「地震の後で」

 

 

老  女

 

そこに居てはるんですね。

こんな私を見捨てる事もせんと、そこに居てくらはるんですね。

あれから、何年たったですやろ。

懐かしむ元気すら、無うなってしまいました。

いつ崩れるかも知れん家の中で、じっと寝とることしかできません。

たまに、ボランティアの人が来てくれますねん。

水や、食べ物や、置いていってくらはりますけど、今の私に必要なんは、そんなもんと違います。

おしめも随分と変えてもろうてませんから、ボランティアの若い人らぁ、あまりの臭さに逃げていきはります。

福祉課の人が二日に一回来てくれて、ホームに入んのを勧めてくらはりますけど、そんなとこ入るのんは嫌です。

それくらいなら、ここで死にたい。

この、今にも崩れそうなアパートで。

あなたなら、私のそんな気持ち、わかってくらはりますやろ。

そこに居てください。

ずっと、そこに。

 

 

老  人

 

わては、ここに居てます。

あんたの事をずっと見てます。

あの日からでっせ。

あの日。

 

 

老  女

 

あの日も、私を見てはったんですね。

物陰からじっと、私を見てはった。

私は、知っとりました。

男に抱かれながら、あなたが、物陰から息をひそめてじっと見てはるのを感じておりました。

蔑んでもろうてもええです。

あなたに見つめられる事で、尚、体が男の動きに反応したんです。

そういう恥ずかしい定めの女です。

 

 

老  人

 

まさか、あんたが、あんな事しはるやなんて思いもよらんかった。

あいつの婚約者やと初めて紹介された時、あんたは女学校出たての先生で、白いブラウスがよう似合うた。

あいつは、嬉しそうな顔をしてあんたを紹介した。

あの時からです。あの時から、あんたの事が好きやった。

 

 

老  女

 

あの人は、結局、私の体に触れもしないで戦地へと赴きはった。

必ず帰って来ると言いはったのに。

私は、あの人の帰りが待てなんだ。

 

 

老  人

 

そんな自分の事を責めたらあきまへん。

確かに、あいつはええ男でした。

ほんでも、死んでしもうたら一緒や。

思い出の中にしか生きられへん。

 

 

老  女

 

私には、あの人の思い出すらありまへん。

あの人が、戦地に行ってから、あの人の事を思い出そうとしましたんやけど、思い出せまへん。

あの人の目、どんなんやったやろ。

あの人の指、どんなんやったやろ。

あの人の声、あの人の微笑み、あの人の溜息

何一つ、思い出せまへんでした。

ほんでも、じっと待ちました。

戦争が終わって、あの人が帰って来やはるのをじっと待ちました。

本当に待ってたんです。

 

 

老  人

 

もう昔の話でっから。

 

 

老  女

 

あの人は、あなたの親友やったわね。

 

 

老  人

 

戦地でバッタリ会うたんです。

別々に召集されて行ったのに、満州の地で、

バッタリ会うて、二言三言。

それは、あんたへの言付けでした。

「もし、お前が先に内地へ帰って、あいつと会うことがあったら、俺は元気やと伝えてくれ。必ず、会いに戻るからと。」

それから二ヵ月後、戦争は終わりましたが、その二ヶ月と、その後の三年ばかし、まるで地獄の日々でした。

ソ連兵に追われ、目の前で、女が犯されるのをじっと隠れて見てましてん。

やがて、私も捕虜になり、シベリアに送られましてん。

そこで、もう一度、やせ細ったあいつと出会うたんです。

あいつは、前に会った時と同じ事を言いました。

あんたへの伝言を頼むと。

その時、あいつの顔には死相が出とりました。

もう何人も、そんな顔の奴見て来てました。

あの時代は、そういう時代やったんです。

栄養失調と激しい労働で、何万人の人間が凍土の中に置き去りにされてもたんです。

わてが帰って来れたんも、本当に偶然でしかあらしまへん。

あいつは何処で死んだのか。

収容所によっては、ヤクザまがいがリーダーになって、同じ日本人を痛めつけ、自分達だけが良い目を見るような、そんな恥さらしな場所もありましてん。

あいつは、国に帰りたい、あんたに会いたいと、心から願いながら、惨めに死んでいったんですわ。

 

 

老  女

 

もうやめて。

 

 

老  人

 

