「老いの夢」

 

 

夫が、行方不明だ。これで、五度目。

午前五時過ぎに、トイレに起きてるなと思ってたら、そのまま玄関から出て行った。

それを夢うつつに覚えている。

六時にもう一度目覚めた時に、夫が外出したままだと言う事に気がついた。

やれやれと亜理紗は思う。

交番に連絡を入れておく。

「主人が、また行方不明になりました。」

「またですか。大変ですね。ええっと、確かお名前は、大前大河さん、六十五歳でしたよね。奥様のお名前が。」

「亜理紗です。」

主人と自分の名前を言うたびに嫌になる。

若い頃は、何も考えずに

「タイガ」

「アリサ」

と呼び合っていたが、互いに六十過ぎて、タイガやアリサもないもんだ。

「ご心配なく。きっと見つけて差し上げますよ。」

そのまま地面に埋めるか、海底に叩き込んでくれてもいいわよとは、やはり言えない。

亜理紗は、唇を噛む。

別に他意はない。出かかった言葉を押し込んだだけ。

熱い思いを秘めて唇噛んだのは、もう二十年も昔だ。

いっそ、主人を捨てて、あの男と行けばよかったと、それは、悔やまれる思いではなく、そういう人生もあったんだという、自分への慰めである。

「シュンジ。ママよ。パパが、また、いなくなったの。そうよ。サヤカには、あなたから伝えておいてくれる。」

長男のシュンジに、とりあえず電話を入れておく。

サヤカとは、長女、シュンジの姉である。

シュンジは、

「またか。ママも大変だな。」

と、口先で答える。

息子への電話は、車で三十分程度の所に住み、そのマンションの頭金もこちらの脛をかじっていながら、年に一度程度しか顔を見せない事へのあてつけでもある。

そんなにヨメが怖いかと、心の中で叫ぶ。

電話が鳴る。

長女のサヤカからだ。

「ママ、パパが、また失踪したって?」

「シュンジが知らせてくれたのね。」

「そう。」

「珍しい。いつもなら適当に聞いて、ほっぽらかしとく癖に。」

「あいつ、今日は、会社休んでるみたい。暇なんでしょ。だから、連絡してきたのよ。」

「暇なら、こっち来て、パパ探すの手伝ってくれたらいいのに。」

「前からリストラされそうなんだって言ってたから、そんな余裕ないんじゃないかな。」

「リストラ?」

「もう、されたかもよ。随分、声がしょげてたもん。」

「そんな事、一言も聞いてないわよ。」

「そりゃね、ママやパパには言いにくいわよ。パパがあんな調子だしね。大変ね。」

あんたは、いいわねと、喉まで出かける。

亭主の仕事の都合とは言え、北海道でのびのびと生活してるんでしょ。

玄関のドアがいきなり開く。

「ちょっと、待って。誰か来たみたい。そう言えば、鍵、開けっ放しだったわ。」

「物騒ね。」

居間から玄関を覗くと、そこに夫の姿がある。

「ゴメン、パパ帰ってきたみたい。一旦切るわね。シュンジには、あなたから伝えといてくれる?」

嫌よと言わせずに電話を切る。

「あんた、何処行ってたの?」

夫は、玄関先にボーっと突っ立ったままだ。

「とにかく入りなさい。」

そう言い、手を引き室内に入れて、異様な匂いに気がつく。

「あんた、もしかして、もらしたの?大きい方?」

