「この町」

 

 

昔ながらの町の高架下に車を停め,

窓を開け放って,エンジンを切ると,

蝉の声が,雪崩れ打って飛び込んできた。

 

ここは,かつて,さまよった街だ。

 

この少し先にある

私鉄の駅を降りて,

坂を登ると,大学の正門があり,

そこを過ぎて下宿街に向う。

 

目をつぶっていても

迷う事の無い町。

 

人生の先だけは,

いっこうに見えなかったが。

 

今日は,

この町の小さなホールで

娘のピアノの発表会がある。

 

かつて,

初めてこの町を訪れた時,

あるいは,

フラフラと酔っ払いながら歩いていた時,

こんな風にこの町を訪れるなんて

勿論,考えても見なかった。

 

自分に娘が出来るなんてことも。

その娘が,ピアノを弾くなんて。

 

相変わらず,フラフラしている

未来なんて見えない

 

どこに行こうとしているのか

 

さて,どこに

 

未来が見えない事に,焦る気持ちも失せた

大志を抱く熱き想いも無い

 

さらに,迷いだけを重ね,

迷う事は天才的に上手くなった。

 

さて,と,空を見る

 

頭上に枝を張るこの木,

何と言う名の木かは知らないが,

この町での生活の発端は,

他人と同じ道を歩きたくなくて

この道を選んだ時に,

この木の実の一つを拾ったところから

始まったと思う

あれは,二月の寒い日だった

道に白い実が敷き詰められたように落ちていた

25年も前の話だ

 

屈んで見ると,

雑草の隙間に鳥についばみ忘れられた実が

 

一つ拾って,

娘のいるホールに向う