そして、シベリアの凍土の下に埋められた。

凍土は固いので、深う掘れまへん。

浅く穴を掘って、そこに何体も重ねて死体を埋めるんですわ。

春先になって地面が柔らかくなると、野犬が掘り返して、死体を齧る。

そこいら中、噛み千切られた手や足が散乱して。

 

 

老  女

 

御願いやから、やめて下さい。

あなたは、あの人がそんな辛酸を舐めている時に、私は男に抱かれていた。

そう詰りたいんでしょ。

そう、あの人の帰りを待ちきれずに、火照る体を静めあぐねて、見知らぬ男に抱かれた。

違います。

そんなん違う。

信じてもらえなくてもいい。

でも、誓って違います。

生きるために仕方が無かった。

父の会社は、空襲で焼けてしもうた。

おまけに軍需工場の廃止で、その下請けやった父の会社は廃業。

それがショックで、父は放心状態で、自分では何もできへんようになった。

母は、焼けた家の下敷きになりかけて、なんとか助かったものの、半身不随。

私と妹は、両親を支えながら、必死になって生きた。

最初は、母の着物なんかを持って田舎に出かけて行った。

折角もらった食料を、途中で警察に取り上げられてしもうた事もありました。

そのうちに、売れる物が無くなった。

私達は、どうして食べていったらええの?

それまでも何度か、抱かせてくれたら食べ物をやると言われた。

ねんねぇの私は、それが本気だとは思わなかった。

売る物も無くなり、飢えて死ぬしか仕方なくなったある日、それまで何度も食べ物を分けてもらった農家を、慈悲を期待して訪問した。

農家の男は、私をジャガイモが一杯積んである納屋に連れ込んで、好きなだけ分けてやると言いながら、私を犯した。

犯される私の体の下で、じゃがいもが何個も潰れるのを感じながら、ひたすら終わる時を待った。

帰りにリュック一杯のジャガイモをもらった。お腹が空いたら、また来いと言われた。

帰りのすし詰めの列車の中、肉体と心の痛さ、あまりの惨めさに泣いた。

もう二度と、こんな惨めな事はすまいと思った。

でも、食べ物が底をつくと、やっぱり抱かれに行った。

死にきれない体を抱えて。

何度も通った。

その農家が、別の農家を紹介してくれた。

そうして、食料を手に入れた。

食料のために、飢えて死なないために、男から男へと渡り歩いた。

妹だけには、そんな事をさせたくなかった。

でも、妹は、私だけにそんな事をさせたくないと、私の知らないうちに、同じ事をして、食べ物を手に入れるようになった。

私の後をこっそりつけてたんやね。

そのうちに、感情が麻痺して、男に抱かれる事に抵抗を感じなくなった。

そんな時です。

あなたが戻ってらした。親友の婚約者に会うため?親友の婚約者に親友の行方を伝えるため?

あなたは、何度も訪れて、私を勇気付けようとしてくださった。

 

 

老  人

 

何のためでもあらしまへん。

わては、あんたに会いたかった。

それだけです。

シベリアの飢えと寒さに、何故耐えられたか。

何故、絶対に生きて故国の土を踏みたいと強く念じたのか。

それは、ひとえに、あんたに会いたいためだけです。

僅かばかりの戦地での再会の時間の中で、あいつはあんたの事を熱く語ってくれましてん。

その時から、わての心の中にあんたの姿が刻み付けられたんです。

生き延びて、あんたに会いに行こう。

そのうちに、あんたが、わての事を待っててくれてるような錯覚すら覚えましてん。

けど、その錯覚が執念となって、わてを生きて帰らせてくれたんですわ。

僅かの食料しか与えられず、栄養失調になりながら、過酷な労働。

少しでも衣服が濡れると、そこから体温が奪われて、それだけで死に至る者もおりましてん。毎日、毎日、わてらが収容されている建物から、リヤカーが山に向かって出て行きました。出る時は丸太のような物をいっぱい積んで、帰って来る時は、空っぽでした。

何やと思います?

