだけだと言う。どうしようもないとは、認めたくない。あの、しっかり者のシンちゃんがどうしてと、悲しくなる。そして、この状況に外でじっと待つ事しか出来ない自分にいらいらする。

やがて、何に対してかわからない激しい憤りが体の中に高まって来て、それが頂点に達した時、思わず看護人達の所へ駆け出そうとして、トシに抱き止められた。あたしは、自分の衝動を押さえる為にトシの手の中に身を縮める。トシが、あたしよりも背が高くて、体付きもガッシリしている事を久し振りに思い出した。

やがて、看護人達も病院に引き上げ、そば屋も夜無きの音を流しながら去って行くと、さっきよりも、もっと深い静けさがあたし達を取り囲む。

「ありがとう。止めてくれなかったら、あたし、今頃は、奴等の内の誰かに飛び掛かってて、シンちゃんの立場をもっと悪くしてたと思うよ。」

「俺、さっきはね、ねぇさんが次にどうしたいのかが、手に取るように分かったんです。多分、俺も奴等の話を聞いてて、気が張ってたんだと思います。今も、ちょっと、そんな感じが残ってて、ねぇさんの息づかいやちょっとした仕種も全部ストレートに俺の中に入って来るんです。もう一人の俺がそこにあるみたいな感じで。御免、生意気言っちゃって。」

「いいのよ。トシ、お願いがあるんだけど聞いてくれる。」

「いいですよ。」

「さっきみたいに、あたしを抱いててくれない。」

トシの腕が、遠慮がちにあたしの肩と反対側の腕にまわされて、あたしの上半身を抱き止める。瞬間、あたしは、そのままトシの中に自分を溶け込ませてしまいたいと思い、トシの肉体に自分の肉体を強く押しつけた。それは、あたしに予想外の安らぎを与えてくれた。

そう、随分昔あたしはこんな安らぎを知っていた。

「随分、昔。」

と、あたしは声に出して言ってみた。すると、「昔」と言う言葉が、目蓋の裏からいきなり後ろに延び始め、後頭部を突き抜けて、はるか霧の向こうまで延びて行き、その先から「昔」の線を辿って、縄文時代の女や平安時代あたりの女官や戦国時代の女達が現れ、あたしは、あたしの感じている安らぎが、こんな昔から続いていて、現れ出た女達とも安らぎの分かち合いができるもんなんだと変に納得して、その安らぎを与えてくれる男の姿が、どこにも見つからないので、慌てて探しに行こうとして、トシの腕の中にいる自分に気が付いた。知らない間に眠ってしまっていたらしい。

「御免、大分眠ってた。」

「五分くらいです。このままいいですよ。腕、貸します。」

「ふふ、古い用心棒映画に出てきたセリフみたい。」

あたしは、居心地の良いトシの腕から敢えて体を離す。冷気が二人の間に侵入する。

結局、そのまま朝を迎えた。

 

ワカミヤ刑事がやって来たのは、午前十時をまわった頃だった。

あたしもトシも、場所を外来の待合い室に移して、長椅子にグッタリと凭れ込んでいた。引き上げていく夜勤明けの看護人達の中に、昨夜の連中の姿を認める。よもや昨日の話を聞かれたとは思わない彼らの何人かは、何度かあたしと顔を合わせているので、丁寧に挨拶をして帰るのもいた。

「どうだった。」

と、刑事が聞くので、あたしは、手短に昨夜聞いた話をした。

「シモダって名乗る刑事も気になりますけど、この病院の先生達の考え方も気になる所があると思うんですが。」

「うん、人権に関わる問題ではあるんだけど、餅は餅屋にって諺があるんだから、専門職の見地から釈明されると、こっちとしてもそれ以上、突っ込めないんだよね。まぁ、一度院長に会ってみよう。」

と、立ち上がるので、あたし達もついて行こうとすると、

「あんた達は、来ない方がいい。徹夜で疲れてるだろうし、下手に話が拗れたりした時に一緒にいたりすると、あんた達も同じ一派だと思われて、もう面会もさせてもらえなくなる。」

