「残像」
芦沢は、老いた。
昔の記憶を辿りながら、私鉄の駅から川沿いの狭い道を遡っていく。
川は一級河川の支流で、山から急斜面を駆け下り、駆け下りた所で固い地質に阻まれて川底を抉る事ができず、底が浅いままで本流に流れ込む。
だから、かつては、何度も水害が発生したという。
今は、整備も進み、川底を抉るかわりに川幅を拡張し、段差をつけて、氾濫を防ぐ工夫がなされている。
川の上流の急斜面は逆に脆い地質で、かつて、大きな地震が起きた時に川を囲む一方の斜面が崩れ落ち、十軒ばかしの家を巻き込んで、川を塞いで止まった。
何人かの住民が亡くなった。
川の中腹からさらに細い道に曲がると、かつてそこは、学生下宿の多くあった場所だ。
雀荘街もあり、酔っ払った学生達の叫び声が夜遅くまで響いていた。
まだ、そこに大学があった頃の話だ。
大学が郊外に移転すると共に、学生達の声は消えた。
大学の跡地にはマンション群が立ち並び、学生の姿は、毎朝出勤し夜遅くに帰宅するサラリーマンの姿へと代った。
それは、まるで映画のフィルムを早回しし、学生からサラリーマンへと成り代わる人間の生態を見ているようでもあった。
マンション群の横には、かつて外人教授宅エリアだった、木々の生い茂った一角がある。
大学の敷地から雀荘街へと向かう斜面の段差の広いところに木々が植えられ、木々の間に瀟洒な外人教授の家が並び、エトランゼ達の遊ぶ声が聞こえたものだ。
外人教授の家々は取り壊されたが、利用しようの無い段差部分に植えられた木々は、そのまま取り残され、夏になると鬱蒼とした木陰を形成する。
その木陰の外れに、古ぼけた白っぽい建物が木々と共にいまだ取り壊されずに残っている。
学生達が雀荘街へと向かう小道のさらに数百メートルばかり山側に、この古い建物へと向かう小道が作られている。
この小道からも学生や教授の姿は消えたが、小道の突き当たり、木立に囲まれて、外壁の色が完全に剥げ落ちた木造の建物は、依然として、密やかに、かつての賑わいを胸に秘めつつ佇んでいる。
建物は、かつて外人住宅の一つ、大学創立者用の住宅として、百数十年前に建築された。
他の外人住宅が取り壊されたのに、その建物だけが残されたのは、管理する市が、その古さに敬意を表し、歴史的遺産として残そうとしたからに他ならない。
小道からは、建物の裏口と、そこから二階に上がってすぐの小さな部屋の窓が見える。
その窓からは、川筋からの小道が見え、研究室である古い建物に向かって歩いてくる学生達の姿が見えたものだ。
小道の途中で立ち止まり、汗を拭く。
足腰には自信があった。自分より二十も三十も若い連中とハイキングに出かけても、一番疲れ知らずだった。
それが、このところめっきり衰えた。七十を超えると、いきなりだ。
ハンケチを胸ポケットに押し込むと、芦沢は、腰を一度伸ばして再び歩き始める。
ふと建物に目を向けた彼の脳裏に、一人の二十歳過ぎの女の姿がフラッシュバックし、再び歩みを止める。
女は、中二階の小部屋の窓枠にもたれ、空を見上げて煙草を吸っていた。が、すぐに立ち消えた。
目を凝らすが、女の姿は、もう無い。
頭を一つ、二つ振って自分の妄想を振り払う。
休み休み辿り着いた裏口の戸には鍵がかかっている。
芦沢は、ブレザーから古臭い鍵束を取り出す。
「どれだったかなぁ。」
と、市の管理課職員が悩んでいたので、全部借りてきた。
いくつか試して、ようやく合うのを見つける。
木屑が頭に降りかかってくるのも気にせずに、ギシギシと軋む戸を手前に引く。
次にフラッシュバックしたのは、ホールに集まる学生達の姿だ。
