「夾竹桃」

 

 

父が、夾竹桃を引き抜いてしまった。

生前、母が大事にしていた木だ。

今夏も、暑さに負けずに、一重の白い花を可憐に咲かせていた。

湿度の高い夕べだった。庭先に涼みに出た父は、薄暮の中に浮かびあがった白い花を見て、

「こいつが、わしを襲おうとしている。」

と言った。

「何を言ってるの。」

と、私は取り合わなかった。

その翌朝、いきなりスコップを買ってきて、根元を掘り出したのには驚いた。

あろう事か、何処で調べたのか、植木職人にまで助っ人を頼んでいた。

「本当にいいんですか。」

庭で、聞きなれぬ声がしたので起き出してみると、調度、二人で根元を掘り返す作業を始めたところだった。

「ああ、暑くなる前にやってしまおう。」

父は、まるで正気の表情で、異常な行為を始めた。

あたしは、慌てて庭に飛び出して、

「お父さん、やめて。」

と、父を制したが、父は何食わぬ顔で私を突き飛ばすと、再び掘り返す作業にかかる。

驚いた植木職人が、私を助け起し、

「御主人、お嬢さんが止めてらっしゃるんだ。」

「どうせ役にも立たない出戻り娘です。ほっときゃあいい。」

父は、真顔でそう言い、根元を掘る作業をやめようともしない。

「お父さん、それ、お母さんが大事にしていた木よ。」

「お母さん?何言ってるんだ、美代子は他の男と海外に駆け落ちしただろ。お前は、そんな女を庇いだてするのか。」

「何て事。」

父は、表情だけは正気だが、もう、自分が何を言っているのかわからないでいる。

「とにかく、止めて。」

「御主人、もう止めましょうよ。」

植木屋も事情を察して、止めに入ってくれたが、父は黙々と作業を続けている。

あの細い体の一体何処にそんな体力があるのかわからないが、半時間ばかり掘り続けて、ついに夾竹桃は倒されてしまった。

 

この木を植えたのは、私がまだ小学校に上がる前だった。

母が毎日、本当に嬉しそうな顔をして水をやっていたので、他の記憶は薄れても、この木にまつわる記憶だけは失われていない。

「どんな花が咲くの?」

私が聞くと、

「白い可憐な花よ。赤い花もあるんだけど、お母さんは白いのが好きなの。」

次の年の夏、記録的な猛暑の中で、夾竹桃は白い花を五つ六つつけた。

その頃は、私より背丈が低かった。

「夾竹桃はね。」

と、高学年になった頃に、母がこの木を好きな理由を話してくれた。

「お母さんのお母さんが、最後に見た花よ。」

母の出身地は広島だった。

母の母は、戦争中に落とされた爆弾が元で寝たきりの生活を余儀なくされた。市の中心から離れていたが、火災で家を失った上に発病。急ごしらえのバラックの中で三年間苦しんで息を引き取ったのだとか。