あたし達がそれでも尚、不服そうな顔をしているのを見て取って、

「とにかく今日はあんた達、引き上げてくれ。後で必ず電話して結果を報告するから。」

と、言葉を繋ぐ。「それでも」と、言い返すだけの言葉を持たないあたし達は、不承不承、病院を後にした。

あたしは、トシに、ツレさんのアパートの近くのワンルームマンションに向かうように言う。

「徹夜明けで、運転大丈夫なの。」

「こんな事って、しょっちゅうですよ。」

そう言いながら、赤いヘルメットを投げてよこす。

「さぁ、乗って下さい。」

大丈夫と言いながらも、バイクは二三度ノッキングして、ちょっとよろけながらスタートした。

 

お昼を過ぎても刑事からは連絡が無かった。ただ起きているだけの二人は、だんだん手持ち無沙汰になってくる。

「前にねぇさんが住んでた部屋、どうして引き払ったんですか。」

トシが唐突に尋ねる。

「あら、引き払った分けじゃないんだよ。向こうの部屋もまだ置いてあるんだ。近い内にまた戻るつもりなんだけど。」

「そうですか。俺、何回か部屋の前まで行ったんですけど。」

「このところ、ずっとこっちに居たから。」

「何があるんですか、こっちに。」

晴美ちゃんは、トシにあたしの事を何も話してくれていなかったようだ。彼女らしいことだと思った。

「まだ、話してなかったっけ。お店にツレさんて言う経理担当のおばさんが居たんだけど、トシ、勿論知らないよね。」

そのツレさんに掛かっている嫌疑や、明美ちゃんとシンちゃんの事や、ツレさんの部屋で見付けた赤ん坊のミイラの事などを手短に説明する。

「ツレさんを見つけ出さないと、明美ちゃんやシンちゃんに掛かっている嫌疑が晴らせないのもあるんだけど、それよりも、あの赤ん坊の事が気になって。」

「この部屋から、ずっと見守ってやってたんですか。」

「見守るって、そんな親切な事じゃないんだけどね。変に引きつけるものを持ってるんだよ、その赤ん坊が。同情って奴なのかなぁ、よくわからないんだけど。」

「分かるような気がします。」

「何が分かるの」と言いかけて見ると、トシの目が虚ろで眠さ半分以上で適当に相槌を打ったことが分かった。多分、あたしも疲れが溜まっていたんだろう、いくら眠たいと言ったって、そんないい加減な返答は無いじゃないと、ついムカッとした。

「ねぇ、あたし達って、喋れる言葉少ないよね。何か大事な事を伝えたかったり、大事な事を考えたりしなくちゃならなかったりする時に、そのための言葉が無いばっかりに、見落とす事柄が結構多いような気がするんだけど。」

トシの肩を揺すりながら問い掛ける。問い掛けながら、あたしは何が言いたいんだろうと、自問する。

「そこにフィーリングがあれば、それでいいような気がします。」

トシは、睡魔の中で何とか質問に答えようとしてくれている。それは、でも、到底あたしの満足するような返答ではない。あたし自身ですら一体何を喋ろうとしているのか全然把握してないんだから。ただ、あたしの心臓の裏側から何か、カリカリと引っかくものがいて、そいつが、この数週間あたしを引きずり回している、そんな気がした。

「フィーリングか。」

確かに、以前は、そんな風な言葉だけで殆ど片が付くと思っていた。このところ、それだけでは片づかない事の方が多くなってきたような気がする。今もそうだ。あたしは、もっと別な何かをトシに伝えたいと思っているのに、それを伝えることが出来なくて、もどかしさを感じている。

トシは膝を抱えて座ったままの姿勢で首を前に落として寝息を立て始めた。あたしも、毛布を引っぱり出して、トシの横に並んで座ると、一枚しかない毛布をトシとあたしの両方に掛かるようにして目を閉じる。

 