夫は最初、亜理紗が何を言っているのか理解できない表情で見ていたが、しばらくして、こくりとうなずく。

「もういい加減にしてよ、タイガ。」

昔のように呼びかける。

ちょっと前なら、「ごめん、アリサ」と答えてくれていたが、最近は、きょとんとするだけだ。

亜理紗は、夫を風呂場に連れて行くと、上から順番に服を脱がせる。

シャワーで、全身を洗うつもりだ。

上半身を裸にする。昔はがっちりとしまっていた胸の肉に締りが無くなり、女の乳房のようにだらんとしている。

ズボンの前チャックを開ける辺りから、悪臭が漂い始める。

息を止めて、ズボンと下着を一気に引きおろす。

ドバドバと茶色い柔らかい粘土状のものが、同時に落ちてくる。

「あんた、下痢?」

風呂場に猛烈な臭気が充満する。すえた匂いが混じっており、吐きそうになる。

亜理紗は、申し訳なさそうに陰茎の前で手を重ね、突っ立ている夫に向かって、シャワーを浴びせた。

茶色い粘土状は、シャワーの湯に薄められ、下水道の中に回転しながら吸い込まれていく。

「昔は、あんたが、あたしの体を愛しそうに洗ってくれたのにねぇ。」

二人が若い頃、夫は、必ず一緒に風呂に入りたがった。「アリサは綺麗だ」と言いながら、スポンジで亜理紗の体中を泡でいっぱいにして、磨いてくれたものだ。

「あの頃のあんたは、何処行っちゃったんだろうね。」

言いながら、夫の全身にシャワーの湯を浴びせた。

 

「アリサ、アリサ。」

と、声に出しながら、タイガは街を彷徨った。

早朝、目覚めて隣を見ると、アリサとは似ても似つかない老婆が、だらしなく口を開けて寝ている。

辺りを見回す。

あの新築のマンションのベッドルームじゃない。

ここはどこだ。アリサの所に帰らなくちゃ。

タイガは部屋を飛び出す。

記憶に無い街の景色だ。

帰れる手がかりを求めつつ街をうろつく。

ポストも公衆電話も、見たことの無い形だ。

「アリサ、アリサ。」

駅前の交番を覗くと、巡査が電話にかかりっきりになっていて、あてになりそうにない。

改札の駅員はいないが、見慣れない扉で封鎖され、ホームに行けない。

引き返し、また、街中を彷徨ううちに広い場所に出る。小学校の運動場だった。

校庭の向こうの古い滑り台に心曳かれ、近づき、その錆びた手触りに、記憶の塊が急速に近づいてきた。

霧の中から、大きなロケットがヌッと飛び出してきたように、全ての記憶がタイガの物になる。

「そうだ。」

と、タイガは言う。

「俺って、この街、知ってるじゃん。」

あの、電信柱も、その向こうの煙草屋も、知っている。

その記憶を辿りつつ、タイガは、アパートに戻って来た。

だが、まだ、新婚当初に住んでいたマンションが頭から離れない。

オートロックも無い、エレベーターも無い、無用心な場所だと思う。

記憶を頼りにドアを開けると、奥から年取った女が顔を出す。

この老婆を知っている。

誰だっけ。

その老婆に手を引かれて家に引き込まれる。

老婆が顔をしかめる。

裸にされる。

その事自体には、別に嫌な気はしない。

シャワーを浴びせられ、アリサがここに来ない事だけを祈る。

アリサに見つかったりしたら、あの嫉妬深いアリサのことだ、相手がこんな年寄りの醜い女でも、絶対に許してくれないだろう。

 