「もう、百年草木は生えないだろうと言われたけれどね、焼け残った夾竹桃が枝葉を伸ばして、戦争から三年目に白い花を咲かせたの。」

母の母は、その花を見て、「ああ、私も生きなくっちゃ。」

そう言いながら息を引き取った。

母は語りながら、そっと涙を拭き取った。

夾竹桃は、その頃には、もう私の背丈をとうに越し、白い花をいっぱい付けていた。

母は、次の年の夏、夾竹桃が花を咲かせる前に亡くなった。

病気では無い。交通事故だった。

暴走したトラックが交差点の母を跳ね飛ばし、走り去ったのだ。

私は道路の手前で財布を落とした事に気がついて、取りに戻っていたので、無事だった。

赤信号で、車は通らないはずだった。が、トラックはブレーキ音すら聞こえぬうちにバンと言う大きな音を立てて母を跳ね飛ばして逃げた。

一瞬にして母は道路から姿を消した。

母が見つかったのは、道路脇の中学校の校庭の植え込みの中だった。

そこまで跳ね飛ばされていたのだ。即死だった。

トラックの運転手は居眠り運転で、母を跳ね飛ばした記憶すら持っていなかった。

その年、どういうわけか夾竹桃は咲かなかった。

そう言う事もあるのだと、自分に言い聞かせたのを覚えている。

私は、もともと喜怒哀楽を外に出すのが苦手な性格だったので、父や兄ほど嘆き悲しんだ様子は見せなかった。

「可哀想に、目の前で母親が跳ね飛ばされて、余程ショックだったんだろう。」

そんな風に葬儀に参列した人の目には映ったらしい。

事実は違う。

嘆き悲しむのが下手糞だっただけだ。

それは、兄が死んだ時もそうだった。

兄は、仕事を苦にしての自殺だった。兄の家族、妻と子供二人が残された。

義姉が、葬儀の場で、兄の上司だと言う男に食って掛かっているのを見ていた。

周りの人達は、泣きながら義姉を止めていた。

上司の男は、泣きながら謝っていた。

何を謝るのだと私は言いたかった。

謝れば、兄の死を犬死だと証明しているようなものではないか。

義姉は、一人残された悲しみと、憤りと、不安を、上司と言う男にぶつけるのに精一杯で、その事に気付いていなかった。

それが言えるのは、おそらく私だけだったろう。

私は、その事を口に出して言いたかったが、一見冷ややかな目で見つめるだけで、何も言えなかった。むしろ、言えない事について悲しかった。

 

夾竹桃を引き抜くと、父は、泥だらけの手と顔で、高らかに笑った。

何がおかしかったのだろう。

「父さん、これで満足した?」

私が声をかけると、一瞬で間の抜けた顔になり、

「かぁさんは?」

と尋ねる。

「昔、男と手に手を取って海外へ逃げたんじゃなかったかしら。」

「何を言ってるんだ。そんな事、かぁさんに失礼じゃないか。言っていい事と悪い事がある。」

夾竹桃をそこに放り出したまま、「美代子」と、母の名前を呼びながら家に入っていった。

植木職人が、まだいた。

「お父様、あれですか、呆けちゃってるんだ。」

「ええ、そうなんです。」

「大変ですね。」

「これ、植えなおせるかしら。」

「根っこが傷ついちゃってますからねぇ、生き返るかどうか。」

「そう。母が大事にしてたものなのに。」

「苗木ならあると思いますが。」

「そうね、一から育てるのもいいかも知れない。明日でいいから、持ってきていただけます?」

「今日中に植え直してさしあげますよ。」

「植えるのは自分でやれますから、持ってきて、置いといていただけますか。」

私は、植木屋に、今日の手間賃と苗木代を手渡して引き上げてもらった。

植木屋は、手間賃を取るのを拒んだが、口止め料だと納得させて受け取らせた。

「父さん。」

私は、家に上がると、父を呼んだ。

別に、今日の事をとやかく言う積もりはなかった。

父は、自分のしている事が理解できないでいる。

いつからだろう。

でも、父にとっては、それが幸せな事なのかもしれない。

妻を事故で突然に失い、息子を自殺で失い、娘は出戻りで、鬱気味だ。

家にいても、ほとんど話をしてくれない。

それどころか、たまに出かけて男と会っては、振られて自棄になり、大声で歌い出したり、泣き叫んだりと、父にとっては理解できない行動を取る。

私が離婚して家に戻って来た頃は、まだ、しっかりしてくれていた。

父の反対を押し切って結婚した。相手は五つ年下で、友達と行った旅先で知り合った。

ごく普通のサラリーマンだった。

優しい人のように思えた。

半年付き合って結婚した。

父と二人だけの生活から早く逃げ出したいと言う思いもあった。

父は、その事を察していたからかも知れない。もう少し相手の事をよく見てからにしろと、何度も言った。そう言われると、余計に反発心が芽生えた。

母代わりに家事をこなす父に遠慮して、私は反抗期を抑えつけてきた。それが、兄の自殺を期に、抑えきれなくなり一気に吹き出した。

兄が自殺した遠因に、父が兄の自由を制限し過ぎたせいもあると思っていたからだ。

実際、父は、私には甘かったが、兄には鬼の様に厳しかった。

 

