「焔(ほむら)」

 

 

蒸気機関車の音が聞こえる。

遠く、遠くで。

あれは、そうだ、山の向こう側からトンネルに入る時の汽笛の音だ。

蒸気機関車は向こう側の入口からトンネルに入り、しばらく後、こちら側に出てくる。

トンネルの中は、こちら側に向かって長い急勾配が続く。

だから、蒸気機関車は、ことさら大きなラッセル音で近づいてくる。

最初はゴーとしか聞こえない音に、やがて大きな動力の音が混ざり、時折、鉄の塊が触れ合う時の金属音も聞こえ始める。

そして、

出てきた。

C57と書いた真っ黒な頭がヌッと顔を出し、黒煙が続く。

出しなに、もう一度汽笛を鳴らす。

トンネルの出口の縁に沿って、蒸気が吹き上がる。

私は誰かに肩車され、トンネルの出口近くにある陸橋の上にいた。

蒸気機関車はトンネルを出ると、猛烈に煙を吐きながら、陸橋にまっすぐ向かってくる。

そして、やがて、あたしの足の下を通り過ぎていく。その後から、トンネルの中にたまった煙があたしを覆い包む。一瞬にして視界が白く奪われる。

あたしは、その煙の中に居て、妙に体が熱くなり、その人の頭に必死にしがみ付いている。

誰?

卓也?

卓也なの?

 

卓也に抱きつこうと手を伸ばして、目覚めた。

隣に卓也はいない。

キッチンで、ケトルがカラカラ音を立てている。

火に掛けっぱなしで眠ったらしい。

中のお湯はあらかた蒸発していた。

危うく火事になる所だった。

火事になったら、卓也は来てくれるかしら。

そんな事を考えながら、開けっ放しの窓を閉めるために立ち上がる。

Tシャツ一枚で眠っていた。

ここは五階だし、周りに高い建物が無いので、覗かれる事は無いけど、無用心な話。

部屋の鍵は?

ちゃんと、かけてる。

本当は開けっ放しにしておきたい。

いつでも、卓也が入ってこれるように。

卓也。

「あんた消防士でしょ。」

と、卓也に言った事がある。

今日みたいに眠りこけてしまって、卓也が外で待ちぼうけを食わされたと文句を言った時だ。

「だったら、そこの壁伝いに登って来ればいいじゃないの。」

「無理な事を言うなよ。」

冬の寒い夜だった。

ドアの外で、あたしが目覚めるまで三時間近く待たされた卓也は、体中が冷え切って、歯の根も合わない感じだった。

「何が無理なのよ。じゃぁ、この部屋が火事になって、あたしが閉じ込められちゃったら、あんた、どうして助けに来るのよ。」

「その時は、はしご車が来るさ。」

卓也は、そう言いながらベッドに潜り込んで来た。

そして、あたしのおっぱいをもみ始める。

卓也の冷たい手に、おもわずビクンとなる。

「夏場は、ヒナの体、冷やっこくていけど、冬場の体の冷え切った時は、調度いい温かさだな。」

そう言いながら、卓也は、あたしの体中を撫で回す。

あたしの体は、もっと熱くなっていった。

 