「パパ、また失踪したんだって。」

シュンジがやって来た。

滅多に無い事だ。

後ろには、化粧の濃いヨメを従えている。

「あらあら、今日がお正月ってわけでもないわよね。」

ことさら、シュンジのヨメに当て付けて言う。

シュンジは、年に二回もくればいいところ。このヨメときたら、子供の行事だのにかこつけて、ここ三年ばかし顔も見せやしない。

ヨメは、そのあてつけに気がついて、プイと横を向く。

「さっき、帰ってきたわよ。」

「自分で?よかったじゃないか。」

「帰ってくるなり、御飯食べて、眠りこけてるわ。」

「そうか。」

シュンジは、何かを言おうとしながら、言い出せずに、玄関で突っ立ったまま。

背中をヨメに突付かれている。

亜理紗は、シュンジの要件があらかた読めている。

リストラされたから、金を貸してくれだ。

シュンジが口を開きかけたところを

「まぁ、そんな所に突っ立てないで、ささ、中に入りなさいよ。ほら。」

先ほどタイガにしたみたいに、シュンジの手を引いて上がらせる。

ヨメが顔をしかめるが、諦めて付いて来る。

「パパ、シュンジよ。久しぶりでしょ。」

タイガが、その声に起き上がり、

「やぁ。」

と、間の抜けた返事をする。そして、

「そろそろ、飯だろ。」

「あんた、さっき、食べたばっかりじゃない。」

「でも、飯の時間だろ。」

亜理紗は、やれやれとシュンジの方を向き、

「いつもこれよ。」

「世話が大変だな。」

「週に一回か二回のディケアセンターが唯一の救いだわ。」

タイガがディケアセンターにショートステイしている時だけ、亜理紗は生き返る。

「そんな所に行く金あるんだ。」

「馬鹿おっしゃい。介護保険のおかげよ。遊んでるお金なんて、我が家には一銭も無いのよ。」

シュンジがヨメと目を見合わせる。ヨメが顔をしかめる。

「俺もディケアセンターの世話になりたいよ。」

さぁ、始まったと、身構える。

シュンジが何か頼み事する時は、必ず、弱音吐く事から始まる。

「じゃあ、あんたもボケたら?」

「子供達がいるのに、今からボケるなんてできないよ。でも、パパみたいにボケちゃったら楽でいいだろうな。」

「何の話をしてるのよ。」

「実は、さぁ。」

さぁ、おいでと、亜理紗は身構える。

と、その時、タイガがむくりと起き上がり、

「アリサ、アリサ。」

と、呼びながら部屋を歩き始める。

亜理紗が駆け寄り、

「どうしたの?そんなにうろうろしたら怪我するわよ。」

と、タイガの腕を取る。

タイガは、それを気味悪そうに見ながら、シュンジのヨメの背中に隠れる。

「やだ、あなた、それ息子のヨメでしょ。」

タイガは、いやいやしながら、シュンジのヨメを後ろから抱きしめる。

シュンジのヨメは悲鳴を上げ、タイガを振り解くと、アパートの外に飛び出した。

タイガは、その勢いで、箪笥に頭ぶつける。

シュンジは、ヨメの後を追いかける。

ヨメは、アパートの外で、いやいやをしている。

もう二度と、あんな所には行きたくないとでも言ってるのだろう。

亜理紗の心の中には、タイガから気味悪げに見られたショックと、シュンジのヨメへのザマーミロという思いとが渦巻いていた。

 