結婚生活は一年ばかしは楽しかった。

一緒に住んで分かり始めた相手の嫌な部分は、愛情と勘違いしていた感情でもって見ない振りできた。

ところが、それが冷めてくると、互いに嫌な部分ばかりが見えはじめ、その内に相手に体を触られるのさえ嫌になってきた。

数少ない友人に相談すると、子供がいないせいだろうと言われた。

嫌なのを我慢して何度かセックスをしたが、妊娠しなかった。

夫は、子供ができないのは私のせいだと言った。

それを実家でも言っている風だった。

正月や盆に夫の実家に帰省すると、夫の親兄弟達は、私がさも中途半端な人間のように見下し始めた。

友人は気のせいだと言ったが、私にはそれがわかった。

夫とは、余計に疎遠になった。

夫が泥酔して帰ってきた夜、私は夫に無理矢理犯された。

夫だから妻を犯すのは当たり前だと友人は笑って取り合ってくれなかったが、私は激しく傷ついた。警察に駆け込んでやろうかとも思った。

取り上げてもくれないわよと、友人は鼻先で私の感情をあざ笑った。

しかし、運の悪い事に、その事が原因で私は妊娠した。

私は、あんな事で産まれて来る子供の顔を本当は見たくなかった。

その子供を愛する自信が無かった。

夫に堕胎手術を申し入れて殴られた。

「実家の親兄弟が、俺の子供を待ってるんだ。」

と、言った。

あなたの実家のために産むんじゃないと言って、また殴られた。

私は、石の様に我慢しようと思った。

石のように我慢して子供を育てよう。

が、子供がお腹の中でピクピクと動き始めると愛情が湧き出てきた。

指折り数えて、子供が出てくるのを待つようになった。

夫もお腹が目立つに従って気を使い、優しくしてくれた。

夫を少し愛し直せるようになっていた。

ある日、デパートに出かけた。出産まで、あと僅かだった。

少し危険かなと思ったが、どうしても買っておきたい育児用品があった。

不幸は、エスカレーターで起こった。

あと少しで育児用品売場に着くあたりで、上にいた男が気を失って、後ろ向きに倒れ込んできた。若い大きな男だった。一人暮らしで、食べるものも食べていず、おまけに風邪をこじらせて発熱していたのだと言う。私は、男の体を支えきれずに、そのまま階下まで転がり落ちた。何人かでも人がいれば、その人を支えにして最後まで転がり落ちずに済んだかも知れない。

しかし、運が悪い事に、後ろには誰もいなかった。私は、転がり落ちながら、赤ちゃんの事を考えた。

気がついたのは、病院のベッドの上。

看護婦は、二日間気を失っていたとだけ言って、病室を出て行った。

「あの、赤ちゃんは。」

その問いには、答えてもらえなかった。

お腹の中は静かだった。昨日までいた生き物が、どこかに行ってしまった様な感覚。

それが、愛しかっただけに、喪失感が深くわだかまっている。

そのままで、ベッドの上にいた。

医者が入ってきた。

「いかがですか?」

と尋ねた。

私は何も言えず、じっと医者の顔を見た。

医者が視線をそらす。

「あの、主人は?」

「さぁ、お仕事が終われば来られるんじゃないですか。」

医者が事務的に答える。

「あの。」

聞くのが恐ろしい。

「はい?」

医者が顔を近づける。顔に薄ら笑いが張り付いているように見える。

翁のお面のような、あんな感じ。

「あの、赤ちゃんは?」

「赤ちゃんね。」

医者の笑顔が一瞬止まる。

「あなた、まだ、お若いんだから、すぐにまた授かりますよ。」

「赤ちゃんは、何処行っちゃったんですか?」

すがるように言うと、医者は一瞬ムッとした表情を見せ、

「事故だったんです。ね、事故だったんですよ。誰にも罪は無い。勿論、あなたにもね。」

それ以上何も聞き出せない事がわかった。

「そうなんですね。」

「だからね、気を落とさずに。」

そっとお腹をさすってみる。

抜け殻のようなペチャンとした張りの無いお腹が、そこにはあった。

抜け殻になっちゃったと、思った。

心までが、抜け殻のようだった。

夫は、私の顔を見るなり、

「皆、楽しみにしてたんだぞ。」

皆って、誰よ。

あたしは入ってないの?

あたしの事は、どうでもいいの?