全員が白衣を着ている。
壁際の棚には、ホルマリン漬けされた脳が所狭しと並んでいる。
学生達は、思い思いの格好でホールのそこかしこにいて、話し込んだり、本を読みふけったり、スナック菓子を頬張ったりしていたが、芦沢を見つけた者達は、それぞれに目礼する。
芦沢も軽く頭を下げてそれに応えた瞬間、学生達の姿は掻き消えた。
丸テーブルがあったはずだが、それも一瞬して無くなり、おそらく使われなくなって後、建物を補強した時のものなのだろう、建材が乱雑に積み上げられ、床には木屑が散乱している。
棚を飾っていたホルマリン標本は、とっくに片付けられている。
建材に足取られぬよう避けながらホールを横切り、二階への階段に足をかける。
「教授。」
と、声をかけられ振り向くと、院生の山田がヒゲ面で立っている。
「君か。たまにはヒゲを剃りたまえ。」
「卒業論文ですが、一人を除いて全員出揃いました。」
「一人、誰?」
「岸根です。」
そう言って山田は芦沢の手に学部生の卒論の束を押し付ける。
「おいおい、そんなに沢山持ちきれないよ。」
そう言いながら受け取ろうとして、山田も卒論の束も消えた。
「岸根か。」
呟きながら階段に向き直ると、数段上った所にジーンズの女の後ろ姿があった。
なで肩で、小ぶりのヒップをさらに小さいジーンズに押し込んでいる。
セミロングの髪をポニーテールにまとめていた。
懐かしい後姿だ。
「岸根君。」
そう声かけようとして、やめた。
しばらく見つめていると、中二階の踊り場でその姿は消えた。
芦沢は、躊躇する事無く、女の消えた階段を上って行く。
女の消えた中二階踊り場のすぐ横に、川筋から小道を上がってくる時に見えた小部屋がある。狭すぎて、何にも利用できない部屋だ。
中二階踊り場を過ぎ、階段を上がりきった所にかつての大学院生たちが研究室を去り際に置いて行った専門書の類が、埃を被り背表紙などはほとんど読めない状態になって、本箱に乱雑にたてられたまま放置されている。
そこから一番手前に大学院生の部屋があり、その向こうに教授室に向かって薄暗い廊下が続く。
一番奥の教授室で小さな咳払いがする。
芦沢は、一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔になり、そちらに足を進めた。
途中大学院生室のドアが開き、幽霊のようにやせ細った男が出てくる。
「やぁ、高石君じゃないか。」
男は、芦沢の顔をちらりと見ると、頭を小さく下げ、階段を下りていく。
芦沢は、あいかわらずな奴だなと苦笑する。
先ほど咳払いの聞こえた教授室の中からガラスの割れる音がする。
矢嶋というヘビースモーカーの教授が使っていた部屋だ。
ダンディな男で、女子学生からよくもてた。浮いた話も数知れずあった。
どちらかと言えば地味な芦沢だったが、矢嶋とはどういうわけか気が合った。
ドアには、昔は「矢嶋」と書いたプレートがあった筈だが、今はもう無い。
中に人の気配があったので、そっと開けてみる。
矢嶋が、箒を使って割れたガラスの破片を集めていた。
「どうした。」
芦沢が声をかけると、
「やぁ、手がすべってね、ビーカーを割っちまった。」
机の上の灰皿には吸殻が山盛りになり、机の上にもこぼれ落ちている。
「コーヒーを淹れるつもりだったんだが、歳はとりたくないもんだね。」
「相変わらずヘビースモーカーだな。」
芦沢が吸殻の山を見つめて言う。
「死んでも吸い続けるよ。」
たしかに、奴の棺桶には、学生達が山ほど煙草を入れていた。
「どうだ一本。」
ピースの缶を差し出す。
「いいよ、私は。」