卓也とは、都心のクラブの片隅で出会った。

何人かの女友達と、いい男を物色していた時に、彼が隣を通り過ぎた。

その時の彼の匂い。何かが焼け焦げた匂い。そう、トンネルから出てきた蒸気機関車が足の下を通り過ぎていく時の匂いだった。その匂いに、あたしは子宮を鷲掴みにされた。

いきなりだ。

あたしは、一緒にいた女友達そっちのけで、卓也にアタックした。

カウンターにもたれて飲んでいた彼の隣に行き、目線を送る。

彼がそれに気が付いて、こちらを見る。

斜め方向から彼の視線にこちらの視線を合わせる。

そして、酔った振りして、彼に肩をぶつける。

「ごめんなさい。」

「いえ、いいんです。大丈夫ですか?」

「大丈夫。ちょっと、酔ったみたいだけど。」

「あそこ、座りますか?」

彼が、片隅のソファーを指差して言う。

「いいの、このままで。」

三十八の女の色気を駆使して、卓也を少しずつ引きずり込む。

サマーセーターの胸ボタンを三つ外して、一番お気に入りだったバイオレットのブラジャーを見せつけ、腰にシナを作り、彼の右手にずっしりとした自慢の胸を押し付ける。

二十五そこそこの肉体派の卓也は、簡単に落ちてきた。

その日のうちにベッドインした。

卓也は若いだけあって技巧は全く無かったが、渾身の力であたしの体を突き上げた。

あたしの子宮は、卓也に突き上げられるたびに、歓喜の悲鳴を上げた。

子宮だけじゃない。揉みしだかれた乳房も、卓也の吸い付いた乳首も、背中の皮膚も、首筋の血管も、耳朶の裏のリンパ線も、アドレナリンを繰り出す脳幹も、状況を分析したがる前頭葉も、卓也の汗まみれの額があたしの股間で蠢くのを捉える視覚野も、全てがグチャグチャと掻き乱される。中でも嗅覚が、わたしの大脳皮質の三分の二にまで拡大し、卓也の体から立ち上る、焦げたような汗の匂いを捉えようとする。その匂いが、体中の細胞をざわめかせ、わたしの喉から意味不明な声を引きずり出し、あたしのヴァギナの奥の襞の一つ一つから摩擦を快感に変質させる液体を滲み出させ、それが卓也の突き上げる動力と連動した。

一回のセックスで、何回昇り詰め、何回魂を抜かれ、奈落の底に落とし込まれただろう。

四回目のセックスの後、ようやくお互いの素性が分かり始める。

あたしは、バツ三で、一人目の亭主は事故で無くし、二人目と三人目は、あたしが飽きて捨てた事を正直に白状した。

「あんたみたいに、強くなかったのよ。」

と。

卓也は結婚三年目で、子供が出来たので奥さんに夜の相手をしてもらえず、欲求不満を持て余して、消防士仲間とクラブに女漁りに来たと言った。

そして、もう一度だけと言いながら、その後、二回セックスした。

体中がとろける様にいい気持ちだった。

 

卓也とは、それから毎日のように会い、会うたびに何度もセックスした。

でも、最初の時のような歓びは得られなかった。

何故だろうと、思った。

気持ちはいいのだが、卓也と初めての夜の、すごい強力な動力で体中を突き上げられるような歓びは無い。

ある夜。

奥さんが、出産のために里帰りしているからと、暫くあたしの家をねぐらにしていた。

「今日は、ホント、死ぬ目かと思ったよ。」

部屋に帰ってくるなりそう言って、ベッドに倒れ込む。

その時、彼の体から焦げ臭い匂いが漂う。

「すごい火事でさ。一人取り残されてるっていうんで、二階の窓から中に入った途端だよ、床が抜け落ちて、一階まで転落。そこは火の海さ。危うく気を失いかけたところを仲間が壁を壊して助け出してくれたけど、もう少し遅かったら死んでたよな。」

あたしは、そういう彼の話をほとんど聞かずに、欲情していた。

焦げた匂いのために拡大した嗅覚が、ダイレクトに、子宮と子宮からヴァギナへと至る襞の数々を激しく収縮させる。

一度流れ出した欲情のマグマは、あたしの腰をとろけさせ、おっぱいの先どころか、体中を敏感にした。

彼は彼で、死なずに生きて帰れたという思いからか、気が高ぶっていたのだろうか、あたしの体中に噛み付き始める。噛み付かれると、そこから快感のパルスが駆け巡った。

あたしは、彼を押さえつけ、その上にまたがり、太股で彼の頬を挟み付けながら調教でもするように、さらに自身と彼の欲情を引き出す。彼の舌が、あたしの中で暴れるのを感じながら腰を動かす。そのまま腰を、彼のペニスがクリトリスに当たる位置までずらす。

彼は、雄叫びを上げ、腰を突き出し、あたしの中に入りたがった。

あたしは、あたしが耐えられるギリギリまで、腰を微妙に動かしながら、彼の挿入を阻止し、彼の乳首をむさぼる。

思うようにあたしの中に入れず、なおかつ、あたしに乳首を吸われて快感が体を突き抜ける感覚のために彼はストレスを溜め、だんだん凶暴な顔になる。

あたし自身も、狂気が体を突き抜け、彼を噛み殺してしまいたい思いに駆られる。

そして、ようやく彼のペニスを受け入れる。互いの溜息を絡み付かせながら。

後は、彼のパワーを解き放つだけ。

彼は、ひたすら激しく突き上げる。汗の匂いと、焼け焦げた匂いが混じりあい、あたしを何度も忘我に陥れる。

その夜は、三回交わった。

それから、とろけるような疲労感の中で眠りについた。

 

