(エピローグ)

 

「かーたん。早く。」

「あんまり走ると、危ないよ。そっちには、大きな落とし穴みたいなのが、一杯あるんだから。」

年齢の割には随分小柄な娘の後ろ姿に声をかける。

「あれーっ。」

娘が、振り返って、舌足らずな声で尋ねる。その顔には、知恵遅れの子供の特徴が出ている。振り向いた娘の向こうに、ゴツゴツとした昭和新山が立ち上る。あのお山が何時もお母さんが話してくれたお山なのと、尋ねたかったんだろう。

「トシ、俊ちゃん、とうとう来たよ。」

あたしは、どんな時も肌身離さず胸の所に下げてきた、臙脂の布袋に声をかける。

あれから十二年の月日がたった。

十二年前、気が付くと、あたしは、高速道路の上ではなく、病院のベッドに寝かされていた。体中に包帯が巻かれ、どこもかしこもが、激しく軋み、痛み、寝返りすらうてない状態だった。トシが助からなかったことを聞いたのは、それから二ヶ月も後、自分でようやく、小用がたせるようになってからだった。そして、お腹に赤ん坊がいることも。

あれだけ酷い目に合っていながら、胎児は、しぶとく生き延び、あたしの中で、規則正しい鼓動を響かせた。諸々の事情を考えて、堕ろす最後の機会だと、医者からも、民生委員からも薦められたけど、あたしは頑なに断った。退院後、情状酌量が効いて、二年間、保護観察処分という事で、生まれたばかりの赤ん坊から引き離されたけど、それ以後は、あたしだけの手で育て上げた。

 

その子に、おかしな所を認めたのは、一緒に暮らし始めて間もなくだった。

最初は、痩せて静かな子だと思った。殆ど泣かなかったし、声すらも、場合によっては、二三日聞かないことがあった。本当に生きているのかと、心配になることもあった。

知能が、他の子より劣っていると分かったのは、小学校にあがる前、市の入学前の検査で、だった。市から、養護施設に入れるようにと指導が来た。知能指数が、八十に足りないとの事だった。孤児院に預けられている時に、一度だけ、高い熱が出たことがあったと、聞かされていた。後で、それが原因かと思い当たって、その孤児院に尋ねに行ったけれど、記録が残っていないと、何の情報も貰えなかった。あたしは、この子がお腹の中に入ったばかりの頃に、あれだけ酷い目に合ったので、それが原因だったんだと、自分に言い聞かせて、誰を怨むことも無いようにして、この子に、出来るだけ生きている歓びを味あわせてあげられるように努めた。そして、日中、この子と一緒にいて、ちゃんと面倒を見られるように、再び、夜が中心の水商売の世界に入って行った。

それから、五年。

三十過ぎた子持ちの女に、良い話など舞い込む筈も無く、大きな、託児所も付いたキャバレーの勤めから、指名も減って、居辛くなったので、そこで知り合った女マネージャーの紹介で、こじんまりしたスナックに変わり、ただし、収入は随分と下がってしまって、その中から、少しづつでもと貯金をして、北海道への資金を作った。

その頃の、あたしの生きている目的は、この子を育て上げる事と、俊二やトシと約束した、北海道へ戻る事だった。

最後の数万円は、変態の客に身を売って作った。生活と子育てにやつれ、実際の年以上に老けて見えるあたしを、高くで買ってくれる客など、二度と現れないだろうと思っていたので、飛びついた。鞭だの蝋燭だのには我慢したけど、その客に少女趣味もあって、あたしの娘にも値段を付けてきた時には、思わず殴り付けた。北海道行きを決意したのは、その時だった。まだ、行きの運賃分しか無かったけど、なんとかなるだろう、そりより、もうこれ以上こんな世知辛い所には、知能の遅れた娘のためにも、あたしのためにも居られないと、翌日、電車に飛び乗った。

特急や急行料金など贅沢できる筈も無く、各駅停車か快速電車に乗り継ぎ、駅のホームに寝泊まりして、四日がかりで、目的地に辿り着いた。

「確か、この辺だったんだけどね。」

「なに。」

「うん、かぁさんと俊ちゃんの隠れた場所。」

「俊ちゃん、お歌、上手い。」

娘は、毎日テレビに噛り付いていて、特に、歌番組を好み、流行の歌手の名前は、皆覚えていた。そして、会う人事に、歌が上手いか尋ねる。彼女の特技は、今の所、それだけだ。

「さぁ、上手かったかねぇ。」

あたしと俊二が逃げ出した頃のここは、まだ一面の原野で、大きな穴ぼこも無数にあったけど、今は、近くに公園もあり、多分、子供が落ち込むと危険だからと言う理由で、殆ど、整地されていた。その上に、ススキだのが生え、白い穂を早い北海道の秋の風になびかせていた。