「タイガさぁん、オオマエ タイガさぁん。」

若作りの声がする。

ディケアセンターの職員だ。

五十過ぎの女だが、やたら若作りしている。

それに、昔、整形手術したに違いない後が、他が老いても、そこだけ老いずに、より作り物臭く残っている。

その一つが胸だ。おそらく早い時期にシリコンを入れたのだろう。全体が弛んでも、胸だけ弛まずにつんと上を向いている。

人それぞれの趣味なので、別にとやかく言う積もりは無いが、不自然なものは不自然だ。

「タイガ、タネさんが来たわよ。早くしないと。」

女は、タネと言う名字だ。タネ ミライ。これは、これで化け物じみた名前に聞こえる。

「タネさんよ、早く早く。」

女がタネさんと年寄り臭く呼ばれる事を嫌っているのを知って、あえて、タネさん、タネさんと亜理紗は呼ぶ。

「ミライです。」

女が呼び名を訂正しながらタイガの手を取り、服を着替えさせる。

タイガは、不思議とこの女の言う事だけは大人しく聞く。

「さぁ、タイガさん、立っちしましょうね。」

まるで子ども扱いだ。

初めて彼女が来た時、彼は、子ども扱いされた事に顔を真っ赤にして怒った。

「俺は、ガキじゃない。」

まだ、そう言うプライドを持っていた。

それがどうだ。今や、言われるがまま、されるがまま。

あの頃のプライドは、どこへ消えてしまったのだろう。

タイガは、タネさんに手を引かれ、ひょこひょこと車に乗り込んだ。

「それでは。」

と、タネさんがこちらに頭をさげる。

「よろしく。」

と、口の中で呟くと、バタンとアパートの戸を閉じた。

亜理紗は、それからいそいそと若作りな洋服に着替えると、家を出る。

タイガは、六時過ぎまで帰って来ない。

早朝、タイガが困惑した表情で佇んでいたロータリーに、気味悪くない程度に抑えた化粧の亜理紗がいる。若作りとは言え、派手にならず、さりとて地味にならずの抑えたピンクのポロシャツとジーンズ。若い頃のブランド物の買い漁りで唯一残った真珠のネックレスをしている。

近寄って見ると、顔の皺や弛みは隠しようも無いが、遠目で見ると、まだまだ可愛く見えるはずだ。

背筋をしゃんと伸ばして、数分。派手なアメ車が近づいてきた。

亜理紗が手を上げる。

車からサングラスをした背の高い男が降りてきて、反対側に回るとドアを開ける。亜理紗の姿が車の中に消え、大きなエンジン音を残してロータリーから出て行く。

車の中では、随分古いフュージョンが流れていた。

「知ってる?ラリー・カールトン。」

サングラスの男が前を向いたまま訪ねる。

亜理紗は首を振る。

「何処か行きたい所あれば、言ってよね。別に無いんだったら、俺に任せてくれる?」

男は、亜理紗より十歳年長のはずだ。

タイガより五つ上か。

それにしては、若々しい。

浅黒い肌の上に無造作にTシャツを着ている。

銀色のネックレスが似合っている。

男は、最近、チエと言う友人から勧められた新興宗教の教祖だ。

「宗教って言ってもね、神だの、仏だのって言わないのよ。」

夢中になっているチエの言葉だ。

一月ばかし前に、彼女のしつこい勧誘もあって、道場に連れて行かれた。

道場とは言え、教祖の所有するマンションの一室だ。

広いマンションで、五十畳くらいのリビングとは別に、十数人いる信者が集まる畳の間がある。

もともと、この男が興した教団ではなく、男の祖母から引き継いだという。

「まぁ、税金逃れのために、教祖やってるようなもんだよ。」

と、男はいけしゃあしゃあと言う。

信者らしき集団は、上は八十から下は四十くらいまで、女ばかり。

始祖である男の祖母の残した祈りの言葉集があって、週に一度程度道場に集まり、その祈りのいくつかを上げると、後は酒や料理が出てきて、飲めや歌えやとなる。

男の祖母は、大変に熱心な教団経営者だったらしく、信者の数も一時は一万を超え、寄進後を絶たず、そのおかげで、郊外に山を三つ、市内にマンションを幾つか持っている。

男は、それを切り崩して生活している。

「俺の代でも使い切れないね。」

実は、後でわかった事だが、男には内縁の妻が三人と、子供がそれぞれに二人か三人、合計で七人いる。

「金があるんだから、何も教団なんかせずに、もっと若い女と遊びあるけばいいのに」と、チエが尋ねると、

「若いのは話が合わないからね。あなた方が調度話し相手にいいんだよ。」

男は気が向くと、信者の女に声をかけ、自慢のアメ車でドライブに連れ出す。

ドライブに行った先で肉体関係を迫る事もあれば、何もせずに帰って来る事もあると言う。

「あの歳で、まだ、肉体関係もてるの?」

「日頃、スポーツジムで鍛えてるみたいよ。それにね、がっついちゃいないのよ。止めてって言ったら、すぐに手を離してくれるし、だからと言って、その後、冷たくされるわけじゃないし。また、気が向けば誘ってくれるしね。あんたも、誘われたら断らずに行かなきゃ駄目よ。散々豪勢に奢ってくれて、楽しい一日を過ごさせてくれるんだから。日頃、亭主の世話で苦労してるんでしょ。それくらいの楽しみがないと。」