部屋の片隅、アルコールランプの上のビーカーの中でお湯がグツグツと沸いている。
「君も飲むだろ。」
「いただくよ。」
矢嶋は、大きなピンセットでビーカーを掴むと、もう一つのビーカーの上のドリップにお湯を注ぐ。ビーカーの中に黒い液体がこぼれ落ちていく。
部屋にこびりついた煙草の脂の匂いに、香ばしい珈琲豆の香りが混ざり込む。
「何してたんだ。」
机の上の分厚い本と、何枚もの計算式の書き込まれたレポート用紙を指差して芦沢が尋ねる。
「君に言わなかったかな、二週間程前、中国の学会に出かけた時に見つけた本の話。」
矢嶋は中国語が堪能だった。
「北京の裏路地の古本屋でね、見つけたんだよ、ほら。」
と、分厚い本を差し出されたが、見慣れぬ漢字が踊っているだけだ。
「かなり昔に書かれた本でね、俺の知らない漢字が沢山出てくる。読み解くためにこっちの中国語の古語辞典まで買っちまった。」
「で、何の本なんだ?」
「天中殺だよ。」
なるほど、背表紙の流れるような文字は、そう読めなくも無い。
「俺の生まれた年、月、日、何時何分まで調べておいて、この古書に書かれた通りに計算していく。この古書全体で、ある事を導き出すための数式を説明しているんだ。」
「ほう、面白いね。君の性格でも分かるのか。」
「寿命だよ。俺が、いつ死ぬか。」
「へぇ。」
「あと一息で、それが導き出せるんだが、いや、ちょっとね、さすがに躊躇してるんだ。怖いんだよ、自分の寿命を知っちゃうのが。」
「怖いもの知らずの君がね。」
「そう、さすがにね、自分の死ぬ時間がわかるとなると、怖い。もしだよ、明日死ぬって事になったらどうする。人間ってのは、明日の自分が分からないからこそ、勇気を持って生きられると思わないか。いや、勇気を出さざるを得ない。例えば、あと十数年で、この世が滅亡するなんて話があるじゃないか。」
「何だ、君まで、ノストラダムスか。」
「考えた事あるか?明日、自分が死ぬとわかったら、どうするか。」
「いや。その時に考えればいいかと思う。」
「君は、強いな。俺ならどうするだろう。若い奴らに混じって、女を片っ端から強姦して回るか。」
「君は、そっちの方面、盛んだからな。」
「おいおい、君だって、最近、結構頑張ってるそうじゃないか。」
「私が?」
「噂には聞いたぞ。最初は、まさか君がと耳疑ったがな。学部の女の子とよろしくやってるそうじゃないか。」
「そりゃ人違いじゃないか。私の話じゃないだろ。君、誰かと間違っちゃいないか。」
「最初は、俺もそう思ったよ。しかし、君も愛妻に先立たれて、もう五年目だろ。そろそろ、そういう気を起こしてもおかしくは無い。」
「やめてくれよ。私は、女房一筋だ。そんな根も葉もない噂。」
「根も葉も無いって事は無いだろ。女の子自身が噂の震源地だって話じゃないか。何て名前だっけ。」
「知らないよ。しかし、失敬千万だな。そんな話を勝手に流すなんて。」
「おいおい、この研究室じゃ、ほとんど皆知ってるぞ。相変わらず君は世間の噂には疎いんだな。自分自身の噂が流れていても、知らぬ存ぜぬだからな。」
「いや、本当に知らないんだよ。」
「胸に手を当ててみろ、思い当たる節がないか?」
岸根が自分で噂をばら撒いている?まさか。
やれやれと、胸の内で言う。
妄想もここまで来たか。
岸根と芦沢の関係は、実際は誰にも知られる事が無かった。
でもと、さらに思う。
それが大っぴらになる事を内心は望んでいたんじゃないのか。
岸根との関係は一度だけのものだった。
だが、何とも思わずに彼女を抱いたわけではない。
彼女との関係を一度だけで終わらせたのは、むしろその逆だったからだ。