死体ですわ。山に持って行って、埋めるんですわ。

あんなにだけはなりたくない。あんたに会うんやと、そればっかり考えてたおかげで、精神の細い糸が繋がり続けて、生きて帰れたんですわ。

そら、ありがたい事でした。

内地に帰り着いた時には、あんたに会いに行く事しか考えてませんでした。

出征前の記憶を頼りに、焼け野原を渡って、あんたの家を訪ねました。

山手の大きな家でした。

でも、あんたは、もう住んではらへんかった。

見も知らん人が玄関から顔を出しはった。

聞くと、お父さんの工場が倒産して、その借金のかたに邸宅を手放しはったとか。

転居先を尋ねようにも、市役所が焼け落ちて、調べる術も無い。

途方にくれて、あいつの実家を訪ねたんです。

あいつの母親に会って、せめて最後に会った時のあいつの様子を伝えてあげよう、ついでにわての住所を伝えて、あいつが帰ってきたら連絡してもらおうと。

そしたら、調度都合よく、あんたの転居通知が届けられましてん。

あんたが、半年以上も前に出しはったやつでした。

 

 

老  女

 

まだ、そのようなものを出す純粋さが残っていたんですね、私にも。

そう、転居通知は最後の頼みの綱でした。

あの人が帰ってはったらと。

でも、それも無駄な事でした。

それから、二週間待って、私は男に抱かれに行きました。

あの転居通知を出す時の一縷の望みと、それが裏切られた時の虚しさ、悔しさ、やるせなさ。

私は、何を恨めばよかったのか。

あの人を?

いいえ、何であの人を恨みましょうか。

 

 

老  人

 

わてを恨んでください。

わては、あいつを助けるどころか、自分が生きて帰って、思いを遂げるために、あいつが死んでくれていたほうがいいと、心底望んでいました。

その望みが成就した時の情けなさ。

わては、見かけどころか中身まで、薄汚れた醜い人間でおました。

あんたの家を、あいつよりも先に訪ね当てた時の喜び。

あんたの昔変わらぬ美しい顔を見た時の心の震え。

その後、何度かお伺いしました。あんたを慰め勇気付けると言う名目で。

真意は違いま。あんたを、わての物にしてしまいたい。その一心どした。

そして。

 

 

老  女

 

そして?

そして、どうしました?

しゃべってください、あなたの口から。

忘れましたか?

忘れるわけありませんよね。

どないでしたか?

あなたが目にした私の真実の姿。

 

 

 

老  人

 

美しかった。

きれいどした。

 

 

老  女

 

嘘。

 

 

老  人

 

嘘ちゃいます。

本当に、きれいどした。

菩薩みたいどした。

 

 

老  女

 

藁屑の散らばる農家の納屋の中で、

私は、初老の農夫の体の下で、もんぺを脱がされ、胸はだけられ、足開かされて、その体を受け入れていたんです。

男が動くたびに、私は喘ぎ声をあげていた。

男が「そないにええのんか」

そう聞くんです。

私は、唇噛み締めて、喘がぬよう耐えようとしました。

ほんでも、つい、体が応えてしまう。

そのような女になってしまっておりました。

そのような私を美しかったと?

 

 

老  人

 

はい。

美しかった。

男に抱かれた後で、誇らしげに食料の詰まったリュックを背負って立ち上がるあんたの姿、今でも目に焼きついてます。

 

 

老  女

 

あれは。

あれは、空威張りです。

あの頃、もう既に、農家の女にまで私の事は知れ渡っておりました。

時折、何処からか石を投げられる事がありました。

女だけやありまへんでした。子供からも、石投げられる事がありました。

みじめでした。

そのみじめさと闘うために、わざと胸張ってたんです。

でないと。

でないと、自分がとことん駄目になってしまいそうで。

 

 

老  人

 

あんたの、あの姿を見せられてしまうと、何で他の女を愛せようか。

それから、何度も、こっそりとあんたの後をつけました。

そうして、ある日、あんたは、わてにあんたを抱かせてくれた。

思いがやっと通じたと喜んだ。

 

 

老  女

 

あれは、口止めのためでした。

万一、あの人が帰って来た時は、私は、あんな事はきっぱりやめて、あの人と一緒になるつもりでした。

けど、あの人を良く知るあなたに知られてしまった。あなたの口から、あの人に、この事が伝わるかもしれない。

どうしようと、悩みました。

悩んだ結果、あなたも同罪にしてしまう事を思い付いたんです。

それで。

 

 

老  人

 