チエは、もう何回も教祖とドライブを楽しんでいる。

ドライブに行った先で、教祖と寝たかどうかは、さすがに話してくれない。

チエの亭主は、亜理紗の亭主程に呆けてはいないが、定年退職後一日家にいて、ボーッとしているらしい。

「元大手企業の本部長だかなんだか知らないけれど、もう、鬱陶しくて仕方ないのよ。男も、ああなっちゃお仕舞いね。二度とお誘いのかからないゴルフ以外に趣味の一つ、あるわけじゃなし。」

それに比べれば、確かに教祖は男として、まだまだ魅力的だ。

三日ばかし前、教祖からいきなり声をかけられた。

「アリサさん、明後日、暇?」

「え?いえ、別に、暇ですけど。」

「そう、じゃあ、俺とドライブしようか。」

チエが、亜理紗のわき腹をつつく。行きなさいと言う合図だ。

「あ、はい、喜んで。」

「じゃあ、十時過ぎに駅前のロータリーで。」

亜理紗は、慌てて携帯を取り出し、デイケアセンターに電話をし、明々後日の夫のショートステイを明後日に変更してもらった。

車は、市の中心部を抜けて、海沿いの高速道路に出る。

「今日は、ご主人は?」

男が尋ねる。

「デイケアセンターに行ってます。」

「お泊り?」

「いえ、ショートステイ。六時には戻って来ます。」

「そうか。じゃあ、それまでは、アリサさんの時間は、俺のものだね。ご主人、確か老人呆けが随分進んでらっしゃるんでしたよね。」

「そう、アルツハイマー。」

「面倒見るの大変でしょ。」

「徘徊とかがひどくて。それに、最近は、あたしの事が分からないみたいで。」

つい誘い込まれるように、今日も息子のヨメを自分と間違えた事を話してしまう。

車は、海沿いの豪華なホテルの前で停まる。

制服姿の若い男が近寄り、教祖から車の鍵を預かる。

「ここの海鮮料理が美味しんですよ。」

そう言いながら、何気にアリサの肩を抱いて、ホテルの中に招き入れる。

フロントから支配人らしき男が仰々しく出てきて、教祖に部屋の鍵を手渡す。

「最上階のジャグジー付きのお部屋です。」

「ありがとう。さ、行きましょう。」

「あの、そんなつもりじゃあ。」

亜理紗は、さすがに尻込みする。

貞淑な自分でありたいという思いでそうしたのでは勿論無い。こんな風に男から処遇されるのは、もう何十年も無かった事だからだ。心の中では、本当は喜び勇んで付いて行っている。

「心配なく。食事して、景色を楽しみたいだけだよ。」

「おかしな人ですね。」

エレベーターの中で亜理紗が言う。

「どうして。」

「だって、私なんか、もうおばぁちゃんよ。」

「自分の事を、そんな風に言うのは良くないな。アリサさんは、年齢の事を言ってるんだろ?生まれて月日がたてば、人間は自然と老いていく。これは、当たり前だ。でもね、それは、あくまでも肉体的な現象の事だ。そりゃ、あなたのご主人のように呆ける人もいるけれど、それはれっきとした病気だ。医学的にも認められているんだ。それ以外の健常な人は、肉体は老いても、精神まで老いる必要は無い。精神的に若ければ、肉体的な老化現象も、ある程度止められるんだよ。俺をみてごらん。この前、医者から、五十代の肉体だって褒められたよ。あなただって、気の持ち方と努力次第で、もう一回り近くも若くなれるんだよ。俺達現代人は、そんな食生活や精神生活を送れるからね。」