本当は、そう言いたかったけど、言えないままに

「ごめんなさい。」

と、謝った。

「ごめんなさいじゃ、すまないだろ。どうするつもりだ。」

その瞬間、夫は私の事など、どうでもいいのだと言う事に思い至った。

「すいません。」

謝ってこの人との関係を断ち切れるんなら、謝り倒したい。そう思った。

夫は、それ以上何も言わずに、帰って行った。退院の日まで、顔を見せる事は無かった。

退院しても、心の抜け殻状態は、どうしようもなかった。

夫は、そんな私を一週間おきに犯した。

前に犯されて妊娠したので、もう一度犯すことで私が妊娠すると考えたのだ。

苦痛の日々だった。

そこから逃げ出そうと言う意思さえ働かぬほどに抜け殻になり、その抜け殻の状態をどうしようもできないままに、私は煩悶の毎日を過ごした。

ある日、それにけりをつけようと、ナイフで手首を切る。

夫に犯された翌日の事だった。

睡眠薬をウイスキーで飲み下し、風呂に湯を張り、ナイフを手首に当て、スッと横に引いた。

生暖かいものを感じた次の瞬間に、ビシュッと予測しなかった勢いで血が飛び出し、壁面の一部を赤く染めた。

そのまま手首を湯につけ、睡魔に任せて目をつぶる。

湯船から私を助け出したのは、何かの用事で近くに来たので、見舞いがてらに立ち寄った父だった。

病室で目覚めた私は、そこに父の顔があるのを認めて、思わず泣き出した。

父は、何も言わずにハンカチを差し出す。

私は、致死量一歩手前まで血が流れ出たうえに鎮静剤を打たれた朦朧とした頭で、父にあらいざらいを話した。

「その話は、今度にして、ゆっくり休みなさい。」

父はそう言ったが、

「いや。今でないと駄目なの。」

そう言って話し続けた。

最後に父は、ゆっくりと立ち上がって窓に歩み寄ると、深く溜息をついて、

「戻って来るか?」

そう静かに尋ねる。

「戻りたい。」

私は、殆ど絶叫のような自分の声を遠いところで聞いていた。

それから、父と夫との間で、どのような話し合いが持たれたのかはわからない。

退院の時は、夫の元には帰らず、実家に身を寄せた。

実家の私が使っていた部屋に衣類が全て送り届けられていた。

「着る物が無いと困るだろうと思ってね、とりあえず、取って来ておいたよ。」

「お父さんが運んだの?」

「そんな力は無いよ。運送屋と一緒に行って、取って来てだけさ。家具は、彼の衣類も納まってたんで、残してきた。新しく買うなり、かぁさんのを使うなりすればいい。」

実家での生活は、居心地が良かった。

久しぶりに、落ち着いた、安定した精神状態で過ごす事ができた。

が、最初はありがたかった父の優しさが、次第に煩わしいものになってきた。

それは、父の問題ではない。

父は、いつもと変わらぬ父だった。

変わって行ったのは私のほうだ。

家に居て、父との時間を持つ事が、苦痛になった。

自分の何もかもを分かられてしまっている存在からの忌避感とでもいうか。

アルバイトを口実に家を空けるようになる。

家にいる時間をできるだけ短くしたく、アルバイト先で知り合った若い男の子達と毎夜遊び歩くようになる。

彼らにとって、最初は、楽しげなおばさんだったが、私の精神活動が活発になり、アルバイトで小遣いが出来、派手で刺激的な衣服を身につけ始めると、色っぽいお姉さんに変貌した。