あんたは、農家からずっと後をつけているわての腕をつかまえて、近くの茂みに連れて行った。

そして、わての手を自分の乳房にあてがって。

わては、それから後、無我夢中どした。

まるで天上世界にいるようで、あんたの柔らかい体を抱きしめ、温かく湿ったあんたの中に入ったまま、もう死んでもええと思いました。

あの日から、わては、あんたの下僕です。

あんたが農家で抱かれている間、誰も近づかんように見張っとりました。

あんたの帰る道々、あんたに良からぬ事を考えて近づく輩を、あんたに気がつかれぬ様に排除した事もおました。

そうして、あんたの役に立てることが嬉しかった。

わかっていただけますやろか。

 

 

老  女

 

今の今なら。

でも、あの頃は、あなたの眼差しが疎ましかった。

あなたの眼差しが、常にある事を知っていただけに、

あなたの眼差しによって、私の快感がより一層高まる自虐的な物である事を知れば知るほどに、あなたの眼差しは、愛しく、疎ましかった。

あなたが、何処かへ旅立ってしまってくれる事をいつも願っていました。

その反面で、あなたの眼差しがあれば、安心して大胆に男を受け入れる事ができました。

いわば、あなたは、私の罪の共犯者。

 

 

老  人

 

共犯者やなんて。そう言ってもらえるだけでも嬉しい。

ほんでも、あの時代は、飢えの蔓延したつらい苦しい時代どした。

そこを生き延びるために、皆、必死どした。

誰が、あんたの事を責められるやろ。

わては、物陰から、あんたが男に抱かれるのを見ながら、わてがあんたを抱いているところを夢想しとりました。

ほんでもって、ほんでもって。

本当に罪深いんは、わてどす。

あんたの辛い苦しい姿を、自分のどす黒い欲望を満たす糧にしたんどすから。

毎度毎度、終わった後、あんたは、罪悪感に満ちた、深い後悔の念に溢れた表情をしてはった。

わては、その時のあんたの額にかかったほつれ毛に、なお暗い欲望を感じとったんです。

その後の、あんたとの時間。

何回かに一度、あんたは、わてにあんたの体を抱かせてくれた。

食糧不足で、栄養失調寸前の体でも、欲望の前にはちゃんと機能しよるんです、情けない事に。

あんたの肌に触れる事だけが、生きとる事の証どした。

 

 

老  女

 

白状します。

私は、あなたを何度殺そうと思ったか。

あなたさえいなくなれば、私の人生の汚辱にまみれた部分を消し去ってしまえる。

でも、できなかった。

何故?

あなたの姿を目で追うこともあった。

何故?

 

 

老  人

 

あきまへん。

そんな事、あったらあきまへん。

そっから先は、言わんといてください。

あんたは、わての親友の許婚でっしゃろ。

そりゃ、あんたの体を貪るようにして抱いたわての言える事やおまへん。

そんな事は、ようわかってま。

けど、ほんでも、やっぱりあんたは、あいつの、わての親友の許婚どす。

わては、あいつを裏切った。

殺してもろうてもよかったんどす。

 

 

老  女

 

狂おしい沢山の時間が流れました。

あなたは、それでも、そこにいてくらはる。

そこに座って、私の事を見守っていてくらはる。

嬉しい。

この人殺しの私でも。

 

 

老  人

 

人殺し?

あほな事を。

あいつを殺したんは、わてでっせ。

ちゃんと、裁判で、そう言う事になりましたでっしゃろ。

口論の末、農家の主である五十五歳の熊太郎を手近にあった鉈で殺害。

その後、殺害現場を偶然通りかかった近隣に住む粟田宗平 四十七歳を、熊太郎を殺害したと同じ鉈で切りつけて殺害。

言い争う声を聞きつけて現場近くに現れた熊太郎の妻春子五十歳を首を絞めて殺害。

判決は、無期懲役。

五年前に、仮釈放の身となりましてん。

 

 

老  女

 

私が悪いんです。

 

 

老  人

 

止めとくんなはれ。

あんたの何が悪いんどすか?