 

卓也の奥さんが実家から帰って来て、それまでのように、頻繁に会い、セックスする事が出来なくなった。

二人の肉体的な相性は最高だったと思う。

「俺、女房からも疎まれてるんだ、強すぎて。」

と、こぼしていた彼は、あたしと言う肉体を得て、最高に満足したはずだ。

でも、朝まで何度もセックスする事も無くなり、終電車を気にして、いそいそと帰って行く。

あたしは、ベッドの中に一人取り残され、朝まで眠れぬ夜を過ごすようになった。

派遣の仕事にも身が入らず、職場から職場へと転々とする。

 

火事があった。

隣町だったが、大きな火事で、近隣から助っ人が出て、彼もそのうちの一人だった。

まだ、耳の後ろに煤を残して、やって来た。

彼は、気が高ぶっていた。

いつものように、終電車を気にする事無く、高ぶりの全てをあたしの中に吐き出して行く。

朝まで。

あたしは、焦げ臭い匂いに、やはり体中が敏感になり、何度果てた事だろう。

「すごい火事だった。」

と、彼は、あたしの体をまさぐりながら言う。

「あっちからも、こっちからも炎が噴出して、まるで、火炎がダンスしているみたいに、一つになって、廊下の壁を伝って襲ってくる。」

あたしのあそこに彼の無骨な指が入ってくる。

「俺達は、それを放水で迎え撃つんだ。火は、一旦は退却したかに見えた。」

あたしは、彼の乳首に舌を這わせる。

「とんでもない。俺達が油断すると、今度は一気に、爆発するように押し寄せる。熱気が体中を押し包む。」

焦げ臭い匂いが彼の体中に染み付いていて、その肉体を愛撫するあたしの舌先から、焦げた匂いは、味覚も触覚も奪い麻痺させていく。

「俺達は、ひるまずに、炎を根元に向かって放水を続ける。やがて、俺達の勝利が見えてくる。」

麻痺した舌先で彼のペニスをなぞり、優しく口に含む。

「熱気と激しい湿気の中で、火は完全に押さえつけられる。俺達は、しかし、なおも放水を続けるんだ。完全に勝利を確信する時まで。」

そう言うと、再び欲情した彼は、あたしの体を押さえつけ、あたしの中に入ってくる。

彼が身に付けていた焦げ臭さは、何日かベッドの上に留まった。

あたしは、その匂いの中で眠りに付く。

彼が今度来る日を、指折り数えて待つ。

でも、彼はぱったりと来なくなった。

「どうしたの。」

と、メールを入れる。

「悪い。子供の具合が、どうにも良くないんだ。」

それから、メールすら来なくなる。

 

蒸気機関車の夢を見た。

寂しさに耐え切れぬ夜に、何度も見た夢。

蒸気機関車が、トンネルから出てくる夢。

あたしは、まだ小さく、陸橋の上で男の人に肩車されている。

逞しい首。

あたしは、その頭をかき抱く。

蒸気機関車が近づいてくる。

黒い巨体の奏でる金属音が脳を刺激する。

次にくる物への期待のために、子供ながらに、あたしは体が熱くなる。

蒸気機関車の黒くて大きな車体が、すぐ目の前に迫り、あたしの足元を通り過ぎる。

煙突から吐き出される煙があたしを覆い尽くす。

焦げ臭い匂いに包まれる。

あたしは体中が痺れたようになる。

あたしが掻き抱いているのは、卓也の頭だった。

あたしの股間を卓也の舌が這う。

蒸気機関車の煤煙の中で、あたし達は抱き合っている。

煤煙の中から現れ出た真っ黒な巨体が、あたしを突き上げる。

やがて、蒸気機関車の巨体が卓也なのか、卓也の頭が車体なのか、ピストン運動しているのは卓也のペニスなのか、動輪を動かす軸なのか、石炭の燃えている釜そのものが、あたしの体なのか、全てが渾然一体となって、何が何だか分からなくなり、夢の中で、そのまま果てる。