教祖は、そう言いながら部屋のドアを開ける。

部屋に入らなくとも、廊下からでも、リビングの向こうの窓の向こうに広々とした水平線が輝いているのが見える。大型船が西へ向けてしずしずと進んでいる。

その眺望の素晴らしさに亜理紗は息を飲んだ。

「さ、どうぞ。何なら抱き上げて差し上げましょうか。」

教祖のちゃかしに、思わず顔を赤らめながら、

「いえ、いいです。」

しばらくして、シャンパンが運び込まれてくる。

リビングの窓際の丸テーブルに料理と共に置かれる。

「俺ね、汗かきながら食事するのって嫌いなんだ。だからね、部屋の中に運ばせたけど、外の方がよければ、ベランダに出させるよ。」

「いえ、このままでいいです。」

外は確かに暑そうだった。中のほうが程よく空調が効いて快適だった。

サッシの向こうは、十人くらいでバーベキューができそうな広さのテラスと、その片隅にジャグジーがあり、その先に陽光輝く太平洋が波を煌かせて広がる。

料理は、近海で取れた魚貝類を使ったシーフードサラダや、カルパッチョや、マリネが、適度な量で並べられている。

教祖の言う通り、食材が新鮮で、味付けもくどくなくていい。

それだけでなく、例えば貝の食感と生野菜の歯ざわりと、ドレッシングの香りが全く新しく組み合わさっていて、食の冒険を感じさせてくれる。

「あら、この歯ざわり。こんな風にすると、こんなに瑞々しくなるのね。」

「アリサさん、なかなか、料理のわかる人なんだ。」

亜理紗は、昔、お金にあかして世界中を食べ歩いた事がある。

その事は、タイガも知らない。隠したわけではない。話す機会が無かっただけだ。

やがて、シャンパンで程よく酔い、話が弾み出す。

教祖は、自分の子供の頃の話をした。

始祖の祖母と公園に遊びに行った話や、次期教祖と祖母から信者達に伝えられ、それ以後、自分を見る目が変わり、嫌な思いをした事など。

若い頃から生活が派手で、色々な女性との浮名の話も、自慢たらしくなく、さらりと聞き流せるようにアレンジした話し振りなどは、さすがと思えた。

亜理紗は、タイガとの馴れ初めなどを、思い出話として自然に話せた。

亜理紗とタイガは、ファッション雑誌のモデル時代に知り合った。

「アリサさんて、ファッションモデルだったの?」

「パッとはしなかったですけどね。」

「だから、今でも魅力的なんだ。」

「魅力的?まさか。」

「いや、充分に魅力的だよ。美男美女のカップルだったんだろうな。」

タイガは、亜理紗との生活のためにモデルの生活を捨て、真面目なサラリーマンになった。

ファッションモデルだと、先が見えていたからだ。

タイガは、それまでの華美な生活を振り捨て、地味な生活を始めた。亜理紗はモデルを辞めなかったため相変わらずの生活で、タイガとの間に溝が出来始める。

溝があったにもかかわらず、決定的な亀裂にならなかったのは、タイガの我慢の賜物と言える。

「アリサさんの事を愛してたんだ。」

「さぁ、どうでしょう。」

亜理紗の華美な生活を支えるために、確かにタイガは必死になって働いた。

それが、亜理紗にとっては、どうにもうざったく思え始めた。

亜理紗は、タイガの仕事が忙しくなり、滅多に家に帰れなくなったのをいい事に、毎夜のように夜遊びを始める。

それも、三十を超えると、一段落し、ようやくタイガとの間に子供が出来た。

次に亜理紗に変化が出たのは、子供に手が掛からなくなってからだ。

タイガは、完全に会社人間と化し、亜理紗にとっては、一緒にいても面白くも楽しくも無い相手と成り果てていた。

そんな頃に知り合った男がいて、ホストクラブ上がりの自称実業家だったが、センスも良く、押しもあり、亜理紗は一時、その男との駆け落ちまで考えるほどに、のめり込んだ。

「こんな話聞いてて面白いですか?」

ふと、亜理紗は、目の前の教祖に問いかける。

気がつけば、色々な事を聞きだされ、喋らされていた。