夢の中で、あたしは一匹の大きな腕を持った蛆虫になっていて、何処からかうっすらと明かりの射す蒸し暑い土中で、必死になって腕を動かしていた。動かす度に、パラパラと土くれが顔に降り懸かってきたし、あたしの腕は不気味に大きく堅くて、見る度に情けなかったんだけど、それよりも、早くそこから脱出したい一心で、腕を振り動かした。やがて、あたしは、あたしの腕よりも堅い岩盤に行き当たる。もう、これ以上掘り進めないと、頭では分かるんだけど、体がさらに掘ることを要求して、ダメだダメだと思いながら、なおも腕を動かし体をくねらせる。どうやらその岩盤を突き抜けたところが、あたしの行きたい所らしかった。けど、カリカリと音がするだけで、一向にそれ以上、進めない。薄暗い穴の中にカリカリ、カリカリと、音が充満する、あたしの脳味噌を犯していく。発狂寸前の頭に、ある一つの記号が浮かび上がる。それは、蛆虫のあたしにとって、何の意味もない記号だったけど、初冬の夕暮れの光のような、これっぽっちの救いがそこには感じられ、呪詛のように口を衝いて出てくる。シュンジ、シュンジ。蛆虫でない者には、蛆虫が体をくねらせる時に、体にある幾つかの皺が擦れ合って立てる摩擦音にしか聞こえなかったかも知れない。シュンジ、シュンジ。あたしの犯された脳味噌は、いつか溶けて無くなり、一本の太い神経管になり、その管の中で、救いの言葉がさらに増幅される。シュンジ、シュンジ。増幅された言葉は、神経管とは逆の方、かつて下半身であった部分を直撃する。そこには、ただ、くねくねと動くだけの性器があって、そこからテラテラと半透明の液が流れ出て、糸を引く。性器は、神経管の制御からは独立していて、自分勝手に動きながら獲物を求めているようだ。 シュンジ、シュンジ。そこもやはりそんな音を立てている。やがて、地熱のせいか、体が熱くなってくる。神経管も性器も、何もかもが熱くなってくる。熱くて溶けるよ、溶けちゃうよう、そう叫ぶんだけど、外に出る声は、シュンジ、シュンジ、シュンジ。

 

「ねぇさん、しっかりして。」

トシに揺り動かされて夢から醒める。

あたしは、夢の中でもがきながら、トシにしがみついていたらしい。外は、もう夕闇が迫っている。部屋の中が薄暗い。

「すごい汗ですよ。」

トシが、近くにあったタオルで顔や首筋を拭いてくれる。あたしが、顔を上げてトシを見つめる、トシの手が止まる。体が熱い、熱くて、火を吹き出しそうだった。その熱さに煽られて、現実の世界でも脳味噌がとろけていきそうで、何かに縋り付きたくなる。あたしは、一番手近に、トシに、縋り付いていく。

「トシ。」

トシに、あたしの顔を重ねていく。唇と唇が触れ合う。乳首がツーンと立つ。

「あたしは、人間だ。」と、呟く。「あたしは、人間よね。」

トシが、声にならない声で何かを言い返すけれど、その意味なんてもう、どうでもいい。トシの吐息を、あたしは、髪に、首筋に、瞼に、耳に、受けていく。受けていく場所が、あたしにとっての全てとなる。

お互いにもどかしく、服を剥ぎ取っていく。ボタンの幾つかが、床の上にはじける。今まで、あたし達を被っていた布地の全てが、今は、鬱陶しい。そいつらを剥ぎ取る度に、あたし達は、自由に近づいていく。トシの裸の胸に、あたしの裸の胸を押し当てたとき、一度目の陶酔がやってきた。あたしと、トシは、今、一番近いところにいると思った。

トシが、あたしのパンティをむしり取ったとき、二度目の陶酔が来た。三度目の陶酔は、あたしの性器にトシの唇が触れた時だった。今まで、仕事がら、様々の男達の手で愛撫され、武者振り付かれて来たけれど、あたしは、あたしの体を、特に性器を単なる物にしてしまって、その時が去って行くのを待った。そうすることが、自分を卑下しなくて済む一番の方法だった。今、あたしの体は、性器は、たしかに生きて有る物として、トシの愛撫を受ける。そこから得られる刺激の全てを、最大限に増幅して、あたしに伝えてくれる。俊二が死んでからこっち、閉ざしていた肉体の機能の全てが、開放されていく。あたしは、トシの股間に手をやり、その猛り狂った生き物を口に含もうとする。日常の中で、パターン化してしまった悲しい習性だった。けど、トシの手が遮る。

「もう、待てないんだ。入れたいんだよ。」

トシの性器がゆっくりと、ただし、確実に、あたしの溢れんばかりに準備の整った性器に侵入する。四度目の陶酔は、大潮の様に満ち溢れ、そして、瞬間、白く激しくスパークした。あたしが静まるのを待って、トシが、大きく動き始める。その動きを徐々に早めて行く。トシの顔に苦悶の皺が刻み込まれていく。