白っぽい大きな岩があった。それが、昔もあったかどうかは覚えていないけど、それを俊二とトシの墓標に決めた。あたしは、その岩の根元に穴を掘ると、袋ごと埋め、手を合わせる。

「ナムナムしてるの。」

「そうよ、あんたもナムナムして。」

娘が、あたしの姿を真似て、同じように座り込むと、痩せぎすの細い手を合わせて、おかしなリズムで、ナムナムと、唱え始める。

秋の澄んだ空気が動いて、娘の前髪を微かに揺らす。娘は、ナムナムに熱中している。

立ち上がると、軽く目眩がする。ススキが動く。心の中で、風笛が鳴る。

あの後、ヤマネ達は、殆ど全員逮捕され、途中で釈放される者もいたけれど、ヤマネは、いまだに監獄にいる筈だ。ヤマネが逮捕された後、組は四分五裂し、互いに縄張り争いで殺し合い、オオガミやマムシも刺違えて、どっちかが死に、どっちかが半身不随になった。

晴美ちゃんとゴロちゃんは、消息不明のまま。ゴロちゃんは、組のヘリコプターを無断借用し、組と警察の無線を交互に聞きながら、あたし達を助けてくれた。特に、隣町との境の橋の上で、ヤマネの車にナパーム弾を投下して、あたし達に逃げるチャンスを与えてくれたのも、ゴロちゃんらしかった。そして、ヘリコプターと晴美ちゃんごと、姿を消した。警察は、要注意人物として、結構長い年月、探していて、何度かあたしの所にも、ゴロちゃん達から連絡が無いかと聞きに来た。あたしは、いまだに、晴美ちゃん達のヘリコプターが、月明かりの中、海の上をひたすら南に飛んで行く夢を見る。

熊さん達は、また、あの地下道に戻ったけど、御隠居さんを亡くした悲しみで、熊さんだけは、何時の間にか、こっそりと別の街に行ってしまった。

シンちゃんは、病院に入ったままだ。

明美ちゃんの遺骨は、証拠物件として、温泉地の近くの山の中から掘り出され、母親の手元に返された。あたしは、一度だけ、シンちゃんにそのことを伝えるために、面会に行った。隔離病棟から開放病棟に移されたばかりだった。会話は、比較的スムーズに出来るようになっていたけど、一度心に刻み込まれた深い傷は、簡単には癒えない。始終、おどおどして、外に出るのを嫌がった。

「かーたん。」

呼ばれて振り向くと、ナムナムに飽きた娘が、じっとこちらを見ている。

「ぐーよ。ぐー。」

「そう、お腹空いたの。じゃあ、また、おうどん食べに行こうか。」

娘が、嬉しそうに、先に立って歩く。

あたしは、また、仕事を探して、生活を始めなければならない。取り敢えず、御隠居さんが教えてくれた牧場に行ってみる積りだ。仕事をして、また、お金を貯めなければならない。

今度は、何のために。

もうすぐ、娘にも生理が始まるだろう。性に対する興味も出て来る筈だ。変な男に騙されないとも限らない。あたしだって、いつまで生きているか分かったものじゃない。あたしが死んだ後に、その意味も分からずに、快楽だけに身を任せたりして、子供が出来てしまったりしては、娘もその子供も可哀相だ。だから、あたしの次の目的は、お金を貯めて、娘に不妊手術を受けさせる事だ。

空は、どこまでも澄み切っている。

風がススキの穂を大きく揺らす。俊ちゃんとトシの墓標になった岩は、その中に紛れて、見えなくなる。

雲が一つ、空の一番てっぺんに張り付いている。

昔、よくラジオで聞いた歌が、突然、脳裏を駆け巡る。外国の歌で、中の良かった女の子の姉さんが、訳して聞かせてくれた。この世の一番の幸せを歌にしたんだと言う。

俊二と隠れていた時も、その歌のメロディーを鼻歌にして、不安を紛らわせた。確か、こんな風だったと思う。

 

なんて素晴らしいんでしょう。

目にみえるもの全てが、今までと違ってみえる。

空の雲間から差し込む日の光が、辺りに満ち満ちている。

あたしは、今、一番幸せなの。

誰よりも、幸せなの。

 

何故、こんな歌を思い出したんだろう。今のあたしが、この歌の通りに幸せだとは、とても思えない。お金も無いし、こんな御目出度い気分じゃない。

でも、いつしか、そのメロディーを口ずさんでいる。

そうか、これは、自分自身への応援歌なのかも知れない。

これから始まるもの、来るものへの応援歌なんだ。

そう、ここから、また、世界が始まる。

娘が、後ろ姿を見せている方向へと、全てが動き出して行くんだ。

あたしは、産声を上げた世界に向かって、ゆっくりと、足を踏み出して行く。

 

終わり