女房の佳代に先立たれ五年目にして、芦沢の中に生まれた愛情は本物だった。
それだからこそ、岸根が自分に注いでくれた愛から身を引いた。
自分は、愛情表現の下手な男だ。
佳代と一緒になるのさえ、十年近い月日を必要としている。
互いに研究室の良きライバルとして、また、良き相談相手として佳代を愛し、胸の内を打ち明けるのに要した月日だ。
自分が女に愛されるわけがないと言う思いと、その女を幸せにするのに力足らずであり、自分と一緒になれば女が不幸になるだけだと言う思いが、芦沢を愛情に対して晩生にした。
佳代は、そう言う芦沢の気持ちを理解してくれ、じっと待っていてくれた。
その負い目がある。
その負い目が、佳代亡き後に出会った岸根への愛情の歯止めとなった。
佳代と違って、岸根は積極的だった。
彼女に引きずられるようにして、一夜を共にした。
それは、芦沢を甘美な思いに引き込むのと同時に、激しく後悔させた。
無責任に彼女の人生に関与してしまったという思いがある。
今時珍しいと言われても、彼はそのような男だった。
「しかし、実際は違うんだろうな。そんな晩生なばかりの人間じゃない。本音ではもっと積極的に楽しく生きたい。出来なかったがな。」
口に出して言う。
「そりゃそうだろ。」
矢嶋が灰皿に山と積まれた吸殻のてっぺんがくすぶっているのに、珈琲の残りをかけながら言う。
「君は卑怯だよ。彼女の人生に立ち向かわずに逃げただけだね。君自身で、彼女に対峙するという道を選択できなかった。逃げたんだ。理由はともあれね。」
「お見通しだな。」
「自分を騙すのは結構つらいって事だ。」
「わかったよ。これ以上いると、思わぬボロが沢山出てきそうだ。そろそろ退散するよ。」
芦沢がドアの所で振り返って見ると、矢嶋は、また天中殺の本に首をつっ込んでいる。
そうだ、結局、天中殺の計算では、矢嶋はあの時よりもさらに三年も前に死んでいた。
余生だと言いながら、その後の女遍歴も激しかった。
最後は、誰にも看取られずに一人さびしく病院のベッドの上で死んでいった。
「君は、どんな最期だったんだい。」
芦沢が尋ねる。
「ご想像にお任せするよ。」
顔も上げずに矢嶋が返事をする。
彼の姿は、そのまま埃だらけの机と一緒に風化していく。
後には、そこに机があった事を思わせる足の跡が四つ、床の上に残されていた。
ギシギシと軋む床を踏みしめながら院生室の前を通り、階段を下り、中二階の踊り場、小部屋の前に立ち止まる。
ドアは閉まっていたが、中で百円ライターに火をつける音がする。
「岸根君。」
芦沢が声をかける。
「いるんだろ。」
カチャリと音がして、閂が外されドアが少し開く。
芦沢がゆっくりとドアを開ける。
窓際に、ポニーテールの女が佇んでいる。
「岸根君、卒論は?」
岸根と呼ばれて少女が振り返る。
「卒論の事を言いに来たの、先生。」
以前は、彼女に卒論を出すように説得する過程で、彼女と一夜を過ごすはめになった。
勿論、芦沢は、この岸根という女を憎からず思っていたからでもあるが。
彼女は、見掛け以上に聡明な女だった。
その聡明さを惜しいと思うからこそ、彼女にきちんと卒業して欲しかった。
「言いふらしてやったわ。」
実際にそんな事をする女ではない。
芦沢は、その事を良く知っている。
「いいよ、言いふらしてくれたって。」
「教授会から締め出しをくらうわよ。」
「それもいいかも知れない。」
「ばか。」
「考えてもみてくれよ、私は七十を超えちまった。」
「それは、今の話でしょ。」