「待って、まだ、駄目よ。」

あたしは、トシを征服したいと思った。あたしの全てとして、受け入れたいと思った。あたしは、自分の中に荒ぶる者がいると思った。その者が、あたしの体を時に操っていると。心臓の裏側から、カリカリと引っ掻いていたのは、どうやらそいつらしい。あたしは、トシを下にすると、上から跨って、多い被さっていく。トシの肉体の躍動を見ながら、腰を動かす、少しづつ激しさを増していく。心臓の裏側で引っ掻く者の動きも激しくなる。下の方から上がってきた体中を打ち振るわせる律動は、神経管でさらに増幅作用を受け、後から来た律動と共鳴し始める。あたしは、トシにしがみついて、声にならない声を上げる。やがて、性器を中心にした集中豪雨の様な肉体の収縮がわき起こる。これが、五度目。と、同時に引っ掻いていた者が、ついに心臓の裏側から顔を出す。素早く走り去る瞬間に、チラリと見た後ろ姿は、俊二では、なかった だろうか。

 

刑事から電話があったのは、午後八時をまわっていて、向かいのトタン屋根にポツポツと静かな、だけど長く続きそうな雨音が響き始めた頃だった。

「とにかく、彼を完全隔離させたから。ただし、明日からは、あんたも面会謝絶だ。事件が解決するまでは余計な治療法は試みないように厳重に注意しておいたよ。だから、まぁ、変な実験台にはならないよ。後は我々に任せて、あんたは、あんまり首を突っ込まない事だ。それと、あんた達がアノカタと呼んでるイワタゴンゾウがどうやら、今日明日の命だそうじゃないか。」

「本当ですか。」

「うん、ガセネタじゃあ無いと思うんだが。」

「シモダって刑事はどうなりました。」

「名簿を繰ったけど、やっぱりいないねぇ。多分、組織の回し者だったんだろう。今日は、来なかったよ、うん、ずっと目を光らせていたんだけどね。まぁ、来ても居場所は、分からないと思うがね。」

「どこか別の場所に移したんですか。」

「ああ、別館だよ。」

「別館。」

「病状が進行して廃人同様になってしまって、家族すらも見放してしまった患者達が隔離されている場所だよ。道路を隔てたところに入り口の無い棟があるだろ。病院の地下道を通ってしか行けない場所なんだ。」

「そこだと安全なんですか。」

「安全だよ。食事を運ぶ以外は、誰も近寄らないから。テレビカメラで二十四時間監視されているし。」

狭く薄暗い部屋の片隅で、シンちゃんが膝小僧を抱えて蹲り、明美ちゃんの面影を追っているところが目に浮かんだ。時々、他の患者の立てるうなり声や叫び声に、体をビクつかせ、今となっては、誰の者だったかも思い出せない記憶の断片と断片との間に横たわる深い谷底からわき起こる悲鳴に似た風音に、そんな叫喚を重ね合わせ、自分の置かれた本当の孤独に身を震わせているんだろうか。

「会いたくなった時は、あたしに言ってくれれば、会えるように計らって上げるから。」

そう言って、電話は切れた。

 

その後、刑事の言っていた、アノカタについての話を聞こうと、晴美ちゃんに連絡を取ろうとしたけれども、携帯の電源を入れていないらしく、何度掛けても繋がらなかった。

翌朝、太陽が随分高い所に来るまで眠りを貪っていたあたし達は、寝起きにもう一度セックスをして、二人でシャワーを浴びた後、街に出た。シンちゃんの所にも行けなくなってしまったあたしは、特に行く宛があった分けじゃなく、トシはトシで、一週間前に失業して、今は僅かの貯金で食い繋いでいる状態で、どうにも不安定な気分だった。

あたしは、何度か晴美ちゃんに連絡を取ろうとするけれど、やはり電源は切られていた。電話会社に問い合わせると、別に契約が解除されたわけでもないらしい。

「久しぶりに、お店に行ってみようか。」

マスターが死んで、マムシが幅を効かせ始めてからこっち、お店からは、随分足が遠のいてしまっていた。晴美ちゃんが、「あんまり、来ない方がいいよ」と、忠告してくれたのも、その理由の一つ、「マムシからどんな無理難題を押しつけられるか分かったもんじゃない」からだった。晴美ちゃんもゴロちゃんを人質に取られ、孤軍奮闘している筈だった。