そら、最初に、あの熊太郎と言う男を殺そうとしはったんは、あんたどっせ。

ほんでも、熊太郎に反撃されて、あわや殺される所やったやおまへんか。

そこを救いに入って、誤って殺めてしもうた。

 

 

老  女

 

あの鉈で、あの鉈で、あの男の額を最初に割ったのは、私どす。

あの男は、うずくまったまま、反撃なんかしてきはしませんでした。

そのまま、あの男の背中めがけて、もう一度鉈を振り下ろそうとした所に、あなたが飛び出してきて、私の腕から鉈を奪い取って、あの男に切りつけた。

あの男を殺そうとした理由は、あなたにも言っておりませんでしたね。

あなたが、あの男を殺害した時からこっち、ずっとあなたにお会いしていなかったので、仕方がない事です。

あの男を殺す事になった後ろには、あなたも知らない事情があったんです。

あなたが刑務所に入ってから二年後に、私はある旧家へ嫁いで行きました。

前妻は三人の子供を残して病気で無くなり、病身の義父がおり、精神疾患の義姉が離れで一人暮らす旧家へ。

それが、両親、妹を幸せにする、その時の私の前にぶら下ってきた一番手っ取り早そうな救いの道でした。

少し我慢すれば、義父もいなくなる。精神疾患の義姉は、病院に入れればいい。

そうすれば、両親をよびよせられる。

私は、そんな自分に都合のいい事しか考えてませんでした。

それを知ったあの男は、私を強請ったのです。

それで、あの日。

あなたが都合よく飛び出してきてくださった時、あなたが鉈を大きく振りかぶるのを横目に、私はあの納屋から走り出ました。振り返りもせず、ただひたすら、駅までの道を駆けました。

それから、半年近く、体調不良を口実にして、家から一歩も外には出ませんでした。

警察が事情を聞きにやってくるその時を、私は、恐れながら待ちました。

が、待てども、一向に警察は訪ねて来ません。

新聞も無かったので、私が発端となった事件が、どうなったのかさえ知りませんでした。

半年の間に、復員兵が飢えて農家に忍び込み、見つかったがためにその家の夫婦と、隣の住人を犠牲にした事件は、衝動性とその手口の残虐さで、一時期、人々の耳目を集めましたが、私が外に出られるようになった頃には、完全に忘れ去られてしまっておりました。

それから何年後やったでしょうか、あなたが無期懲役だとお聞きしたのは。

その頃には、三十も年上の旧家に嫁いでおりました。

 

 

老  人

 

それから、幸せに暮らしはったんやね。よかった。

 

 

老  女

 

世の中、なかなか思うようには行きまへん。

人に罪を全部被らせて、自分だけ幸せにやなんて、やっぱり成り様がありまへん。

 

 

老  人

 

あれは、全てわてがやった事どす。

あんたは、何もしてまへん。

確かに、最初の一刀目はあんたやったかも知れまへんへど、あれでは、人は死にまへん。

戦場で、何人も殺したわてですから、それくらいの事はわかりま。

 

 

老  女

 

それでも、私があんな事さえしなければ、あなたは、犯罪を犯す事も無かった筈です。

 

 

老  人

 

犯罪?わては、それまでに何人殺した事やら。

あの時と同じ。体中が返り血で真っ赤になりました。

銃剣を持つ手がぬるぬると滑りました。

耳元で、断末魔の声が響きました。

それでも、その事は、世間では誰も犯罪やったやなんて言いまへん。

あれが犯罪ちゃうんでしたら、あの時、あんたを助けるためにやった事も、犯罪ちゃいます。

わてにしてみたら、同じ事です。

わては、あんたが幸せになってくれればそれでよかった。

その事だけをずっと願っとりました。

刑務所の中で、長い年月耐えてこられたのは、あんたへの、その想いだけです。

シベリアの飢えと寒さと重労働に耐えたんと同じ、あんたへの想いだけどした。

 

 

老  女

 

こんな薄情な私は、そのようにあなたに想っていただける価値ありません。

あなたが収監されてから、一度たりとも訪問していない。

あなたが、どのように過ごしているかより、何時気が変わって、私に不利な発言をし始めるか、いっそ、死刑にでもなってくれればいいのにと、そんな事ばかり。

あなたを恐れておりました。

あなたを恐れ、自分と自分の家族の幸せだけを考えておりました。

そのような私が、容易に幸せになれるはずも無く、義父と義姉の看病に明け暮れ、夫は嫉妬深く、暴力が激しく、前妻の子供のうち、長男からも、私は乱暴を受けておりました。

結局死産になりましたが、あの子は、いったいどちらの子供だったのやら。

資産家のはずの夫の財産は、実は借金だらけで殆ど無いに等しく、そのくせ外に女を作っては多額の慰謝料を支払う破目になり、そのお金の工面に、私は銀行の男とも体を重ねる始末。いいえ、あれは、私をあの家から連れ出してくれると期待したから。でも、それは、甘い考えでした。何年か、甘い言葉で私の体を自由にして、転勤を理由に去って行きました。