「あの時だって、もう五十手前だった。君を肉体的に満足させる自信なんて全く無かった。もちろん、精神的にもだ。二回りも違ったんだぜ。」
「年なんて関係ないわ。」
「そりゃぁ、理想論だ。どうしたって、年齢の差は発生する。どの道、私は君にとってお払い箱の男になる。君は、新しい男の胸に飛び込む。そんな通俗的な結末は迎えたくなかった。いや、ゴメン。そういう結末を迎える勇気が無かったんだ。勿論、女房を愛していた事もある。女房とは十年近く待たせて結婚した。結婚して六年で死別だ。この研究が終わったらスペインに旅行に行こうと言っていた矢先だった。彼女はスペインが好きだった。勿論、私もね。二人の馴れ初めもスペイン旅行の話からだった。」
「そんな話なんか聞きたくないわ。」
「すまん。」
岸根は、窓枠に手をかけると、外に向かって大きく伸びをする。
今にも崩れそうな桟が、ギシギシと音を立てる。
「おい、危ないだろ。」
「いいわよ、どうなっても。」
「馬鹿な事を言うな。」
そのままくるりと芦沢の方を向き、桟に臀部を置く。
「ねぇ、先生。あたしね、いつもここから、先生があの坂を登ってくるのを見てたのよ。先生が汗かきながらゆっくりと登ってくるの。あたし、その先生の胸に向かって、ここから体ごと飛び込んでやろうかって、何度考えたと思う?」
岸根らしい考えだと思った。
ジーンズのポケットから皺くちゃのマイルドセブンを取り出し、火をつける。
「ここは、禁煙だって言ってるだろ。」
「もう一度抱いてくれたら消してあげる。」
「つまらない事を。」
と、岸根の顔を見ると、その頬が涙で濡れている。
「岸根。」
芦沢は、自分が二十年若返った気持ちになる。
そのまま、彼女の体を抱きしめる。
柔らかいが、充分に重みのある体が、芦沢の胸に倒れ掛かる。
「もう随分長い間、先生を待ったわ。」
「すまん。」
そのまま長い口付けをする。
消えてくれるなと祈った芦沢の願いは虚しく、岸根の姿は腕の中で掻き消えた。
「好きだったんでしょ、あの娘が。」
来た時と同じ裏口から出ようとして、声をかけられる。
「やぁ。」
先立たれた女房だった。
「懐かしいなぁ、その白衣。」
佳代は学生食堂のカレーライスが好きだった。
白衣のそこかしこに、カレーライスの黄色い染みが付いていた。
洗っても落ちないと、しょっちゅうこぼしていた。
学生の笑い話のネタの一つでもあった。
「ちゃんと答えて。」
「君までも。」
「私の目を見て。」
「怒っているのか、君を裏切った事を。」
「違うわ。自分に素直になって欲しいだけよ。」
「君を、まだ、愛している。七十にもなってだ、息引き取った時の年齢の君が、心の中にいる。」
佳代は、芦沢の目をじっと覗き込む。
「それは、嘘ではなさそうね。でも、あなたの中には、もう一人、女の子がいるわ。」
「うむ、それも事実だ。裏切り者と詰るか?」
芦沢は、佳代の方に一歩踏み出す。
足元で、踏みつけた木切れがポキリと音を立てて折れる。
「いいえ。でも、どうしましょう。詰って欲しい?」
「私も困っている。答えが見つからないんだ。気が済むのなら、詰ってくれてもいよ。」
「本当にじれったい人ね、あなたは。いい?あなたの中にあるものは、紛れも無く、あの娘への愛情です。いつまでも、自分の臆病さを、愛する事の下手さでごまかさない事よ。」
「この思いを抱え込んだまま、もう二十年も来てしまった。」
「待ってるわよ、あの娘。」
「まさか。」
佳代は、ある方向を指差す。
「行きなさい。」
「どこへ。」
「あっち。」
「あっちは。」
「そう。でも、ともかく、行かなきゃ駄目よ。何も終わらない。」
「始まらないじゃないのか?」