マムシに出会ったらどんな皮肉を言ってやろうか等と考えながら、お店の商店街側の入り口にたどり着く。小学校の横を通る裏口から行ってもよかったんだけど、それだと、マスタールームや研修室のあるフロアに行くエレベーターしか無いので、マムシに会う可能性が高い。久々にお店に顔を出して、いきなり嫌な奴に会いたくもなかった。出来れば、マムシに会わずに、晴美ちゃんだけ、お店の外に引きずり出したかった。

 エレベーター入口横のビデオショップのカウンターボーイは、今だ健在で、あたしの顔を覚えてくれていたらしく、一瞬ビックリしたような顔をしたけど、ペコリと頭を下げて挨拶する。アルバイト料が入る度に、あたしや明美ちゃん相手にショートで遊びに来てくれた子だ。

エレベーターに乗ると、どうも何時もと違う感じがした。何処が違うのか思い出せないでいると、

「音楽がかかってませんね。」

と、トシ。確かに、いつもならば、マスターの趣味で、 ジャズの古いナンバーがさりげなく流れていた。あたしは、てっきりマムシが不精しているんだと思った。エレベーターのドアが開く。そこには、人気のない、ガランドウの空間があった。照明も点いておらず、蝶ネクタイにカッタシャツの男の子も見当たらない。ショーケースがある筈の側には、シャッターが降りていた。

「今日は、休みなんですかね。」

その向こうにショーケースがある筈の錆の浮いたシャッターに、小さな張り紙がしてある。トシが、ライターの火を点けて、翳してみる。都合により、当分休みと言う内容が認めてあった。

「しょうが無いわね。」

あたし達は、回れ右して、何時の間にか一階に降りてしまったエレベーターを呼ぶ。

「店の改装でもするんですかね。」

「そうかも知れないね。」

と答えながら、そんな穏やかな理由じゃないだろうと思った。麻薬と売春、そのどちらか、あるいは、両方に引っかかって、営業停止処分を受けたんだろう。

上がって来たエレベーターに乗り込もうとして、男にぶつかる。ワカミヤ刑事だった。

「あんたとは、よくぶつかるねぇ。余程の因縁があるんだろうねぇ。」

そう言いながら、勝手知ったるオフィスか、照明のスイッチを入れる。明るさだけ、以前のお店らしくなった。

「お店、お休みなんですよねぇ。」

「そうなんだよ。」

「営業停止処分か何かに。」

「いや、麻薬取締法違反で捜査に入ろうとした矢先に、暫く休むので好きなように調査して欲しい旨の連絡があってね、例のほら、マムシってあんた達が呼んでる男から。こうして、合い鍵は貰っているんで、好きな時に出入りできるんだけどねぇ、どうも人の姿が無いと寂しいねぇ。」

「お店、止めちゃったんでしょうか。」

「さて、詳しい事は聞いてないんだけど、まだこのフロアは借りたままになっているし、風俗店舗営業許可も返却していないし、ほとぼりがさめたあたりで、また再開するんじゃないかな。」

「女の子達、どうするんだろう。女の子達は、それまで失業のままかしら。」

「奴等の事だから、マンションかどっかで非合法の店を開いてるんじゃないのかな。ほれ、この店も昔そうだったじゃないか。」

確かに、あたしが勤める一年くらい前までは、違うビルの元スナックだった所を二店舗借りて、一つはピンサロ擬きのお店、もう一つはベニヤ板で小さく区切って、隣の店で交渉設立したお客とプレイする場所にして、クチコミで結構繁盛していて、その分、手入れもよく受けていたらしい。『C21』と言う店の名前は、その頃からの物だ。『C21』の『C』は、センチュリーの『C』だと、マスターは説明してくれたけど、実は、『C』プレイ、つまり、本番プレイの出来る娘を二十一人用意していますと言う意味だったんだと、晴美ちゃんが教えてくれた事があった。それも、殆ど家出娘みたいなのばかりをそろえてたんだそうだ。

「どこでやってるか、知らないですよね。」

「それは、教えてくれなかったなぁ。もっとも、そんな事いちいち警察に知らせていた日には、奴等の商売上がったりだろうから。もし分かったら、あたしにも教えてくれよ。」