「面白いよ。あなたの事を沢山知りたいんだ。」

「どうしてですか?」

「下心は無いよ、安心して。そうじゃなくて、人それぞれに、色々な過去があるだろ。過去のあなたと、今のあなたとを比較しながら話を聞くのって、結構、面白いんだよ。」

「それで、あざ笑ってるんでしょ。嫌な人ですね。」

「いや、そんな事はしないよ。あなたの大事な過去の物語だろ。」

「大事なんでしょうか?」

「おっと、今度は、こっちが質問攻めか。大事だよ。過去があっての今のあなたなんだから。過去をおろそかにしたら、今のあなたに失礼だろ。俺もね、もう歳だから、いつお迎えがくるか分からないだろ。だったら、色々な女性の思い出を抱いて死んで行きたいんだよ。幸せな顔をした女性の思い出ね。」

「幸せ?あたしが?」

「幸せでしょ。ご主人に愛された思い出を持ってるんだ。それに、ご主人以外の男性と深く愛し合った思い出とね。沢山、派手に遊びまわった思い出も。」

「愛する人と結ばれなかったんですよ。あたしに勇気が無くて。」

「いや、勇気が無かったんじゃなくて、分別が働いたんだよ。もしくは、危機な匂いを感じ取ったのかな?」

「危険な匂い。」

「そう、その男と駆け落ちしたとして、幸せになれたかどうかなんて、わからないよ。結局、誰と何処でどのように生活しても、ほとんど大差ない。一緒だったって気がついちゃって御覧、夢見てただけに、余計に色あせたその生活が無惨に見えて来るかも知れない。」

「じゃあ、今の方が、良かったのかしら。」

「結果論だから、何とも言えないけどね。さて、随分、飲んじゃったな。」

見ると、シャンパンの瓶と、ワインの瓶が転がっている。

「俺、ジャグジーに入るけど、アリサさん、どうする?一緒に入る?気持ちいいんだよ、ここのジャグジー。大海原が見渡せてね。」

「ジャグジーって、裸で?」

「服着て入れないでしょ。」

「いえ、ちょっと、遠慮しておきます。」

「そうか、じゃあ、適当にテレビでも見てて。ちょっと、酔いを醒ましてくるから。あと、二時間は、ゆっくりしてられるだろ。」

そう言うと、教祖は、一人でテラスに出て、服を脱ぎ始めた。

亜理紗は、暫くテレビを見ていたが、だんだんそれにも飽きてくると、テラスに出て海を見つめる。

今の自分が幸せだと言った教祖の言葉に妙に説得力を感じながら海風に当たっていると、

「アリサさんも遠慮せずに入りなよ。」

教祖が再度声をかけてくる。

「そうね。折角だから入ろうかしら。」

「そうしなさい。恥ずかしかったらタオルで隠しゃあいい。」

「ちょっと目をつむっててください。」

そう言うと、亜理紗も、その場で裸になる。

教祖が目をつぶっているのを確認しながら、そろそろとジャグジーに体を滑り込ませた。

「ああ、気持ちいい。」

ジャグジーの湯は、熱すぎもせず、調度いいくらいに調整されており、体中がほぐれていく。底から湧き上がるあぶくが優しくお尻を刺激して、その気持ちよさに、亜理紗は思わず溜息混じりに呟く。

「そろそろ目を開けてもいいかな。」

「いいですけど、こっちを見ちゃ駄目ですよ。目が潰れますよ。」

「潰れてもいいから、今生の別れにアリサさんのヌードを拝ませてもらいたいもんだね。」

そう言いながら、教祖が亜理紗のほうを向く。

亜理紗は、手の平で胸を隠す以外、特に大きな抵抗をしなかった。

「綺麗だよ、アリサさん。」

「いやらしい。」

「綺麗なものを、綺麗と言って罰は当たらないでしょ。」

「恥ずかしいわ。」

「何が恥ずかしいものか。充分に写真集を出せる。」

「でも、胸もお腹もお尻もたるんでるし。」

「あのね、人間はね、気持ちの持ちようなの。自分は、まだ若いと思って、シェイプアップして御覧なさい。そしてね、人前でそれを晒すの。そうしたら、多くの人が綺麗だって言ってくれるでしょ。そうしたら、余計にあなたは綺麗になるんだ。男が、いっぱい寄って来るよ。」