そう笑いながら振り返った芦沢の前に、もう佳代はいない。
芦沢は、川筋まで出ると、上流に向かって歩みを進める。
山から涼しい風が吹き来たり、川面をそよがせ、川下の先、遠くに見える都市のビル群へと吹きすぎてゆく。
川が急勾配を伴って山と山との間に分け入る辺りに、片側が整地された斜面がある。
斜面に芝が植え込まれ、真ん中にコンクリートの階段が、斜面の上まで伸びている。
結構な斜面で、芦沢くらいの歳になると、いくら整地され階段が作られているからと言っても、辛いものがある。
芦沢は息弾ませながら、長い時間をかけて斜面を登っていった。
登り切った所に、ちょっとした公園が作られていて、その一番奥まった所に碑が立っている。
芦沢は、碑の前で軽く頭を下げると、その裏手に回った。
裏手は墓地である。
墓の大半は、欠けたり、ひび割れたりして、強い力の加わった後が見える。
そうなのだ。ここにある墓石の多くは、かつてこの斜面が川までずり落ちた時に、途中にある家々と共に一緒に巻き込まれたのだった。
芦沢は、その墓石の中の新しい一群に向かう。
それらは、地震の後に建立されたものだった。
しばらく名前を探していたが、やがて、目当ての墓石を見つけ、その前にひざまずく。
手を合わせ、俯いた。
「やっと来てくれたのね。」
後ろで女の声がする。
「岸根。」
芦沢が振り返ろうとするのを
「振り返らないで。」
岸根が制する。
「あなたは、あたしのこの姿を見た事が無い。知らない筈よ。知らない姿を見る事は出来ない。振り返った途端に、あたしは消えるわ。」
「振り返って、君を見る事もできないのか。つらいな。」
「随分と、あなたを待ったわ。十年以上ね。長くつらい時間だった。その時間のつらさに比べれば、振り返ることの出来ないつらさなんか、なんでもないことよ。」
「すまない。」
「でも、いいわ。やっと来てくれたのね。許してあげる。」
「すまない。」
「謝ってばかりね。」
「他にできる事を思いつかないんだ。」
「そうね。あなたは、あたしを抱きしめる事も出来ない。あたしもね、あなたをこんなに愛しているのに、触れられないの。」
「待っててくれたのか、本当に?」
その芦沢の言葉に、岸根がハハハと笑う。
「ずっと待ってたわけじゃないわ。男も何人か愛したつもりになった。結婚もしたわ。でも、どの愛情も、あたしを満たしてくれなかった。あなたとの一瞬の出来事で、あたしは変えられてしまったのかしら。」
「すまない。」
「嘘よ。あなたを愛する宿命にあったのよ。それは、決して適えられない宿命だったのね。あなたが、あなたの奥様を深く愛してしまったように。人間てつらいものね。あたしは、ここにアパートを借りて、あなたが研究室に通うのを、じっと見ていた。あなたが、海外に行ってしまった後も、いつか必ず戻ってくると信じて、ずっとここで生活していたのよ。」
「あの地震の事は、スペインで耳にしたよ。体調を壊したりして、なかなか帰ってこられなかった。ようやく、時間を見つけることができた。」
「つらい地震だった。大勢の方が亡くなったわ。」
「君もね。」
「あっという間の出来事だった。あたし自身何がおこったのか理解できなかった。今でも信じられないもの。あたしが死んでしまったなんて。」
「苦しまずに済んだんだね。」
「さいわいね。泥に埋まって、そのまま。苦しまなかったから、あなたへの思いもそのまま残ったわ。」
「その思いが、私を呼んだんだね。」
「昔みたいにね。」
「そう、昔みたいに。君の熱い思いに、私は幻惑させられた。」
「あら、人の責任みたい。」