焦げ臭さだけがベッドに残り、あたしは真っ暗な中、枕に顔を埋めて泣いていた。

 

 

卓也が、また来てくれた。

焦げ臭い匂いを引き連れて。

「このところ、放火が多いんだよ。」

そうぼやいている。

あたしは、それでもいい。

放火だろうが何だろうが、卓也が来てくれる事が嬉しい。

消化活動の後は、必ず卓也も高ぶっている。

その全てを、あたしの中に吐き出す。

あたしは、足を広げて、卓也をしっかりと受け止める。

「アパートなんかの集合住宅が狙われやすいんだ。ここも気をつけないといけない。」

「いや、止めて。怖い。」

警察も何度か訪ねてきた。不審な人物を見なかったかと、訪ねる。

その事を卓也に言う。

「あんたが、あんまり来てくれないと、警察官でも引っ張り込んじゃうからね。」

「悪い。子供が入院しちまったんで、家をあんまり開けられないんだ。」

そんな事、知ったこっちゃない。

卓也の体が欲しい。ただ、それだけ。

「今日も焼死者が出た。これで、何人目だろう。」

何人焼け死のうが、あたしと卓也の関係性に大きな影響は及ぼさない。

「警察もやっきになって、犯人を捜してるよ。」

「卓也、あんた、気をつけてね。殉職なんてしないでね。」

 

昨夜の火事は、本当にアパートのすぐ近くで、近隣家屋が何戸も巻き込まれるような激しい火事だった。消化の合間に一度、卓也は様子を見に来てくれた。

それから、また現場に戻って行った。

深夜の臨時ニュースで、消防士に殉職者が出たことを伝えていた。

隣り合う木造アパートが崩れ落ち、三人の消防士がそれに巻き込まれ、行方不明となった。

消防士の身元は調査中。

眠い。でも、もうすぐ、卓也が来るに違いない。

起きていなくちゃ。

激しい火事だったから、今まで以上に激しくあたしを抱いてくれるだろう。

だから、起きていなくちゃ。

 

また、蒸気機関車の夢を見る。

蒸気機関車の音に、部屋の戸を叩く音が混じる。

卓也だ。

部屋の戸を開けなくちゃと思うが、眠くて体が動かない。

蒸気機関車が間近に迫る。

あたしは、肩車してくれている男の頭にしがみ付く。

卓也じゃない。

その頭は卓也だと、いつの間にか信じていたけど、これは卓也じゃない。

誰?

お・と・う・さ・ん?

あたしは、お父さんって人を知らない。

あたしが物心つく前に、あたしとお母さんを捨てて、女の人と出て行った。

あたしには、今までずっと、お父さんはいなかった。

でも、誰が肩車してくれてるの?

部屋の戸を叩く音は、いつまでも続いている。

卓也、待ってね。もう少しでお父さんの顔を思い出しそう。

蒸気機関車が通り過ぎる。

焦げ臭い匂いが、私の体を包み込む。

抱いて。

と、私は呟いている。

卓也、抱いて。卓也。

お・と・う・さ・ん。

お父さん。

卓也とお父さんが入り混じる。

 

あたしは、誰に会いたかったの?

誰?卓也?それとも、お父さん?

部屋の戸を叩くのは誰?

 

卓也は、昨夜の火事で死んだかも知れない。

あのノックの音は、それを知らせる音なのか。

卓也が死んで、お父さんが帰ってきた。

 

卓也は死んだ。

と、呟いてみる。

卓也が死んで、お父さんが帰ってきた。だから、明日から、放火事件はもう起きない。

何故?

今度、代わりの人を見つけてくるまで、お父さんがいてくれるでしょ。

どう言う事?

卓也は死んだの?

 

ノックする音が止まった。

誰かが、ドアを壊している。

 

お父さん、怖い。

あたしが叫んでいる。

お父さん、助けて。

それって、あたし?

お父さん、

その声に、もう一人のあたしの声が重なる。

卓也、卓也。

お父さん。

 

ドアを壊して入ってきたのは、警察管。

でも、残念ね、

卓也の代わりにはならない。

あたしの中のあたしが言う。

あたしは、そのあたしを差し出す。

こいつです。

卓也を殺したのは、こいつです、たぶん。

お父さん、助けて。

あたしを助けに戻って来て。

 

(終わり)