「本当かしら。」

「そうそう、アリサさん改造計画。」

「面白い事言うのね。」

「その男の第一号に、俺がならせて貰おうかな。」

そう言うと、教祖は亜理紗の体を抱きしめた。

「ちょっと、待って。」

「こんな綺麗な裸を見せられて、待てる男は、ちょっといないよ。」

「でも、いきなり、こんな。」

「いきなりじゃなかったらいいんだ。」

何を言ってるの、この人は、と、亜理紗は思うが、抱きしめられて満更じゃないものを感じる。

忘れかけていた亜理紗の中の女の部分が、じくじくと反応する。

教祖が、亜理紗の首筋に舌を這わせる。

教祖の指先が亜理紗の鎖骨をなぞる。

そして、萎び始めたとは言え、まだまだ張りを保っていると自負している乳房にそっと触れてくる。

「素晴らしい体だよ。」

溜息混じりに耳元でそう囁かれると、もう体中の力が抜けてしまい、何をされても抵抗できないだろうと思う。

亜理紗は、覚悟を決めた。

が、その時、教祖の手が止まる。

「折角の獲物を目の前にして、こんな事を言うのもあれなんだが。」

亜理紗が目を開けると、教祖のすまなそうな顔が、そこにあった。

「俺ねぇ、ここ数年、駄目なんだよ、実は。」

「え?」

亜理紗は、教祖が何を言っているのか一瞬理解できないでいる。

「立たないの。インポテンツ。」

その言い方がおかしく、思わず吹き出す。

教祖も同じように吹き出した。

「おかしいだろ。」

頭をかきながら教祖が言う。

「やれなくなってからなんだよ、信者の女性を口説き始めたの。何でだろうね。」

それって、あなたの優しさ?と、言おうとして、それは言わないでおこうと思った。

「でも、アリサさんの魅力には本当に息を飲んだよ。一瞬、息子が蘇るんじゃないかと期待したくらいだ。」

「そんな上手、誰にでも言ってるんでしょ。」

「とんでもない。」

それから時間いっぱいまで、教祖と亜理紗は語り合い、笑いあった。

教祖の車から降りる時、亜理紗は彼に熱い口付けを残した。

教祖の体からムスクの香りが立ち上る。

その匂いが、長い間、亜理紗の鼻腔を支配した。

 

表にディケアセンターの車が止まる。

「さぁ、タイガさん、降りましょうね。」

タネさんの声がする。

「じゃぁ、また、次のショートスティまで、お別れですねぇ。」

足音がして、玄関のドアが開く。

風呂に入れてもらい、綺麗に髪撫で付けてもらったタイガの姿が玄関にある。

「お帰り、タイガ。」

亜理紗が声をかける。

タイガは、一瞬目を見開いて、何か驚いたようだったが、

「ただいま、アリサ。」

と言う。

「え?あたしの事わかるの?」

「アリサだろ。今まで何処に行ってたんだい。俺をほっぽり出して。」

「何処って。いつもあなたといたわよ。」

「嘘、もう何処にも行かないでよ。」

そう言いながら、昔のように亜理紗を抱きしめる。

「行かない。タイガと一緒にいてあげる。そして、力をいっぱいあげるからね。」

先ほどまで亜理紗の鼻腔を支配していた教祖のムスクの匂いは、タイガの体から立ち上る石鹸の匂いに取って代わられる。

亜理紗は、優しくタイガの脇の下に腕を差し入れ、部屋の中に導く。

これって、教祖の神の力?と思ったが、慌てて打ち消した。

また、いつか誘ってくれるんだろうな。夢見る力を失いかけた時に。

そのように考えることにした。

 

(終わり)