彼らの欲情と眩しさの入り混じった目線が、心の奥の琴線に響き始める。

何人かの男の子と火遊びをした。

カラオケボックスの中で、彼らの手がオズオズと伸びてきて、やがて、大胆にミニスカートの中を這い始める。

その事への快感。

その感覚は、真面目な父の背中に押えつけられた青春と、今となっては、夫に暴力的に犯された結婚生活の記憶しかない私にとっての、初めて開いた花弁だったと言える。

父は、知っていたはずだ。知っていたが、何も言わずに黙って私のする事を見つめているだけだった。

私は、生まれて初めて手に入れた自由とセックスの快感に有頂天になった。

ある夜。

何かが体を這うのに気がついて目が覚めた。

目の前に、父の顔があった。

父が、私の体をまさぐっていた。

「お父さん、何するの。」

父を押しのけ、叫ぶ。

父は、一瞬、驚愕の表情で私を見る。

「美代子、美代子じゃないのか?」

「何とぼけてるの。実の娘になんてことするの?」

父は、次の瞬間、激しく狼狽した。

「お前か?わしは、てっきり美代子が帰ってきたと。す、すまん。」

「お母さんは、何年も前に死んだでしょ。」

「そうか。そうだったな。そうだ。死んだんだ。母さん、死んだんだ。」

それは、無理矢理自分を納得させているとしか思えなかった。

「ともかく、すまん。」

そう言うと、慌てて自分の部屋に戻っていく。

それから、父の行動は、少しずつおかしくなった。

さっき食べたばかりの御飯を、また、欲しがった。

散歩に出ると、長い時間帰ってこなくなった。

ある日、警察が父を連れ帰る。

「自分が何処にいるかわからないっておっしゃるもので。」

「父さん、どうしたの?」

「いや、結婚当初に住んでいた町と勘違いしたんだよ。それにしては、見知った家がないんで、捜し歩いてた。」

おかしく思った警察官が質問し、父が迷子になっている事を知る。

たまたま通りかかった近所の方に家を教えてもらい、連れ戻してくれた。

私の事を「美代子」と呼ぶ回数も増え、迷子になる頻度も多くなった。

火をつけっ放しにして、危うく火事を出しそうにもなる。

そうなると、おちおちアルバイトに出られなくなる。

外に出られなくなると、最初は頻繁に届いた若い男の子からのメールも次第に少なくなり、やがて、一人の男の子を残して、途絶えた。

「お医者様行こうか。」

父は、

「わしは、狂ってなぞおらん。」

と頑固に拒否し続けた。

仕方なく、精神科のお医者様に往診に来て貰う。

お医者様は、父に聞こえない所で、

「アルツハイマーが進行していますね。介護の必要があります。介護認定もらえるはずだから、地区の民生委員の方に相談してみてください。朝から晩まで、お父様の介護に明け暮れてたんじゃ、あなたの体が持たない。市の福祉施設をうまく利用してください。これから、長い看護生活始まりますよ。」

父は介護認定を受け、週に一度程度のショートステイが認められた。

父がいない間、私は、唯一残ったメール相手の男の子を呼び出した。

マザコン丸出しで、私に甘える事しかしないので、一、二度関係を持っただけで、後はすっぽかしていた子だ。

私からの誘いに喜んで出てきた。

いまだ彼女もいないという。

ベッドインすると、ひたすら乳房を吸いたがった。

私は、それでも良くなっていた。

その程度の男の子とでも、たまにはセックスしないと、父の看護を続けていける自信が無かった。

そうこうするうちの、夾竹桃の引き抜き事件だ。

父は、母の大事にしていた夾竹桃を引き抜いた癖に、さも満足そうな顔をして、居間の真ん中で鼾をかいて寝ていた。

顔も手も泥だらけのままだ。

まるで、悪戯小僧が遊びつかれて寝入ってしまったようだった。

「お父さん。」

呼びかけても、鼾しか返って来ない。

「とうとう、本当に大事な物まで忘れてしまったのね。」

「アケミ。」

と、父が呟いた。

「アケミ、愛してるよ。」

その名前を覚えている。

私は、まだ小さかった。

母が、父に手紙を突きつけて、

「誰よ、このアケミって人。」

と、詰問していたのを覚えている。

父は、しどろもどろだった。

大人になってから、あれは父の浮気の相手の事だったのだと理解できた。

「父さん、アケミって何よ。」

私は父を揺すり起こす。

目覚めた父は、その私の手を握り締めて、

「アケミ、わしと逃げよう。」

私は、逆上する自分を感じた。

「私よ。」

 

私は、マザコンの男の子に電話をする。

「ちょっとね、手伝って欲しい事があるの。ちょっと、来てくれる。そう、実家の方。ついでにお父さんにも会わせてあげるわね。」

半年後、その男の子と籍を入れた。

結婚式や披露宴は、父が行方不明になっている時だったので差し控えた。

親戚だけに集まってもらって、ささやかな報告会だけを行った。

マザコンの男の子は、結婚しても、私の言う通りに、家事でも何でもこなしてくれた。

私は、またアルバイトを始め、別の男の子達との交流も再開した。

翌年の夏。

父が引き抜いた夾竹桃の代わりに新しく植えなおした苗木が花を付けた。

植木屋には白い花のを頼んでいたが、何を間違ったのか真っ赤な花が咲いた。

母は、赤い花が嫌いだった。

「まるで血みたいでしょ。」

と、言っていた。

でも、私は赤い花も満更ではないと思った。

「まるで、カルメンの花みたいね。」

マザコンの男の子、なんでも従順に言う事を聞いてくれる新しい夫に向かって言う。

行方不明の父は、どこかでこれと同じような夾竹桃を見ているのだろうか。

そして、母の事を思い出しているだろうか。

思い出さざるを得ない筈だ。

もう、アケミの事なんか思い出させない。

父は、夾竹桃の香りの中で眠っている。

 

 

(終わり)