「いや、すまん、幻惑させられる事は快感だった。今もだ。君への思いが、私をこうして、ここに連れて来た。本当は、行けない筈のこの場所へ。」
女が、後ろから芦沢を抱きしめる。
「後ろからしか抱きしめる事ができない。これが因縁て奴なの?」
「後ろからでも抱きしめてもらえるんだ、君に。まだね。」
芦沢は、女の腕をそっと撫ぜる。
「悔しかったろうね。さぞ、悔しかったろう。」
「いいのよ、全ての悔しい思いは、あなたがここに来てくれた事で帳消し。」
「いつまで、ここに、こうしていられるんだろう。」
「そうね。あたしは、いつ、また、消えていくんだろう。」
芦沢は、自分の大脳皮質に発生した大量の小胞体が、消え去らずにいてくれることを祈る。
「私の頭の中にね、その、大脳皮質の中にね、沢山の泡のようなものが発生している。そういう病気なんだ。その泡は、人に幻覚症状をもたらすらしい。つまりだ、その泡の中で、君は私を抱きしめてくれている。泡の中で、私は日本に戻っている。」
「何だか哲学的ね。」
「そんないいものじゃない。意識が聡明な時にのみ、私は、その事を認識できるんだ。この泡が脳幹部に移り始めたら、体のあらゆる自由が奪われ始める。私は、本当は、もう体を動かせないで病室に寝ている身だ。食べ物を飲み込めず、チューブで栄養補給してもらっている。喋る事すら難しい。いや、大脳皮質の泡の中でのみ喋ることができるんだ。物を飲み込む事もできる。君と出会うこともね。」
「ねぇ、そのまま静かにこちらを向いて。」
「君を消してしまいたくない。」
「賭けてみましょうよ、あなたの思いの強さに。」
芦沢は、女の腕の中で、ぎこちなく体を回す。
「どう?」
「うん、消えてない。」
「そうじゃなくて、あたし。」
「素敵だ。」
「あなたを待ち続けた、あたしの顔。よく見て。」
芦沢は、綺麗に年を重ねた岸根の顔の表情を、何一つ見落とすまいとじっと見つめる。
目尻や口元の皺は、かつては無かったが、その皺が、岸根をより熟成し、落ち着いた女に見せ、彼女が元々持っている聡明さを、さらに引き立てている。
目の輝きは、芦沢をいきなり抱きしめさせた、あの時のままだ。
「綺麗だ。」
「本当に?」
「ああ、幻覚は時間を乗り越えられるんだ。本当は知らない筈の君の姿を今、見る事ができる。」
「意思の強さよ。」
「あの頃の君も魅力的だったが、今の君は、何と言うか、しっとりと大人の魅力を身につけている。時間が、君の魅力を深めてくれたんだな。」
「もっともっと時間がたてば、もっともっと綺麗になるわ。」
「時間が君の心を磨き上げるんだな。」
芦沢は、彼女のショートカットした癖毛に顔を埋める。枯れ草の香りが鼻腔をくすぐる。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、その向こうに目をやる。
斜面が広がり、川が流れ、もっと先には遠く都市のビル群が見えている。
「昔と変わりの無い風景だな。」
「あたしが最後に見た景色よ。」
川筋から少し離れた場所、研究室の古ぼけた建物が木立の間に白く見える。
外壁はとうに剥げ落ちてしまっても、昔の白さは、よく分かる。
川筋から研究室へと向かう小道が見える。
「ここから、私が、あの道を通るのを待っていたんだ。」
「待ってなんかいない。」
岸根が芦沢の胸に顔を埋めながら言う。
「待ってなんかいないわ。毎日、見てただけ。」
小道を研究室へと向かうかつての自分の姿が見える。
「もう、君を離さないよ。」
夕日が、景色を赤く染めていく。
風が吹き来たり、二人の影を掻き消す。
蛍が、舞う。
(終わり)