そうやって何十年、耐える事だけが、私の人生でした。

 

 

老  人

 

それは、わても同じどす。

ほんでも、耐えてこられたんは、あんたの姿があったからどす。

あの日の、あんたの、誇りに満ちた姿。

薄汚い男の体の下でも、あんたは気高く美しかった。

 

 

老  女

 

主人が死んだのは、数年前。

財産は殆ど残らず、前妻の子供達も散り散り。

この安アパートに転がり込むのがやっと。

 

 

老  人

 

ご家族は?

あなたのご家族は、お元気で?

 

 

老  女

 

母は、私が嫁いで二年後に亡くなりました。

父は、十数年前ですから、長生きできたんやと思います。

嫁ぎ先での事情は、何一つ話しておりませんでしたから、父は、私が幸せであることを信じて亡くなりました。

妹は、ただ一人の相談相手やった妹は、恋愛相手に、かつての生業が知れてしまい、婚約破棄され、自殺未遂。傷心を抱いて修道院に救いを求め、一昨年、修道女として他界しました。

今、私は、この世でただ一人の身。

 

 

老  人

 

ようやく、わての想いをあんたにぶつける事ができます。

あんたを想い続けてまいりました。

わての力で、あんたを幸せにしてあげられたらどれだけ幸せか。

命に代えても、幸せにしてあげたい。

 

 

老  女

 

そう言うてもらえるだけで、幸せです。

そんなところに座ってないで、こっちに入って来はったらどうですか。

おしめ変えてもらえてないんで、臭うて十年の恋も冷めるかもしれまへんけど。

 

 

老  人

 

わての想いは、十年どころやあらしまへん。

あんたの体やのうて、あんたの心に想いを寄せとります。

ほんでも、そっちに行って、昔みたいに、あんたの体を抱きしめたい。

 

 

老  女

 

来てください。

 

 

老  人

 

残念ながら、歩く事もままなりまへん。

先日、見も知らぬ男達に殴られましてん。

その時に、骨が折れたらしい。

 

 

老  女

 

酷い。

 

 

老  人

 

わてが悪いんです。

大地震でよおけ人が亡くなったこの場所で、高い水売ってます。

ペットボトル五千円やなんて。

人様の感情を逆撫でするような事をしてますさかいに。

あんたに、会いたいがための一心で思いついた事どす。

わてが、あんたに会うために考えた、自分自身への足枷どす。

あんたが、この水、買いに出て来れる様になったら、漸くあんたに会えま。

もう、何十年、あんたに想いを告げとうて、告げとうて。

 

 

老  女

 

私もです。

 

 

老  人

 

想いだけで生きてきました。

そんなわての想い、簡単には遂げる事はできまへん。

 

 

老  女

 

買いに行きたい。

そこまで歩いて買いに行きたい。

 

 

老  人

 

定食屋のテレビで、ボランティアの世話を受けるあんたを見た時から、この事を考えておりました。

来とくれやす。

どうか、ここまで来とくれやす。

 

 

老  女

 

たまに食料を届けてくれる人たちから、あなたの事を聞きました。

高い水を売りつける老人がいる。

どこから伝わり来たか、最近仮釈放で刑務所から出てきたばかりで、戦後の混乱期も終わりの頃に、農家で三人惨殺したんだと。

あなただと、私はすぐに気がつきました。

行きたい。

この足が動くならば。

 

 

老  人

 

わても、這ってでも行けるなら。

いや、何日か前の雨で風邪を引きましてん。

熱も出とるみたいやし、あんたにうつすとあかんので、やっぱり行けまへん。

 

 

老  女

 

今さら風邪なんか、何の怖いもんか。

私は、行きます。

立って行きます。

そこにいてください。

いてくださいよ。

私は、幸せです。

こんな幸せ、初めてです。

行きますからね。

必ず行きますからね。

 

 

 

                    (終わり)